302号室の戸口で、僕は絶句したまま立ち尽くしていた。それは僕には到底受け入れがたい…そんなこと…
そこに、兄が居た。正確には兄にそっくりの男が。僕が憎み続け、心の中に刺さった抜けないトゲのようなその男が、兄と同じ風貌で、白いベッドに横たわって、老いて、やつれて痩せこけて。
兄の内気な陰翳、端正な口元、優しい悲しげな眼差し、母に似てると思っていた兄の目は、それよりもこの男に似ていた。
(なぜ…?)
僕は堪らず心の中で訊いた。なぜ…兄を苦しめたの? 血を分けて、こんな、兄に似た優しい目をして。僕の目から涙があふれた。卑怯だ…こんなのってあるかよ。
あいつはベッドの上から僕をじっと見た。そして少し驚いたような声で僕に問いかけた。
「君…もしかして…?」
「……」
僕は無言でうなずいた。声は出なかった。
「お母さんに…似てるな」
彼は少し微笑んだ。そして少し虚脱したように、静かに目を閉じた。
「あいつは来ないだろうな。ま、当たり前だ」
彼はそのまま続けた。
「君がメッセンジャーかな? あいつはどうしてるんだ…去年の秋からぷっつり来なくなって」
そう言うと彼はこちらをチラと見た。兄が父親には連絡をしていない。それがわかった。自分の妄想に恥ずかしさがこみ上げてくる。同時にこの男の悪びれることもない口ぶりに憎悪が沸き起こってきた。
「何でって…」
怒りで何を言っていいかその後が続かなかったが、それが僕がこの人の前で初めて発した言葉だった。
「俺が入院した日から来ない」
入院? この人は何を言ってるんだろうか? 自分がしたことをわかっているんだろうか?
「夜中にいきなりだったから、しばらく連絡もできなくてさ。昏睡してたらしいし…気が付いたらICUだしな…」
なに? と僕は変に思った。なんだろう…兄の話とズレてる。
「もう一度吐血したら助からない…らしいからな…これで二度目だ…胃の中を固めて止血してるらしいがあまり動けない…動く気もないが」
そう言って彼はぼーっと天井を眺めていた。
「病院なんかに来たくなかったんだが…知り合いが救急車呼んじまったからな…あのまま死んだ方が良かったかもな」
彼はまた目を閉じた。僕は聞いたことと食い違う話を聞きながら、何かとても不安な気持ちを覚えた。なぜ兄は父親の入院のことを僕に言わないのか。なぜこの人はこんなに平然と僕に話をしているのか。理解出来ない。もう訊くしかない。訊いて確かめるしかない。あの日起こったことが、この人のせいなんだということを。
怒鳴って怒って叩きつけていいはずの言葉を、なぜか僕はためらいながら彼に投げ掛けた。
「あの…ひとつ訊いていいですか」
言ったそばから僕は自分のヘタレっぷりに失望した。なんなんだ僕は。すると彼はすぐに僕を見て言った。
「なに? いいよ」
「あの…借金で…困ってるって。…あの…あなたが借りた金を、兄が…返してた」
「は?…な…なんだって?」
驚いたことに彼はその話を、全く唐突に初めて聞いた、というように聞き返した。
「借金って…どっからそんな話…」
この人は嘘つきなんだろうか?
「借金ですよ…兄が言ってた…薬代もないって…あなたの代わりにやつらに返すしかないってあなたの代わりに…わかってんでしょ? 兄貴…何されたか…わかって…」
「どういうことだ? それ…」
彼は僕の顔を見ながらそう言って絶句した。
「…どういうこと?」
僕は言いながら背筋が冷たくなった。演技なのか…本当なのか…意味がわからなくなった。
「どういうこと…?」
彼が絶句したままなので、僕はバカみたいに二回繰り返した。彼はようやく口を開いた。
「借金…って…誰があいつにそんな…でたらめを…」
「…でたらめ?」
「誰から聞いた? 誰が何を言った」
恐怖に満ちた顔で彼は僕に問いただした。その顔はまるで幽霊を見たような戦慄に満ちていた。僕は言葉を失っていた。ただ彼と同じ恐怖と、僕だけにしかわからない怒りが胸に渦巻いて増大していった。
知らない。知らないんだ。なぜかわからないけど、この人はなにが起きていたのか、知らない。兄は彼が全てを起こしたと誰かに聞かされ信じた。僕もそれを当たり前に受け取った。だけど…だけど…この人は、知らない…!
