それからしばらくして狂宴は唐突に終了した。鬼の接待という仕事は終わり、僕は裸で血まみれのまま床に放置された。性器を2本の針で刺し貫かれたままで。
客がいなくなったあと少しして男が部屋に入ってきた。床に倒れている僕を見て、携帯ですぐに医者を呼んだ。もちろん組の医者だ。
「生きてるな…?」
男は僕の顎をつかみ自分の方を向かせた。僕はうっすら目を開けた。そしてわずかにうなずいた。
「これか…噂の地獄責めってのは」
男は僕の股間の針を見つめていた。修羅場をくぐっているだろう男はこんなものを見ても顔色ひとつ変えなかった。だが男は不自然に視線を外した。
「抜くと血が出る。医者に抜かせるからまだ我慢しろ」
男は僕の頭を撫でた。そんなこと初めてされた気がした。
「お前のおかげで取り引きはまずまずだ。だが、思いのほかお前はあの客に気に入られた」
男は倒れてる僕の隣の床に膝を立てて座った。
「お前も取り引きの商品になりそうだ」
僕が聞いてるかどうかなど構わず男は話していた。
「痛…い……よ…」
僕はうめいた。だんだんクスリが切れてきてる。
「いつもより多く入れたんだがな」
「切れて…きた……いた…い…」
でももう少しも身体が動かない。
「医者が来たらベッドに上げてやるから」
男はなぜか優しい目をした。
「…この状態で動かすともっと痛いぞ」
この男が鬼だったのに。あの狂ったサディストに比べたら、まだ人に近いように思えた。
「ま…た……売られ…るの…?」
「……」
なぜか男は答えなかった。医者がくるまでの間、男は僕の頭に枕を入れてバスタオルを肩にかけてくれた。いつもの寒気を男から感じ取れなかった。だがそれに戸惑う気力はなかった。しばらくして男の携帯が鳴り、男が医者を迎えに部屋のドアを開けに行った。
「ああ…ひどいな。これは」
医者は刺さった針の露出部分をアルコールで消毒し、一本づつ一気に引き抜いた。
「んっ…くうっ…!」
「ゆっくりやると痛いからね」
医者が止血の脱脂綿を取り出す。
「尿道から血が出てるから、小便する時にかなり痛いと思う。腫れて小便が詰まることもあるからその時は管を入れます。連絡してください」
医者は振り返って男に伝えた。中年くらいで痩せていて、変に落ち着きがなかった。きっとこの人もシャブ中なんだろう。そんな感じがした。消毒と身体中の傷の処置、止血。性器に包帯を巻かれ、そして火傷の手当ての後、男が医者に聞いた。
「終わったか?」
「ええ…ひとまず処置は済みましたが」
すると男は僕を床から抱えあげてベッドに寝かせてくれた。
「うぐっ…く…ぅ…」
やっぱり身体を動かされて、刺されたところがズキッと疼き思わずうめいた。すると男の手が頬に触れた。殺すはずの冷血な男に、もしかして優しくされてるのか? 僕は首を反対側に倒して男の手から逃れた。頭が変になりそうで…
「じゃあ、この抗生物質をちゃんと飲むこと。5日間出しておきます。飲まないと傷から感染するからね。ヤク中は免疫力が低いから、下手すると死ぬ…敗血症かなんかで。このあと熱がでると思います。解熱鎮痛剤も出しておくから熱も引くと思う。効けば…だけど」
薬物中毒者は薬が効かないことが往々にしてあるという。
「効かなかったら…いつものヤツ…たくさん…打って…」
針で貫かれても痛覚が鈍かったさっきのことを思い出し、僕は男に頼んだ。
「……」
男はなぜかまた黙った。
「だけど珍しいですね。あなたが私をこんなすぐ呼ぶなんて」
医者の思いがけない問いに男は無表情のまま黙っていた。
「…もっと大事にしてやれないもんなんですか?」
医者がカバンをかたずけながら、率直な医者らしいことを聞いた。
「うるさい。用が済んだらさっさと帰れ」
男は異常に機嫌の悪い声を出して医者の前に立ち威嚇した。
