母がこの寮を訪ねて来たのはそれからすぐのことだった。僕の話した『死後の世界』のことを父が母に話したという。もちろん兄の父親が出てきたことも。父としてはそれが目的だったようだ。妻の罪悪感をなんとか軽くしたい。いろんな意味で言いにくいその話を父はその一心で母に話したらしい。母はポロポロ泣いて止まらなくて、それを見て俺も胸がいっぱいになっちまった…と、恥ずかしそうに苦笑いしながら父は電話で僕にそう話した。母さんがお前に会いに行くからって。いろいろ話したいこともあるし、所長さんに挨拶もしたいし…とさ。母じゃなくてなぜか親父からの電話。普通は電話なんかは父の用件を母が替わりに掛けてくるのにな。珍しいことが起きるもんだな…と、少し微笑ましくなった。母が言いにくいことなんだろうな。もしかすると親父には言えない話を僕になら出来ると踏んで、母に会いに行くように勧めたのかも。もちろん元夫のことで…
それよりなにより、父が僕に電話をくれるのが嬉しかった。今また家族皆んなで兄貴を探してる、その連帯感が甦ったようで、自分の中の父へのわだかまりが解けていく感じがした。
寮から徒歩20分かかる最寄り駅まで母を迎えに行った。今日の昼に駅で待ち合わせてある。昨日母から電話があった。久しぶりに外でランチしようと母に言われた。所長に話し許可を取った。
改札の向こうから母が僕を見つけてブンブン手を振る。ちょっと恥ずかしいんだが…母はいつもこうだから仕方ない。僕も軽く手を挙げる。母が笑ってるからそれでいいか。久しぶりにニコニコしてる母を見て、僕は少しホッとした。
「元気そうにしてるね」
母がニッコリ笑って言う。
「まあまあ…ね」
久しぶりなので照れ臭い。
「ねぇねぇ…なに食べたい?」
監禁後、クスリで空腹感が長いこと無かったせいか、自律神経の問題らしいが今でも日常的にあまり食欲はない。でも寮の食事はだいたいご飯なので、
「パン…とかかな?」
と答えた。駅の近くはあまり店がないが、広めのイタリアンレストランがある。
「ここ…ランチはパンおかわりサービスだって! 良くない?」
パスタだけでもお腹いっぱいかな? ま…いっか。
「じゃ…どうぞ」
「ありがと〜」
僕がボーイみたいにドアを開けてあげると、母は嬉しそうに入って行った。
ランチパスタはそんなに多くなくて、パンをおかわりした。そんな僕を見て母は安心した顔で、そんな安心した母を見て僕がホッとしていたりして…。寮の話や体調を訊かれたりして、しばらくすると皿が片付けられて、ラストのコーヒーが運ばれてきた。
「お父さんから聞いて…びっっっっくりしたのよ。臨死体験、っていうの。あの世に行って来たって…そんなことあったなんてさ…あなたの担当の捜査官のかたからはそんな話は聞かなかったからね、ほんと、震えちゃったわよ」
母は「びっっっくり」を最大に強調した。確かにその話はこの前父に話すまで忘れていた話だったが、確か事情聴取では死にかけた話はしたはずだった。さすがに臨死体験などという非科学的な部分までは言わなかったが。親を心配させないための彼の気遣いなんだろうか?
