快楽は
来ては去ってゆく
いったい何度
その移り変わりを見てきたことか!
(アシュターヴァクラ・ギーター)
「君の兄さんには悪いけれど、私は全力で君を落としにいく」
彼は微笑みながら、ベッドの上の僕にそう言った。
「まず宣言しておく。私にしては非常に紳士的でフェアだ」
微笑みながらも彼は少し不服そうな顔をした。
「この前の死にかけた一件で、君に関わるときは正攻法でないと勝てないということがわかった。いや…君というより君の兄さんにと言うべきかな」
彼は「そうだろ?」と言うように僕をチラッと見た。
「まずは君のご両親に取り入る。将を得んとすればまず馬からってね。君も助かるはずだ。君も私にも、そしてご両親にしてもね。3者の利害が一致するなんて奇跡的じゃないか?」
「ちょっと…この場所でその話は」
僕は囁いた。ここは警察病院のベッドの中だった。
「となりに…人もいるし…」
「大丈夫。誰一人まともじゃない」
彼も声を落として僕の耳元で囁いた。そうだ、ここは精神科だった。刑事事件で責任能力がなく、不起訴になったようなアル中やヤク中やシャブ中の患者がここで治療を受けている。僕もしばらくここに入院することになったようだった。
昨日の夜逃げ込んで今朝までいたあのホテルから、僕は直接この警察病院に、さほど詳しい説明も彼から無いまま彼の車で連れて来られた。そして、警察から昨夜連絡を受けた父と母が、今日ここにやってくる。
「私に任せろ。昨日の様子では君はパニックを起こす寸前だった。今だって…違うか?」
面白がってるのか、彼はニヤッと笑った。クソッ…クソッ! 状況がいかなものであれ僕が困り果てているのを心底面白がっているこの人が本気で憎らしくなってくる。たとえ命の恩人でも、だ。だが反論できない。いまここに彼がいて、父と母にことの成り行きを説明してもらえる。そう思うだけで僕は本当にこれから先も生きていて良い…と、世界から許されたような気すらする。だけどそういう機会を重ねていけば、僕はきっと彼に退路を断たれる。
あなたのこと、僕は、好きだ。兄貴以外に好きになったのは、あなただけ。でも、兄が見つからないこのまま、彼とこれ以上愛し合うのは僕には出来るはずもない。絶対に。彼のために祈っても、そしてたとえ命の恩人でも。
彼はゲームみたいに感じてるのかな? 楽しんでいる…いまは少なくとも僕にはそう見える、ことがある。時折見せる優しさが嘘なのか本当なのか、分からなくなることもある。優しい彼をあまり知らないからか、サディスティックにされている方が慣れてるからか…だってまだストックホルム症候群の真っ只中にいるのかもしれないのだから。
僕はまだ彼に恐怖を感じる。猫がネズミをいたぶるみたいに僕を手の中に入れて、死なない程度に弄ばれているような、あの恐怖を僕は不意に思い出す。秘密をタテに脅されて復讐の玩具にされた過去の積み重ねが、僕を疑心暗鬼にさせる。当たり前…かな。当たり前だよね。あんなひどい仕打ち…今、この心はあなたを好きなのに…すごく複雑な気持ちになる。
死線を超えて彼は変わったのか、それとも人は最終的には変わらないのか…それは未知の領域だった。多分、彼自身も。そんなことより、あと2時間ほどで父と母がここにやってくる。全身が震えて、冷や汗が腋を濡らしている。怖い。怖くてたまらない。両親のことも、彼のことも、僕の手から離れた見えない未来が。
「大丈夫か? 震えてるぞ。禁断症状じゃないのか?」
錯乱の中で不意に彼の声が聞こえた。
「…こ…怖い…し…死にそう…」
上手くしゃべれない。歯の根が合わなくて奥歯がカタカタ鳴ったまま止まらない。
「禁断症状だな」
「違っ…ちがう…親に…あ…会うの…が…こっ…怖いんだ…」
彼はため息をついた。
