僕の腕が彼の腰に回されオートバイから落ちないようにしがみついていられるのも、そう長い時間ではなかった。ダウナー系のクスリが残っていて頭と足がふらついているところに、シャブの禁断症状が始まっていた。脱力感と震えと寒気で自分の身体が思うようにコントロール出来なくなってきていた。震えて緩みかけた僕の指をつかみ、彼は細い路地で急にバイクを止めた。
「しっかりしろ。ちゃんとつかまれ。落ちるぞ」
「力…入らない…寒…い…」
「そうか…これを着ろ」
今は何月だろう。寒いのはクスリが切れたからか、夜だからか、季節のせいか。時間と月日から隔絶されていた僕はいまが何月何日かすらよくわからなかった。時々梅が咲いているのが見える。2月か3月の初めなんだろうか。
彼の背広を着ると少し暖かくなった。
「もう少しだけ耐えろ」
「…わ…かった…」
「かなりひどいな」
彼の言葉に無言でうなずく。なにか言えばこの場で崩れ落ちそうになりそうで。
「走るぞ。しっかり私に抱きついていろ」
「うん…」
震える腕を彼の身体に巻きつける。彼がゆっくりと走り始めた。僕の回した手を片手でつかんだまま。
しばらくして郊外のラブホに転がりこんだ時には、僕の状態は最悪になっていた。全身の脱力感と震えでまともに歩くことすら出来ない。彼は部屋まで僕を抱えて運び、入り口の側のソファーに座らせた。僕は意識すらまともじゃなくなり、いま自分がどこに連れて来られたか意味がわからなくなりかけていた。それでも彼がいまここに生きて、僕を助けてくれたという奇跡が、僕の心身の崩壊をとどまらせていた。
「ひどいな…どれくらい盛られたんだ?」
ホテルの部屋のソファーに僕を横たえながら彼はため息をついた。横になり、震えながらも少しだけ言葉が戻ってきた。
「いっぱい…いま…何月? 何日?」
「3月10日だ」
「そ…う…」
「日付の感覚もないのか…」
「カレンダーも…時計も…部屋になかった…」
彼はホテルのコップに水を入れて、僕のところまで持ってきた。言いたいことも訊きたいことも多すぎて、なにを言えば良いのかわからなかった。でも…なんで彼はあの客の部下に?
「なんで…?」
それを訊かずにはいられなかった。
「なんで…なんであの客の組織にいたの? どうやって僕を見つけたの?」
彼は一瞬動きを止めた。だが思い直したように僕のとなりに腰をおろした。
「それは…君が回復したあとで説明するから。その前にエスの禁断症状を緩和しよう。これを飲め」
「エス…?」
「シャブのことだ。きっと他のも入れられてるだろうが」
彼はポケットから錠剤を出した。
「抗ウツ剤だ。シャブの治療に使うヤツだ」
彼は有無を言わせず僕の口に錠剤を押し込んだ。
「水だ」
コップを手渡される。手が震えて水がこぼれた。彼の手が僕からコップを奪い、替わりに飲ませてくれる。錠剤を飲み下したのを見て彼はコップをテーブルに置いた。
「食事、いつ摂った?」
最後に食べたのはいつだったか? よく思い出せなかった
「…わから…ない」
「そうか」
彼は上着を着た。
「買い物に行ってくる。ちょっとの間、待ってろ」
「い…行かないで…」
僕は呟いた。
「わかってる」
彼は真顔で言った。
「ちょっとだけ我慢しろ」
そう言うと彼はホテルのバスローブの紐を二本持ってきた。そして僕の足と腕を縛り始めた。
「な…なに…やめて…!」
「シャブの妄想が出るとマズいからな。君のためだ。こうしないと幻覚に襲われて部屋を出たり、怪我したりする。危険だ。わかるか?」
意識の混乱した今の僕には必要なことなのかも知れないけど…
「怖いよ…縛らなきゃだめなの? それともこのまま僕を置き去りにするの?」
彼はベッドから掛け布団を剥ぎ、ソファの僕に掛け少し微笑んだ。
