「我々は必ず会うことになっていたんだよ。あの男が逮捕された時からそれは決まっていた。あの取り引きの一部始終を見た私が、あの男の供述を取調室で直接聞くというプロセスなしにこの事件の全容は調書にならない。なぜならあの取引き先のサディストの殺人罪とヤクの密売の立件がかかっているからだ。あのサディストを立件に持ち込み絞首台に送るのに、あの男の証言は極めて重要だからだ。私はあの男としばらく顔をつき合わせ仕事をすることになる。君を飼い慣らし何ヵ月も犯し続けた男とな…」
僕は目を開けて彼を見ることが出来なかった。それが僕にも彼にも、あの男にも残酷過ぎて。
「また泣いているのか? 誰のために君は泣くんだ? 悲惨で苛酷な自分の運命のためだけに泣いて欲しいな。ヘンデルの歌曲のようにね…他の男のためでないことを心から願うよ」
そして彼は唐突に黙った。ため息をひとつ吐き、冷たい指で僕の涙をぬぐった。そんなことしたら…ぬぐわれたよりもずっと沢山の涙が溢れて流れた。彼は身体を起こして僕の頭を撫でた。
「この10日間…キツかったな。君が私の前にとんでもない現れかたをして、ギリギリの選択を迫られて…足の切断なんかよりずっとキツかった。だが君の状況は私の辛さなど比較にはならない。こんなボロボロの君を責めるのは大の大人として、担当官として間違ってる。まったくただの八つ当たりなんて…でも今日は…」
彼はまたひとつため息をついた。
「今日は…少し正気じゃなかった。仕方がない。君が愛したかも知れない男と狭い取調室で一緒にいたんだ。私の嫉妬深いのは君も知っての通りだろう?」
彼は僕の頬にキスした。僕の目からまた涙が溢れた。
「あの男は…君が安全で保護されていて、ちゃんとした治療を受けられているか私に聞いた。殊勝な心掛けで感動したよ。あの子を壊したお前に知る権利はない、と言ってやった。だが君が警察に守られて生きていることは……うっかり教えてしまった…」
それを聞いて僕は彼を見上げた。彼らしくない。とても不思議だった。
「な…んで…? なんであの男に僕のこと…生きてるって…」
彼は遠い目をして言った。
「一度でも君を死なせない努力をしたから。そして逃げなかったから…かな」
そして再び冷酷な目つきに戻って付け加えた。
「あの男を殺してしまおうかとも考えたんだがね…だがやめた。とても目障りだが…殺さない。前にも言っただろう? 私は今回は正攻法に徹するって。多少取り調べでは意地悪させて頂くがね」
彼の顔に再び不穏な微笑みが戻っていた。その顔で僕を覗きこんだ。
「私の意地悪は不当かな?」
その質問が一番意地悪だ。彼は僕をあやすように話した。
「県警の話だとあの男は逃げなかったらしいよ。発砲した弾は取引相手の部下に命中した。私の潜伏先の元同僚だ。本当はあのサディストにぶちこみたかったんだろうが。おかげで奴の罪状は増えた。確実に刑期を長くするために自ら発砲した、そう私は密かに思っている。だがなにものからも逃げられないことをあの男が知ったのは評価に値するかな。私だってそれを知ったのはつい最近だけどね。やりきれない話だが受けとめなければならない。あの男も君を支配したつもりで、逆に君の白い毒で犯された。同じ毒を食らった私としては私以上に苦しんでもらいたい」
「毒…って…ひどい…な…」
いわれのない皮肉に、僕は力無く呟いた。
「おっと、そういえば質問に答えていないな、君は…」
僕が自分の毒を否定したのを見て、彼は再び僕に問いかけた。
「あの男を…愛したのか?」
その声は答えをごまかせるような響きではなかった。僕は静かに目を閉じた。ごまかすための答えは出来ない。本気の彼に嘘は言えない。だけどそれは…彼に都合のいい答えではきっとない。あの男と過ごした日々が脳裏をよぎっていく。僕は…あの男を好きだと思ったことがあったのだろうか…
戦慄するような存在として現れて、買われて殴られて犯されて、売られる前の日に愛されていたことを知り、だから僕は神にすら感謝した。そしてあの男は実際には僕より、組織を選んだ。
だけどあの先があれば…あの最後の夜のその先があれば…僕たちは愛しあった…のだろうか? 答えは…そう…答えはない。あの先は無かった。それが僕とあの男の運命だったから。