「とりあえず薬を増やさないと。ところで君はパニック障害があったようだが、薬は飲んでいたのか?」
「ち…中学生の頃…デプロメール…あ…兄貴…いなくなって…また発作出るようになって…コ…コンスタンと…デパス…」
すると彼は、あーあ、というような顔をした。
「参ったな。君は薬に耐性が出来ているんだ。サイレースの効きが悪いわけだ。君はその薬ではもう効かなかっただろう?」
「効…かない…それで…寝られなくて…アル…アル中…になってた」
「エクスタシーを仕込まれる前にはもう既に精神薬漬け、だったのか」
そして彼は僕にとくとくと言い聞かせ始めた。
「その恐怖は普通の恐怖じゃないぞ。離脱症状が加わって増悪してるんだ。それに君の親御さんには私から説明するとさっきから言ってるじゃないか。私は君がゲイだなんて言わないし、私に抱かれて悶え狂っていることも言わない。兄さんと私との関係も、君がクスリ欲しさに身体を売ってたことも人身売買されて手込めにされてたことも、君の意志じゃなかったとはっきり伝えてやる。私と兄さんの関係も、兄さんの父親と私との関係ももちろん秘密だ。私は君の兄さんの大学時代の知人だ…これは全く間違いというわけじゃない。君とは以前兄さんのアパートで会ったことがある。これも嘘じゃないし、捜査上で君に偶然出くわした、それこそ全くの事実だ…違うか?」
「違わ…ない…違わないけど…」
「違わないけど、なんだ?」
違わないけど…待っ…てよ。僕はふとあることをまだ確認できてないことに気づいた。
「ごめん…聞いて…いい?」
「なんだ?」
彼は僕の顔を覗き込んだ。ああ…そうだ。僕は何度この人にだまされてきたか。トラウマが有りすぎてがんじがらめじゃないか。助けてくれたのに疑うのは許して欲しい。だってあなたは…悪魔だった人だ。僕は満身の力と、有るか無きかの気力とを振り絞り彼に尋ねた。
「お願い…身分証…見せて…」
一瞬の沈黙のあと、彼はいきなり噴き出した。
「そうか! あっはははは!」
「な…なにが…可笑しい…!」
僕は彼の反応にどぎまぎしながら精一杯怒った。彼は笑いを圧し殺しながら、上着の内ポケットに手を入れた。
「いいぞ。ほら…これだろ?」
彼は二つ折りの手帳を取り出した。そしてテレビドラマなんかで警察が犯人に見せるときのように、パカッと中を開いて僕の目の前に差し出した。そこには半分から上に“司法警察員 麻薬取締官”とあり、彼の顔写真が貼られ名前があり、厚労省の印が押されていた。名前は知らない姓と名だった。下には金属の大きなバッヂがあり、そのバッヂには“NALCOTICS AGENT”というロゴが刻まれていた。
僕の全身から一気に力が抜けた。虚脱感がどっと押し寄せ、僕は大きく深呼吸をしていた。
「…ごめんなさい…ありがと」
そう僕が言うと彼は補足して言った。
「警察と麻薬Gメンは所轄が違うからね。私は厚労省の手先だ。警察には変わりないが」
彼は手帳を僕に見せながらまだクスクス笑っていた。
「気が済んだか? しかし君は…」
彼は手帳をパタンと閉じ、また元のポケットに戻した。
「…これが偽造だったらどうするんだ? 私ならやりかねんぞ」
彼はニヤニヤしながら意地悪な顔で僕を眺めていた。
「もう…いい…偽造だったら…諦める…追求する気力…ない」
でも、それを聞いてもあまりドキドキはしなかった。もうドキドキする気力がなくなっていた。恐怖の頂点を越えてしまって疲れきってしまったみたいだった。
「わかった…任せる…よろしく…お願いします」
「観念したって感じだな」
「ああ…もうなんでも構わないよ」
彼は満足そうに微笑んだ。
「それは良かった。さて君には親御さんが来る前に薬で朦朧としていてもらうことになる。いきなりパニックになられても困るしね。黙って私とご両親の会話を聞いていて欲しい」
