翌日から個室に移されて警察の事情聴取が始まった。身体の傷の写真を何枚も撮られた。針で突き刺された傷をさらされた。その局部を写真とMRIで撮られる。次第に心が折れそうになる。彼はその日は本部での会議で、付き添ってはくれなかった。昨日の帰り際には後から来ると言ってくれたのだが…
傷の撮影で折れたあとの試練がくる。思い出したくもないあの夜のことを、吊るされて犯されて針で貫かれ、その後に死にかけたこと、事実を詳細に何度も訊かれる。関係者の顔写真を見せられ吐きそうになる。だがその中に僕の知らない人もいた。そして僕はあの男の写真にだけ、嫌悪感を感じなかった。あのあとどうなったんだろう。最後に見たあの男は警察に発砲していた。誰かを殺して逃げたのか、それとも逮捕されたんだろうか? あの男を組織から解放してあげたい。逮捕されたほうがいい。そんなことを思っている自分に、少し驚いた。
だが僕だって取り調べの結果では、覚醒剤や非合法な薬物の法律に引っ掛かるんじゃないのかと不安になる。それとも、ただの被害者で済まされるのか? 法律は全く詳しくない僕にはなにがどうなるのかは一切わからなかった。彼に聞いてみるしかない。警察には怖くて聞けなかった。そして取り調べは、その男との関係に移っていった。刑事がその写真を指さして言った。
「この男とはいつ、どうやって知り合ったんだ?」
それは…あの話をしなければならない。
「…あの…僕に最初にクスリを飲ませた売人がいて…」
「それはどの人物だ?」
写真にない。
「この中に…ありません」
名前を聞かれ答えた。
「そうか。その売人とはどこで知りあったの?」
また答えたくないことを訊かれる。
「バイト先のライブハウスで…飲みに誘われて…クスリを酒に混ぜてたらしくて…気がついたときは意識が飛んでいて…それから…何度も会って…飲んでるうちに…いつの間にか中毒になっていて…付き合うのが…やめられなくなって…そのうち…もっと強いクスリを入れられてて…もうその頃は…言いなり…でした…」
「身体の関係は?」
答えたくない。下を向いて無言でいると、担当官が聞いてきた。
「あったのかな?」
僕はうなだれたままうなづいた。
「クスリを買うようになった?」
「いえ…買ったことはないです…いつもその売人から…入れられて…ました」
「それから?」
「…客を…取らされて…ました」
「客って?ヤクの客?」
違う。
「ヤクじゃ…ありません」
「ウリ…かな?」
もういやだ。また黙ってうなづくしかなかった。
「それから?」
「…この…写真の男が客で…何度か続けて来ていて…いきなり…大金で男に買われました…それから…マンションに監禁されて…手錠で繋がれて…今度は覚醒剤を毎日打たれて…」
「そのマンションでは君はなにをされていたのかな?」
そこでも犯されていました。客にも、その男にも。何度も何度も。そう言えば終わるのかも知れない。もうやめたい。苦しい。ここから逃げたい。つらい感情とおぞましい記憶が甦ってくる。それを吐き出そうとすると、激しい羞恥と屈辱感と戦慄で、息が出来ないほどの苦痛がやってきた。思わず口を手で覆う。その部屋で起きたことを言ったら叫んでしまいそうになる。我慢していると手が震え、涙がにじんできた。
「疲れたのかな?」
担当者が僕の異変に気づく。
「ごめん…なさい…限界…です…」
囁くような声しか出ない。下を向いて耐えるしかないような苦悶。
「そうかぁ。では今日はこの辺にしようか。また近いうちに来るから、よろしく頼むよ。君の証言は大事だからね。今日はありがとう。よく話してくれた」
最後にありがとうと言われて、震えの中、少しだけ報われた気がした。
彼らが帰ったあと、僕は声を殺して布団のなかで泣いた。取り調べの中で訊かれ、話したことすべてにおいて、自分が普通じゃないことがおぞましく感じた。また来るから、と担当の刑事は言った。これを続けるのかと思うと、また胸が締めつけられるような窒息感と急な吐き気をもよおし、僕はトイレに駆け込んでいた。
便器にしがみつき、吐くものもないのにからえづきだけが上がってくる。彼に救われたのに、両親にも受け入れてもらったのに、こっちの世界に帰って来れたのに、まだ苦しい。まだ終わらない…?
