努力をしようと休もうと
得るものも失うものもない
(アシュターヴァクラ・ギーター)
彼の提案で僕が実家に一時帰宅することになったのは、桜の散りかけた春の盛りの頃だった。入院からはや1ヶ月余り経つ。病院じゃない環境でストレスがどのように出るか…または出ないか。離脱症状が環境のプラセボによって増悪するか…または改善するか、または変化しない…とか。彼の更正プログラムのデータとして一旦帰宅という実験ではあったが、たまには実家に帰ってみるか? 的な提案としてそれは実行された。
久しぶりに外出できる服を着た。ただのジーパンとロンTだけど。彼に付き添われ車に乗りこんだが、この不思議極まりないなんとも言い難い変なシチュエーションに、僕はとても複雑な気分だった。彼の運転する車で…実家に…? よくよく冷静に考えてみたら…ああ…気が遠くなりそうだ。あの過去の経緯を家族が知ったら…彼は親父に殺される。いまこんな状態になっていること、それ自体が異常事態だ…と僕は客観的に見てみた。だがこの異常事態がもうひとつの異常な事態を突破する可能性であり、いま僕たち家族はそれに賭けていると言っても過言ではなかった。
車の中で彼はあまり話さなかった。気がかりでもあるのかと少し思った。
「あの…さ…」
「なんだ」
「僕の実家に行ったことある?」
「ああ…ずっと前から知ってる」
あの頃のことだろうな。なんでも知ってるんだった。
「それに今回の事件で君の家に行ったしな。久しぶりにあのアパートにも行った。君の方が兄さんより綺麗好きらしいな。アル中の割には片付いた部屋だった」
「そう…行ったんだ」
彼はまた黙った。何か考えているようにも見えた。
「なんか…考えてるの?」
彼は反応しなかった。そのかわり少し走った先の大きな駐車場に車を入れた。
「降りろ。コーヒーでも飲もう」
その先に大きなカフェがあった。
「ここのは値段の割りに美味い」
彼は少し片足を引きずりながら先を歩いて行った。いつもより痛そうだ…それを見るたびに僕の胸が疼いた。
「痛そう…だね」
窓際の席に案内されて座ったあと、僕は彼に話しかけた。
「ああ、わかるか。切り口の調子が悪い。たまにある」
彼は浮かない顔をして答えた。
「ちょっと休憩だ。一息入れよう。久しぶりに君とドライブだからな」
彼はウェイターにブレンドを頼んだ。
「君は?」
「ああ…ええと…アイスコーヒー」
「夏でもあるまいし、冷たいものは胃に悪いから温かいものを頼め」
彼は意外に繊細な気の遣いかたをした。
「あ…そっか。じゃ、カプチーノ」
「よろしい」
ウェイターが去り彼は少し緩んだ。
「日本人とアメリカ人は冷たいものを飲み過ぎる。身体に悪いから気をつけた方が良い」
「うん…わかった」
「素直だな」
「まあ…ね。大体正しいから」
病院での彼の治療プログラムにはかなりの信頼ができた今日この頃、彼の医療的なアドバイスは素直に聞こうと僕は思っている。
「可愛いな…君は」
ああーっ、もう…! 平気でそんなこと言うなよ、と、こちらがカアッと赤面してくる。
「だって…離脱症状…楽だし…あなたの判断は…的確だし…」
おろおろと説明する。畳み掛けるように彼の薀蓄が始まる。
「ヨーロッパじゃビールだってぬるいからな。イギリスに長くいたから日本的な悪習は抜けた。イギリス的悪習も身についたがね」
再びウェイターが現れ、注文したものをサーブしていった。彼は砂糖もミルクも無しで、熱いコーヒーをそのまま飲んだ。
「そういえば、缶コーヒー飲んだね…車の中で」
唐突に僕はあの最後の日の最後のドライブを思い出した。
「食べ物とか飲み物とか…あの時初めて薬以外のモノ、もらったような気がする」
彼は苦笑した。
「ああ…よく覚えていたな。もっと美味いものをやれば良かった」
「あれはなんだか、いつもより美味しかったよ」
僕は手にした缶の温かさを不意に思い出した。
「あのとき君に、コーヒーありがとう…って言われて、なんだか無性に君が愛しくなってしまった。考えてみればあの缶コーヒーが一生の不覚と言えるかもな」
