「気分は落ち着いたか?」
病院へ戻る車の中で、彼はハンドルを片手で握り、前を向いたまま僕に聞いた。
「うん…なんとかね」
「そうか。まあまあだな」
何がまあまあなのかわからないが、気分的に車の移動は今のところ大丈夫みたいだった。
「あなたがいるから…とりあえず安心なんだけどね」
僕の言葉に彼は前を向いたまま無表情に答えた。
「私なしには居られなくしてやる」
冗談か本気かわからないいつもの彼の言い方。
「近いものは…あるよ…もう…」
「ああそうだな。だが…」
彼は前を向いたまま独り言みたいに呟いた。
「全部だ…君を全部もらう」
それを聞くと、一瞬で身体が凍った。今は…言わないで…苦しい…お願いだから。
「君の気持ちなど知らん」
彼は僕の心を見透かしたように小さく言い放った。
「だが早く君の兄さんを見つけよう。話が始まらない。目の前にご馳走があるのに食べられないなんて、私には到底耐えられん」
彼はグン…と車を加速した。高速にいつの間にか乗っていた。病院に戻る道ではない。
「どこに行くの?」
「君を犯せる場所に」
彼はよどみなく答えた。
「し…仕事は?」
「君を犯して病院に送って、それから職場に戻る」
「そっ…そんなんでいいの!?」
また仕事中にするなんて…僕が間違ってるのか?
「人生は短い。我々がいつ別れるかなどわかったもんじゃないだろう? 特にこれから先は…」
なにかを吹っ切るような再加速。身体にGがかかる。
「メ…メーター!」
「この区間はセーフだ」
すると車線が突如変更された。あっけないほど乗ってすぐに車は高速を降りていた。出口2km…玉久司島…その標識の字が見えた瞬間、僕の胸が一瞬ズキッと疼いた。
十数分後、僕と彼はあの海沿いのパーキングにいた。二つの思い出が脳裏を駆け巡り、夕日と蝉時雨の幻が交錯した。彼が窓を開けると潮の匂いがした。
玉久司島。僕の大事な場所。こんな形でまた来てしまうなんて…
「あなたと…また…来ちゃった…」
シートで僕は独り言みたいに呟いた。
「そうか。覚えていたか」
あの時のように彼が運転席で答える。
「そのあと偶然、ここに…お参りに来ててさ」
バンドのみんなとここに来たことをポツリポツリと彼に話した。
「まるで呼ばれたようだな」
彼は渋い顔でそんなことを言った。また夕暮れだ。本当のデジャブみたいに。
「…行くか」
彼はそう言うと突然ドアを開けた。
「どこに?」
彼は車を降り助手席側に回った。ドアを開かれる。
「降りろ。君に仕事をしてもらう」
「そ…外でするの? やだよ!」
僕は真っ赤になって身を引いた。
「は? なにをエロいこと考えてる。違うぞ…神頼みだ」
「はあ?」
耳を疑うような言葉が彼の口から出た。
「犯すのは後だ。さっき思いついた」
僕はなにがなんだかわからないまま、彼に手を引っ張られて車の外に引きずり出されていた。
「ちょちょ…ちょっと…」
強引に引きずり出されて、前のめりに転びそうになった僕を車の脇に立たせて、彼は真面目な顔で僕に言った。
「君は神父に裏切られてあちらの神には奇跡を願っていないんだろう? 私は神を信じても疑ってもいないが君の祈りの効力は信じる。あちらがダメならこちらで良いじゃないか」
「そ…そんな…」
彼は僕の躊躇に声を荒げた。
「兄さんが見つからなくても構わないのか!」
逆だ…あの時僕が彼に言ったことをそっくり返されてる。
「なんで…そんな…」
僕は少し泣きそうになっていた。
「なんで…あなたは…僕にそんなに…」
するといきなり彼は僕の胸ぐらを掴んだ。彼は怒っていた。
