それから僕の状態は安定し始めた。気候も晩春を少し過ぎて、青葉の光る梅雨入りの前頃、体力が回復してきて外郭の薬物依存のグループ療法に病院から参加するようになった。これも彼のプログラムの一つ。規模は小さいし有名ではないが、良い心理療法家がいると彼は言った。女性のセラピストだった。男じゃ心配なんだね…いまだに手のリハビリの時間は僕に逢いに来ないようにしてるし(見張られるよりいいけど)。
そしてまた、一時帰宅の話が持ち上がった。警察の僕への聴取も終わり、そろそろ退院の時期となっていた。フラッシュバックの不安はある。いつ起きるか分からないし、僕がどうなるか両親に見られるのは相変わらず怖い。ではあのアパートで独り暮らしが出来るのかというと、それは彼も家族も僕自身もやめた方が良いと感じていた。彼は例の女性セラピストと相談して、治療施設に入寮してはどうかと僕に提案してくれた。
「私と同居するのも夢のある話だが、まあ…今は無理だな。私の出張や徹夜仕事の日が怖いからな」
いや…あの…無理でしょ。そんなの誰にも言い訳出来ないって。僕もあなたと一緒にいたいけど。
彼は彼女のコネで、少し遠いけれど待機者の少ない施設があるからとりあえず待機者登録をしたという。状況や君の気持ちが変わればいつでもキャンセル出来ると彼は話してくれた。すぐに僕はセラピストの先生と施設見学に行った。思ったより綺麗でも汚くもなく、所長も入寮者も男子のみ(女性は専用の施設がある)、彼はまたヒステリーを起こすかな? ちょっと心配だがきっとそんなこともう知っていて僕に勧めたんだろう。待機者は入れ替わりがよくある。1ヶ月以内には多分空きが出来る。と、そう所長は言った。
見学を終わり彼女は僕に“選択肢はないのよ”と言った。施設はどこもいっぱいで入寮待ちもいっぱい。ここは入れ替わりが激しいからこんな短い待機期間で入れるのよ。ここ以外あなたの受け入れ先はない。実家に帰れないなら…ね。ここが合わなかったらあなたの「私にも話せない悩み」を向き合って解消しないと病院に逆戻りになるから。今いる病院には戻れないし、そこは腹を決めた方が良いわね…
僕は選択肢のない選択をした。ここしかないならここに入ろう…と。それに、兄貴のいない実家の僕らの部屋はたとえフラッシュバックがなくても、僕にはまだ辛すぎたから。
寮への引っ越しは所長の読み通りその1ヶ月後だった。不安だったが一旦は実家に帰り、引っ越しの準備に2、3日追われた。その中で兄のアパートに荷物を取りに行った。よく着てた服やよく聴くCD、本とスコア…そんなものだけだが。
部屋に久しぶりに入る。着たまま放置されてた服が畳まれて積まれていた。きっと母が畳んだんだろう。ベッドはきちんと整っていたが、シーツや枕カバーは洗濯していない。母がどんな思いでこの部屋を片付けたかを想像したくなかった。とりあえず服をまとめる。母の仕事を増やしたくないので、いつも兄と行ってた近所にあるコインランドリーに、シーツやジーパンやスエットなどを洗濯しに行こうと思った。梅雨入りしていたが今日は少し晴れ間があった。兄と二人でよく歩いた道を独りで洗濯物を担いで歩いた。
(兄貴の嫁になりたい)
ずいぶん前に自分の言ったことを、洗濯機の水が回るのを見ながら不意に思い出す。なぜここに兄貴がいないのか分からなくなる。兄貴の散らかした部屋を片付けるの、僕は好きだったよ。一瞬であの日に戻っていく。ちょうどこんな風な梅雨の晴れ間で、風の匂いも道の湿めり気も似ていて。悲しみが押し寄せてくる。やめてよ…見たくないんだよ…あんな幸せだった日のことなんか。
だがふと気づく。久しぶりに思い出した記憶の中で、あの日兄貴はどことなく変だった。何の気なしにきいたことに意味深な答えを返して…あれは…なんの話だったんだっけ? 僕は何を尋ねたんだろう? 気まずい空気になった。兄貴が散らかした部屋で、いつものように二人で片付けをして。
(…なんでこんなに散らかるの?)
兄は目も合わせず言葉を濁して…僕は何の気なしに聞く。
(秘密?)
兄貴が答える。
(秘密…って言えば、質問終わる?)
えっ? それ…なんなの?