彼はまた赤面するような甘い言葉をシレッと口にした。僕はまた真っ赤になり、急いでカプチーノを口にした。
「あちっ!」
「少し冷ませ」
僕が照れて慌てるのを楽しんでいる。全くもって彼らしい。
「…まったく…手の掛かる」
彼は少しうつむいてぶつぶつ呟いた。
「すみませんねっ」
僕がふくれると、彼はチラッと僕を見て囁いた。
「違う。別件だ…」
よく見ると彼は少し下を向いてなにかを見つめているようだった。
「…なんか…落ちてる?」
「よし。オールクリアだ。大丈夫、ここは安全だ」
「……?」
僕はなんのことかわからずに彼の顔を見た。
「盗聴器のチェックだ。まったく、ひとつなにかするのにも面倒なことだ」
彼はジッポのライターぐらいの黒い金属の箱をチラッと僕に見せ、そのままスーツの内ポケットにスッと入れた。
「盗聴器センサーだ」
「も…もしかして…僕らの関係がバレた…とか?」
僕は心臓がバクバクしてきた。
「それはいいな。本庁のエントランスで君とキスしてみようか?」
彼はふざけた口調で僕をからかった。
「じゃあ…なんで?」
「…それをここで話したかった」
彼がマジな顔になった
「なにか…あったの?」
「君の兄さんのせい、だぞ」
バクバクしてた心臓が、一瞬きゅっと止まった。
「兄貴…が…どうかしたの…?」
盗聴器と…兄貴…声が震える
「なにか…わかった…とか…?」
彼は僕の目をじっと見た。
「牽制された。上からな」
「それ…って…」
「つまり、嗅ぎ回るな、ということだ。露骨に言われたわけではない。まだ牽制の域だ。これで空気読め…とね。あははは…警察が取り合わないのはこういうことだ。これで逆に推測できる。君の兄さんはどうやら家出ではないようだ」
目の前が暗くなりそうなショックが全身を硬直させた。続いて足と胴にわなわなと震えが起きた。
「大丈夫か? 顔色が真っ白だ」
「パニクりそう…」
「薬だ。すぐ飲め」
彼はカバンから僕の抗不安剤を出し、シートから錠剤を外し直接僕の口にそれを押し込んだ。
「水…持てるか?」
お冷やのタンブラーを震える手でやっとつかむ。冷たい水が喉を通り過ぎると、少し息が楽になってきた。
「一時帰宅なんて全部フェイクだ。とりあえず君に報告するにもこんな有り様だ。先が思い遣られる。だが、状況を把握することが君の兄さんを追い詰めることになるかも知れないからな。細心の注意が要る」
それって…? 僕はすぐさま聞き返した。
「それってまだ兄貴が生きてるってこと!?」
「そちらの可能性が高いようだ」
彼はシッと僕に言った。
「声が高い…誰が聞いているかわからんぞ」
彼は低い声で僕をたしなめた。
「わかった…ごめん」
やはり普通じゃない事態が兄の身に起きているようだった。
「気持ちはわかるが、今は自重してもらわねば。君の状況にも影響してくる。もちろん私にもだ。なにもなかったように振る舞うんだ。わかったな? 私がやられたら君を守りきれない」
彼はカップのコーヒーを飲み干した。
「今のところ私はヘマはやらかしてはいない。単に君の事件との関連を捜査上のルーチンとして追っている、という姿勢だ。逆にコソコソしていない分だけ上からの圧力が返って掛けにくい状態に持っていってある」
彼は近くのウェイターを呼んでブレンドのおかわりを頼んだ。
「上司の口調からして、これは私程度の立場の人間は容易に潰せるし、なかったことに出来る。そんなニュアンスだったな。人を脅すのは私は馴れているが、あの物言いは圧倒的なアドバンテージを背負っている人間の言い方だ」
彼はさも面白そうに笑った。
「なにか…つかんだから?」
僕はたまらず彼に尋ねた。
「正確にはつかもうというベクトルをそこに向けただけなんだがな」
彼は苦笑した。
「そこで横槍だ。チキンの仕業だ」
「なぜ? 何をしたの?」
彼は核心的な笑みを浮かべた。