「親父がさ、心配してたから話したんだよ。母さんが自分を責めてるのをわかってたみたいだよ」
母は泣きそうな顔になった。
「今回の事件も…お兄ちゃんの失踪も…どっかであの人が関係してるかもってね…夜眠れなくてぐるぐる考えてるとその疑いが不意に出てくるのよね。もうこの世に居ないんだからって、思い直してはまた浮かんできて…その繰り返しだった…」
そう言うと母は息をついた。母のその話を僕は黙って聞いてるしか出来なかったが、心のわだかまりを吐き出すように母は話を続けていた。
「…なんか…あの話ってびっくりして…同時にものすごくホッとして、それからね…なんかすごく頭に来て! なんかとても複雑でメチャクチャな気分でね…涙は止まらないしね…」
母はフッと笑った。
「いま思い出すと自分のことが可笑しいわね…」
「可笑しく…ないよ」
僕は思わずフォローした。
「…ありがと…優しいな」
僕はそんなことを言われて恥ずかしくなって、照れ隠しにカップで顔が隠れるようにコーヒーを飲んだ。
「…でもね」
母は何かまた言いたげな顔になった。
「あなたの事件は多分関係ない。あの人とはね…でも…」
「でも…?」
僕は言いにくそうな母を促した。
「…でも…お兄ちゃんは…」
「なにか知ってるの?」
僕は思わず聞き返した。
「確かなことは何も知らないわ。ただ…少し気になってることがあって…でも…あの人のことに触れるのが怖くて…お父さんにも言えなくて…あなたもいなくなっちゃったし」
「ごめん…大事な時にそばに居られなくて…」
僕が謝ると母は首を横に振った。
「あなたが辛い思いをしていたこと分かるから。あの時はお父さんも荒れてて…お父さんお兄ちゃんがいなくなったことにすごく責任を感じてたから。酔っぱらって泣いたこともあったのよ。お兄ちゃんともっと話してやらなきゃなんなかったのにって…」
「親父が泣くなんて…」
僕は追い詰められた父親の気持ちを思うと少し寒気がした。
「お父さんはお兄ちゃんのことでしか泣かないのよ。私が自殺未遂した時も…あの子のために泣いてた」
だから母は父と結婚したんだろうな。そしてそれは正解だったと思う。母の話は続いた。
「あの人の遺品をお姉さんと二人で分けたって。お兄ちゃんから聞いたの。お兄ちゃんがあの事を告白してくれたとき…あなたが駅で倒れて入院したときのことよ。お兄ちゃんにあの話をして…お兄ちゃんも自分の秘密を打ち明けてくれて…その時にね…お兄ちゃんがお葬式の話、少しだけ話してくれたの。遺品をお姉さんと分けて、あの人の仕事関係の資料ももらったみたい。お兄ちゃんはそれを見て、俺はジャーナリストとしてのあの人のこと何も知らなかったんだなって…そう言ってた」
ジャーナリスト…そういえばあの人は新聞記者だった。
「どんなジャーナリストだったの? 記者だったよね」
母は困ったように僕に釘をさした。
「あの人の人格とかやったこととは関係なく言うわよ。ジャーナリストとしては…天職だったわ…あの人を許すことはないし思い出すのも苦痛だけど…」
母は悲しげな顔で答えた。
「社会に対する強い強い怒り…かな。あの人はいつも体制と戦ってた。それが若い世間知らずの私にはとてもまぶしく見えたのね。裏の情報にはほんとに詳しかったし、彼の記事が新聞の一面に出たことさえあったの。その時はテレビも新聞も…マスコミ中が彼のすっぱ抜いたスクープで世間を沸かせたのよ。あなたの生まれる前の事件だけどね」
裏の…情報?
「裏って…政界のスクープとか?」
「ええ。汚職とか…政治家と官僚の癒着とか、警察のスキャンダルとか、もう…いろいろとね」
「なんでそんなに詳しく知ってたのかな…?」
僕が直球の質問をすると、母は残念そうな顔で答えた。
「私には詳しいことはわからないの。外部に洩らさないように彼はとても慎重だったから。でも…従兄弟から『ヤバい奴らとつるんでるからあいつに釘をさした』って聞いたことがあって…」
「ヤバいって…ヤクザとかかな」
「まあ…そんなとこ…かな? 今となっては想像しか出来ないけどね」
ヤバいヤツら。急に彼の顔が浮かんだ。もしや彼も兄の父親に情報を流していた一人だったのか? それは十分あり得る話だ。それなら二人の接点が理解できる。年齢が噛み合わないけど。
「でもね…彼が私と結婚してお兄ちゃんが生まれる前に彼は『俺たちの家族のために危ない橋はしばらく渡らないよ』って言って…それから仕事も内勤になって、私にはそれは安心だったし、彼が家族のこと一番に考えてくれてるのが嬉しくて。でも彼があの仕事から自分から距離を置いたことにとてもびっくりしたの」