わからない。なにがおきてるのか。なにが起きたんだ? なぜ話が違う。なぜ二人の話が食い違う? 誰かが嘘をついてる。じゃなきゃこんなわけのわからないすれ違い起こらない。ただの勘違いや誤解のレベルじゃない。これは…そう…悪意がある。まるで罠のような。誰が一体そんなことを? なんのために、なんの理由で、なぜ兄が、なぜ?
彼は僕をじっと見詰めていた。僕は彼の目を見ながら、僕にやらなければならないことを今すぐしなければならないと思った。
「今から兄貴…迎えにいきます」
僕は彼にそう告げた。嫉妬を凌駕するほど、事実は切迫していた。彼は黙って僕に頷いた。
病院を出ると外はまだ小雪が舞っていた。しんしんと冷えた空気を蹴るように走り、真っ白い息を吐きながら僕はバス停に向かった。
病室を出る時、彼は僕に尋ねた。君…迎えに行くのか? あいつはこの病院知ってる。電話で呼びだせばいい…と。違うんです…僕は上着を着ながら彼に言った。いま兄貴は一人で外出できないんだ。彼は驚いて僕に訊いた。体が悪いのか? いいえ…体じゃないです。兄貴…心が。心? はい…だからこのままじゃ兄貴…僕は口をつぐんだ。彼も僕を見たまま黙りこんだ。僕はそのまま病室を飛び出した。僕もそれ以上話せなかった。話したら僕が壊れてしまいそうで。
兄貴に…なんて言おう。携帯見たこと謝らなきゃ。すべてが重苦しい。僕は兄に話をするべきか否か迷った。兄が発作を起こすのが怖い。兄が彼に会うのを拒否するかも。でもだまして連れ行くなんて出来るわけがない。正直に話すしかない。でも…どうやって?
電車の中ふと見ると、セーターに緑色の面会バッヂが着けっぱなしになっていた。受付の人に忘れず返却しろって言われたのに…忘れた。面会バッヂは今日の出来事が夢でも妄想でもないことを静かに物語っていた。僕はそのバッヂを指で触った。ああ…あそこにもう一度戻るんだ。僕に根拠のない確信が生まれた。きっと兄も一緒に。僕はお守りのようにバッヂをセーターに着けたまま、右手で握りしめた。
数時間後、僕はまたあのバス停に降り立った。兄と二人で。
兄は全く拒絶しなかった。僕が驚くほど。僕のしどろもどろで要領を得ないめちゃくちゃな話を、静かに発作も起こさず聞いていた。僕は兄に土下座して携帯を見たことを謝罪した。兄は僕の頭に手を乗せ、ひとこと…いいよ…と言った。僕は泣きそうになりながら、一緒に来て、と兄に懇願した。うん…行こう。兄はゆっくりそう言った。
僕たちはほとんど話すことなく電車を乗り継いでいった。兄は外の音が聞こえないようにデジタルプレーヤーのいつも聴いている好きなラフマニノフで耳栓をして、目を閉じて座席に座っていた。僕は乗り継ぎを二回兄に知らせ、そしてバスに乗った。バスのシートに座ると兄が僕にふっともたれかかった。
「また…来たなんて」
兄が少し虚ろに呟く。兄はめまいを起こしかけていた。兄の緊張が僕に伝わってきて、それでも僕は兄の腕を握り締め、耳もとで言った。
「運命だよ…僕も逆らえなかった」
それを聞いて兄は少し微笑んだ。病院の白い建物が、再び見えてきた。
それは僕が初めて見る光景だった。それは普通なら、ただ父とその息子が再会したそれだけのシーン。でもこの苦しみの年月を長い時間重ねてきた僕にとっては、とても現実とは思えない、まるで白日夢のような光景だった。
兄が父親を眺めている。彼も兄を見つめている。二人は黙ったまま、まるで時間すら止まったかのような幻のような時間が流れていた。僕はどちらにということなく口を開いた。
「早く話して…二人とも…もう楽になってよ…」
僕は二人にそう言い渡し、喫茶コーナーにいるから…と告げ、少しふらつきながら病室を出た。
