※この作品はR-18です。

失われた物語   作:架空線

5 / 90
5.癒えない傷

 そして僕の妄想は現実化した。

 切っ掛けは性的な暴行事件の報道や盗撮や脅迫事件…売春…監禁…それら新聞の記事、テレビの番組…ニュース、雑誌の広告や週刊誌の見出し、インターネット、映画のワンシーンに至るまで様々だった。兄はそれらを目にするたびに血の気が引き顔色が蒼白になりその場には居られなくなる。もしくは吐いてしまう。震えて冷や汗が止まらなくなり、錯乱する。

 兄の恐怖に満ちた顔が僕の目に焼き付く。僕は改めて認識した。世の中にあふれている暴力的な性のメッセージの多さを。多い…多過ぎる…みんな…これ…見たい…の? だからたくさん有るの? こんなに…避けられないほどに? 性に限らず暴力的な事件やドラマのストーリーにも兄は反応するようになっていった。

 いずれ家族に知られる。今はギリギリでごまかしてるけど、母は多分勘づいているはず。兄は両親の居るところを避け、部屋で専攻の研究書を読み、世間の情報から自分を隔絶しようとした。メディアを見につくところに置かない…テレビもネットも開かず、なるべく外出しないようにした。出かける時は必ず僕を連れて行った。僕に介抱してもらう為に。兄の心が休まる場所は自分の部屋以外何処にもなかった。アルバイトも最低限になった。兄の借りているアパートはどうするんだろうか…と、ふと僕は思った。両親の目につかないように、しばらくあそこにいてもいい。でも…あの部屋は兄の忌まわしい記憶の温床…。兄は帰れないんだろう。話すことすら兄はしない。あの部屋のことを。僕は一度も行ったことのない、その部屋のことを少し思った。

 

 そしてもう僕は夜、兄に触れられない。あのクリスマスの夜…狂気に冒された兄の身体を僕が抱き締めたことがフラッシュバックを呼び起こした。吐き気を催すほどの行為を我慢して、意識を消したいくらいの凌辱に耐え、愛のない行為に心を殺して身体だけを開いて、貪られるたびに人としての尊厳を剥ぎ取られて踏みにじられる。それがあの頃の兄の毎日だった。僕なら…僕だけは受け入れてもらえる。そう思いたかった。でも僕も…兄を凌辱したんだ。あの日僕こそが気違いみたいに…傷ついた兄を無理矢理に。兄が帰ってきたあと、僕はそのことを意識から追い出し、兄のように無意識に記憶から排除しようとしていた。だが兄は僕の身体にさえ激しいフラッシュバックを見せた。僕の罪はまだ消えない。消すことは出来ない。一番愛する人を傷つけた。その罪で僕は死にすら値するのではないか? この心臓をえぐり出して兄が癒されるのなら、その方が楽…なのかも。

 

 幾重にも絡まった鎖、棘だらけの茨の道。出口のわからない迷路。僕と兄はそんながんじがらめの悪夢の中にいる。僕は兄の悪夢をなぞるように悪夢と化した現実の中で溺れかけている。年末になり、年が明けても何も変わりはしない。祭りのような正月という現実が遠い。早く過ぎ去れ…心が世間と乖離していて、なんの共感も出来なくて。

 普段の兄は僕には変わりなく接する。僕はそれに戸惑うようになってる。兄が無理をして僕に合わせてるのか、という思いがいつも頭の中を廻り、心が罪悪感で埋め尽くされていて兄の本心を感じることが出来ない。この世に居場所を喪ったみたいに孤独が僕を覆い始める。兄が欲しい。兄に抱かれたい。でもだめだ…だめなんだ。渇望と罪悪感の刃で切り刻まれて、身動き出来ない。その上に日増しに増大するあの疑問。

 あいつ。兄の父親のこと。病気はどうなったのか? 今どこにいるのか? そして兄は連絡を取っているのか? 兄の携帯を盗み見たい衝動に苦しむ。絶対しちゃだめだ…なのに兄が何をしているか気になって、いつしか兄を追ってる。まるで監視してるみたいだ。僕にはやめられない。見守ってるんじゃない。これじゃストーカーだ。僕は自分自身を怖れてる。兄を凌辱した日の自分がまた再び暴発するんじゃないかと。その自分が怖くてパニックを起こす。パニックが終わった後の虚脱の中で、最近僕は漠然と死を考えている。死は…安らかなのかな…と。