「ちゃんと帰る。食料と服を調達してくる。いいか…シャブの妄想は危険だ。自分で自覚してないからな。今の君はまだそんなに妄想に冒されていないのかも知れないが、混乱してることは確かだ」
彼は立ち上がりドアに向かった。
「すぐ帰る。悪いが我慢してくれ」
手足を縛られて僕は取り残された。こんなことまでされるほど蝕まれてるのかと思うと不意に涙が出てきた。だが、彼の判断は正しかったようだった。ひとりになった僕は、状況に対しての認識を容易に失っていった。彼に救われたことをなにかの夢のようにすら感じ始めていた。とにかくクスリが欲しくて、これで手足が自由だったら僕はそれを探しに闇雲に部屋を出ただろう。あの冷酷な男を探しながら。
まだ抗ウツ剤は効いてこない。気が狂いそうになってくる。ここはどこなの? なぜ縛られてるの? あの男がいないとクスリがない。あの男がいない。なんでいなくなったの…帰るから…すぐにあの部屋に帰るから。あんたにまた抱かれるから、クスリを…僕にクスリを打って。彼は帰らないかも知れない。僕を置き去りにしたの? こんな場所で僕を縛って、救いようがなくて放り出したんだ。クスリ漬けだから。腐ってるから。本当に彼は僕を助けにきたの? ほんとに彼はいるの? 夢かも知れない。彼のほうが幻覚かも知れない…助けて…誰か…部屋から出して…
シャブの幻覚や妄想について僕は全く知らなかった。統合失調症にも似た疑念と妄想が起こるということを、後に彼から聞いた。それで人を殺すこともあると。自分を殺すことさえも…
永劫とも思える錯乱した時間。それはたった30分の間のことだった。妄想の恐怖で過呼吸に陥った僕は、彼が帰ってきた時にはソファーから床に落ちて、気を失いかけていた。
気がつくと僕はレジ袋を被せられ、ベッドに寝かされていた。手足は紐をほどかれてすでに自由になっていた。だが僕はそれがどういうことかすぐにはわからなかった。僕は袋を手で掻き分けた。
「気がついたか」
彼の声が聞こえる。
「なんで…どこ? ここ…どこ?」
彼が袋を取り払ってくれる。ベッドの際で彼が僕の顔を覗きこんでいた。ああ、夢じゃない…夢なんかじゃない!
「帰って来ないと思った…」
「過呼吸になっていた。縛ってパニックになったんだな。すまなかった」
僕にはなんのことかわからなかった。それよりクスリが切れていることが何よりつらかった。
「ちがう…ちがうんだ…クスリ切れて…どこにもあの男がいなくて…クスリが欲しくて…なんでくれないのかわからなくて…」
僕は身体を起こし彼にすがった。
「持ってるんでしょう? クスリ持ってるんでしょう? 早く入れて…早く…もう耐えられないんだ…」
最後は泣いていた。苦しくて苦しくて、どうしていいかわからなくて僕は彼の服をつかみ揺さぶった。
「わかった…」
彼は小さく呟いた。
「最初は錠剤だったのか?」
「そう…それから…シャブに…」
彼は上着の内ポケットから、いつものカラフルな錠剤のシートを取り出した。
「これか?」
「それ…それを…あそこに入れて」
僕はその手にすがった。
「入れる? 座薬に使ったのか?」
「してる最中に…下から…入れられるん…だ…」
「そうだったか…」
彼は少し黙った。
「ひとつ訊く。君は自分からクスリにのめり込んだのか?」
僕は首を横に振った。
「…最初は酒に混ぜられたなにかを飲まされて…知らないうちに中毒になっていて…でも…」
僕は混乱した頭で半年ほど前の、あのライブハウスでのあいつ、プッシャーとのことを思い出していた。
「クスリより…淋しくて…死にそうだった…からだ…よ…好きでもない男に…抱かれて…たんだ」
でも僕はあの時引き返せた。親友が捨て身で止めてくれた。なのに…