「わからないのか! 君はあの時私にその不利なことをしたんだぞ。私が生き延びて永久に君を脅迫し続けるかも知れなかったんだぞ? そんなバカな子を私はいとおしく思ってしまったんだ! こんなことならあの時おとなしく暗殺されていれば良かった…あのあとの私は君の見た崇高で御大層な何かに魂を握られてしまった。元に戻るすべが見つからない…苦痛なんだ」
胸元を掴んでいた手を乱暴に離し、僕を解放すると彼はチッとまた舌打ちをした。
「さあ、早く歩け…私と一緒に来るんだ。君の兄さんを呼び戻して、対決する。でなきゃ始まらん」
彼はいつもの有無を言わせぬ強引さで僕に命令した。ダメ押しで背中をこづかれて否応なく僕は歩き始めた。
(神さまには見られてたな)
不意にあの時のヤツの言葉が頭の中をよぎった。
あたりはすでに夕闇にまぎれていた。景色ってこんなに変わるのか…夕闇の中に寒気がするほど黒々と口を開けている鳥居は、あの夏の日の鮮やかさと静寂のかけらもなく、まるで魔界への入り口みたいだった。橋の両側には石の燈籠が等間隔に並び、ボウッと橙色の灯を点していた。まるで僕たちに「おいで…」と誘うかのように。
光があれば、闇がある。神域には光しかない、僕はそう思っていた。しかしそれでは足りなかった。彼の黒髪が闇にとけていく。彼の持つ闇がこの魔界じみた神域と呼応しているみたいに。斎田弁天の大きな鳥居を、僕たちは闇に飲み込まれるように潜り抜けた。
「神社にお参りしたこと…あるの?」
僕は意味もなく彼に尋ねた。
「自分からはない…ただ…」
「ただ…?」
「小さい頃母に連れられて一度だけ、どこかの神社に行った覚えがある」
彼は呟くようにそう答えた。
「自分から宮参りなど、初めてだ」
闇の中で黒いスーツから彼の白い顔が浮かんで見える。足を少し引きずっているのが砂利を擦る靴の音で分かった。大きな地図が目の前に見えてきた。外灯で照らされて浮かび上がっている。ここから急な勾配の石段が始まる。彼の足にこたえないか心配になる。
「ここから石段…長いよ…足…大丈夫?」
彼は右端にある鉄の手すりをつかみ、何も言わず登り始めた。見上げる先には真っ黒な闇。本能的な恐怖が込み上げてくる。緑のキラキラした夏のこずえを思い出しながら恐怖を振り払う。彼が不意に立ち止まる。やっぱり痛いんだ。彼の左腕を取り僕の肩に回す。彼が少し驚いたように僕を見る。
「痛いんでしょ?」
「無理するな。階段の介助は危険だぞ」
「僕はここ登ったことあるから…」
答える間もなく彼が僕の唇を奪った。
「んっ…なっ…こっこんな時にっ」
「力仕事ではまったく役に立たなさそうな君が可愛いな…と」
「いや…そうでもないし」
いつもながらひどい言いぐさだ。
「では後ろから腰のあたりを押してくれないか? その方がお互い楽だ」
案外すんなりと介助をさせてくれる。嬉しい。僕は彼の後ろに回った。しばらく彼を押しながら登って行くと、石段の上の赤い門が見えてきた。正面の大きな正門は閉じられていて、両脇に小さな潜り戸があり、それが片方だけ開いていた。左右の街灯にぼんやり照らされて門の赤が血塗られたようだった。石段を登りきった僕たちは脇の戸をくぐった。
目の前に赤い大きな社殿が不気味に建っていた。
「ここが本殿」
前に先輩が教えてくれたことを、今夜は僕が彼に言う。
「見れば分かる」
彼が社殿を凝視しながら答えた。思い出して御手洗で手を清める。そして僕たちは拝殿の前に立った。冬の寒い教会で兄と僕はあなたの幸せを祈った。あなたの罪を知りながら兄はあなたのしたことを許した。いま僕とあなたが、晩春の宮で兄の無事を願い再会を祈る。許された罪を償うために。あなたは僕を愛しながら恋敵の兄を見つけ出そうとしてる。あなたを許した兄に、それは似ている。正確な因果応報の図式がまたここに展開される。あの時は光だった。今度は闇が導くのだろうか。
