夜中に悪夢を見て目が覚めた。内容はよく覚えてない。身体の中から嫌悪感がにじみ出して、全身をかきむしった。苦しい…この焦燥感…しばらく忘れてた。堕ちていく。深い谷底に吸い込まれて。さびしい。とめどなくさびしさがあふれだす。
受けとめて…誰か…此処に来て…抱いて……そのとたん、嫌悪感の渦が僕を巻き込む。兄の顔が僕を責める。
(裏切るのか? 俺を…)
耐えられない。身体を固くして縮こまる。胎児みたいに。布団に頭まで潜り込み、固く目を閉じる。そうやってあの軽薄なヤクの売人に騙されて抱かれて、ここまで堕ちた…のに。さびしい。変わらない。犬みたいに電話を待ってた、あの時のまま。そうやって堕ちた地獄から、奇跡みたいに救い出してくれた彼を傷つけて…
彼に…逢いた…い…もう独りは…イヤだ…
でも…彼を苦しめる…僕の存在が…
彼も…兄も…
僕がいるだけで…苦しむ…
そして去って行くんだ…
(君のデータは彼のPCに逐一送信しているからね…容態が変わるようだったらすぐに連絡することになっている)
容態が…変わったら…僕がもっと…苦しんだら…あなたは来てくれるだろうか…もう…生きてたく…ない…でも…死ぬ前にもう一度…一度でいい…あなたに…逢いた…
そこで意識が途切れた。
思い…出し…た。その記憶に僕は息が止まった。彼はゆっくりと僕を見た。僕の唇は震えていた。
「思い…出した…そうだよ…あの夜僕は…本当に死にたかった…だってみんな…僕のせいで苦しんで…傷ついて…だから…そばに居ては…だめ…僕のそばに居ちゃいけないんだ…さびしくても…僕は…独りでいなきゃ…でも…凍るほどさびしくて…辛くて…独りでいるくらいなら…死んだ方がいいって…思った…ここで死ねば…死ぬ間際には…もしかしたらあなたが…そばに居てくれるかも知れない…って…何かあったら…担当の先生があなたを呼ぶって…!」
言ったとたん、彼の来てくれなかった時間の孤独と苦しさが堰を切ってあふれてきた。むせぶように僕は泣いた。嗚咽が止まらなかった。
「あなたが僕に逢わない方が良かったって…わかってる…逢いに来ない方が互いのためなんだ…僕は兄貴のものだ…裏切ることは出来ない…でも…」
心が引き裂かれる。激しい胸の痛みが背中まで貫く。息が出来ないくらいの苦痛。
「あなたが…好き…なんだ」
やっぱり死にたい。僕が悪い。人間として…クズだ。彼のこと…見れない。兄貴…ごめんなさい。僕がズルい。弱すぎて吐き捨てたくなるくらい。
「逢いたかった…ごめんなさい…僕が…ぜんぶ悪い…」
彼は椅子から立ち上がった。行ってしまうんだ、やっぱり。でも…お願い…そうして。僕に応えないでくれたなら。
だが立ち上がった彼は、僕のベッドの端に腰かけた。
「…悪かった…泣くな」
僕は驚いて彼を見上げた。
「もう…泣くな。泣いてるのを見ると欲情する…」
彼は普通に言った。
「な…なんで…なんで謝るの…?」
僕は泣きながら彼にきいた。彼は渋い顔をして言った。
「自分が腹立たしくて…君に逢いに来るのをやめたから。私を精神の支柱にしているとわかっていて、こんな年下の…しかも離脱症状のリハビリ中の君を放置した。その結果助けたはずの君を死なせるところだった」
「僕が…傷つけたのに?」
彼は信じがたいと言わんばかりに天井を見上げた。
「バカか。君はなんでこんなに淫乱なのにそんな聖人みたいな理想を自分に課すんだ? 潔癖すぎて呆れる。淫乱じゃなくてもこんな時に普通の人間は正気でいられるわけがないだろう? 負わなくていい責任を負うのをやめろ」
彼はティッシュを取り、僕の涙やら鼻水を拭いてくれた。手が使えないことを僕よりわかってくれてる。
「…正直…君の話を聞くのはとても辛い。君の兄さんが隣に見えるようで…まあ…当たり前だ。当たり前だが実際聞くと身体が震える。君を落とすなんてそれじゃ無理なんだが…私は子供なんだ。真っ当な大人などになれるわけがない。不愉快には耐え難いし、だが欲しいものは欲しい。そして君にはなぜか優しくしてやりたくなる…この葛藤はとても激しい」
彼はため息をついた。そして点滴のつながった左手を包帯の上から指でなぞった。最近、彼はため息ばかり付いている。