「抱かれているうちに…もっと良いのがあるって…無理矢理入れられて。それから…気持ちまで…冒された。その錠剤…だよ…監禁される前からもう…ずっとそれを…」
「そうか…だが…」
彼は不思議そうに尋ねた。
「君の兄さんはどうしたんだ?」
彼はそう僕に問いかけた。
「なぜ淋しかったんだ? 君は愛されていたはずなのに」
それを聞いて僕は心臓をつかまれるような思いがした。答えようとして口を開いた。だけど口からはなんの言葉も出せなかった。酸欠の魚みたいに口を開いたまま、僕は言葉もなく喘いでいた。彼はすぐその異常さを察知した。
「君の兄さんはどうしたんだ」
「い…な…い…」
「…なぜ? また捨てられたのか?」
彼は訝しげに僕を見た。
「違う…本当にいない…んだ…消えちゃったんだ…失踪…したんだ」
「失踪? 失踪と言ったか?」
「うん…失踪」
「いつからだ?」
「去年…の…7月…」
彼は目を伏せた。
「私のせいか…」
僕は首を横に振った。
「わからないんだ…なんにもわからないんだ…だって…僕達…前の日まで幸せに暮らしていたんだ…」
「警察には届けたのか?」
「届けたよ…その日に届けたよ。でも書き置きがあったから失踪者と認定してもらえなかったんだ。ただの…ただの家出…だって」
「手がかりが無いのか」
彼は僕に尋ねた。
「興信所にも頼んだよ。だけどダメなんだ。興信所だって一社だけじゃない。でも生死すらわからなくて…支えあってた家族もバラバラになった。僕は兄貴とのこと…誰にも言えなくて…当たり前だよね…言える訳ないよね…手がかりになるかも知れないのに…苦しくて…もうその頃から僕アル中になってた。クスリより前にもうアル中だったんだ」
彼は身じろぎもせず僕の話をじっと聞いていた。
「アルコールでダメになりかけたときにね…僕はもう一度だけ立ち直る気持ちのきっかけを掴めた。僕は…信頼してるある人のところで…そこは秘密を守ってくれるところだったから…心の重荷を…兄貴とのことを吐き出したかったから…僕は…その人に打ち明けた」
そう…神の御許で。あなたの無事を願ったあの教会で。
「だけどその人は僕を兄貴の犠牲者だと言った…兄貴はその報いを受けた…罪を償わなくちゃならないって…僕と兄貴は離れて当然だって…それが神の意志だって…僕は…う…」
最後は叫んでしまうかと自分でも思ったその時、彼はベッドに腰をおろし僕の口を手でふさいだ。
「君がこんなになった理由が、ようやくわかった」
そして彼は僕を抱きしめた。
「今は嫉妬は置いておこう…」
僕は彼の腕の中にいた。そうだったんだ。兄の他にたった一人、この人だけだ。この人だけは本当の、僕達兄弟の秘密を知ってる。僕の苦しみを吐き出すことができる…神父でなく、この人が。
僕は人の世の裏腹さに心底震え、そして嬉しさに泣いた。出逢った時は悪魔だったこの人が…
「それでは遠慮なく君を抱こう。今なら私は君を落とせるかも知れないな。クスリと淋しさで君を操ってね」
彼は僕を静かにベッドに横たえた。シャツの裾を捲りあげられた途端、鋭い痛みが走った。彼は火傷の傷口を指で拡げていた。
「んあっ!」
「君は逢うたびに私の好みの傷口をつけてるな。それ以上にボロボロの君を見てるだけで欲情する。もっと壊してしまいたい」
彼は冗談ともつかないことを囁いた。
「私は君を買い損なったあの客より残酷な人間かも知れないぞ」
あなた…変わらないね。やっぱり悪魔みたいだよ。欲望に素直で、残虐で。それでもいい。僕が…僕の方がもっと欲情してる。あなたに。彼にしがみつく間もなく、裸にされ身体を裏返され、うつ伏せにされた。足をいっぱいに開かれるまま、彼が耳元で囁く。
「入れてやる…君の欲しいものを」
