※この作品はR-18です。

失われた物語   作:架空線

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7.最終形態

 しばらくして僕は兄のアパートにすら帰れなくなっていた。ホテルの部屋から登校して、ホテルに連れ戻される。客がだんだん増えて、夜から明け方までぼろぼろになるまで搾り取られた。クスリの副作用で立たない日は、受け身の客には男にバイアグラを飲まされて、無理やり固くさせられて行為を果たす。酒臭くなるのと眠らないようにと、男にアルコールを止められた。禁断症状で震える手。違う薬物でそれを麻痺させられる。朝、ホテルで眠ったまま起きず学校に行けない日が増えて、とうとうヤツがメールをしてくる。それに返信出来ない。何も書けない。僕はヤツの友情を裏切った。ヤツの捨て身の決心を、僕は受けとめることが出来なかった。お願い、メールをしないで。もう見捨てて。

 罪悪感と後悔と恐怖のなかで、それでもいつもメールを確かめてる。兄からのメールかも知れないから。

 そのうち2回3回と同じ客が来るようになった。そんな常連が1人…2人と増え、しばらくしてその中で毎日に近いほど僕を買うようになった客がいた。その男はいつも黙っていて、寒気を催すオーラを放っていた。年齢は知らないが40代ぐらいだろうか。身体つきは格闘家のように筋肉質で洗練されていて、走り込んでいた兄に似た圧し殺した激情を隠すように、いつも無表情で僕を抱いた。僕を易々と拘束できる腕力と人並み外れた精力が、僕の身体を長時間思い通りに操った。その男に抱かれると、半日は使い物にならないほど責め抜かれた。だからその男が帰って行くのを僕はいつも知らない。行為の終わりを待てずに気を失うように意識が無くなるから。僕の飼い主の男はその中年の男に気を遣っていた。他の客とは明らかに違う扱いだった。

 その男はいつも決まった時間にホテルにやってくる。その男だけはスイートルームを使う。上等なアルマーニのスーツを無造作に脱ぎ捨て、ベッドであのクスリのせいですでに喘いで荒い息をついている裸の僕を、余計な無駄口の一言も言わず無言のまま犯し始める。足で足を開かれされるがまま、あまりの激しさに辛くて叫ぶ口を固い手のひらで塞がれて、僕は放出を繰り返し涙を流す。その涙が口を塞ぐ彼の指を濡らす。鷹のような一重の切れ長の目を一瞬無防備に閉じる時に、男が僕の中にいったのがわかった。

 僕の飼い主が、ある夜クスリをくれなかった。その替わり飼い主は複雑な顔でホテルで僕に服を着せた。しばらくするとアルマーニの男が来て、僕は車で連れ出された。

 漆黒のベンツの中に僕を閉じ込めて、アルマーニの男は夜の街をゆっくりと走って行った。二人きりの車の中、やはり男は無言だった。街を抜け少し行くと、閑静な高級住宅街に差し掛かった。綺麗なマンションのパーキングに吸い込まれるようにベンツが入り、そこから地階にエレベーターで降りた。高級マンションのB2とは思えない重くてゴージャスな深紅の扉の前に、案内と思われる黒服が立っていて、男は顔パスで黒服が開けた扉の中に僕を連れて入って行った。暗いロビーを抜けるとそこは扉と同じ深紅の厚い絨毯が一面に敷かれたフロアで、秘密のクラブのような雰囲気でテーブルにはまばらに客がいて、ワインや料理が並んでいた。奥の壁は区切られて、いくつかの個室になっていた。僕らは黒服に案内されて、その個室の一つに入った。

「なにも訊かないのか?」

 テーブルに着いてしばらくしたあと、黙って放心している僕に男が話し掛けた。男の話す声を初めて聞いたように感じた。僕は男の問いに黙っていた。問いを思いつけるようなそんな意識の状態ではすでになく、毎日意識を保っているのが精一杯で、自分のほとんどの意志を放棄して、男娼という名の犬として息をしていた。ただそれだけだったから。ただ起きたことをぼんやりと眺めているだけ。

「変わったやつだ…」

 男は運ばれてきた赤ワインを自分のグラスに注がせた。

「酒は?」

 アルコール…久しぶりだ。軽くうなづくと、男は僕のグラスにも注がせた。紅い血がグラスの中で踊った。僕はグラスを手にとり一口飲んだ。熟成の効いた大人の酒の味がしたが、僕にはその価値はわからなかった。

「お前を買った」

 男が僕ではなく、彼の目の前のワイングラスを見つめながらそう言った。僕は男をゆっくりと見た。男は椅子に深くもたれ、ひじ掛けに肘をつき、その手で額を支えながら僕の視線に気づいてこちらを見た。

「ええ…」

 僕は初めて口をきいた。

「驚かないのか」

 男は珍しく少し苦笑した。

「みんな…買ってます」

 男は笑った顔のままうなずいた。

「そうだな。今まではみんなに買われていた。お前の飼い主はずいぶん羽振りが良くなったな」

 男はまた遠くを見るように僕から視線を外した。

「だが、今日から主人は…俺だ」

 