「この包帯を取ってしまいたい。君が私に逢うために切り裂いた傷が見たくてたまらない」
彼はそう言うとベッドに深く座り直した。彼の顔が僕に近づく。だめだよ…そんな…至近距離で…僕がうろたえるのも構わず、彼は耳元に口を寄せて囁いた。
「淋しいなら埋めてやる…なんなら君の罪を肩代わりしよう。無理やり犯されたと言えばいい。君は無垢のまんまだ」
その瞬間、僕の唇は彼の唇に塞がれていた。それは頭の中が痺れるようなキスだった。
「…んっ」
思わず吐息が漏れる。僕の唇を唇で軽くなぶりながら彼は話し続けた。
「君が死ななくて良かった。殺人鬼に君を渡したあの男の気持ちが良くわかる。だがなんのために君が自傷したのか…私のことを本当はどう思っているのか…私は君たち兄弟に都合の良いただのアドバイザーなのか、それとも違うのか…それを知るまでは…」
彼はもう一度深く口づけた。
「だがそれで今はいい。とりあえず私が大人になろう。君に愛されてるなら、多少は耐えられる…たとえそれが二番手であろうともね。大人になるというのは厳しい選択なんだな。我ながら損な役回りだ。だが君のためなら…なぜか少しは我慢しようと思う。私も焼きが回ったもんだ」
涙を彼の唇でぬぐわれ、低い囁きで耳が痺れる。僕は痛みで動けない身体で悶えた。だんだん激しくなるキスの中で、彼がうわずった声で僕に求めた。
「もう一度…言ってくれ…私が好きだと…」
一度も聞いたことのない、あまりにも無防備な彼の声。こんなに傷ついていて、こんなに飢えていて…そんなあなたに僕は約束すら出来ないのに。
「好き…だよ…あの日から…別れた日から…ずっと。僕は…ズルいんだ。でも兄貴の他に…好きになった人は…あなただけだよ…」
彼は顔を離し僕の目を見た。
「本当か…」
僕は彼の目を見ながら黙ってうなずいた。そのあと彼は僕の両腕の包帯を躊躇なく取っていった。手首の上から肘の下までガラスの破片で切り裂いた無数の傷。赤黒く変色した血が、陰惨に傷を浮かび上がらせていた。自分でこれをやったとは到底思えなくて、この傷が本当に自分の皮膚に刻まれているという実感がなかった。彼はそれに目を細めた。それは痛々しいからか、それとも愉悦からかは僕にはよくわからなかった。
彼はすべての傷口を指でなぞった。縫合した糸が彼の指紋にこすれてひきつれるのを感じた。彼はやはりこらえきれずに、いきなり僕に断りもなく浅くて縫い目のない傷を爪で開いた。僕のうめき声に、ああ…と彼は快楽の吐息をついた。僕はなぜかやめてとは言えなかった。そのかわりに、それ、止められないの? と痛みをこらえながら訊いた。不可抗力だ…と彼は答えた。この糸だって抜きたい。皮膚と糸が摩擦してつれるあの感覚、その糸の穴から血が点々とにじむ様を…ああ…見たい、と、恍惚とした顔で彼は赤黒く血の固まった糸を爪で弾いた。
「やめてっ!」
僕もさすがにそれは止めたが、彼は諦めないつもりのようだった。いつかまたな…と。だが実はそんな痛みや彼の指使いに僕は密かに欲情していた。いや…もうその前からキスでたまらなかったのだけれど、彼はそれを難なく見破っていて、ゆっくり掛け布団を剥いだ。まるで僕を辱しめるように。
嫌がる僕のパジャマを下ろし、身をよじって逃げる僕の腰を両手で容易く押さえつけ、僕の欲情したそれは露になり、彼の目の前で固くなり脈打っていた。羞恥で真っ赤になる僕を彼は意地悪く視姦していた。こんな状態で放っておかれたら、苦しいだろう? そんないやらしい身体で…両手は使えないんだから、興奮させた責任は取るから…出すんだ。
僕は点滴の針で拘束されたまま、静かに彼の愛撫に狂った。胸を舌で犯され、声を上げそうになりながら何度も彼の口の中に出させられた。傷だらけの腕で彼を抱きしめたかったけど、両腕が動かせないまま、僕はなすすべもなく彼に身を委ねた。手錠も良いが…こんな拘束も良い。そう言いながら彼は後ろの穴に指を挿れて更に僕を追い込んでいった。急所を知り尽くした指が、僕をドライのまま際限なく狂わせた。最後に彼は僕の傷の写メを撮った。カルテの添付用と、プライベート用を撮り分けて、今夜のオカズだ…と言って彼は楽しげに微笑んだ。また表に出せない画像を撮られた。不安げな顔をしていると、彼は携帯をたたんでしまいながら、大丈夫…ただの記念だ。脅迫したりしないよ…と言った。私が誰かから愛されている、その証しだ。永久保存にする。誰にも見せやしない。私だけのものだからな、と。僕はまた泣いた。彼は、バカだな君は、と言ってまたキスした。そっと…僕の額に。