それは良い作戦だ。親とシラフで会うなんて今は無理だから。それに僕が好きであんなことに撒き込まれていたんじゃないと言ってくれるという彼の言葉が、僕を深く安堵させていた。心を読むことに長けている彼が、人を操るのが簡単というのも頷ける。僕の望みをわかってしまうのだから。
コップとクスリが手渡され、僕はまた彼に薬を飲まされた。なんだか懐かしい。思い出したくもないが。頭を殴って気絶させるわけにもいかないからな…と彼は笑った。30分くらいすると意識がダウンして眠気が襲ってきた。ウトウトして身体が動かなくなり、僕は夢見心地のままボーッとベッドに横たわっていた。完全には眠らないような不思議な作用の薬物…脅されてホテルに連れ込まれた時の睡眠薬とは違うような。
…彼の…声がす…る…
(…こちらです)
誰かの…息を飲む音…
(生きてるの? 身体は、身体はちゃんと無事なんですか?)
母の声…だ…
(ああああ…)
母の泣く声…ああ……ごめん…母さん…ごめん…
(ざっとのことは警察から聞いたんですが…なにがなんだかわからんので…どうして息子がこんなことになったのか…)
親父の…声…薄目を開けて声のほうを見る…二人とも…やつれて…
(心身共に大変良くない状態でした…周囲の状況も含めてね…)
彼が…説明して…る…
(今は…?)
(少し前にパニックの発作が出たので鎮静剤を投与しています…ですが衰弱と薬物の影響がかなりあります…回復までしばらくかかりそうですが脳や臓器の深刻な損傷には至ってはいないと思われます)
僕の頭に母の手が触れる。
(苦しがって…いますか?)
母の…声…
(身体も精神もかなりの苦痛が続いています…禁断症状がありますから…しばらくは精神薬でコントロールしていかないと…また再使用する危険性があります…それより息子さんの一番の苦痛は…彼のお兄さんの失踪だと思われるのですが…)
彼はいきなり事態の本質を突いた。
(ご存知でしたか)
父の低い声がした。薬で朦朧とする中でも彼がいきなり核心に突っ込んだことに僕は驚いた。彼はどこに話を着地させるつもりなんだろうか。彼は父に尋ねた。
(警察は事件性がないとしているようですが)
(はい…仕方ないので興信所に依頼しましたが…まったくと言っていいほど手がかりがなくてね…)
ぜんぜん…進展してない…んだ。それを聞いて僕はあの時に引き戻された。父親に激怒してアル中になった、あの頃の気持ち。心の中に鉛のカタマリのような、冷たく重いものがあることを僕は一瞬で思い出した。何も…変わって…ない…みんな…苦しんで…。その暗さと重さは、犯されて殺されかけたあの気持ちよりも、もっと殺伐としていて絶望的だった。そう…これを…わすれたかったんだ…この拷問みたいな気持ちを…
(お兄さんの失踪と今回の事件に関連性があるかどうか…こちらでも調べなければならないかもしれません…その時はご協力お願い致します…よろしいですか?)
(本当ですか? 本当に捜査を?)
母の悲痛な声がした。彼が兄のことを調べてくれる…いつからそれを考えていてくれていたんだろうか。それとも両親に信頼されるための、ただの…口約束…? いまは彼の考えはわからなかった。彼は続けた。
(ええ…期待はされないでもらいたいですが…興信所の調査も何も進展がないですからね…この件との関連性がなければ調査は終わります)
(それはわかっています…しかし可能性は信じたいと思います…あなたのお話は大変ありがたく思います)
父の落ち着いた声を久しぶりに聞いた。
(お兄さんが失踪したことへの息子さんの罪悪感は深い…特にご両親に対してです)
(この子がそんなことを…?)