掘り起こした記憶は、とても不条理だった。いま聞いたら変だってわかる。でもあの頃の僕は…そう兄貴も僕もズタボロの心を立て直し始めたさ中で、二人は互いに腫れ物に触るみたいにお互いを気遣っていた。あの話の時の兄はなんていうか、何者も寄せ付けないような怖さを、ほんの一言二言の会話に凝縮して僕を関わりから一瞬で排除した。そんなことその時まで、一度だってなかったのに。兄のあまりに唐突な全拒否に危険を感じた僕は、記憶ごと封印した。触れてはいけないなにかとして…
もしかして兄は大学院でなにかあったのかも知れない。研究論文が学生の頃から雑誌に掲載されたという話は聞いた。その分野で兄は知られていたのか? 兄はほとんど自分の研究のことを話さなかった。話さなかったというより、話せなかったのだろうか? あまりに自分が知らなさすぎて驚く。それ以上に兄は話さなかった。
その頃から2年以上経ち、兄は不意に姿を消した。だが仕事に就いたとはいえ、兄はその大学に就職したのだ。何かが続いていたとしても不思議ではない。だが…なにを? しかし興信所の調べでは職場に関する手掛かりはなかった。失踪の始まりは出張。当然興信所も兄の職場の調査を何度も行っていた。大学院の頃のことも調査したはずだ。僕の感覚が変なだけ? あの日兄貴はイライラしてただけ? 失踪と関連着けて期待してるだけ?
自分だけでは結論は見えない。彼に相談してみるしかない。だが兄の件ではこちらからすぐに電話するわけにもいかない。それは彼に固く止められている。会話を盗聴されるかも知れないから、という彼の慎重な判断だ。寮に入る日に彼がそこに来る。その時に話すしかない。無駄かも知れないけど。
僕は記憶を封殺するクセがあるかも知れないと思った。なかったことにして心を守る。そういうところは母に似てるかも。フラッシュバックの記憶喪失は彼が封印を解いてくれたおかげで奇跡的に早く回復したけど、まだなにか忘れていることがもしかしてあるのかな? クスリの後遺症で記憶が錯乱したり失われたりすることもあると彼は言っていたが、僕は大事なことを忘れていたらどうしようという、不安で不確かな感覚に不意に襲われた。
明くる日、父親の車で寮に送ってもらった。リアシートに荷物を積んだあと、トランクの中にギターケースを入れ、助手席に乗り込んだ。久しぶりの親父のタバコの匂いでなんとなく安心した気分になる。
「忘れ物ねぇか?」
「うん。なんか忘れてたら取りに来ればいいだけだし」
「んじゃ…行くか」
「よろしく」
母が家の角まで出て見送ってくれる。
「気をつけてね!」
「うん…行ってきます」
何で家に居られないんだろう…そう思うと苦い気持ちになる。母も僕に家にいてほしい。心配なんだ。もう心配することにも疲れ果ててる。
(自宅よりその道のプロに世話してもらう方が僕は安心だ…僕の症状は普通の病気じゃないからさ)
と、母を納得させるために説明した。母は何か言いたげにしたが、
(そうね…あなたの好きにした方が楽なら…それがいちばんだわね)
と言って淋しそうに微笑んだ。
両親が、彼や警察からどこまで事件の内容を知らされているのかは結局聞けずじまいだったが、僕が男に監禁されて性的な行為を強要されていたことを説明しないと事件の全容なんか説明できないはずだ。母がまた兄と元の夫の現場を見てしまったようなショックを再び味わっただろうことは、僕にも容易に想像出来た。母が自殺未遂のあとでウツ病になり、精神病院に入院したみたいに今回もそうなるかと心配だったが、あの頃と違い母には父がいる。兄だけじゃなく僕がいなくなった時、父と母は絶望的とも言える局面を迎えたんだろうと想像するけど、それでも二人で持ちこたえたんだと、今の両親を見て凄いなと思った。あのとき何をどう耐えたのかは、僕からはまだ聞けないけど。
車の中で父とポツポツ話ながら、目的地に向かって行った同じ県内だがかなり遠いので、高速に乗っても1時間以上かかる。うちの実家は都市部の平均的な郊外の古いベッドタウンだが、寮は開発されたニュータウン的な大学や基地や市民霊園の集まるそんな地区の外れに位置していた。しかしニュータウンと言っても時が経てば古くなり世代交代も進み、市民の減少と共に公共施設の利用が全体的に減り、過疎化した建物が増え、そんな空き施設を利用して僕が入る寮が数年前に出来た…という経緯だった。これはカウンセラーの先生からざっと聞いた話なんだけど…とか父親に軽く説明した。父は話を聞きながら少し黙り、あまり表情も変えず僕に言った。