 

 そしてすぐにそれは起きた。僕の疑心暗鬼が現実の行動になり、それは一度目とは違う罪となった。

 兄が夜に風呂に入ったあとから僕も続けて入浴する。それは父・兄・僕・母の順で、幼い僕が独りで入浴出来るようになって以来、我が家の規則のように頑なにそれは守られていた。その日も兄はいつものように風呂から上がり、僕に出たことを告げ普通に部屋に戻ってきた。僕は替えのトランクスを片手にいつものように浴室に入り、低い棚の上に置いてある脱衣カゴのバスタオルの上にばさばさっと服を放り込んでいった。その時服をカゴに放り込んだ勢いと縁に垂れた服の重みでカゴが棚からひっくり返った。不安定な場所だからよくあること。いつものことだった。

 だがひっくり返ったカゴを床から拾いあげ、落ちた服とバスタオルの山を掴んだその時、硬いものが僕の指に触れた。それは兄の携帯だった。

 僕は息を飲んだ。兄は服からこぼれたのを気づかず、携帯の上にタオルをのせたのだろう。きっと兄はそれに気づいて風呂に探しにくる。僕は動悸を押さえながら、震える手で兄の携帯をバスタオルの下に戻し、風呂に入った。だめだ…見てしまう…見たい。兄の携帯の中にあるあいつの痕跡…見たい…いや…だめだ。兄貴…早く気づいてよ。早く取りに来てよ。でないと本当に僕は見てしまう。兄貴早く取りに来て。僕がここから出る前に…!

 湯船に浸かりながら僕は、湯の感触も忘れるほど緊張して自分が兄の携帯を盗み見る衝動に必死で耐えていた。しかし兄は携帯を取りには来なかった。

 脱衣カゴを前に、僕の神経は焼き切れそうだった。温まったはずの身体は震えていて、全身の血液が逆流しそうだった。服を床に落としバスタオルを取る。兄の携帯はまだそこにあった。僕はバスタオルを肩にはおった。そしてその手で兄の携帯を掴んでいた。震える手で二つ折りの携帯を開く。メールの履歴を開く。大学の研究室と担当の教授から、バイトの担当から、着信も送信もメールの履歴はその数件だった。着信履歴を開く。それも学校、バイト先、母、そして僕…病院?

 そこには見慣れない名前の病院の電話番号が一件だけあった。市外局番がうちと違う。ここ…どこ? 僕はその番号を暗記した。この病院はアドレス帳に登録してあるのだろう。でなければ履歴に名前は出ない。僕は震える指でアドレスを開いた。兄のアドレスには登録は少なかった。僕は頭から血の気の引いていくのを感じながらある名字を探していた。兄の旧姓。一度だけ見た兄の幼稚園のアルバム。兄の名字は僕の名字ではなかった。その理由を僕に訊かれた母は、その後アルバムを僕から隠した。

 兄のアドレスにはその名字はなかった。安堵と失望の入り混ざった、とても嫌な気持ちが広がった。僕はアドレス帳の病院の名前を探した。そしてもう一度その番号を目に焼き付けた。ここにいる。僕は確信した。

 身体がすっかり冷えきって、湯船に浸かった意味もなくなっていた。僕はよろけながら服を着て、バスタオルの下に急いで携帯を戻し、新しいバスタオルで頭を拭き兄の使ったバスタオルに乗せた。声が震えているのを悟られないよう、母に風呂から出たことを告げて、がくがくする膝で階段を上がった。自分から兄に携帯を届ける勇気は今の僕にはあるはずもなかった。

 

 

 小雪のちらつく寒い朝、僕は冬休みの最後の一日を独りで出かけた。行く場所は既に決まっていた。僕はニットの帽子を深くかぶり、長いマフラーを巻いて外へ出た。寒い。昨日まで晴れていたのに…だがもうそんなことはどうでもよかった。ポケットの携帯を握りしめながら、僕は駅への道を歩いていた。