言ってない…でも…正しい。
(息子さんはお兄さんの失踪ですでに心を病んでいた…その心の隙間を悪党に上手く利用されたようです…今回の監禁事件に巻き込まれた直接のきっかけは息子さんに聞き取り調査して多少明らかにはなっていますが…さて…ここではなんですから近所のカフェに移動しましょうか…少し込み入った話もしなければなりませんしね)
(わかりました…この子の意識は今日は戻りますか?)
父親が彼に尋ねると、彼は僕の顔をなでながら僕に言った。
(聞こえるか…?)
力が入らなかったが、僕は薄めを開けて少しだけ首を縦に動かした。
(聞こえるのね…!)
母が僕にすがりついた。
(どうか息子さんを安心させてあげて下さい…朦朧としているがあなたがたが来ていることはわかっているようですから…こんなことになって…更にあなたがたには顔向け出来ないと彼は心底恐れている…それは治療には一番妨げになりますから)
母は僕に言った。
(大丈夫…あなたが生きていてくれれば…それでいいの…お父さんも…それだけを願ってる)
それを聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。僕の目から涙があふれていた。
母さん、兄貴にもそう言ってくれたよね。いま同じ言葉を僕にもくれた。ありがとう。許してくれるの…こんな僕でも?
(早く…元気になれよ…また来るからな)
父親が小さい声で僕に言った。泣きそうな声だった。それを聞いて、僕は張り裂けそうな気持ちになった。
「…ご…めん…」
僕はそれだけを喉から絞り出した。ごめん。こんな心配かけて、兄貴のことで精一杯の二人に。すると父親が囁くように僕に言った。
「俺があの時支えてやれてたら……済まなかった。親失格だ」
父親が僕の肩の上に手を置いた。いつもの温かい大きな手。僕はもう何も言えなかった。ただ涙だけが止まらなかった。
どれくらい経ったかわからないが、彼は一人でカフェから帰ってきた。僕はまだボーッとしていたが意識は少し回復してきていた。
「いつもながら、愛されてるな…君は」
彼は僕のベッドのそばのパイプ椅子に腰掛けた。彼の優雅で無駄のない動きが美しく、僕の目に懐かしかった。
「…ありがとう」
僕は心から彼に告げた。
「ほんとに…ありがとう…」
彼は少し疲れたような顔で答えた。
「礼を言われても困る。作戦だからな。私達は君のために互いに協力することを約束したよ。良いご両親だ。君がどう育ってきたかがわかる」
彼はため息をついた。
「君の兄さんを…探す」
そう言うと彼は黙った。さっきそれを初めて聞いた時の驚きがよみがえった。
「ほんと…なんだ…ね」
「信用を得るための口からでまかせかと思ったか?」
僕の考えはお見通しだった。
「驚いたよ。そんなこと僕には言わなかったし…正直…疑った。でもそれを言ってくれたことが…嬉しかった。とても…嬉しかったよ…でも…」
「恋敵なのに…探すのかって?」
彼が自分から自嘲気味に言った。先に言われて僕は黙った。
「…引っ掛かるからだよ」
「…え?」
彼は考えているときの目をしていた。
「手掛かりがなさ過ぎるのが反って不自然だということだ」
彼はあきれたようにつけ足した。
「フェアにやらないと今度は足首どころじゃ済まなくなる気がするしな」
彼は手で自分の首をはねる仕草をした。
「いいか、私は本気なんだ…わかるか? 君を本気で奪いたいんだ。あくまでもフェアに、な」
僕はまた心が引き裂かれそうになった。胸が苦しくて心臓が痛かった。でも、目線を外すだけで精一杯だった。
「しかし…君のお母上はなぜか私の顔に似てる気がするな」
その事をいつか話す日が来るのか? 僕にはわからなかった。
怒涛の9月でした。10月もこの調子で更新出来たら良いなぁ。次回は10月1日にお会いしませう。