それはあの事件がまだ僕の中で終わっていない証拠だった。兄が脅迫から解放されても、そのあと発作を起こし続けて長い間PTSDで立ち直れなかった、それと同じだろう。兄が立ち直ったのは兄の父親に再会したから。逢えたことで兄の父親は無実だったことを兄が理解し、そして癒され、あの人の策略が明るみに出たのだ。
そう、あのときはあの人が悪魔だったんだ。兄を陥れ、親子を引き離し、あの二人に死ぬ苦しみを味あわせた。そして僕にも。いつも不意によみがえる。目に焼きついて離れない。あの兄の部屋の光景。ロウソクがゆらめく、この世とは思えないあの光景を。
その人が今度は僕を救う。片足を失い、半生を失い、警察組織に縛られ、そしてこれから恋敵の僕の兄を救いに…あの時のように再び嫉妬と渇望に焼かれながら?
なんというカルマ。なんて正確な裁き。僕が彼のその苦しみをもし理由づけ出来るとしたら、それはたった一つ。彼に償いをしてもらうために。あのときの僕たち兄弟の苦痛の償いを。
ああ…僕はまだ彼を恨んでいるのだろうか。心の底では兄を陥れた憎しみに震えているのだろうか。僕の彼に対する想いはやはりただのストックホルム症候群、なんだろうか。
僕は兄を裏切っているのだろうか…兄を陥れた彼をまだ好きでいるなんて。でも彼を愛さなければ、僕は憎悪で壊れてしまうのではないだろうか。
だが兄はあのとき僕を許してくれた。最後に僕が彼と愛し合えたことで、僕の心が壊れなかった、そのことで兄は自分の罪悪感を相殺した。だけどそのあと、兄も破滅的な嫉妬の中に…
ごめん…兄貴。やっぱりこんなの許されない。僕はどうしたらいいんだろうか。どうすれば僕は許されるのだろうか?
「…い…おい…大丈夫か? しっかりしろ…!」
ん…なに…? 誰かの声がする。
「聞こえるか? 聞こえるなら返事をしろ!」
あ…彼の声だ。
「ん…うぅ…な…に…?」
ここは…どこ? 床が固い。僕は…なんだろうこれ…ああ、便器を抱いてる? そうだ…トイレに居たんだっけ。僕が顔を挙げたのを見たのか、彼が大きく息をついた。
「…良かった。起きたか」
「ごめ…ん…僕…寝て…た?」
彼は僕を抱き起こした。
「めまいでも起こしたか?」
取り調べのショックで自分を追い詰めて、極度に混乱してそのまま意識がブラックアウトしたのか? 多分ただ眠ってしまっただけだろう。いつも苦しいと意識を失うのはブレーカーと同じ原理だ。僕の軟弱な精神を守ってる。
「吐いてた…」
「危ないやつだな。風邪をひくぞ」
彼が僕を後ろ抱きにして立たせる。安心感が僕を包む。それからすぐ罪悪感が沸き上がってくる。こんな気持ちの繰り返しになるのか…きっとこれからずっと。
「歩けるか…?」
それでも彼の腕につかまりながら、病室まで歩いて戻った。
「病室に行ったら居ないし、担当のナースに訊いても知らないと言うし、まあ…トイレに行ったんじゃないかとナースが言うから10分待ったが戻って来る気配がないしな。仕方ないからトイレに探しに行った。彼女の言ったことは正解だったな。君がドアに鍵を掛けてなくて良かった」
彼は僕をベッドに寝かした。
「取り調べはいかがだったかな?」
僕は暗い気持ちになった。
「…心が…折れそうだった…もう一度暴行されたみたいな…気分…自分自身がおぞましくて…それで…吐いてた」
「ああ…性犯罪被害者はそうなることが多いからな。セカンドレイプというんだ」
彼は椅子に座り窓の外を眺めながら、僕を見ずに答えた。
「君のこと、気丈だ…と担当の刑事が言っていた。監禁されて犯されて殺されかけて、あれだけ薬物が入って禁断症状もあるだろうに、つじつまの合う話を聞けた…と」
彼は苦笑して軽く首を横に振った。
「奪回したとしても、発狂している可能性もある…そんな覚悟までしていた」