 800万。それが僕の存在の値段、だった。男は僕の時間ではなく、存在自体を買い取ったのだ。僕の自由はすべて金で買われた。男はある暴力団の幹部で、非合法薬物のこの地域の元締めだった。僕の飼い主の薬の仕入れ先で、あいつはこの男に頭が上がらなかった。大金で人身売買を…。あまりのことに僕は二の句が継げなかった。あいつが今日ホテルで見せた複雑な表情。そう言えばあんな顔を見たことがなかった。あれの答えがこれだったのかと。僕は男の言葉を聞き、次第に戦慄に襲われ始めていた。あいつに飼われていたのは、僕の心の隙とクスリの効果と、禁断症状のせいだった。それは魂を抜かれるような出来事だったが、悪魔に魂を売ったのは誰でもない自分だった。堕落して戻るすべを見失っていた、それは事実だ。だが兄さえ探しだせば、兄さえ戻ってきてくれたら、僕は病院に行ってでも警察に自首してでも、そこから抜け出しただろう。なぜなら、自分が苦痛で死なないように、兄と再会するために、そのためにただ生き続けるるために、あのヤクの売人と空虚で残酷な生死もわからない兄を待つだけの時間を埋めたのだ。

 だがこれは違う。僕はこの男の所有物になったのだ。この寒気をもよおす殺気の持ち主の所有物に。僕はこの男に囲われるのだ。僕の戦慄の理由はただ一つ。兄を受けとめられない、帰ってきた兄とすら逢えないかもしれない、そのことだけ。だがそれは、僕の生きる意味のすべて。急に意識と思考が戻ってきた。僕は戦慄の中で考えた。逃げなければ。ここから、逃げなければ!

 しばらくして僕は、男にトイレに行きたいと告げた。一人になれるチャンスは今のところそれしかない。僕は席を立ち個室のドアに向かった。

「ちょっと待て」

 男が僕に声を掛けた。心臓が急に速く打ち始めた。男はテーブルの上の呼び鈴を押し、黒服を呼んだ。そしてやってきた黒服に言った。

「トイレに案内してやれ。逃げないように連れて帰ってこい」

 まるで僕の考えを見通したように。僕は黒服に背後から見張られてトイレに連れて行かれた。トイレに窓はなかった。ここからは逃げられない。トイレの個室に座り、脱出できる可能性のある場所を思い付く限り考えた。この後見張りの黒服を巻く、もしくはこの店から出て車に乗るまでの間に逃げる。僕の今の判断力ではその2つしか思いつかなかった。どちらが可能性が高いか? 黒服を巻くことが出来たとして、あの赤い扉にはセキュリティがいる。あの男が連れていない僕を、一人で出してはくれないだろう。見張りの黒服を振り切り、追い付かれないであの男にも気づかれず、一人でも外に出られる理由を考えなければならない。時間が容赦なく過ぎていく。決断しなければならない。僕は黒服に連れ戻された。そして何事もなかったように個室に入り元の席に着いた。パーキングで男の隙をつく、それに賭けた。

 それから二人でワインを2本空けた。久しぶりのアルコールで少し酔ったが、今までの酒の量に比べたら比較にならない。走れるか? いや、走らなきゃならない。失敗したら終わる。きっと半殺しに殴られて監禁される。二度目は無い。そういうプロだから。だから、賭けだ。一か八かの…

 僕は無気力な振りをしていた。男を出し抜くにはせめて少しでも油断させないと。

「酔った…か?」

 男が僕に聞く。僕はゆっくりうなずく。虚ろな目をして彼を見る。

「抱かれていないお前はおとなしいんだな。ベッドの中とはえらい違いだ」

「クスリが…効いてる…から」

 僕は小さい声で答えた。

「ヤクのせいだけか?」

 男がフッと鼻で笑う。

「違うよ。お前は…」

 首を軽く横に振って男は言う。

「俺はキメてヤッてるやつらを散々見てきた。クスリでも狂える。確かにな。でもお前は元々…狂ってる」

 男は酒が入ったせいか、いつもと違い話している。だが酔っているわけではない。目付きが変わりない。

「見た目は普通の…どこにでもいるただのカタギのガキなのにな」

 男はまた苦笑した。

「一度抱くと止まらなくなる」

 男はタバコに火を点けた。

「逸材だ」

 煙の中で男は目を細めた。そのタバコが燃え尽きた頃、男は黒服を呼んだ。耳元で何かを囁いて、黒服はそれにうなずいた。男が僕に言った。

「行くぞ」

 とうとう…来た。僕の身体に緊張が走った。アドレナリンが噴出してきて、心臓が早鐘のように打ち始めた。さっきの黒服が個室のドアを開けた。男が先を歩き、僕の後ろに黒服がつく。やはりここにはスキはない。酒の入った男の代わりに黒服が車を運転していくんだろうか? 再び深紅の扉が開く。セキュリティの黒服が頭を下げた。僕の後ろの黒服がさっと前に動き、エレベーターのボタンを押す。エレベーターが降りてくる表示がイライラするほどゆっくりに感じる。この先、この先で、パーキングで振り切る。来た時の経路をさっきから何度も記憶をたどり確認していた。そしてベンツの位置と、入り口の位置と。男がどこに乗るのか? 後ろだろう。乗り込むのは僕の先か、後か…