見つめ合う兄と彼の姿を見て、僕は自分から二人を遠ざけた。兄の静かで圧倒的な想いが僕にはわかってしまっていたから。そして彼の想いも。兄とその父親の時間…もう僅かしか残されてはいないはず。部屋を出る。僕にはそれが正解だとわかった。そしてそこにいたたまれない自分も。
本当はあの二人と一緒に、ねじれた事実をもう一度ほどき直すのを見たかったけど、それは叶わない。兄と彼の間にながれている…それ。それは僕らと同じ。ただの家族の絆だけではない、息が苦しくなるほどの、抗うことの出来ない熱。ひとつの、秘められた禁断。僕の中にもあるその熱が悲しかった。
僕はどちらかが迎えに来るまで、同じ階のロビーの脇にある自販機とソファのある一角で、温かい缶で両手を暖めながら中のミルクティをすすっていた。いま…触れてる…のかな、彼ら。あの日のことちゃんと確かめあって、早く本当のことがわかると良い。不意に涙が頬を伝った。兄が救われる。あの人も。それは不思議で複雑な痛みと安堵だった。日が傾きかけて窓の外が少しオレンジに変わってる。曇天の隙間から少しだけ見える西陽。僕は涙をぬぐいながら、ブラインドの隙間から見えるかすかな夕日を眺めていた。人はひとりぼっちだ。僕はいつの間にか、嫉妬の向こう側にいた。それは圧倒的な孤独と喪失感と悲しみだった。心臓を後ろから鋭い剣で刺し貫かれたような、絶望と諦念がそこに在った。身体がソファに沈んだまま動けない。あまりに悲しくてなにかに寄りかからずにいられないほどの虚脱感。僕はそのまま上をむいた。
あにがしあわせになるのなら、それでぼくはくだけても、いい
いましなければならない それがぼくのしめいならば
だから今はこれでいい。今は…そう一人の人間が、苦悩と孤独と罪にまみれたひとつの人生を終える。その贖罪と別離の時なんだ。だからいまはこれで…
涙がとまらない。僕はバカだ。今まで一度も許したことのない仇のような男をいつの間にか許して、兄を連れてきて、誰も責めもせず、会ったら言ってやりたかった山のような責め句を、ひとことも言わないで。でももう言えることはない。現実にその人に会ったら、その人が全部伝わってきて、一瞬で自分の中の妄想と事実がふるいに掛けられて、事実なんか残りやしないじゃないか。母があの時…兄を道連れに死のうとした悲しみも、僕の今までの想像を越えて僕はなにもわかってないんだろう。それだけが浮き彫りにされる。母はあの人を愛してた。だから絶望した…死を選ぶほど。でも悲しくて、そして兄の重荷が軽くなるという思いで、切なくて悲しくて涙が止まらない。僕は、バカだ。
いつの間にか手の中のミルクティは冷えていた。僕はそれを飲み干し、そして同じものをもう一度自販機で買い直した。手の中にまた温かさが戻ってきた。僕の心を僕自身で温めるかのように。すると、いつの間にか僕の後ろに兄が立っていた。気配で僕は振り向いた。
「待たせて…ごめん」
兄は小さく言った。
「あいつがお前呼んでる」
「僕を?」
「ああ…二人で話したいって」
「兄貴一緒に行かないの?」
「俺…ここで待ってる」
今度は僕の番だった。
「あいつに聞けなかったことを聞きたい…君が知ってることを」
彼は少し疲れた様子で、ベッドに仰向きに横たわっていた。
「あいつは俺が入院したことも、そもそも吐血して運ばれたことを知らなかった」
彼は少し息が苦しそうだった。
「あいつは何があったか、俺に言えないんだ…俺はあの日の前後に起こったことをあらいざらいあいつに話した。あいつはひとこと『生きてて良かった』とだけ言った…俺はあいつに責められるのを覚悟してあいつに向き合った…だけどあいつまるで、魂が抜けたボロ人形みたいになっちまってる…君が言っていた『借金のカタ』の事…ひとことも言わない。いや…言えないんだ聞いても答えない」
