両膝が驚きと恐怖でガクガク震えた。でも目を反らすことが出来なかった。これは靴なんかじゃない。切り取られた…足首。違う…これは…まさか…そんな…
あっ。不意に記憶がフラッシュバックした。彼は逃げるとき右足を引きずっていた。痛めたんじゃない。あれは、あれは…。僕は言葉を無くしたままバスルームのドアを開けた。キィ…とドアの蝶番が鳴った。
「なんだ…起きたのか…」
低い声がバスルームに響いた。彼の背中が湯気の向こうに見えた。彼は湯船につかっていた。僕は濡れたタイルを歩き湯船の縁に座り、彼を背中から抱き締めた。
「…服が濡れるぞ」
彼は振り返りもせず僕に言った。
「……」
なにも見つからない。口にする言葉がない。なんで? なんでそんなことに…
「どうした…」
なにも言わず背中にしがみつき泣いてる僕に彼は呟いた。
「…ああ。あれを見たのか」
「う…う…」
返事にもならないうめき声が出た。
「上手く出来てるだろう? 驚いたか。君はもっと熟睡してると思ってたんだが。油断した」
「…ど…うして…」
やっとのことで声を絞り出した。彼はフフッと笑った。
「命と引き換えた。君のせいだぞ。生き延びられたが、あれはその代償だ」
バスタブの湯の中から彼は右脚を引き上げた。足首が無かった。その右脚のくるぶしから先はきれいに切断されていた。彼はそれを見せつけながらさも嬉しそうにクククと笑った。
「君に見てもらえるとは…!」
あんなに絡んで抱き合ったのに、どうして気づかなかったんだろう。義足だったのだ。僕は自分の意識の脆さに呆れた。だが彼は恍惚とした表情で、足首から先のない脚を眺めていた。
「あの日家に帰り、荷物をまとめてアメリカに行くはずだった」
彼は右足をまた湯船に戻した。
「明け方車を走らせて空港に行く途中、高速に入り車が故障した。勿論誰かが仕組んだのは間違いないが。車は制御を失って高速の壁に激突、大破だ。だが私はなぜか車から放り出され、奇跡的に助かった」
「そんな…ことが…」
僕の想像をはるかに超えた出来事に僕はめまいを覚えた。
「ただ、放り出されたときに右足がどこかに叩きつけられたのか、足首の骨が砕けて皮膚を突き破っていた。治しようのない粉砕骨折というやつだ。放り出された瞬間の記憶がない。いつの間にか植え込みの中で気がついた。頭を打っていたからかも知れないが…」
そう言うと彼は初めて僕をチラッと見た。
「そうそう、そこで私はもう死んでるんだ。戸籍上は」
「えっ?」
ど…どういう意味? またしてもそれは僕の理解を超えていた。彼はこともなげに続けた。
「事故直後に意識があったのが幸いして、ちょっとコネを使ったんだ。警察に腐れ縁の知り合いがいるんだが、それのはからいで私は死亡したということになっている。もっと違うやり方で事件をもみ消して欲しかったんだが、私の事故が知り合いの関係してるヤマとつながりがあったらしくてね。私も生きていたら今頃刑務所の中だ。司法取り引きで今までの私の集めてきた極秘情報は知り合いに没収だ。足首は神に召し上げられ、情報はお上に…タチの悪い冗談だ」
彼は淡々と事件を語った。まるで他人事のように。
「寒いだろう…入った方がいい」
彼は僕をさりげなく気遣った。Tシャツを脱いでタオル掛けに掛け、浴槽の低い縁をまたぎ、温かい湯に浸かった。こんなふうにまたこの人と時間を共に出来ることが、夢のようで少し怖いくらいだった。
「うっ…」
脇腹の傷が湯にしみて疼いた。夢じゃないんだ。
「ん…う…」
僕は痛みにたまらず湯船から立ち上がった。
「傷がしみるのか。そんなエロい声を出すとまた犯されるぞ」
彼がまた意地悪く囁く。
「あなたが…傷口開いたんでしょ」
僕は少し怒ったように言う。でも痛みで、話から受けた衝撃が少し和らぐ。湯船の縁に腰掛け、足だけ湯船の中に入れた。
「…そんなことが…あったんだ」
そんなありきたりのことしか言えない自分が歯がゆい。僕の位置から見おろすと、彼の足首から先のない右足が湯の中ではっきり見えた。それを正視出来ず僕はうつむいた。
「右足を少し引きずっていたのはわかってたんだ。昨日車で壁にぶつかった時に足を痛めたのかな…って思ってた」
彼が呆れたように言った。
「今回もまた車を壁に激突させられた。君のせいでいつも車が大破する。車には一年近くトラウマで乗れなかったんだぞ…まあ仕方ない。あれしかとっさに思いつかなかったからな。それに今度は自分の車じゃないし」
「僕のオヤジは車の修理工だから…かな」
僕はとっさにそんなことを言った。
「気味の悪い符合だ。親孝行もたいがいにしろよ」
彼が面白そうに毒づいた。でも親孝行って…僕はとんでもない親不孝なのに。急に両親のことが頭をよぎった。胸が詰まる。僕を探してるだろう。警察には届けたんだろうか?
