冷酷な顔の彼を久しぶりに見た。寒気がした。この人にしか支えられない僕の心と身体を、どうにでも弄べる…なんなら放置して僕が苦しみ抜くのを意地悪く見ていることもできる。嫉妬が彼の怒りを増幅させる。僕が助けて欲しいというのは虫の良いことなのかも知れない。残酷な犯罪者の顔が再び現れる。兄と僕を嫉妬を原動力に陥れ、復讐したあの彼の中の消えないその側面。
だが、冷酷な復讐よりも、彼に見捨てられる…その怖さに僕は抗えなかった。僕を見て…お願い…今日だけでいい。僕を許して下さい。お願い。無視されるより、復讐のほうがまだ救われる。恐怖に耐えられず、僕は座席に小さくうずくまってうわ言みたいにつぶやき続けていた。なにか言えば彼の嫉妬心に燃料を注ぐことになるだろう。それで彼が僕を打ちのめしてくれればそのほうが僕はまだ幸せだと。
「苦しい…苦しくてもうダメになる…ほんの少しの情報もなくて…生きてるのか死んでるのか…それさえずっとわからなかった。確かなことがなにもないのは地獄で…憶測しかないんだ…出てくるのは推測だけ。不安がどんどん大きくなって…それを殺すためにありもしない話を自分の中で繰り返してた。兄貴が死んでるかも知れない可能性をどうやって否定し続けるか…ぬぐってもぬぐっても拭い去れない…不安で。それを押さえつけるような最悪の妄想…僕は兄貴にはもう必要無いっていう…その自分の妄想に心を折られるんだ……耐え切れないんだよ…僕は何も見えない道を歩かされてる…どんなに泣き言を言っても頭が狂っても引きずられるまま…誰にも止められないんだ…兄貴に捨てられたなんて…ほんとは僕は想像もしたくない…でもそう思ったほうが良いって、僕の中のなにかが囁くんだ…そう思えば楽になれるって…僕はその声に誘われた。そしたらそっちに行こうとするだけでまたクスリが欲しくなった…欲しくて欲しくて…この意識が消えさえすれば、もう何でもするって…母親から遺品の話を聞かされたとき、僕は奈落に落ちていくように感じた。そのとき僕は兄貴の昔の言葉を思い出した。なにか秘密があることはどこかでわかってた。でも教えてさえくれなかった。秘密に触れることを一瞬で拒絶された。そのときはそれでいいって思ったんだ。でも…その兄貴の言葉が母さんの言った遺品の話と繋がっちゃって…それが兄貴の親父への嫉妬と重なって…やっぱりあの二人の間に入ることなんかどうやっても無理だって…その気持ちから…どうやっても抜け出せないんだ…!」
彼は薄笑いを浮かべながらそれを聞いていた。
「兄さんと彼の秘密か…嫉妬で灼けつくようだろう。どんな言葉だったのか知りたくなる。君の兄さんへの愛をこんなに歪ませる言葉とは…」
そう言うと、クククと小さく声に出して笑った。
「こんなねじれた嫉妬が共有されようとは! 実に愉快だ。薄汚れた感情で苦しむ薄汚れた君…これをあのとき見たくて私は君を凌辱し続けたというのに。私が冷酷だとそれは見られず、こんなに君の幸福を求めているのに、君が貶められていく…欲しいものはやはりこうやって手に入らないのだな」
そして僕をチラッと見た。蔑んだ視線でも、僕にとってはないより数百倍マシだった。
「さあ、言うんだ。君はなにを兄さんから聞いた?」
あの時の拒絶感を自分から言うなんて考えられなかったが、彼が味わっている嫉妬を共有しているというその言葉が、僕から訊きたいという彼の意志が、不意に投げられた僅かな視線が、壊れそうな僕の口を緩ませた。
「…兄貴の部屋が…汚くて…散らかってるって以上に…いつもとっても汚くて……食べ物が腐ってたり…シンクもカビてて臭っていて…いつも僕がみんな片付けてて…洗ってない洗濯物の山を…コインランドリーに運んで…。それである日何気なく聞いたんだ。なんでこんな散らかるの?って。ゴミだけでも捨てられないの…って。いくつか訊いたけど…でもはっきりと理由は言わなくて…それで『秘密なの?』って訊いた。そしたら兄は『秘密って言えば質問終わるの?』って…言った。それだけなんだ…でもその言葉が刺さったんだ」
それを聞くと彼は懐かしそうに眼を細めた。
「それで?」
「そのあとは…心配させてごめんって…我に帰ったみたいに謝ってくれた。でも、だからっていって僕の質問には触れることはなかった。もうなにも問うな…って言わんばかりで…僕は兄貴のそこからは完全に拒絶されて、締め出された」