「はいはい。じゃあまた。抗生物質忘れずに飲ませてあげて下さい」
医者は男に追い出されるように帰っていった。
「クスリ……切れ…て…る…」
処置のおかげで気が紛れていたのもつかの間だった。医者が追い出されたあと、今回打ったシャブの量に比例したものすごい精神の墜落がやってきた。急速に身体の痛みが鋭くなってきた。なにもかもが絶望的で、なんの救いもない。恐怖と戦慄が止まらない。だが男はいつもしてくれるみたいにクスリをくれなかった。それから少しして、医者の言う通りやはり熱が出た。寒気でガタガタ震える。責めと傷のせいなのか、クスリの禁断症状なのか…きっとどちらもだ。あまりの身体と心のキツさと激痛にうめきながら震えて泣いた。こんなに苦しいのに、生きていなければならないことが一番絶望的だった。
「ころ……し…て…」
思わず口走っていた。
「死にたいか…?」
ずっと黙っていた男が口を開いた。
「どう…せ……あの…客に……売られ……たら……殺……され…る…」
話すのもままならないくらい、身体と心のすべてが痛くて苦しい。
「なんで……な…なんで……クスリ…くれ…ないの…?」
「今は…駄目だ…我慢しろ」
そんな…こんなにしておいて…
「な…なん…で…? や…ヤク中に…した…くせ…に? なんで…殺しもしないで…このまま…我慢…って…ひどすぎる…」
僕は初めて男を恨んだ。
「こんな…か…か…身体にして……我慢…な…んて……そんな……ひどい…」
男は目を閉じて立っていた。そして深く息を吸って、僕にこう言った。
「傷を治してから…売る。商品だからな」
「鬼…だね……あなた…」
男はフッと笑った。
「知ってるだろう?」
だが僕はもう苦痛の限界に達していた。痛みが脳天を突き抜けて全身を戦慄かせた。
「だ…だだダメだ…気が狂う…よ…ダメだよ…もう…耐えられない…殺して…殺し…早く…殺して…」
激しい痙攣が始まった。息ができなくなる。身体が硬直してきた。もういい…あんたに殺されなくても勝手に死ぬ…。目の前が暗くなる。久しぶりのブラックアウト。あの時も輪姦されて駅で気を失った。だけど今日はあの時とは比較にならない。もう目覚めないかも知れない…そんな予感さえしていた。
ごめん。兄貴、ごめん…迎えに行けなかった。ごめん。そこで意識が途絶えた。
いつの間にか僕は見知らぬトンネルの中を歩いていた。トンネルは薄暗くモヤモヤしていた。いつから歩いているのだろう。視線の先にトンネルの出口が、遠くに小さくのぞいていた。その先は明るかった。目をこらしてよく見ると、出口の光の中に誰か立っているのが見えた。逆光に紛れて顔は見えなかった。
だがふと気づいた。僕はボロボロになってベッドで死にかけてたはずなのに、なぜこんなところにいるんだろう…? 引き裂かれるような身体の痛みがない。夢…なのかな…? 夢にしては意識がはっきりしていた。それとも…もしかして僕はもう死んでるのか? トンネルの出口に立つ人の影はだんだん大きくなる。僕は止まらずに歩いていた。歩いているのに地面の感触がない。すると影が突然崩れた。と、思ったらその誰かは両手を上に上げて僕に手を振っているようだった。
「おーい…おーい…」
声が聞こえてきた。僕を呼んでるのだろうか。僕はさらに近づいていった。だけどあれは誰だろう? なんとなく知ってる気がする。
「……れー…るなー…」
途切れ途切れになにか言っている。そう思った瞬間、僕は唐突にその人の前に立っていた。逆光の中で僕はその人の顔を見た。
「久しぶりだね」
その姿に僕は驚いて目を見開いた。輪郭もしぐさも、笑顔も…
「…兄貴…?」
彼は笑いながらまた僕に言った。
「まだこっちに来ちゃだめだよ」
それは似ているが、兄の声じゃなかった。兄の父親だった。
「戻るんだ…ほら…」