彼は腕を組み少しうつむいた。
「盗聴器から聞こえてきた君の声を聞いて、潜入捜査中でなければ私はすぐにでも君の状況を確認してあの部屋から救出していただろう。だがそのあと君が取引のキーパーソンになってしまった。そのことは私の可能な画策の範囲を越えていた。君が死ぬかも知れない…いや…すでにまともな精神状態ですらないのかも知れない。警察はあの部屋が見えるビルから君を監視することにした。私は出来ないからな。こちらはあの気違いサディストの殺人容疑と薬物売買の両面から県警と合同で組織に潜入捜査をしていたから、次の殺人のターゲットが君だとわかり、県警にあの部屋の監視を依頼した。望遠カメラの映像が確認のために私の携帯に送られてきた。君が本当にそこにいた…そして私は君を監禁していた男に犯されてヨガり泣くあられもない痴態を見た」
彼はいつものように淡々と凄惨な光景をためらいもなく、当事者の僕に語り続けた。僕は耳を塞ぐこともできず、身体が固まったままでベッドに横たわっていた。
「盗聴器で君の声を聞いた時と同じ、いや…それ以上に私は嫉妬と激しい欲情を同時に感じた。君の悶絶する画像を何度も繰り返し見ながら、それからの夜、ベッドの中でどれだけ絶頂を味わったことか。君はまた真っ白だった。なぜ汚れないのかやっぱり私にはわからない。あの男は君の白さに犯されて無残だったよ…苦しんで苦しんで苦しみ続けた。君をけがして黒く染め貶めているはずなのに、気づくといつの間にか君から侵食されてる。私にはあの男の気持ちが手に取るようにわかる…そうそう…」
彼はフッと笑い椅子に座り直した。
「あの男はいま県警に拘留されている。前科もあるし覚醒剤取締法違反と銃刀法違反に公務執行妨害…傷害罪それから人身売買…余罪は他にもまだあるだろう。それでも終身刑にはならないな。お勤めは長いがいつかは出てくるだろう。司法取り引きに応じればさらに刑期も短くなるかも知れない」
彼は僕にほほえみかけた。
「どうだ? 聞きたかったんだろう? あの男がどうなったか…」
彼は急に椅子から立ちあがると、ベッドに腰掛け、僕の顔の両脇にバンと両手をついた。僕の顔の真上から彼は僕を見下ろしていた。
「愛してるのか? あの男を」
彼は変わらずほほえんでいた。それが僕にはとても怖かった。彼は僕の凍りついた顔を見て嬉しそうに目を細めた。
「愛しているのか? 君があのとき私を好きになったようにね…ああ…あれはストックホルム症候群だったな。では君はまたその症候群にでもかかっているのかもな。脅されて犯されて、辱しめられても君は憎悪でなく愛する方をいつも選ぶ。君は憎悪などというドス黒い感情には耐えられないからな。君は気丈だ…それは私も認める。だけどそれは何に支えられていたから耐えられたのかな?」
言葉はとても静かだった。だが彼の目の中には激しく暗い光が宿っていた。
「知っ…て…たん…だ…」
盗聴器で聴かれ、その上映像まで…まだ彼の脳裏にはあの男が僕をベッドで激しく犯している映像が灼きついていて…
「じゃ…あ…みんな…刑事さんたち知ってるんだ…僕に…僕に訊かなくても…わかってるんだ…なにされてたか…みんな…あなた…も…」
耐えられず脱力した首が横を向いて倒れた。彼から目が反れていった。彼の長い指にこめかみが当たった。彼の指はとても冷たく、頭の中まで痺れるようだった。彼は顔色ひとつ変えず言った。
「君の証言であの映像の裏を取る。君の証言だけ…ではないがね」
彼は思わせ振りな言い方をした。そして少し首を傾げる彼の姿が目の端に映った。
「今日あの男に会った」
(もうやめて)
僕は目を閉じた。どうしようもなく切なすぎて、閉じた目に涙がにじんだ。
無事に10月です。次回は3日頃更新です(だんだん曖昧になっていく)。