その夜から彼は僕の病室に姿を見せなくなった。僕の薬物の離脱症状は(禁断症状を医学的に言うと離脱症状というらしい)まだかなり残っていたが、彼の指定した何種類かの錠剤とカプセルと毎日決まった時間の点滴(担当医は大量のビタミンB群とミネラル…DHA…その他色々とか言っていたが)、それらを続けているうちに泣きわめくほどの苦しい離脱症状は、だんだんと日を追うごとに治まってくるのがわかった。頭の中が少しずつはっきりしてきて、散漫だった集中力も少しづつ戻り、痩せ衰えた身体もゆっくり回復を見せていた。彼がいないことを除けば、僕の身体と精神は少しずつだが正気の方向を目指しているのを、自分自身実感していた。ただ彼に逢えない淋しさに苦しむ夜は耐え難かった。
昼には警察の聞き取りがあったが、捜査班に映像まで見られているのがわかっていたので、僕は半ば開き直ることが出来た。もう吐かないし、トイレで気を失うこともない。残酷なシーンを淡々と話せる自分が、開き直りとはいえ不思議だった。
彼が来なくなり4~5日した頃、僕は耐えきれず担当の刑事に彼の状況を聞いてしまった。そんなことは答えてくれるわけもなかったが、忙しいことだけは教えてくれた。僕は彼に連絡するすべがない。仕方なくその担当の刑事に、薬が効いていて苦しいのが少しずつ良くなってると伝えて欲しい、と言った。すると刑事は、それは彼は良く知ってるよ、と言った。なぜですか? と尋ねると、向こうが終わったあと君の担当医とカンファレンスにここに来ていると言ってるが…会わないのか? と。
来てるんだ…でも顔を見せてはくれない。
無理もない。多忙な上に精神的な負担は絶対に避けるべきだ。責任のある緊張を強いる仕事だ。判断ミスは命取りだろう。僕に関わらない方がいい、そう自分にも言い聞かせた。胸が詰まって涙が出そうになるのを必死でこらえていた。
それでも夕方回診に来た担当医に、たまらず彼が来てるのか聞いた。担当医は普段通りの顔で、カンファレンスに来ていると答えた。毎日ではないがね…彼は厚労省のプロジェクトで、各種の薬物の離脱症状の緩和と対応の臨床をいま組み立て治しているところだ。我が国のそういった分野は遅れてる。彼は欧米の成果に詳しいから、抜擢されて私と組んでいるんだ。日本の患者は海外の患者とは違った固有の状況がある。まずはデータを集めて現状を把握するところからのスタートだが。彼は同時に新たな投薬プログラムを新しい入院患者に試し始めている。君はその1号だ。来られない時もデータは彼のPCに逐一送信しているからね。容態が変わるようだったら、すぐ連絡することになっている。彼は慎重だしアプローチは斬新だ…まあ実験台だとは君も聞いてるね。滑り出しは今のところ問題ない。多分良いデータが取れると思う…彼から直接聞きたいかな? 僕は「いいえ」と答えた。彼がとても配慮してくれているのが良くわかり、それが切なかった。
いま彼に会っても言葉がない。彼から皮肉を言われるのが落ちだ。いや…皮肉ならいい。本当のことをストレートに言われて、僕はまた悶え苦しむ。それは彼も同じだろう。今は実験台でいい。彼のプロジェクトの役に立てればそれで今は良いと、刑事や担当医の話を聞いて思った。今はそれしか出来ない。良い患者としてここにいるしか。
夜中に悪夢を見て目が覚めた。内容はよく覚えてない。ただ気持ち悪い感覚を、ひたすら我慢しなければならないというような雰囲気だけが脳裏に残留していた。目覚めても嫌悪感が身体に残り、とても落ち着かない気分で僕は両手で自分の肩をつかみ、ベッドの中で身体を縮めて固まっていた。最近は彼の選んでくれる眠剤がよく効いているせいか、夜中に起きることはなかった。意識はあるがとてもモウロウとしていた。夢と現実の区別がないみたいに。いま何時なのかはわからない。記憶はそこまでだった。