僕は兄の父親にトンと肩を押された。身体がゆっくりと後ろに倒れていき、僕は闇の中に落下していった。落下の途中で僕を呼ぶ声が聞こえた。
「…りしろ…! 死ぬな…おい…」
頭の中でザーザー音がしている。意識がぼんやりしていく。視界が白くなり、やがてホワイトアウトした。また僕は気を失っていた。
気がつくと、肩をつかまれて揺さぶられていた。僕は元のベッドの上で寝ていた。男の声が耳に届いた。
「バカ野郎! 死ぬな…目を開けろ! 起きろ…!まだ逝くな!」
誰かが首に触っている。僕はモウロウとしていて目を開けることが出来なかった。
「…みゃ…脈が…打ち始めた…!」
帰ったはずの医者の声がした。
「呼吸も再開…蘇生…しました」
「本当か?」
「ええ…弱いですが打っている…」
「くそ…おどかしやがって」
誰かが僕の手を握った。男の手だった。身体の痛みがだんだん戻ってきていたが、あの戦慄と恐怖はなぜか消えていた。
帰宅寸前で携帯が鳴り、男に再び医者が呼び戻されてこの部屋に入ったとき、僕はベッドの中で白目をむいて口から泡をふいていたらしい。すでに意識はなく、呼吸が止まりかけていた。医者が戻るまでの間に男が人工呼吸をしてくれていたが、自発的な呼吸はなかなか起きず、医者が到着して酸素ボンベを使うがだんだん脈拍が消えていったようだった。いわゆる“心肺停止状態”。その時点で僕は本当に死にかけていたらしく、あの夢のような出来事はもしかすると臨死体験ってものかもしれなかった。
「強心剤が案外効いたみたいでね…後は心臓マッサージと人工呼吸を二人でひたすら続けていたよ」
医者は疲れきった顔で意識の戻った僕にそう話した。
「痛み止めはやっぱり効かないよね。激痛でショック状態だったんだから、シャブの方が効いたと思うよ…死ぬよりまだマシな選択だと思うけどな」
僕は力なく答えた。
「何度も頼んで…でも…打ってもらえなくて」
医者はあきれたように男に向かった。
「あなた…なんでこんなひどい離脱症状の子に少しくらいクスリ打ってやらなかったんですか? こんなにうろたえるくらいなら…わからない人だ…この子をどうしたいんですか?」
男はベッドの端に腰掛けて膝に片方の肘をつき、額を指で支えていた。
「先生には…関係のないことだ」
そのままの形で固まったまま、男は呟いた。
「あなたから“先生”なんて初めて言われましたよ」
医者は面食らったように男に言った。僕の部屋に簡易式のベッドが運ばれ、“先生”は一晩泊まりがけで無理やり僕の看病をさせられることになった。多少の文句しか言えない関係らしく、医者は疲れきった顔で男の要求を飲まざるを得なかったようだった。二人は夜食を取りに外に出た。そして1時間ほどすると医者だけ部屋に戻ってきた。
「仕方ないな。逆らえないからな」
医者は苦笑しながら腕を捲った。注射器でシャブを自分に打っている。慣れた手つき…医者だから当然だが。
「あ…それ…って…」
「緊急の夜勤にはこれが一番だ」
「やっぱり…」
やっぱりシャブ中だった。
「持ちつ持たれつってヤツでね」
カット綿で針痕を押さえながら、医者はチラッとベッドの僕を見た。
「激務に耐えるには仕方ない。きみも自分から始めたのか?」
僕は横になったまま黙って首を横に振った。
「それは…可哀想だな」
「でも…アル中には…なってましたから」
それもヤク中には違いない。
「きみ、年はいくつなんだ」
「19…です」
「人生踏み外したな。まだ若いのに。ここからは…出られないぞ」
知ってる。
「ええ…出られないはずなんですが、出される…みたいです」
「へぇ。なんで?」
医者は珍しげに聞いてきた。
「取り引きの…オマケの商品…みたいです…僕。このプレイをしたお客が買うんだって…あの人が言ってました」
「出られても…地獄…だな」
その通りだ。