 個室でも頭の中で何度もケースを変えて、逃走のシュミレーションをしていた。それぞれのケースで隙をつくタイミングは違う。そのイメージを頭の中で繰り返した。ここら辺は土地勘が無いが、住宅地は古く入りくんでいた。他人の家の庭でも、開いていれば家屋に入り込むことも僕は考えていた。どうしようもなかったらその家の電話で警察を呼んでもらう。僕がクスリをやってることがバレて刑務所行き…だとしても、僕はそれを選ぶ。この男に飼われることを思えば前科持ちになっても構わない。兄と再び逢えて、一緒に人生を過ごせるならば。

 エレベーターが降りてくる。チン! と軽い音を立て、B2のランプが点灯した。緊張で全身に鳥肌が立ってくる。エレベーターのドアが開いた。黒服が先に乗りドアを固定している。次に僕が男に押し込まれた。男が僕を奥の角に追い込む。黒服が操作パネルの前に立ち、クローズを押した。この位置からは黒服に遮られ、降りる階のパネルの表示は見えない。ゆっくりと上昇のGがかかり、ついにエレベーターはパーキングに向かって上がり始めた。昇っていくエレベーターの中で、ドアの上の階の表示ランプがB1を点灯した。頭に血が上るような圧迫感。手がワナワナ震えていた。そのとき僕は一瞬デジャブのようなものを感じていた。この感じ前にどこかで感じた…? あのときだ。兄の父親の病院に初めて訪ねて行った、あのエレベーターの中。あの時も常軌を逸していた。異常な緊張と命懸けの賭け。そしていまも…僕は心の中で苦笑した。いまなんで思い出したんだろう。目標のパーキングはそのランプの点灯しているB1だ。すぐに扉が開く。集中してたはずなのに緊張し過ぎて意識が飛んだのか? 僕は再びドアの上に点灯した階の表示を見上げた。だがランプは、その上の1Fを表示していた。パーキングを過ぎてる。僕の全身から血の気が引いた。パーキングに行かな…い…?

 その瞬間、チン…という例の音がした。1階で降りるのか? もしかしてタクシーを呼んでいる? 落ち着け…シュミレーション外の事態だけど、基本は変わらないんだ。慌てるな。僕は自分に言い聞かせた。

 ドアが開いた。黒服は降りない。そうか、タクシーか。それか、迎えの車が来てるんだ。僕はドアに向かって歩こうとした。

「失礼…」

 その時黒いコートの中年の女性がエレベーターに乗り込んできた。

「ごめんなさい…3階を押して頂けます?」

 女性は黒服にそう告げた。エレベーターのドアが静かに閉まった。僕を中に閉じ込めたまま。

「…降りないの?」

 僕は震える声で男に訊いた。

「ああ…」

 男はいつものように無表情に答えた。上昇がまた始まった。1階のドアは、この女性が乗るためだけに開いたのだ。3階のドアが開いた。

「どうも」

 コートの女性が降りて行った。ドアは再び閉じた。

 頭の中が真っ白になった。身体から冷や汗が流れ落ち、僕はその場で凍りついていた。表示が動く。…4…5…6…7…8…どんどん上に昇っていく。逃げられない…逃げることができない! なんで? なんでこのエレベーターは上に? なぜパーキングを通り越したの? なんで? なんで…?

 僕の両足から力が抜けていった。肩が壁にぶつかり、そのまま僕の身体は壁を伝い下に沈んでいった。

「そんなに酔ってるのか…?」

 男の声がやけに遠くから聞こえる。二の腕をつかまれた握力に身体を吊るされていた。その時かすかな…チン…という音がした。開いたドアの外に引きずり出された。

 壁に10の文字。10階。最上階だろう。じゅうたんの上を抱えられて歩く。そしてあるドアの前にきた。黒服がそれを開けた。このドアの向こうから再び帰ってこられるんだろうか?

「いや…イヤだ…離して…離して…離して!」

 僕はドアに手を掛け、足を踏ん張った。まるで保健所に連れていかれる野良犬が、ゲージに押し込まれる時のように。だが男は僕を軽々と持ち上げた。ドアが外側から黒服に閉められた。

「イヤだっ!」

 暴れる僕を部屋の中に投げ入れ、男は容赦なく平手で殴った。それだけで僕は部屋の端に勢いよく叩きつけられていた。口の中に血の味が広がり、視界が歪んで見えた。

「ここはお前の部屋だ。クスリが足りないか…」

 僕は叫んだ。だがもう遅かった。また僕の予想は、現実に届かなかった。

 

 

 




《お知らせ》

 思いがけず編集が進んでいるので、今回から更新日を1日置きにしていこうと思います。次回の更新は9月17日(予定)となります。しばらくの間は、このペースで投下していきます。いつもご閲覧頂きありがとうございます!

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