冷たくて…ぬるい…どこにいるんだろう…ここは…どこだろう…
わからないな。座りこんで足を投げ出して、壁にもたれてる…のかな…
足が冷たい…濡れてるみたい…手首がぬるい…痛い…どっかが…痛い…
起きなきゃ…目が開かない…眠い…な…このまま寝ようか…
痛い…なぁ…
そのあとどれくらいたったんだろうか。僕はなんだか固いベッドに寝ていた。僕は薄目を開けた。
(ああ…意識が戻ったようです)
ナースの声がした。
(…を呼んで来て下さい)
担当医の声。少しすると誰かが僕の顔を覗き込んだ。
「目が覚めたか…?」
彼だった。僕はうっすらうなずいた。
「自分でやったのか?」
彼は不思議なことを尋ねた。何をしたのかな? 僕は質問の意味がよくわからなくて何も言えず彼を見上げていた。
「まだ話せる状態じゃないでしょう」
担当医がとなりで言っている。ここは…処置室みたいだ。
「話せるかな?」
担当医は僕に尋ねた。
「…あ…」
はい、と言ったつもりが、言葉が思うように出なかった。のどがカラカラだった。何がどうしたのかよくわからない。でも久しぶりに彼の顔が見れたことが嬉しかった。
なんか僕…やったのかな…まだ夢を見ているようで……再び僕の意識はだんだんと眠りに吸い込まれていった。
不意に意識がぼんやり戻った時には、いつもの柔らかいベッドに寝ていた。処置室から個室に戻されたらしいことがわかった。僕の意識はあまりはっきりせず、寝てるか寝ていないかわからない時間が過ぎていった。
何度かうつらうつらし、何度か意識が戻ったとき、横を向くとベッドの横でノートパソコンを開いて彼が仕事しているのが見えた。彼は側にいてくれていた。彼は仕事に集中しているように僕には見えたが、僕が彼を見ていることを彼はすぐに気づいた。
「起きたのか?」
「…ボーッとしてる…」
彼は表情を変えずにまたPCに向かってキーを叩き始めた。
「あれだけ出血したんだ…少し回復に時間がかかる…」
「出血…したの…?」
彼はふと僕の顔を見た。
「したどころじゃない…覚えてないのか?」
「……え…なにを?」
しばらく考えてから僕は尋ねた。
「本当に覚えてないのか?」
「僕…なにか…やらかした…の?」
微かにある記憶は、悪夢を見て目が覚めかけたこと、そのあと壁にもたれてたこと、どこかが痛かったこと、それくらいだ。僕は彼にそう答えた。
「…わかった…本当に覚えていないようだな」
そして彼はPCを畳み、僕の方を向いた。
「右手を動かせるか?」
彼が椅子から立ち上がり、ベッドサイドに立った。左手は点滴が挿してあるので動かせなかった。右手を掛け布団から出そうとしたとき、僕は右腕に鋭い痛みを感じた。
「あうっ…!」
「ああ…もういい。動かすな」
彼は掛け布団を少しめくると、僕の右手を下から手のひらで支え、僕が見れる高さまでゆっくり上げた。包帯でミイラみたいになった右手が僕の前に現れた。手のひらから肘までぐるぐる巻きで…
「……なに…これ…」
僕は思わず呟いた。
「何針縫ったんだか…」
彼は僕の腕をそっと下ろし、掛け布団をその上に戻した。
「これ…僕がやったの?」
「多分な…誰も見ていないから状況証拠しかないが」
例のサディストの部下の報復や、口封じの可能性もあるからと警察は事件性があるかないか現場検証をしたらしいが、血液型は僕のものしか出なかったし、指紋も僕のだけで争った形跡はなく、今の段階では僕の自傷しかなく、僕の意識の回復を待ってからの聞き取りを予定しているという。
「明け方呼ばれて驚いた。君の容態はこのところ安定していたし、寝耳に水とはこのことだ。君が処置を受けている間にここに来た。殺人現場みたいだったぞ…床と壁にべったり血糊が着いて、花瓶が割れて水と花がばらまかれていて…その水が赤く血で染まっていて…私にはたまらない光景だったがな。君がその壁にもたれて血まみれの両手から滴る血溜まりに座り込んでいるのを見られなかったのは本当にとてもとても残念だったが…誰か写メでも撮ってないか聞いてみなければ」