「…家に…連絡しなくちゃ」
僕は伏せた顔を両手で覆い、パニックにならないよう耐えていた。親にどう説明したらいいか本当にわからない。でも生きてるって連絡しなければ…でもこんなメチャクチャな僕の身に起きた異常過ぎる出来事を、いったいどう話せば…
「ああ、そうだな。でも少し待つんだ。警察が先に君の両親に連絡を入れるはずだ。私にも報告が入る」
そう言うと彼は湯船から上がった。
「え…なんで…報告…って?」
彼は器用に樹脂製の腰掛けに座って、左足だけで浴室を移動した。そういえば彼はいったいどういう立場で僕を助け出したんだろうか? まだそのことについては何も聞いていないことに気がついた。
「上司から報告があるということだ。この一件は…」
上司が…警察…? まさか。そうでなければ興信所の探偵とか…ほかに考えつかない。彼はひげを剃りながら話していたが、ふとその手を止めた。そしてため息をついた。
「まさか…そこに君が居たなんて…」
彼は湯気で曇った鏡を手でぬぐい、その鏡に手をつき俯向いた。そんな仕草を初めて見たような気がして、僕はドキッとした。
「盗聴器を聴きながら耳を疑った。その声が君だということを…認めたくなかったな…」
「…い…いつ…?」
僕は鳥肌が立つのを感じた。
「君を監禁した組織との取り引きを決めた夜のことだ。覚えているだろう? あの日の拷問のような折檻、いや…忘れようがないな…私も忘れられない…君の叫ぶ声がしばらく耳についていたからな」
まさか…聴かれて…た…? あの狂った宴を、この人に…?
「なにを…聴いた…の…?」
身体が急に寒くなってきた。彼は懐かしい思い出を語るような微笑みを浮かべていた。だがそれはある種の自嘲にも見えた。
「久しぶりだったな…あの焼けつくような嫉妬の焦燥。それから君への激しい欲情。それよりなにより…私は君の死ぬさまを駐車場の運転席で座ったまま聴かされるかもしれないというその状況。あの時は恋人の死に立ち会えなかった私が、今度はそれを埋めんとばかりにリアルタイムで君の嬲り殺されるところを実況されるのかと思うと…我ながら愕然としたよ。望みが叶うということがこんなに皮肉で凄惨なことだとはね。皮肉というには素晴らしいほどの破壊力とねじれだと。だが、君を心から愛しているというのはよくわかった。私は良いリスナーだ」
ははは…と彼は笑った。終わりの方はあまりに素直過ぎる告白に今度は顔が熱くなった。だけどそうなんだ。その裏腹さがこの世の理。期待して願いを込め、そして…不意に打ち倒される。だが無心に手を離し、死を覚悟したとたん悪魔にすら救われる。あなたも…僕も…
「君は私に予測不可能な感情を連れてくるんだ。違和感…異物感なのか、こればかりはいたたまれない」
「前も…言ってたね…」
そう…あの時はなんて言われたっけ。
「はた迷惑なアトラクション。今も変わりゃしない」
彼は即座に答えた。そして彼は思い出したように不機嫌な顔になった。
「今回のことで私が君を奪回するのにどれだけ苦労して上司を丸め込んだか! 君がヤク中でしかもあそこで男娼をしてる事情がすぐにはわからないのに、直接警察が保護すれば良いと何回頼みを無視されたか。そのために使いたくない切り札を使い、イヤな奴に借りを作り、君には私の恩に報いる義務があるぞ!」
