いつもの午後のミーティングの後で、所長が彼から連絡をもらったと僕の席まで言いに来てくれた。時折くずれ落ちそうになる。それを隠すのに疲れきる。気持ちがはやって焦燥感が辛い。時間が経つのが遅すぎて気が狂いそうになっていた。こんな少しの待ち時間でこんな強烈なストレスを感じるとは、いままでならまったくの予想外だった。兄という足元の地盤が崩れている。それが僕をここまで追い詰める。愛は空気だった。僕はそれを失いかけている。それは窒息を意味する。
4時30分頃彼からメールが来た。
『渋滞で少し遅れます。5時30分頃には着くと思います。』
あと30分だと思ったのに…さらに長い一時間。ああ…待つのはもううんざりなんだ。何ヵ月も待って、あの時も待った。そして今も。簡単にネガティブ・フローに入る。兄が帰るのを待って、プッシャーの男を待って、クスリをもらえるのを待って、監禁が解かれるのを待って、自分の死ぬのを待って、彼の連絡を待って…
待って待って待って待って待って待ち続け。
足を投げ出して壁に寄りかかる。離脱してから初めて本気でクスリが欲しい。気が付くとそう思っていた。アルコールでもいい。待つのは…もう…耐えられない…彼に…返信を打とうか? なんとか気を紛れさせるように。それで送信するあてのない返信を打ち始めた。
『待つのはもう辛いので嫌です。クスリが欲しくなります。酒でも良いです。もともと忍耐力ないのに、これ以上どうやったら待つ苦痛に耐えられるのか、教えて欲しいです。1時間待つことに耐えられないことが分かりました。どうやって生きていったらいいんですか?』
アタマがおかしい。こんなこと書くもんじゃない。そう思う頭と手が裏腹に送信ボタンを押してしまっていた。冷や汗が噴き出した。嫌われる…呆れて嫌われる…舌打ちの音が聞こえるようだ。だがすぐに返信がきた。震える指でメールを開くとそこにはこう書いてあった。
『今すぐ寮を出て、駅まで歩いて来て下さい。待たせてすみません。北口のターミナルで待ち合わせしましょう。予定変更はこちらから所長に連絡します。OKなら今すぐ返信下さい』
すぐに返信した。
『わかりました。心配かけてごめんなさい。今からすぐ出ます』
急いで出かける支度をして所長の部屋に行った。所長は携帯で話していた。彼からだろう。話しながら僕に目を向けた。そして玄関を指して、『早くいけ』というようなジェスチャーをした。僕は無言で所長に頭を下げ、フラフラしながら玄関を出て駅の北口に向かった。これから20分かけて歩く。彼に時間潰しを作ってもらった。そういうことだ。
身体を動かしているうちに少しずつ思考から解放されてきた。息の詰まるような苦しさもだんだん緩んでいくようだった。いつもどおりの的確な指示に感動した。寮からでは南口に着くので、駅ナカの雑踏を通り抜けて北口に出た。バスターミナルを見渡していると携帯が鳴った。
「駅を背にして右に歩いて端まで来てくれ」
唐突に彼の低い声が耳の中で響いた。あまりに唐突で声が出なかった。僕の声が聞こえないので彼が不思議そうに聞き返した。
「もしもし?」
「…もう…着いたの?」
やっと答える。
「ターミナルの右側を見てくれ。私の車がもう見えてるはずだから」
目をこらして右側を探すと、黒の見慣れたセダンが止まっていた。その運転席のドアが開く。彼が僕に向かって手を挙げた。僕は思わず走っていた。
「大丈夫か」
が肩で息をしながら彼の前に立つ。
「……」
僕は無言で首を横に振った。
「まあ…乗れ」
彼は目で僕に助手席を示す。車の前を回って助手席に倒れ込んだ。
「シートベルト」
「あ…うん」
急いで引っ張り出す。車がターミナルを滑り出す。
「遠くに行くぞ」
彼が小さく呟く。
「うん…任せる」
もっと遠くに。そう…世界の果てまで。