「…墓穴…かも。責め殺されることも…あるって」
一瞬医者の目が険しくなった。
「なぶり殺されるために生き返らせたのか…ご苦労なことだ。商売熱心だな」
医者は不機嫌になった。不機嫌な医者は僕に抗生物質とバルビツール系の睡眠薬をくれた。
「寝る前に飲んで。墓穴の前にいる君には無駄な投薬だがな。仕方ない。あの人の大事なのは取り引きだ。まあ当たり前だがな。そういう男だ。きみを好きなんだと思わず勘違いしたよ」
医者はコップに水を入れて僕に渡そうとした。
「起きれるかな?」
少し身体を起こした。
「なんとか…うっ…つぅ!」
痛みをこらえ薬を飲み、また横になった。
「くそ…頭に来る。あんまりうろたえるから無駄な気をまわした。何が『助けてやってくれ』だ」
医者は変なことを口走った。
「あの人が…言ったんですか?」
「ああ…さっき飯を食いながらな」
医者は部屋の明かりを消した。足元のランプだけがほの暗く部屋の4隅をうっすらと浮かび上がらせていた。
「きみ…なんとか眠るんだ。向こうの部屋で本読んでるから、なんかあったら呼んでくれよ」
医者は隣の部屋に行った。シャブなんか打ったら寝られない。だから夜勤の医者がシャブ漬けになるんだと誰かから聞いたことがある。
ベッドの足元に医者のカバンが置き去りになっていた。暗がりで僕はそれに気づいた。医療器具…もしかして。僕は急に心拍数の上がるのを感じた。僕は痛みをこらえて身体を起こした。激痛が走ったが、僕の身体はその目的に向かって止まることはなかった。
(助けてやってくれ)
カバンを漁る手が一瞬止まる。心と身体が別のことをしている。そんな違和感が僕を捉えていた。
(今さら助けてやれなんて…迷惑だ)
殺意が鈍ることが心底怖かった。その時銀色の長細いものが視界をかすめた。滅菌パックの中に入った使い捨てのメスが。
朝、服薬のために医者に起こされた。完全に禁断症状。気持ちがくまなく憂鬱と焦燥で満ちている。
「じゃあ帰るから。薬飲んでよ」
医者はカバンの中の異変には気づいていないようだった。
「おっと…忘れるところだった」
医者は変な顔をしながら、僕にいつもの手錠をはめた。禁断症状で震える手首にステンレスの拘束具が、カチャカチャといやな音を立ててはめ込まれた。
「すまんな。頼まれたんだ。逃がしてやりたいけど…勘弁してくれ」
医者はそんなことを言った。優しい人だ。
「わかってますよ…僕を逃がしたりしたら先生が危なくなる」
しばらくぶりの手錠がやけに重い。拘束されたことで更に精神が沈んだ。
「君は…」
なにか言いかけたが、医者は口をつぐんだ。それからすぐに携帯でドアの外と連絡を取った。外から鍵が開く。医者が部屋を出るまで、なに食わぬ顔をしながら見送った。医者は振り向きもせず出ていった。ドアが閉められた途端、脇の下から汗が噴き出してきた。僕はベッドに倒れこんだ。バレなかった。いや…バレてもとがめない。あの先生ならきっと…だがベッドに身体を沈めながら僕は不意にあることに気がついた。このメスで男を殺して逃げたら…医者が共謀したと誤解されるのではないか? そしたらあの医者は…間違いない…リンチだ。もし男を殺して凶器を取り残したら医者が殺される。幹部が殺されたんだ。禍根は断たれる。仮に“僕に盗まれた”って本当のことあいつらに言っても、信じてはくれないだろう。
凶器が残るだけで、医者の命も危なくなる。僕は彼に救われたんだ。なのに。そのことに今さら気がついた。僕が逃げ出したら絶対に凶器は残せない。そんな危険な賭けを…僕はどうやって…? あんなに待ち望んでいた凶器が、いまこの手にあるのに…。サージカルテープでベッドの裏に貼り付けられたメスを震える指で確かめながら、僕は途方に暮れていた。
次回も2日後更新です。21日になります。