彼は冗談とも本気ともつかない事をいつものように平然と話した。
「…そんなこと…したんだ…ぼく」
母が見舞いに持ってきた花と花瓶を僕はサイドテーブルから落としたのか? 偶然なのかそれとも故意だったのか。
「…両手を…両腕も…割れた花瓶のカケラで切った…のかな。僕が自分で…?」
僕は壁にもたれて座り込んだ記憶の冷たさとぬるさを思い出した。冷たかったのは花瓶の水、ぬるかった手首は…血液。自分で切り裂いた傷が痛んでいた…そう…だったんだ…
「君は割れた花瓶のガラスの破片を両手に握って気を失っていた。失血がひどかった。左手の動脈が傷ついていて脈拍にあわせて血が間欠泉のように噴き出していたそうだ…」
彼は陶酔したような遠い目をしながら僕にその状況を説明したが、不意にチラッとこちらを見た。
「ということは、あれもやはり自傷だったのか?」
あれ…って? なんだろう。
「君に初めて逢ったとき、君の手首には深い傷があった。私に閉じかけた傷口をこじ開けられたのを覚えているだろう? 一方時を同じくして君の兄さんにも手のひらに同じような深い傷があった。君を止めたに違いないと私は思った。君には自傷癖があるのか?」
自傷癖…僕は指摘されて初めて気づいた。今回の記憶はないが、もしそうなら僕はこれで2回目のリストカットになるんだといえる。でも自殺したいなんて思ってやったことがあっただろうか?
「なんであの時君は手首を切ったんだ? 間違えて切ったわけでもあるまい」
あのとき僕はなぜ手首を切ったか? そうだ。それは今でもありありと思い出せる。だから言いたくない。
「聞きたい…の…?」
僕は彼に尋ねた。
「あまり…聞かせたく…ない。あなたが傷つくから…」
「構わない…言うんだ」
彼は命令のように僕を促した。
「でも…いやだ」
「私のことはいい。今後の治療に影響するから厄介なんだ。話せ。さもないと…」
いきなり彼は僕の顔に右手を伸ばし、痛いほど顎と頬を掴んだ。話さないなら顎を砕いてやるとばかりの有無を言わせぬ口調と指に込めた力に促され、僕は口を開いた。
「あのとき…僕が手首を切ったはただひとつ…兄貴が去るなら僕には生きてる意味がない…だから死ぬよ…ってこと…それは僕が死のうとしていたわけでは決してない…兄貴のいない世界が『死』を意味することを兄にわかって欲しかった。衝動的な絶望感もあった。だが僕は兄を失いたくなかった…だからあれは捨て身の抗議だったんだ。死のうと思ったわけじゃない。僕は兄貴を死で脅迫した。でも…兄貴はそれを自分の手でカミソリを握って止めた…そして僕と別れると決めたことを守り通した…」
そこまで聞くと彼は手を離し、静かに椅子に座った。そして足を組み目を閉じた。
「続けろ」
僕はもう続けるしかなかった。でも、ここで言ってしまいたかったとも言える。
「…絶望感…だった。兄貴が僕を…拒絶した…いや…違う…兄貴はこう言いたかったんだ…俺に構わずここから逃げろ…そう…せめてお前だけでも、呪われた廃墟から逃げろ…俺はもう戻れないからって。『お前はノーマルなんだ…だからまだ引き返せるんだよ』って兄貴はそう言った。兄貴は僕が引き返せると思ってた。兄が引きずりこんだと思っている、呪われたなにも積み上げられない賽の河原の世界から僕がまだ引き返せるって。だから兄は僕と別れようとした。だから兄はあなたに抱かれ続けたんだ。罪を罰であがなうような…まるで磁石が引き合うように僕には見えてた。でもあなたの存在はあのアパートの二人を見てあとから知ったことだけどね。あの時あなたと兄貴は引き合ってた。僕なんかよりずっと。あなたの鞭が兄貴を罰する度に兄貴は安らかに微笑んでた…僕の存在は兄貴を苦しめてた。罪悪感を解放してあげてるあなたに、僕は嫉妬した」