その本当の意味はもう二度と聞きたくない話だ。それは母も同じだろう。それを示すかのように母は話を全く違う方向に振った。
「私と離婚してからは彼は新聞記者をやめてしまったと聞いたわ。あの人が亡くなってからお兄ちゃんから聞いた話だけどね。三流週刊誌の記者をして…最後は編集長だったって言ってた」
「それでさ…母さんの言う気になることって、そのヤバい奴らのことなの?」
僕が話を戻すと母はうなづいた。
「遺品…って…お兄ちゃんから見せてもらったことある?」
母が僕に聞いてきた。そういえばそんな話、聞いたことない。
「それ、僕はなんにも聞いてないよ。母さんから聞いて今日初めて知ったし…形見分けのことなんて」
「えっ? 知らなかったの? 本当に?」
母は僕以上に驚いていた。
「お兄ちゃんはあなたには見せてたのかと母さん思ってた」
「知らない。そんなものあるの知ってたら…探してとっくに興信所に提出してるよ」
「あぁ…そうよね…」
母はとてもがっかりした様子だった。
「私ね、そのことに気づいてから探したのよ。何度も。でもお兄ちゃんの部屋にもうちにも…どこにも見当たらないのよ。心の整理で全部捨てちゃったのかも知れないし…ほら、なんて言うのかな? フロッピーとかメモリーとかって、そういうのあるじゃない? 私は詳しくないからわからないけど…パソコンだと資料って小さくなるんでしょ? 私が見つけられないだけなのかも知れないから、あなたに聞こうと思ってたんだけど…知らなかったんだ…」
母の声が遠く聞こえていた。少しめまいがした。椅子に座っているにも関わらず、足元が崩れ落ちていくみたいにグラグラする。兄が僕に言わなかったことがあった。それは兄が僕を気遣った、と思えればいい。僕に余計な嫉妬をさせないために敢えて言わなかった。そう思いたい。でも、そうじゃないなら…少し身体がワナワナしてくる。怒りに似たショック。ディレイで襲ってくる。なんでも兄貴のことなら知っているはずの僕が知らないことがある。なんでも言ってくれてたはずの兄に言えなかったことがあった…やっぱりあの男のことで。
「…どうしたの? 気分悪い?」
母が心配そうに顔を覗きこむ。
「え…あ…なんか…めまいがする」
「あっ…ごめんね! 心配かけて。私の話はあてにならない不確かな話だからね。あなたにしか話せないから…とにかく誰かに話したかっただけだから…」
「分かるよ…その気持ち。親父には話せないだろうし」
僕は自分の気持ちになんとか耐えて、ごまかしながら母に受け答えていた。僕の知らない兄の姿がある。すきま風が抜けるような空虚感が不意に僕を襲った。本当に兄貴は僕を置いて自分から行ってしまったのではないかと思えるほどに。
(秘密…って言えば質問終わる?)
あの時の兄の言葉がぞっとするようなリアリティで僕の脳裏に再生された。あの時点ですでに兄は父親の遺産の影響下にあったのではないかと。それは部屋をゴミ溜めにするほどの、兄の時間と体力、気力を奪うような秘密のなにか、だったのだろうか? そしてそれは一切僕には語られなかった。拒絶だった。僕には入り込む隙すら与えられない、兄とその父の、親子の最後の…いや、永遠の共有物…
母と二人でタクシーに乗り寮まで帰った。どこにも居場所のない切迫感が身体の中に渦巻いて、その気持ちを打ち明けられないのに一緒に座席に座っている母の存在を疎ましくさえ思ってしまった。僕には今、彼以外にこのことを吐き出せる人はない。誰が弱音を吐こうが悩みを打ち明けようが、今の僕は何も誰も1mmも受けとめられないと感じた。一刻も早く彼に逢いたい、今すぐ、ここで、身体を心をすべて預けてしまいたいと思うほど。思いもよらないところでこんなに簡単に滑り落ちるように、彼以外のすべてがもうなにもかも嫌になっていくのが自分でも不思議だった。所長に挨拶を終えた母が部屋に来た。窓からの景色とギターを眺めながら、母は専門学校に戻らないかという話を僕にした。休学扱いになってるから事情も話してあるし、いつでも復学できるのは話したよね…と。半分上の空で聞きながらも、兄のことを考える暇が無くなる方が良いのかもしれないと思った。カウンセラーとか担当の捜査官に相談してみるよ…と母には言った。
「めまい…大丈夫?」
母が元気のない僕に問いかける。
「…うん」