駅前通りを抜けると、3車線の広い道路に出た。夕方のラッシュアワーが始まっている。ノロノロ走るとすぐに止まる。繰り返しながら、ようやく彼が口を開いた。
「なにがあったんだ? こんな弱って」
渋滞に苛つくようにハンドルをトントンと指で叩きながら、彼が僕に尋ねた。
「お母さんと話した…とか言っていたな。原因は復学の件ではなさそうだが、違うか?」
そのとおり。いつもながら察しが早い。
「うん…復学の件はどうでもいい」
「やっぱりな。それでは兄さんのことだろう?」
また図星。
「……」
「やはり…そうか」
黙ったままの僕から正解を見透かす。
「私の方に君のお母さんから連絡があった…前の夫の件で、と。言いにくそうにしていたが」
「え…ほんと?」
母は僕と話したそのあとすぐに、自宅に帰って彼に電話したらしい。居ても立ってもいられなかったんだ。そう僕は思った。僕とおんなじだ。だが、母が自分の過去の傷をこの人に打ち明けるとは。そして偶然にも母の前の夫とは打ち明けた担当官の元カレ…非現実的過ぎてめまいがした。現実の方をフィクションかと思いたくなる。
「元夫の遺品が見つからない…とね。君の兄さんが亡くなった彼からもらったという遺品がどこを探してもない、と。何をもらったかはわからないと。父親の姉に聞いてもわからないらしい。処分してしまったのかも知れないが、息子の失踪になにか関係があるんじゃないかと思っていると。しかし君も知らなかったそうだな。兄さんは君にもその件は何も言わず、か」
唇を噛みしめる。知らなかった…なんにも。それがこのどうにもならない気持ち。どうにもならない虚脱感。
「その話を聞いて、今ごろ君の嫉妬に火がついているかもな、と推測していた。そうしたら夜中に切迫したメールがきた。ビンゴだ」
「……」
読みが正確すぎて説明の余地もない。肯定の代わりに僕はまた黙った。
「今の心境を私に構わず吐き出せ。自暴自棄になっているのをわかっていて連絡したんだろう? 今回も君が感じているように、君は危ない。ガス抜きが必要だ」
「その…通りだよ…いや…それ以上かも…しれない」
「それ以上か…」
「僕は…本当に捨てられた…のかもしれないって思って…あの書き置きは…本物で…」
泣きたいのに涙が出なかった。なにもかもどうでもよくて、砂を噛んでいるようで、泣くことすら無意味に思えた。
「あの書き置きを見て以来、その考えはいつも浮かんでいたんだ。それでも、それが苦しくて考えるのをやめるのに、今回は本気で…そう思いたくなった。だって、生きてるんだ、兄貴。いつもなら兄貴が死んでるっていう可能性より、僕を捨ててどこかへ行ってしまったと考えたほうがましだった。まだそれなら僕は耐えられた…兄貴がもうこの世にいないっていう耐え難い悲しみから…ね」
僕は苦笑した。
「でも、多分兄貴は生きてる。その希望が繋がったら、僕が捨てられたっていう可能性が僕にとって最悪の可能性になった。あなたを待つだけであのざまだ。なにもかも色あせて見える…あなた以外は…ね。だからあなたが僕の最後の砦だ。会う約束の時間までたった1時間すら待てない…」
「壊れそうだな…」
彼は静かに言った。心配も楽観もない言葉。
「壊れそうでも君はいつも真っ白のまま墜ちていくのに、今日の君は自暴自棄に染まって汚れて見える。初めてだ…汚れた君を見るのは…!」
いつものような抑揚のない声が耳に突き刺さった。
「だが、それでいい。狂っても薄汚れても堕落しても…生きていてもらえればいい…私のように狡猾に厚かましくな」
いつの間にか高速に乗っている。セダンが一気に加速する。
「狂って錯乱した君は、私の嗜虐を呼び起こすようだな。弱った君を泣き叫ぶまで責め抜きたくなる。生きていてほしいのに、殺してしまいたいほど壊してやりたくなる。私を盲目にした君が薄汚れて荒んで堕ちていく。いちばん始めはそれを望んでいた…その気持ちが蘇ってくるようだ…」