「僕たちは…始まる前に…終わった。あの男は最後の夜に僕をは手放したくないと言った。それでも組織の意志を取るって。あのひと、僕たちの未来を造らなかった。でもその先があったら…もしかしたら僕たちは愛し合ったかも知れない。でもあの男はその先を造らなかった。だから僕はその愛には届かなかった。でもあの男に好意のようなものを感じている。憎んでもいない…それに感謝してる…あんな地獄でも、僕は愛されてるって思えた。それで十分だった…彼に連れられてあの客に売り渡されるとき、僕は安堵の中に居られた。彼の存在がその時には僕の安心になってた。愛されていて苦しくて、嬉しかった。でも愛してたかは…わからない。あの錠剤のせいで、それ以上にわからない」
「そうか…」
そう言うと彼は黙ってままうなずいた。その顔が思い詰めたようで、心が痛んだ。
「…本当は…あの男…僕は殺そうと思ってた。あの部屋から出るために、僕にはもう…殺意しか…自分を支えるものがなくて。嘘じゃない…あのベッドの裏には往診に来た医者のカバンから盗んだ使い捨てのメスが絆創膏で留めてあるんだ。探してみるといいよ。まだそこに貼り付いてるはずだから。あそこは地獄だった…だけどクスリが効いてるうちはすべてが遠かった…一番救われたのは兄貴が居なくなったことを考える余地がなかったってこと。でも同時に兄貴を探しに行くことも、ただ兄貴のアパートで待っていることも…携帯を取りあげられて兄貴からの連絡があるかないか知ることさえも僕には許されなかった。だから僕はあの男を殺して逃げるしかないと考えていた。でも状況はさらに悪くなって…嬲り殺されるために僕は、あの鬼に買われることになったから。リンチされて輪姦されて死にかけた。死地に送り込んだのはあの男だ。なのにあの男は僕を助けた…売り物だから助けたって言った…でもあの男は最後の夜に僕を手放すのは惜しいって言った。その時僕はこんな地獄で誰かから愛されてた…そのことに感謝した。神にね…久しぶりに神さまのことを思い出したよ。僕はある人に期待を裏切られてから、そのことを考えたくもなかったから…」
「君は…」
黙って聞いていた彼が不意に僕に訊いてきた。
「信頼していた誰かから裏切られたとあのときも話していたな、ホテルで私の質問に答えて。それが今回の一件のきっかけのように思えるが?」
あの男のことを更に問いつめられるのかと覚悟していたが、意外にもその大元の話を彼は拾い上げた。洞察はいつも通り正確だった。
「…期待した僕が…バカだったんだ。でもその人は僕のことを前からずっと支えてくれてた。あなたから受けた苦難の日々を乗り越えられたのはその人のおかげ…でも今回は違った。僕の人生はその人にも理解出来なかった。とてもまっとうな解答をくれたよ。恨むのは僕の筋違い…だけど誰にも受けとめられない孤独に耐えられるのも限度があって…僕はもともと我慢は苦手なんだ。兄貴みたいに黙って耐えるのは僕には到底無理。僕が初めてアル中の幻覚を見たときその人が出てきた。僕はその人の幻覚に空の酒ビンを投げつけた」
彼は意外だという顔をした。
「君にも恨むなんていう気持ちがあるのか。覚えておこう。だがそんなに君から信頼された人物がいたとはね。そいつも隅に置けないな…君とはどんな関係だったんだ?」
彼の目付きが鋭くなる。彼の疑念が噴き出したような質問。僕は先取りして答えた。
「恋愛感情なんか…ないよ」
彼は一瞬固まった…気がした。
「そうか。忘れられぬ愛しい恩人…とかではないんだな。もうこれ以上闘う相手は要らないぞ。今でもすでにインフレ気味だというのに。心臓に悪い」
僕はまた顔が急に熱くなった。こんなにサディスティックでしかもズル賢いのに、こういうところだけあからさまに素直…悪魔め…
「君は悪魔に祈りを強要するほどの信仰深い人間だったのに、その人から裏切られただけで神を思い出すことすらしなくなったとはな。そういえばあの時ホテルでも言ってたな。君の兄さんの失踪が神のご意志だと言われたとかなんとか…新興宗教にでもそいつは入ってるのか? それとも君がなんたら会の会員とか?」
「…神父だよ…カトリック教会の」
彼は目を見開いた。
「そうか! 君んちはカトリックなのか! それで祈れだの何だの…」
「違うよ!」
僕はすぐさま否定した。
「ぜんぜん違うよ…部活のOBの親父さんだよ。クリスマスのライブを教会でやるんだ…うちの高校の軽音部は」