その日から彼は、毎日1回は僕の顔を見に病室に来てくれるようになった。機嫌の良い日も悪い日もあっても話はいろいろした。たぶんあの夜の自傷はフラッシュバックの影響もあるだろうと彼は推測を語った。
「覚醒剤はそれがあるからな。一筋縄ではいかないんだ。それで更生したはずの患者がまたヤク中に戻る。周りの支援と理解…それにかかっていると言っても過言ではない。自分独りでの更生は至難の技だ」
彼は少し厳しい様子で付け加えた。
「君の心の中の問題はまだ少しも解決していない。それは少しの心の揺れが事件を引き起こすことにつながることを暗示している。監視態勢を強化する必要がある。証言の聞き取りが終わるまでは特に要注意だ」
あなたがこうやって来てくれてたらきっと大丈夫…僕はそう思った。でも彼はいまとても忙しいんじゃないかな…僕は彼のことも少し心配になった。
「いま忙しいんでしょ? 僕がこんなにあなたの時間取ってて…いいのかな…」
彼は少し疲れて見えた。
「ここに来るのは息抜きみたいなものだ。それとも私が来ない方がいいか?」
僕はあわてて否定した。
「そんな…! 違うよ…来て欲しいけど…忙しそうだからあなたが疲れてるみたいで」
「私の機嫌が悪いからか? 付き合いきれなくなったか」
「違うよ…大変な仕事してるんだって聞いてるから…疲れてるのに僕のお守りは大変だろうかって」
彼は首を横に振った。
「なんだ、わかってないな。ここでさぼっているのに。疲れてるから逢いに来たいんだ。憩いの場を奪うな」
彼はちょっとホッとしたような顔をした。来てほしくないと言われたと思ったのだろうか。変な気の遣い方は誤解のもとになると感じた。
「そろそろ抜糸だな。傷口がふさがっているといいが…リハビリが遅れると痛くて厳しいからな」
彼は少し憂鬱な感じで言った。彼の話では薬物中毒患者はふつうとても傷の治りが悪い。免疫が落ち細胞の再生力も低下して小さな傷でも塞がらなくなるらしい。僕は栄養状態もかなり悪かったので、特に深く切った左手は厚い包帯でミイラのようにぐるぐる巻きに固定されていた。下手に動かすと傷が開き兼ねないと。普通の外科処置の患者とは違って、左手は指先も動かさないようにスポーツ用の固いサポーターで固定。日常のことは不便でも右手一本で過ごさなければならなかった。関節を動かせないので、傷が塞がったらすぐに、固まった手首や肘、指の関節をリハビリでほぐさねばならない。傷の治りが早ければ早いほど、関節の柔軟性が失われない。だが、そんな状態で、初日にすでに包帯を外して犯されていたとは、細心の注意を払って包帯固定してくれた担当の先生に、申し訳ないとしか言いようがないが。
「抜糸に立ち会えないのだけが残念だ。私が抜きたかったのに」
ビョーキだ。本物の傷フェチなんだろうなこの人。彼が獲物を狙うオオカミみたいに僕の包帯の巻かれた腕を見てる。
「包帯取らないでよ?」
「包帯取っていいか?」
僕と彼が同時に口を開く。はぁぁ。やっぱりそうだったか。
「一ヶ所くらい良いだろう? 抜いても減るものじゃないし」
「減ります…絶対減る」
「断固反対か」
「反対だよ…油断もスキもないな。治らなかったらどうするの?」
彼は苦笑して言った。
「君はいつもスキだらけだよ」
…そのとおり…だけどさ。不意に右手を握られる。
「傷が治らないなんて夢のような状態なのに、私は君の傷がちゃんと再生してるか心配になる。でも閉じなくなってしまった傷に舌を入れて君が痛みで叫ぶのが見たい…ああ、想像するだけで欲情する。ツラいところだな…趣味と実益が解離してるなんて」
アンニュイにため息をつく彼を見て、僕は認識を改めた。さっきの憂鬱な感じはそれなの? 憂鬱そうな彼は変な葛藤を抱えて、僕の包帯を指先で弄んでいた。
次回は9日あたりに更新です。