ゾクッとした。恐れでなく、被虐の快楽に。
「また…あの時みたいに…?」
「そうだ。あの初めての夜のように…だが今のほうが私が君を貶められる。簡単に君をダメにさせられる」
思わず息を飲む。彼の闇に溺れていくみたいに。
「もう感じているんだろう? 君の身体からは欲情が漏れると香ってくる。追い詰められた君にはそこしか逃げ場はない」
「そこだけで…いい…」
僕にはどうせなにもない。
「いま僕を生かしてるのは…あなただから…」
そして絶対に言わないはずのことを言った。
「抱いて…欲しくて…あなたに」
「兄さんがなにかを黙ってたことがそこまで君をダメにするんだな。君の白さが何によって生み出されているのかわかった気がする。君の最悪の事態はここか」
彼はチラッと僕の方を見た。
「兄さんは君に何も言わなかった…それは君への愛かも知れないのに。嫉妬は冷静な判断力を狂わせるぞ。君はいま妄想で狂うより、正しく理解できるのを待つべきだ…私が言うのもなんだが」
彼に引かれた気がして、うっすらと寒くなった。だめ…だめだよ、手を離さないで! 僕は…今なら…あなたのモノになるそれをわかってるんでしょう? なのに…
「どうにでも出来る。だが今の君をモノにしても私が苦しむだけだ…それは御免だ」
わかって…る。彼はわかってるのだ。
「わかって…るんだね…ごめん…でも今日は無理だ…僕はいま嫉妬から逃れる方法なんてわからない」
そうだ…冷静に考えたその結論は、どんな裏切りより僕には残酷。
「待つべきだ…結論はいずれ出る」
「それ…どういうこと? ハンパに期待なんかさせないでよ…今よりもっと苦しくなるだけだ」
「期待なんかじゃない。だが君にはまだ言える段階じゃない」
「どういうこと!? はっきり言ってよ!」
焦燥感が爆発してして僕は叫んだ。彼はとても面倒臭そうな顔をした。
「だから言いたくなかったんだ。それでも君がこんなになってるから言わざるを得なくなった」
彼はうんざりした様子で答えた。
「なにかつかんだの? ねぇ、言ってよ! なにを知ってるの!?」
「確証はないからはっきりは言えないんだ! 何しろ隠蔽しているのが身内ときてる。だが調査は思ったより進捗している。この勘の裏さえ取れたらあとは時期を待つだけだ」
「やっぱり…そうなの? 兄貴は誰かにハメられたの? あの遺品は本当に関係してるの?」
それが最大の謎だった。
「今はなんとも言えない…知ることで不幸になるかも知れないし気持ちにケリがつくのかも知れない…」
「そんなことわかってる! でも知らないってことが僕にはもう耐えられないんだ…わかるでしょ?」
彼は黙っていた。本当は捨てられたなんてこれっぽっちも思いたくない。でも確証がない。その不確かさに追い詰められてこんなになってしまった。あの足元が崩れていく感覚を僕は早く忘れたいんだ。
「僕はサディストに殺されかけた時にあの世で兄貴の親父に会った…彼はまだ死ぬなと言って僕をこの世に押し戻した」
彼の顔が少し険しくなった。
「僕は知らなくちゃ生きていけない…なんであの時死ななかったのか…なんであなたが助けに来てくれたのか」
不確かさという魔物に僕が嬲り殺される前に。僕は両腕で頭を抱えた。気が狂いそうになっていた。
「兄貴が僕を選んでいないのなら、なんで僕が生きていなきゃならないの!?」
僕は半狂乱だった。高速を走っていなかったら、僕は彼に縋りつき、激しく求めていたかも知れない。でも彼の車で高速で事故は二度と起こしてはならないという抑制が、僕の身体をかろうじて引き止めていた。
「助けて…助けてよ…僕には…あなたしか…いない…んだ…」
何も言わない彼を僕は見上げた。だが彼は僕の顔も見ずに、酷薄な顔で片方の口角を上げただけだった。まるで僕を蔑むように。