「僕と兄貴はあの教会であなたの幸せを二人で祈ったんだ。兄貴はあなたが自分の父親の恋人だと知ってた。そして自分を陥れたことも…それでも兄貴はあなたを許してた…」
彼は静止した。
「わかっていたんだな…」
「うん。兄貴の名前と兄貴の親父さんの名前を間違えて呼んだって…それでわかったって」
彼は目を閉じた。
「もう一度彼に逢いたかった…拒絶されても」
彼は力なくフッと笑った。
「そうしたら恋人が再び目の前に現れた。だが…それはやはり幻だった。それでも悔いは消えたんだ…君の兄さんのおかげだ。兄さんは亡くなった彼より…優しかった。だが君の兄さんにとっても私は君の身代わりだった」
「兄貴はそれを後悔していた…あなたにしてはいけないことをしたって」
「君たち兄弟はキチガイじみたお人好しだ…私が何をしたか忘れてる」
彼は目を上げた。
「そんな君たちに知らないうちに幸せを祈られていたのか。恐るべき呪縛だな。いま私は感情に振り回されて苦痛に満ちている。だが事故で死にかける前より、私は自分を幸せじゃないかとさえ思う」
「だから…あなたに一緒に祈って欲しい。僕達はその時…兄と二人であなたの幸せを祈ったから」
境内に風が吹いてくる。彼の黒髪がなびいて額にかかる。風の中で無防備に立つ彼は、やみにドキッとするほど美しかった。
「片足を無くして社会的には抹消され、その上権力の犬に成り下がっても、それでも私は今の人生をあまり憎んではいないのだ。それが自分でも不思議だ。あの事故で足と一緒に私は確かになにかを失った…しかしそれ以上に喪失したのは…それは自分の人生に対する憎悪、かも知れない」
彼が僕を見た。その瞳が優しかった。やっぱりあなたは変わったんだね。それをいま、僕は確信できた。あなたの心の深い悲しみをもう閉じ込めなくてもいいんだ。僕はまた泣いてしまいそうになった。
「ありがとう…連れてきてくれて…僕にそんな大事なこと話してくれて」
「バカだな。君に言う以外に誰に話すんだ? さあ時間がなくなる。君の例の仕事をしろ。私だけが操られているなんて気分が悪い。実際どちらがどう操られてるかなんてわかったもんじゃないがな」
彼は悔しげに負けず口を叩いた。僕は顔を上げ社殿を見つめた。なにかの力でここに押し上げられ、そしてここに立つ。抗えない運命のように…
「兄が無事ですぐに見つかることを…そして兄の幸せを…僕たちは二人で神に祈ります…どうか…聞き届けて下さい」
あの時の僕の相棒みたいに、僕はなぜか声に出して祈っていた。いつの間にか固く手を合わせていた。彼は手を合わせることはなかった。ただ本殿を見据えたまま、身動ぎもせず無言で向き合っていた。だが彼が心の中で祈ってるのがなにも言わなくても僕にはわかった。
結局彼は僕を犯さずに仕事場に戻った。彼らしくない。ただあの駐車場に戻り、僕たちは車の中で長く深いキスをした。それだけでイッてしまいそうな激しい愛に満ちたキスを。もうここで犯して…と、彼を欲しがってしまいそうな熱さを埋め込まれて病室に還された。
一歩一歩、彼に確実にのめりこんでいく自分がとても怖くなる。彼の気持ちは本当だ。僕を落としにきてるんだから、弱い僕が落ちるのも当然だ。それがよくわかった反動みたいに、のめりこんでしまう怖さに反して、同時に自分の気持ちがたとえようもなく不確かに感じる。では…僕は…? この気持ちはストックホルム症候群ではない、としたら僕は兄を裏切っている。だがこの気持ちがもし例の症候群という心理的防衛なら、僕は抑圧されている憎悪をなにかの決定的なフラグで爆発させるのだろうか。兄と僕に刻まれた消えない傷が、なにかのきっかけで再燃する。その苦しみにのたうちまわり、復讐すら考えるのだろうか。すべての愛情もかき消して。彼の言うように、本当にキチガイじみたお人好しなら僕は救われるのか…?