ストレスを吐き出すような勢いで、一気に彼は僕に訴えかけた。兄はほとんど話ができなかった。彼は兄から何か聞けると思った。だが予想を越えて、兄は何も言えなかった。だけど、あれを僕が言えると? 僕こそ言えなかったんだ。だから兄を連れてここまで来た。ひとつの目的は果たせた。兄に彼の話を聞かせる。ねじ曲げられた事実を元に戻し、兄を救うために。でも僕に一番言えなかったことは夏休みの宿題のように残り、また僕の手に返ってきてしまった。僕は立っていることが辛くなり、ベッドのそばのパイプ椅子にぐったりと腰を落としていた。緊張と弛緩と激情の繰り返しで、自分が疲れてきっていることに気が付いていなかった。これから一番辛いことをしなければならないのか? トライアスロンだ…心臓が動くのが痛い。どうやって…どこから…なにを? 僕は黙りこんでしまった。でもこれでは兄と同じだ。そう思いながら自分自身に焦りが生まれ始めたとき、彼が思いつめたように切り出した。それは僕にとっては助け船だったが、その投げられたボールは直球のストレートだった。
「あいつはその…借金とかいう嘘にケリ着けるために…もしかして身体で償わされたんじゃ…」
残念ながら彼の想像は的中していた。僕は彼の目を見れずに横を向き、膝の上で拳を握りしめて無言でうなずいた。
「俺の部屋でか」
彼は畳み掛けるように聞いた。僕は再びうなづいた。
「…あなたは…いなかったって」
僕は絞り出すように言った。
「いつだ?」
彼の声は震えていた。いつだった? あれは…僕はあの日来た兄のメールを思い出した。急いで携帯を開き履歴を見た。9月の半ばだった。僕はそれを彼に見せた。
「倒れたすぐあとか…」
彼は過去を記憶から引き出そうと、呼吸も忘れて考えているようだった。
「あいつは来た時に、次に来る日を俺に言ってからいつも帰った…だから俺は倒れて運ばれたときあいつが来たとき俺が居なくて驚かないように、介抱してくれた知り合いに玄関にメモを残してもらうように頼んだんだ…」
彼はそこまで言うと不意に黙りこんだ。僕は次の彼の言葉を待っていた。
「ああ…そうか」
彼の次の言葉は自問自答で、僕に向けた言葉ではなかった。彼はいきなりベッドから身体を起こして僕を見つめた。
「すまん…すぐ気づくべきだっ…」
彼はひきつった顔で呟くと、そのまま後ろに倒れた。
「大丈夫ですか!」
彼の顔がみるみる土気色になっていくのが僕にもわかった。
「出血…したかも」彼は苦しい息の中で僕に言った。
「ナ…ナースコール押しますか!?」
「ああ…よろしく」
僕はあわてて枕元のボタンを押そうとした。
「待てよ」
彼は急に僕の手を掴んでボタンを押すのを止めさせた。
「え…どうして?」
「ひとつだけ…教えてくれ」
彼は苦しそうに息をつきながら僕に尋ねた。
「どんな…やつだった?」
「誰が?」
「だまして…やりやがったやつ」
「早く呼ばなきゃ!」僕は焦って言った。
「いいから!…教えろ」
彼の目が僕に有無を言わせなかった。
「ふ…二人組の…やくざっぽい奴らだって…兄貴言ってた。そいつらに薬で身体の自由を奪われてやられて…写真とビデオ撮られて脅されて…兄貴言いなりになるしか…なくて」
彼は僕の手を離した。僕はすぐさまナースコールを押した。
「知ってるんですか?」
彼は力なく答えた。
「心当たりが…ある」
彼は苦しそうに枕に頭を埋め、目を閉じた。
「俺のせいだ…」
僕は兄を呼びにロビーに飛び出していた。
いまや、ipodとかもスマホで済ませてるわけです。スマホってスゲー。でもきっといくらも経たない内にスマホもなにかに取って代わられるんだろーなー。