彼はいきなり僕の方を振り向き、僕をにらんだ。
「この前は秘密が担保だったけれど、今度は恩義を担保に君を言いなりにしてやる。私も君の命の恩人だぞ。これでお互いチャラだ。クソっ…なんて生ぬるい脅迫だ!」
彼は中断していたひげそりを再開した。
「痛っ!」
どこか切ったらしい。
「怒りながら剃るからだよ…」
「黙れ」
彼は口をへの字にしながら残りを剃っていた。僕は彼のそばに座った。
「助けてくれて…ありがとう。ほんとに…ありがとう。そのかわりあなたの言いなりに…なれば良いの…?」
彼はますます不機嫌に言った。
「なる、ならない、じゃない。言いなりっていうのは有無を言わせないことなんだぞ。それに…」
彼は少し深刻なトーンになった。
「私の画策が上手く行けば、君は薬物中毒治療の研究の被験者として私が担当することになる。どのみち私からは逃げられやしない。君は知ってるのか? 覚醒剤の後遺症や離脱症状の様々な危険性、治療法、それを取り巻くこの国の現状をだ」
「僕の担当って…てっきりあなたは興信所の探偵だと思ってた…違うの?」
僕は一番訊きたかった質問をした。
「似たようなもんだ…俗にいう麻薬Gメン。聞いたことあるだろう? 麻薬取締官だ。これが私が腐れ縁の警察の知り合いとの取り引きの結論だ。つまり私のようなヤバい人間は殺すか囲い込んで利用するかどちらかだからな。まあ私を知り合い様は殺せない。相討ちになるように仕組んである。それが腐れ縁と言われる理由なんだが…」
死に際まで逃げ道を準備してたのかと思うと、改めて僕はこの人の頭の良さに慄き、そしてこの人の生き延びる執念に多少尊敬の念すら覚えた。そしてこんな悪魔みたいな人を国家権力に組み込める知り合い…その人もこの人と相討ちクラスって、自分が安全なのか虎の穴に居るのかわからなくなった。
「そうだったね…薬は詳しかったよね…」
思い出す。麻痺するような薬で身体の自由を奪われて、僕を思い通りに操ってたこと。
「専門が薬学だからこのキャリアが可能なんだ。私自身が毒にも薬にもなり得るとはね…人生は面白い」
「大学が薬学だったの?」
彼の謎が一つ解けた。
「ああ…悪魔じみた基地外がたくさんいたぞ。変人の巣窟だった。あの頃は楽しかった。その私がこんな権力の犬になるとは…我ながら堕落したもんだと思うが」
そして彼は大学の名前を教えてくれた。
「えっ…本当に?」
「ああ。英語が話せる」
世界的に有名過ぎるイギリスの大学の名前に僕は驚いた。悪魔的に頭が良いのがよくわかった。
「ほら、そろそろ出るぞ。ああ、その前に君の傷口を洗うか。湿潤治療の基本だ」
湿潤治療がなんだか知らないが、確かにその大学出身ならなんだか安心してそれは任せられる。
「あ…ありがとう…いっ…痛…」
痛みに耐えながら身体を捻る僕を見ながら彼は無言で僕にシャワーをかけてくれていたが、趣味と実益を兼ねたその行為に、段々と彼の顔が緩んでいくのがわかった。
しばらくこの調子で2〜3日ごとに更新予定。次回は29日です。いつもご閲覧ありがとうございます。