いや、救われないよ。どうなろうとも、いま僕は救われないんだ。早く兄貴を見つけなければならない。本当にそれしか道がない。彼にも、僕にも、それだけが命綱。
病室で着替えベッドで横になる。かなり疲れた。倒れこむように横になり、そのまま掛け布団を抱きしめる。いやだ。兄を裏切ってる自分が憎い。それなのに身体が火照ってたまらない。身体と心がバラバラで、気持ちも思考も混乱しまくってる。病状に良くない。フラッシュバックしそうだ。また自傷したりするのかと思うとゾッとする。意味もなく何もかもが怖くなる。
激しくなる不安に耐えられず、衝動的にナースコールした。震えながらパニックを訴えた。即座に点滴が始まる。飲み薬より早く効く。パニックの薬と少し強めの眠剤。しばらくしてすぐに意識がなくなる。1日に2回の激しいパニック発作。今日の出来事は僕の許容量を超えている。
「すまなかった。ちゃんと凌辱すれば良かった」
次の日彼は夕方僕を見に来て、クールに謝罪した
「君がナースコールを押したと報告をもらった。ちゃんと抜いてやれば良かったと後悔したよ」
やれやれ…といった感じで彼はため息をついた。
「あの…抜くとか抜かないとかじゃなくて」
僕が静かに抵抗するとすぐさま否定が飛んできた。
「いや、抜く抜かないの問題だ。神経症とリビドーの関係はフロイトの不完全な学説の中で私が唯一賛同するところだ」
専門的過ぎて4分の3は日本語が理解出来なかったが。
「叫ばせよう…今度はたっぷりと」
不穏な発言に内心かなりビビる。
「そんな」
「…それ以上に君は兄さんと同じで罪の意識が強すぎるんだ。パニックの深層意識には罪悪感が潜んでいる。君は昨日激しく自分の罪深さを責めていた。違うか?」
いつもながら正確な読みだ。
「…ああ…した…かも」
「君は二股掛けてるからな」
胃を素手で捕まれたようなショック。あなたがそれ言うの? こんな不安定なのにまだ追い詰めたいの? 瞬間に怒りがこみ上げてくる。
「…言わないでよ…死にたくなる」
「そうか。なぜ二股が悪い?」
「当たり前だろ! 説明の余地がないじゃないか! もうやめてよ! 苦しいんだよ…」
彼は再びため息をついた。
「それだから君は自分を追い詰めるんだ。君はいまこんな状態で独りで耐えられるのか? 耐えられなくて酒に溺れヤク中になりそれにつけこまれて売り飛ばされて殺されかけたんだろう? まだ私と浮気している方が健全だし、兄さんも経緯を知れば納得するはずだ…少なくとも監禁されたヤク中で男娼の君を見るよりまだマシだろう。違うか?」
僕はぐうの音も出ずに掛け布団の端をつかんで下を向いたまま、唇を噛みしめていた。そうだよ、その通りだよ。僕は弱過ぎる。独りで耐え抜くなんて無理だ。下を向いたまま僕は彼に言った。
「弱すぎるんだよ…僕は…人を巻き込んで…泣いて…独りで耐えるなんてできないんだ…」
彼はそれを聞いて、ゆっくり僕に尋ねた。
「君の兄さんが君を抱いた時、君は巻き込まれたと思ったか?」
思うわけ…ない。僕は首を横に振った。
「血を分けた兄弟なのに? 男同士なのに?」
尚も彼はたたみかけた。
「…そんなのどうでも…良かった」
「なぜ? それも罪深いことなのに、なぜ二股はダメで近親愛とゲイは許される?」
「受けとめたかったんだ…兄貴の全部。兄貴が苦しんでいたから…楽にしてあげたかった…罪とか法とか…関係ない…その兄貴を裏切ることは…僕には許せない」
「だがな…」
彼は微笑んだ。
「君の兄さんは許すだろう。君の苦しみはまるで君の兄さんのトレース…いや…今やそれ以上だ…痛過ぎる。しかも誰にも言えないときている。君の兄さんは君がいたから毎日をどうにかやり過ごしてこれたんだ…君はその事で苦しんでいるんだろうが、その責任の一端は君の兄さんにあるのは明らかだ。君の兄さんなら君が壊れることより嫉妬の苦しみを選ぶだろう。それは私も同じだ。だから君を二人で面倒見ても良いだろう? 兄さんと私とで。君に生きていて欲しい…だからこの罪悪感を越えてくれ。もう自分を責めるな。君はいつも兄さんを強いと言っているが、それは君が支えていたからだってことをわかっているのか」
彼の話す間に僕はもう泣いていた。なぜ…こんなにあなたは優しくなれたの? まるで兄がもうひとりいるみたいに。
「本当に君は泣き虫だな。泣いてるか悶えてるかしか今まで見たことがないくらいだぞ。脱水症状になるまで泣くつもりか?」
また彼が悪態をつく。泣く子をあやしてくれるみたいに。
「そんなこと言っても…止まらないよ…あなたが…優し過ぎるからじゃないか…」
生きていて欲しい、と彼は言った。もう彼のように死に別れたくはない。君が死にかけるのを短い間に二度も見せられて、自分の気持ちがわかった。生きていて欲しい…と。
覚えてるか? 君が私にあの時言ったように、君のあの声がまだ耳についているよ。生きていてよ…初めてだ。生きていて欲しいと請われたのは。だが私も君に請う。生きていて欲しい。
思い出す。壮絶な母の告白を病院のベッドで聞いた日、『生きてさえいてくれたら』。それが兄に母が言った言葉。本当に愛したらただもうそれだけ、生きていてくれたら、生きていてくれたら、ただ生きていてさえくれたら、もうそれで…いいんだ。兄貴、僕に逢えないならそれでも構わない。どんな事情があっても、ただ生きていてくれたら、ただ生きていてくれたら。
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