クスリが彼の指で押し込まれる。あの時あんなに拒んだものを、いま彼が本当に僕に与えてる。皮肉だね。僕が求めてる。挿れてくれるあなたは優しい。
「ああっ…入るっ…」
「上物だな。こんなので飼い慣らされてたら抜けられない」
クスリはすぐ効いてくる。口の端から唾液が流れて落ちた。
彼は変わらなかった。傷だらけで痩せ細って衰弱しきった、心も崩壊しかけたヤク中の僕を無残にサディスティックに犯した。治りかけた傷口から血がにじみ、あの客に針で貫かれた肉塊を弄び、痛みに叫ぶ僕に興奮した。でもそれが今の僕には合っていた。耳元で狂った僕に吐息を吹き込みながら囁く。
「腐り果てたはずの君がこんなに美味しいとは…! まるで究極のグルメだな。絶望と毒薬に骨抜きにされて、それでも愛に満ちてる…極上の貴腐ワイン…ヴィンテージだ。高値で取引されて、何度も飼い主を渡り歩き、それが今、私に盗まれてこの手の中で悶えているなんて。素敵だよ…君は最高だ」
「はぁうあぁ! い…イクぅっ!」
その囁く声だけでイッてしまう僕。その後も性器で、指で、言葉で、知り尽くした僕の急所を責め抜く。
「何十人、何百人か? 毎日客に犯されクスリで溶かされ、狂い果てて、私のことなんかとっくに忘れていただろう?」
「…忘れたかったよ…ずっと…あなたなんか…忘れたくて…辛くて…壊れそうなほど…苦しかったよ…」
泣きながら深い深いキス。舌で唇で貪り合う。頭の中が真っ白になって。脚を絡めて腰をくねらせる。たまらなくて犬みたいに身体を彼に擦り付ける。すぐに犬みたいに四つん這いにさせられて、後ろから激しく犯された。
「ダメな子だ。本当に淫乱でどうしようもない犬だな。飼われるのが好きでたまらないんだろう。後ろの穴があの頃よりもっと良くなってるな…こっちがイキそうだ」
乳首を捻り潰されて叫びながらのけぞる。痛くてもそれでもまた射精する。精液を亀頭から垂れ流し、痛いほどサディステックに犯されながらあの男のことをかすかに思い出していた。あの男も暴力的だった。いや…暴力そのもの。なにが違うんだろう…あの男はやり場のない自分の怒りや力や性欲を僕に吐き出していた。楽しみとは程遠いSEX。圧倒的な力で組み伏せられる。そう…それは征服。
この人は楽しんでる。いつも。僕の反応を、身体の感触を、自分の指で、唇で堕ちていくそのさまを。言葉で嬲り、身体で思い知らされ、心のスキをつき、折り、そして掬いあげる。快楽を創り出し、それらをまた壊す。あの客の方がちょっとだけ似てる…でもあの客とも…違う…自分の手で…ちゃんと直接汚してくれ…る…思考が…続かない…僕が溺れてる…ああ…神さま…愛されてるよ…僕はまた…
明け方、不意に目が覚めた。眠ってしまったみたいだ。いつ眠りに落ちたか記憶がなかった。さっきまで激しく抱かれてた…はず。記憶が頼りなくて、思わず薄暗い中で手を伸ばす。だがとなりに彼はいなかった。あれ…いつの間にかTシャツを着てる。彼が着せてくれたのかな。彼の痕跡だけがあった。かすかに水音が響いている。ふと見るとバスルームから明かりが漏れている。シャワーを浴びてるのかな、と僕は気づいた。手首にあるはずの鎖を無意識にたぐっている自分に気づく。あれにつまずかないようにする為の、あの部屋で飼い慣らされた僕のベッドから出るときのクセ。鎖がないことが逆に不思議になる。
暗がりをよろけながらバスルームの前までたどり着いた。すると浴室のドアの前に何か白い物が置いてあった。薄暗がりの中で最初それは白い短ブーツに見えた。しかも片方だけ。なんで靴が片方だけここに? 彼のものだろうか? 僕はしゃがんでそれを覗きこんだ。だがその瞬間、僕は凍りついた。その白い靴のようなものの爪先には、足の指が生えていたからだ。
次回は9月26日更新です。