「失踪届け出のいくつかを調べていた。君の兄さんの失踪の日付の付近とか、地域の失踪事件など…それからそのファイルの閲覧者についても含めて、誰がいつ何を見たか交番の巡査に聞き取りをしたり、パソコンの履歴なんかを調べていた。ルーチン極まりない捜査、そう見えるように敢えて正攻法でね。これには二重の意味がある。1つは情報の収集。もう1つは“撒き餌”だ。誰がいつ食いついて来るか、観察できる」
「そこに牽制…?」
「そう、ヒットだ」
彼はニヤリと意地悪そうに笑った。
「止められたのは閲覧者の履歴の調査。だってそうだろ? 外部の人間は普通はアクセス出来ないんだからな。できるのは身内だ」
身内って…
「それ…警察?」
「ただの家出が捜査の対象になるなんて誰も思わなかった。身内はな。だが君が別件に巻き込まれたことで状況は変わった。向こうは強権を発動、だが私はこれを逆手に取れる。秘密の場所を暴露したも同然だろ? 力の有るものは策略に乏しい。ねじ伏せてくる。下手すると殺されかねない危険性もある。だが情報戦としたら隙だらけだ」
ウェイターが二杯目のブレンドを運んできた。
「深く静かに潜航する。私の大好きな秘密の匂いだ。たまらんな…エサに釣られた魚の姿を早く拝みたいものだが、ここからが魚との駆け引きだ。チキンだがザコじゃない」
彼は楽しげに微笑んだ。
兄貴が…生きている
兄貴が…生きている
兄貴が…生きている
兄貴が…生きている
だが、僕の頭の中はさっきの言葉がグルグルと回り続けていた。少し意識が飛びそうなくらい。少し頭がおかしくなりそうなくらい。
いまどうしているの? どこにいるの? なんでいなくなったの? なぜ…あえないの? 彼の車でカフェから走り出しても、興奮と不安が入り混ざった良くない緊張状態が続き、僕は助手席で自分の膝をギュッと抱え小さく丸まっていた。彼はそれを時々チラッと見ながら、黙って車を走らせていた。
実家に到着すると彼は母に案内され、僕を抱きかかえるように居間に連れて行った。
「ひとりになりたいか?」
と、彼は僕に尋ねた。僕は首を横に振った。
「また…パニックとか…記憶なくなったら…怖い」
またフラッシュバックがきたら僕は何をするかわからないから。絶対にこんな精神状態では独りになるべきじゃないと感じた。
「わかった。親御さんに説明する」
彼は心配している母に僕の状態を簡単に話した。母は居間のソファーに毛布を敷き、僕をそこに寝かせた。上から軽い羽布団を掛けてもらい、僕は少し落ち着きを取り戻した。
「まだ…無理なんでしょうか。設備のない自宅では、この子はまだ暮らせない状態なんでしょうか?」
母の問いかけに彼は、慎重に言葉を選んで答えた。
「それを確かめるためにもこちらにお帰ししたのですが、移動中に少し不安定になられましたね」
どうやら彼は兄についての話は母にはしていないようだ。あんなことを聞いたら離脱症状が無くてもパニックを起こすのは当たり前なんだけど。彼は本当に僕にあのカフェでの話をするためだけに、この外出を考えたみたいだった。
「あとは息子さんの状況と、息子さんがどうしたいかですね。不安ならしばらく休んでからまた連れて帰ります」
「申し訳ありません。父親があと少しで仕事から戻りますので、せめて顔を見てからにして頂けますか?」
「ええ…それは問題ありません」
母は急にあわてて言った。
「あぁ…すみません! どうぞお座り下さい。お茶も出さないで…すみません」
「ああ…いえ…お構い無く」
彼の口から「お構い無く」とか、普通の会話がとても不思議に思える。
「気分はどうかな?」
彼は僕の寝ているソファーの足元に座り僕に話しかけた。
「…落ち着いてきた…みたいです」
いつものようにタメ口で返事しそうになり、あわててフォローした。あぶない。
「一晩泊まりたいかな?」
そんな…泊まるなんて。記憶がない時に何を言い出すか怖くて眠れないじゃないか。どんな秘密を知らないうちに暴露するのか…破滅だ。
「やめて…おきます…フラッシュバックが怖くて眠れなくなりそうで」