 もうそうするしかなく、ただうごいた。自分が引き返せないのもわかっていたし、ほかにできることを思いつかなかったといえる。たとえ破滅的とはいえ、なにも出来ないよりこのほうがまし。僕は寒さか緊張かわからない震えを身体に感じながら目的地へとまるで兵士のように歩いていた。電車を二回乗換え、バスに乗り継ぎ、昼前に目的地に辿りついた。初めて来る場所。こんなことでもないかぎり二度と訪れはしないだろう。一瞬「こんな所で何してんだろう?」という思いでいっぱいになり、少し自分が笑えた。

 市民総合病院。ここにあいつがいる。僕はバス停からそのでかい建物へと歩き出した。

 

 面会の受付には男の事務員が、帳面を繰りながらボールペンで何かを紙に書き込んでいた。僕は帽子を取り事務員に声を掛けた。

「あの…すみません」

「ご面会ですか?」事務員はすぐにこちらへやってきた。

「はい…あの…病室がわからない場合はこちらで教えてもらえるんでしょうか?」

「入院されてるかたの名前を頂ければわかりますよ」

 僕は少し詰まりながらあいつの名前を告げた。

「…ええと…」

 事務員が名前を探す間、息の詰まるような緊張と動悸に、寒いはずの受付のまえで脇の下に汗がにじんできた。もし、もしここにあいつの名前がなかったら僕はどうすればいいんだろう? この先もあの悪夢のような迷路にまた逆戻りなのか? あんなになってしまった兄からあいつの状況を直接聞かなければならないのだ…でないと僕は発狂しそうなんだ。本当にもう頭がおかしくなりそうなんだ。憎しみと罪と淋しさと不安と、悲しみと怒りと嫉妬と心配と、苦しみと苦しみと苦しみと苦しみと…。僕は祈るような気持ちで待っていた。ほんの一分にも満たない間だったに違いない。だがこの一分は僕にとって果てしない長さに感じられた。理由のない狂気に近い確信。それが僕を此処に連れてきた全て。冷静に考えれば何の根拠もないただの賭け。後先の考えも何もない、追い込まれた僕の衝動の連鎖。僕はこの受付に立って初めて、賭けに負けることもあるという当たり前の思考が頭をよぎった。そのとき事務員が、入院者名簿から顔をあげた。

 

「ああ…こちら新館の病棟ですね」

 事務員は事務的に僕にそう言った。すーっと頭から血の気が引くのがわかった。

「新館の302号室ですので…ここまっすぐ行ったら黄色のラインに沿って左に行って下さい」

 遠くで聞こえている事務員の話を、真っ白になった頭の中でなんとか理解しようと僕は努力した。

「き…黄色…ですか?」

「黄色のラインは新館のエレベーターに着きますので」

「すみません…何号室…?」

「302です…三階です」

「…ありがとうございました」

「ええと…この面会用のクリップを胸に着けて下さい…帰りにこちらで忘れずに外してって下さいね」

 緑色のプラスチックに番号の書いてあるタグを渡された。ジャンパーを脱ぎセーターの胸に震える指でそれを着け、僕は黄色のラインをたどっていった。

 302…302…頭の中で数字がぐるぐる回っている。病室は本当にあった。あいつが本当に…此処に…僕は軽いめまいを覚えた。少し病院の床と壁が歪んで見え、いつもの過呼吸始まりかけていた。僕は過呼吸の回避方法、つまりゆっくり吐いてゆっくり吸う…を繰り返しながら、廊下の手摺に掴まって黄色を辿った。黄色のラインは病院のいくつもの廊下の曲がり角で折れ曲がりながら、僕を確実に新館へと運んでいった。そして黄色のラインは大きなエレベーターの前で途切れた。↑のボタンを押すと、既にエレベーターは一階で待機していた。乗らざるを得ない。自動的に僕の足はエレベーターに吸い込まれていった。3のボタンを押す。僕だけを乗せて広いエレベーターは、わだかまりなく3階へと、僕を運んでいった。

 エレベーターが止まった。ドアが開き、3階のフロアが僕の目の前に広がっていた。僕は302号室の前に立っていた。

 

 




 前回も書きましたが、こんなに早くケータイがスマホに取って代わるとは、この小説を書き始めた2011年の時点では想像もつかないことでした。今書いたら絶対スマホ持ってる設定で書くよな…と、編集しながら世の無常を感じつつ苦笑です。とは言え私は電磁波に弱いので、未だにPHSユーザーですが。
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