僕はあの時の不良神父との出会いを彼に話した。聞き終わって彼は神妙な顔で言った。
「私のせいか…皮肉な話だ」
「あなたが兄貴を陥れなきゃ、僕も神に祈るなんて思いもしなかったって思うよ」
彼は笑った。
「その君に祈られて私が助かったのは…あはははは…なんという伏線だ…こういう自業自得もありか…」
彼はしばらく笑っていたが、急に感慨深いような言い方をした。
「だがその不良神父にも君の苛酷な運命は受けとめられなかった…というわけか。まあ、そうだろう。確かにその神父はまっとうだ。君の期待が高過ぎたんだな。君が救われるにはさらにその上を行く大胆な神学の解釈が必要だ。それをカトリック教会に期待したら教会が可哀想だ。そんな破天荒な神父…破門される」
それが、あなた…だ。
「それが…あなた…なんだ」
「は?」
彼は不意を突かれたように聞き返した。
「僕を受けとめてくれたのは神父じゃない。ましてやあの男でもない…あなたなんだ。崖っぷちの僕を見つけてくれて、僕の未来を全身全霊で創ってくれたのは、あなたなんだ」
彼は少し茫然とした顔で僕を見詰めていた。その顔が無垢な少年のようで、僕は彼のそんな顔を初めて見た。
「だって…全部知ってるんだよ。僕のこと兄貴のこと…兄貴の親父さんのこと。それだけじゃない…僕がヤク中になって客を取らされて売られたことまで。あなたは僕がまわされて犯された声まで聞いて…あの部屋の映像まで見てるんだよ。そしたら僕はもう…あなたの前でだけはなにも隠さなくて…いい」
僕はベッドから身体を起こし、彼を見上げた。
「ホテルで…あなたに兄貴のことを聞かれて答えているうちに…僕は思い知った。この人だけは僕の苦しみを全部知ってくれるって…そう…神父じゃなくて…あなたが…」
「君は……」
彼はそう言ったまま次の言葉を探しあぐねていた。彼は僕から目を反らして、目線を床に落とした。
「なんのつもりだ? 罪悪感か…期待されても困る。私が君の苦しみを理解しているかなんて君には分からないだろう? 私にわかるのは利害だ…君の苦しみが何に利用出来るかはよくわかる」
僕は夢中で反論した。
「あなたは両親に僕の状況を僕以上に理解して説明してくれたじゃないか! さっきも僕がヤク中になったのは信頼を裏切られたことが原因だって見抜いて…僕はあなたが他人の苦しみを理解しないなんて思わない。僕は…あなたがあの地獄から救い出してくれたあとも…今も…何度あなたの援護に心と身体を救われたと思うの?」
救出という奇跡のあとに、更なる奇跡を生み出す彼。弱った僕の心と身体を支え、次々と迷宮を逆さまにたどり、出口へとガイドしてくれる羅針盤のようだよ、あなたは。そんな彼の振る舞いのすべてに僕は驚異と尊敬すら感じて。
「僕の命も心もあの時からあなたがつないでくれてるんだよ? 救い出されたらそれで苦痛が終わるなんてことはないんだ! それを一番…僕よりわかってくれてる…そうでしょ!?」
「そうだ」
彼が僕の言葉を遮った。
「ただひとつ…私が君の本当の気持ちをわかっているとすれば…それは君が本当に愛しているのは私ではなく…兄さんだ…ってことだ」
僕はその言葉に胸をえぐられた。彼は僕を見ず床に目を落としたまま、ベッドから立ち上がった。
「もう…いい…やめよう。今日は君に余計なことを言い過ぎる。本当は君には関わりたくなかった。私は…かき回されるのは好きじゃない。なぜ私の前に現れたんだろう? 君のせいじゃない。でも私は君を忘れようと思っていた。お互いのためにね…」
彼は笑いながら振り向いた。
「君を落とすなんて…ただのファンタジーかもな…」
彼は病室を出ていった。僕の胸は睡眠薬で眠り落ちるまで痛み続けた。僕は彼に苦痛を与えている。それが辛くてうめいた。彼の自業自得だと頭では理解している。あまりにも彼は罪を重ねすぎた。でも…
僕が兄のものであることは真実だ。それでは…僕は。彼が「再会すべきではなかった」という意味が痛いほど突き刺さった。きっと僕を見るたびに彼は自らの嫉妬の炎で焼かれていく。どうにかして彼に頼るのはやめなければ。でも今の僕に、それが出来るんだろうか。
どこまでこのペースで更新できるか不明ですが、取り敢えず次回は10月5日頃更新です。がんばれ俺(←誰も頼んでない)。