「そうか…まだ早かったか…」
小芝居じみたやり取りをして、ニセ帰宅計画は目的を遂げて瓦解した。いまの僕にとって実家は安住の地では決してない。だが誰も悪くない。
「…この子の兄の捜査は、何か進展ありますか?」
母が核心に触れてきた。
「残念ですが今のところあまり進展は…」
彼は上司向けの解答をした。
「そうですか…」
母の消え入りそうな声が痛い。両親には話さない作戦なのだろうか。秘密は知っている人間が少ない方がいいからかも知れない。常に慎重さが問われてるみたいだ。母さんにはかわいそうだけど。
少しして父が帰ってきて、久しぶりに僕は顔を合わせた。腕を切ったときには僕の意識がないときに父は病院に来たらしかった。少し落ち着いた僕はソファーから身体を起こして父と話した。
「キズは良いのか?」
「うん…もう治りかけてるし」
「大変だったな…」
「ごめん…心配かけて」
「まあ…俺は修羅場は慣れてるしな。母さんを海で助けた時の方が大変だったぜ。俺も溺れかけた」
「僕の心配は…あまりないんだ」
また父親から軽く見られてるような淋しい気分になり始めた。興信所を勝手に変えられた、あの時のトラウマに刺さる。心配されたいのかされたくないのか、父はそんな僕の顔を見て笑った。
「そりゃ俺の息子だからな、お前は。死なねーよ。ヤバくても寸止めで助かるさ。俺もそうだったしな。まぁ助けに行けないのがツラかったけどな」
父はそんなことを言った。そんな信頼があったのか。放ったらかされているとかないがしろにされたように感じた、あの時の絶望は…誤解?
「俺だってグレてた頃はシンナーくらい仲間と吸ってたしよ。一本通っているものがあればやめるもやるも自由自在だろ」
父は懐かしそうな顔でそんな大胆なことを言った。
「…ああ…もう時効ってことで勘弁して下さい」
父が苦笑して彼に言うと、彼はおかしそうに笑った。
「ええ、もちろん時効です。逆にお父さんがご経験されていて良かったです。息子さんにまた話してあげて下さい。彼の気が楽になるでしょうから。なかなか普通では共感されにくい体験ですし。息子さんの方が難易度の高いチャレンジですけどね」
「そりゃこいつの場合はシンナーなんて生易しいもんじゃなかったが、そういう人生経験も役に立つとはなぁ…悪いこともやってみるもんです。あなたも経験がおありですか?」
何の気なしに父が彼に尋ねた。少し際どい質問じゃないか?
「薬科を出てますから…それ以上はご想像にお任せ致します」
「ああ、すみません。なんだかあなたはあまり警察っぽくないんでね…つい」
彼は苦笑していた。この前まで悪党だったからね。父親は無意識にわかってるのかも…
僕を助けてくれたとはいえ、僕たち兄弟にあんなことをしたのに両親と普通に顔を合わせ、普通に話をしている彼の神経はいまだに普通ではない…と思った。しかも母の元夫とは愛人関係だったのに。それなのに、平然として人の心理を読み尽くしている。僕が両親にどんな負い目を感じて苦しんでいるかとか、父や母が何を感じてるのか、きっとわかって行動してる。そこが彼の最も悪魔的なところだ。それを悪事に利用すれば…だけど。彼を常識で理解するのは難しいなとつくづく感じた。
両親に見送られて僕と彼は実家をあとにした。父が僕と普通に話してくれたのが本当にありがたかった。父が元ヤンキーで、足を洗う前は結構ワルで、そのことがこんなに有り難く感じたことはない。父がワルで暴れてた頃の話は本人からはあまり聞いたことがない。以前父の仲間が前にうちに来て呑んで酔っぱらった勢いで、「昔はつるんで悪いこともやらかしたけどな!」みたいなことを小さい時に聞いたが、母は小さい僕には言えない父のエピソードを知ってるみたいだった。僕の事件は普通の家庭なら、両親が精神を病むぐらいの事件だ。一時期は危なかったとはいえ、それを二人があんな風に持ちこたえていてくれることが、僕には奇跡の一つに思えた。
次は来週の月曜あたり更新です。ご閲覧・ブクマ有り難うございます!