「あのよ、一つだけ母さんに内緒でお前に聞いときたいんだがな…」
心臓が飛び上がりそうにバクっと音を立てた。
「…いい…けど…なに?」
いきなりパニクりそうなくらいの激しい恐怖感に襲われた。親父…なんなんだよ…
「お前さ…あの事件と兄ちゃんの親父とは関係ないんだろ?」
「……へ?」
喉からものすごくマヌケな声が出た。
「へ? ってなんだよ。へ? って」
あまりのすっぽ抜けた僕の声に、質問した親父のほうが逆に拍子抜けしたみたいだった。
「なんだよぉ…なんか大変なこと聞かれるかと思ったじゃん!」
まったく関係ない人の出現に、緊張の糸が一気にぶち切れた。
「ああぁ…緊張した。心臓に悪いよ。関係あるもないもないよ…無関係の外だって」
「ああ、そっか。じゃあいいんだ」
父親はあっけにとられるほどの軽い感じで質問を終わろうとした。
「ちょ…ちょっと待った。なんでそんなこと聞いたの?」
父は口をへの字に曲げて言った。
「母さんが気にしてるからよ。本人はなにも言わねぇけどな…」
「そうか…母さん自分のせいだって思ってんのか」
僕が呟くと、親父が困ったような顔で言った。
「呪い…なんだと。俺と一緒になる前は母さんそれでよく半狂乱になってたもんな。今はそんなこと言わねぇけど、どっかで引っ掛かってるんだろうなぁ、いつも。そんな気がしてな。お前には悪いが訊いておこうと思ってよ」
それは少し悲しげに聞こえた。呪い…そうだ…確かにそう思ってた。あの日までは。だけどあのとき…兄貴の親父さんと実際に会ったとき、僕は現実に打ちのめされた。呪いは彼の身体に返り、死を前にした彼は贖罪の中にいた。兄の父親の呪いはその悪魔のような彼の恋人…あの人に受け継がれたと思ったが、その彼も死を前にして、そしてこんなことに…
「あっ…」
そのとき僕は急に思い出した。それは自分が死にかけたあのときのトンネルの事だった。
「なんだ? いきなり声だして」
親父が訊いてきた。
「僕さ…あの事件の終わりの頃にさ…臨死体験…ってのしたんだよね」
父親はびっくりしたように、ハンドルを握りながらチラッと僕を見た。
「リンシタイケン? なんだそりゃ?」
「ほら、あるじゃん。死にかけた人がさ…花畑を歩いてたとかさ…トンネルを抜けたら光の世界だったとか、死んだおばあちゃんが迎えに来てたとかさ」
「まあなぁ…そう言う話は聞いたことあるけどなぁ」
父は眉をしかめて、そう答えた。
「僕もトンネルくぐったんだ…」
「マジかよ?」
参ったなというような父の呆れた声。
「トンネルを歩いてた…向こう側に光が見えて……ただの夢かと思ったけど、あとから聞いたらそん時ほんとに呼吸も心臓も止まりかけてたって、医者が言ってた」
父親は大きく深呼吸をした。
「まったく…こっちの心臓が止まりそうだぜ! 初めて聞いたぞ、そんな話をよ」
交差点で止まった父はタバコを出し、火を点けた。ジッポの蓋がシャキンと鳴り、すぐにオイルの匂いがした。
「そのトンネルの出口でね、誰かが手を振ってたんだ…最初は逆光でさ、よく見えなかったんだけど、近づいていったら…その人…兄貴の親父さん…だった」
親父は不機嫌そうに煙を吐き出した。
「なんでそいつなんだよ」
親父を取りなすように僕は答えた。
「まだこっちに来んのは早いって」
「奴が言ったのか?」
「うん…戻れって言われた。それから肩を押されて真っ暗な空間を落っこちてった。それから意識が現実に戻ってきて…僕は…」
父はタバコを消しながら言った。
「確かにな。お前のじいさんばあさん連中は俺んとこも母さんのとこもみんな生きてるしな。あの世要員はあいつだけかよ」
そう言うと父は不意に黙った。
「トンネルの出口で顔を見たときさ、最初僕…兄貴と間違えたんだ…けど、違った。似てるんだよ。見たことある?」
「ああ、一度だけな」
そして父はフッと笑った。
「じゃあ、兄ちゃんは生きてるな」
次回更新は21日予定です。