心配させないように答えたが、母を本当に心配させたくないのならめまいがするなんて言わなきゃいい。だけど言ってしまったのは、苦しいのをもう我慢出来ないから。今夜は眠るのがこわい。医者にもらってある強めの睡眠薬を飲んで寝るしかない。取り返しのつかない気分がした。クスリをやる前は秘密は苦痛でも秘密のままだった。だけど自分が自分の意識をコントロール出来ない今は、自分の中に秘密があることは、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えて暮らしているように感じる。この先意識をまともな状態に回復出来るのか、それとも一生この恐怖におびえ苦しみ続けるのか。ハマった物の闇の深さが際立つ。所長がミーティングで言ってた、元に戻れない苛立ちや絶望が再びクスリを入れてしまうその理由のひとつになると。身体も心も人間関係も変わり、人はその孤独と苦痛に耐えていけるのか? 僕はクスリ依存に戻る人の気持ちをたったいま体験しかけていた。
ふっ…と、いま兄が見つかったとして、僕と兄は前と同じような気持ちでいられるのか…という疑問が頭をよぎった。初めてそんなことを思った自分に即座に後悔の念が広がった。僕が途中から気持ちが落ちたことは母にはバレバレなはずだった。だからその後兄のことには触れずにすぐに話を変えてくれていた。母は母で僕がなにか知っていると期待して思いきって話したのに、僕が知らなかったことでかなりがっかりしているようだった。互いに期待を裏切られた展開に失望を感じていることは明らかで、僕と母は口数も少なく別れを迎えた。
「あなたに話せてだいぶ楽になったわよ。ありがと。身体に気をつけてね…復学のこと考えておいて」
それでもそう言うと母は一人で帰って行った。僕は寮の正門まで送った。母を乗せたタクシーが角を曲がり見えなくなるまで見ていた。正直、動けなかったからだ。
母が去った後、独りでいることの我慢の限界を超えそうだった。虚ろな空洞に風が吹き抜けていく。孤独が刺さるように覆い被さってくるようないたたまれなさの中にいた。今日をやり過ごす自信もないほどの孤独だった。途端に頭に浮かんだ人のことで胸が一杯になった。後ろめたさがよぎったが、クスリや酒に戻るよりマシだと自分で自分を弁護していた。本当にしばらく彼に逢ってない。話さなきゃならないことではち切れそうなのに。
夕食のあと一人で部屋にいたら、淋しくて折れそうになった。結局しばらくして耐えきれずに彼にメールした。建前は『復学について』、本音は『逢いたい』。
『母が寮に来ていろいろ話しました。専門学校に復学しないかと言われたので、相談したいです。体調はあまり良くはありません。母との話で精神的に落ちています。では、返信下さい。』
ズルいメールだ。一時間くらいして返信が来た。メールの着信音がたまらなく嬉しかった。
『こんばんは。今は予定が立たないので、明日連絡します。風呂に入り、すぐ睡眠薬を服用して早めに休んでください。所長に体調不良を報告するのを忘れないように。ではお大事に。』
こんな風に他人行儀な文章で、誰に見られても怪しまれないように僕達はたまにメールを交わす。大義名分がないと出来ないメールだ。だから大概は向こうから来る。体調や精神状態を質問してくる。担当だから当たり前だ。だがたまに…だ。それでも嬉しい。こんな上っ面な文章でも、何度も読み返してしまう。それに事務的に返信する。ミーティングで聞いたこと、寮で起きたこと、体調と気分的なこと…など。
彼の言うとおりに風呂に入り、所長に体調不良を報告した。そして強めの眠剤を飲み、早々にベッドに入った。
朝はいつもより早く目が覚めた。手探りで枕元の携帯を取ると、メールの着信がピカピカしていた。急いで中を見ると彼からだった。
『おはようございます。体調はどうですか? 夕方の5時にはそちらに車で迎えに行けます。忙しいので、一緒に夕食を取りながらの相談で良いでしょうか? 都合が良くても悪くても午前中にメールを下さい。良ければ所長には外出する旨こちらから伝えます。では返信お願いします。』
ホッとしたせいか朝から目が潤む。こちらからメールしたことで彼も僕がいつもと違うことを察してくれたのか、対応が早すぎて夢のような気持ちだ。忙しいのに予定こじあけてくれたんだ。きっとそうなんだろう。すぐ返信を打った。
『返信ありがとうございます。予定はありません。忙しいのに申し訳ありません。体調はまあまあですが、精神状態はかなりよくないようです。でも相談出来る人がいると思うと心強いです。では、本日よろしくお願いします。』
次回の更新は27日前後予定です。