長く話過ぎたのか、少し疲れを感じた。喉が渇いて声もかすれていた。
「水…もらえる?」
「あ…ああ」
彼はワゴンの吸い口を取り、両手の使えない僕の口に入れてくれた。
「ありがと…ごめん…もう言わない」
「…疲れたか?」
一気に吸い口の水を飲み干しすと、彼は少し詰まりながら僕の身体の調子を聞いてくれた。僕は黙ってうなずいた。
「あの傷のことは分かった。去って行く者を振り向かせるためのパフォーマンスか。だが君の兄さんはそれに応じなかった。作戦失敗のあと君と兄さんはどうしたんだ?」
また彼は僕にしゃべらせようとしていた。僕は手首を切ったあとなにをしたのか? 記憶が甦る。そうだ、あのあと、予期しないことが起きたんだ。
「…不意に…電話が鳴った。病院から…兄貴の親父が吐血して危篤だと連絡が入った。僕たちは傷口をハンカチで縛ってそのまま病院に急行した。その日…彼…亡くなったんだ」
彼は下を向きため息をついた。
「君の忠告を聞いておけばよかった。ヤブ蛇だったな…まるで蛇の大群に襲われたカエルみたいな気分だ」
「ヤブ…蛇って?」
「自分で調べろ」
彼はその質問に答えてくれなかった。彼は静かに椅子に座った。まるで心を揺らさないかのように、とても静かに。
「それで…彼の葬式の後も、僕は兄貴を取り戻せなかった…兄貴が喪ったものの大きさを思ったら…僕は兄貴を追い詰めることが…出来なかった」
さっきまでとは違って、僕は彼に促されることもなく続きを自分から話していた。今まで誰にも話せなかったことを、ただひとりわかってくれる人に、そしてそのことで一番傷つく人に…
「僕はいつもあいつ…兄貴の親父さんに嫉妬してた。僕は兄貴の親父さんには絶対に勝てない気がして…だって兄貴…物心つく前から…なんにも知らないまま……兄貴の身体にも心にもあの人が刻みこまれて…」
「血には勝てないとでもいうのか。君自身が血を分けた兄弟だろうに」
脱力した声で彼が呟いた。
「あの二人は…親子の血…だから…」
僕はまた喉が渇いてくるのを感じた。心の底に眠ってるぬぐえない不安。兄の父が亡くなってから忘れていたこと…
「父親も母親も同じ兄弟なら、あの人に対抗できたのに…って思ったりした。でも僕たちの血のつながりで兄貴が苦しんでいるのを見ると、僕の気持ちには父親だけでも違っていて良かったとも思えた。半分他人なら罪も半分になるかなって。でも他人ならどれだけ救われただろう…そして異性ならもっと…」
「無い物ねだりだな君は。彼だから愛し合ったんだ…君の兄さんもそうだ…」
「でも…兄貴の親父さんはそれで兄貴を苦しめた。兄貴だけじゃなく母さんも…僕も…ね。だから兄貴を幸せにできるのは…他人なんだ。なのに僕はやっぱり血で兄貴を苦しませた。いなくなったのはそれに耐えられなかったからかも知れない。もう兄貴は自分を許してたと思ってたのに…あなたの言った通りだよ。僕たちの血は…呪われてるんだ」
それは兄にも言ったことのない僕の中の思いだった。彼は虚ろに答えた。
「…特殊なケースだとは認める。だが、当事者ではわからないもんなんだな…第三者の私には明白なのに」
彼はそのままの形で固まっていた。
「呪いならまだ救われる。だが君らの結びつきは…」
彼はそこで言葉を切った。
「…もういい…さすがにもうこれ以上私が聞きたくない」
彼は悔しげな顔をした。
「それで…?」
しかし彼はまだ何か僕に尋ねるつもりでいた。
「今回は…なぜだ?」
彼の口調に怒気を感じた。
「今回も君は失敗したな。兄さんは君が命を掛けても戻らないようだ。それとも君は、絶望のあまり本当に自死しようと思ったのか? あの地獄から私が連れ戻したのに?」
それを聞いて僕は凍りついた。違う。いま取り戻したいのは…戻ってほしかったのは…
「ごめんなさい…僕は…僕は…」
僕が、逢いたかったのは。
…次回予告忘れてました。次は7日更新予定です。