「そしてなにかはわからないまま、また今回も妄想で補完するというわけか。ああ、そうだったな。本当に彼は片付けられない男だった。特に彼が亡くなってからは本当に酷かった。キッチンや便所からいつも腐臭がしていて、臭いが酷い時は罰として彼を裸で浴槽に入れて、頭から腐った牛乳やカビたジュースや缶コーヒーの残りを掛けて、その上から私が放尿してやったこともあった。そのあと皮膚が赤く剝けるまで食器用の洗剤と固いブラシで自分で、自分を全身長い時間何度も洗わさせた。真冬に冷たい水でな…もちろんその間はお前は便器だとか汚物だとか豚みたいに臭いと言葉でも散々虐めて、洗う度に顔に唾を吐きかけてやったが…まぁ、破滅したい人間が部屋を片付けるなど愚の骨頂だがな。君の兄さんもその責めには泣きながら震えて悶えていたよ。その後、縛り付けて剝けた皮膚にムチを当ててやると、ビクンビクン魚みたいに跳ねて苦しんで、それでも射精するほど淫らにヨガっていたな。懐かしい思い出だ」
彼が薄ら笑いで語るゾッとするような辱めに僕は身震いした。彼は尚も続けた。
「だが、まったく同じ光景を私は知っていたからな。彼の父が君の兄さんに拒絶され去られたとき、彼の部屋は瓜二つだった! まるでデジャブかと思ったよ…激しい憎しみが湧くほどにな」
もう彼は笑っていなかった。初めて知るその事実に、僕は再び胸を掻き毟られるような苦痛を覚えた。
「…おな…じ…って」
「ああ、彼らは似ていただろう? 部屋の汚し方、服の脱ぎ散らかし方まで、遺伝病のように似ていた。私が入り浸っていた頃は私が君のように片付けていたよ。だが、吐血して私を拒絶してからは…」
そこから兄貴とあの男が再会したのだ。
「きっとまた、あのマンションの部屋は汚れきって悪臭の漂う場所だったろうよ」
「…兄貴は父親に呼ばれて逢いに行って…その部屋を見たんだね」
「ああ…そうだろうな。そして自分も同じことをしたときに気がついた。愛する者を失った絶望によって、自分の居場所が同じ形のカオスに溢れ、散り散りに崩れて、そして腐っていくのを」
それでわかった。わかった気がした。なぜ兄が僕に部屋が片付けられないか、その理由を言わなかったことが。あの頃は兄は僕だけのものになっていた。でも死んだ父親のことが頭から離れなかった。散らかした部屋を眺めて思い出す父親の部屋…後悔と罪悪感…自分が拒んだから父親は病み、そして人生の半ばで自死のように身体を壊して死んでいってしまった…と。
「父親に似てるから…そう兄貴…僕が…傷つかないように…言わなかったん…だ…」
「そう思えるのか?」
「だって……それしか…思いつけないよ…兄貴は…ウソつくの…得意じゃない。きっと独りになると…片付ける気力も…なかったんだ。同じ景色の部屋に、独りでいたら」
僕だけが知らない、父親のマンションの部屋。彼も兄も知っているその部屋…僕だけ仲間はずれの。
「そうだ…それでいい」
彼の口元が再びうっすら笑っていた。
「知らない部屋の不確かな秘密だ…それだって正解かどうかなどわかっちゃいない。でもこれで君は自暴自棄の一歩前まで戻ったな。その絶望と孤独の方が正直な君だ。寒いだろう? 君が自分の中の愛を守るか否か、選択肢などいままで君には無かったのに。愛だけがある、それ一択だったのにな」
うっすら笑った唇からは今やククっと笑いが漏れていた。
「私の存在が君に選択肢を産んだ…最悪だ。私にも最悪なのだ。君をいま落としても絶望…君の本心を聞けば嫉妬…私もどちらを選んでも最悪だ。寒いのは君だけじゃない。むしろ私の方が…だがそれは君も同じとしておこう…いや…違うかな? それでもまだ私に抱かれたいか? 」
「僕は…」
僕は懇願した。
「お願いだから…あなたの決めたスタートラインに立たせて…今、僕は全世界が灰色に見える。兄が戻るまでに僕が自分で自分を葬らないように…今僕は自分で自分にこれからも生きていく約束できない…あなたしか…いまは僕を生かすことができない…それは兄貴でも親でも親友でもない…あなたしか…僕を生かすことが出来ないんだ…」
「どうして欲しい?」
彼は僕を見た。
「助けて下さい…今日はあなたに抱かれなくちゃ僕は…生きていけない…薄汚れて価値のない僕を…あなたの憐れみで今日だけでいい…抱いてくれますか?」
絶望にまみれて汚れてしまった僕を、あなたが抱いてくれたら…きっとまた薄汚くても生きていける。初めて僕はそう感じた。
「わかった。私が君を助けよう。だが、私が望むだけ何度もそう懇願するんだ…私に助けてくれと。私しか、今、君を救うべき者は存在しないと」
いつの間にか高速を下りていた。着いた場所はホテルだった。部屋に入ると互いに服も脱がずにベッドで抱き合った。こんなに互いに求めたことはなかったかも知れない。痛いほどのキス。いつかは消えてしまうかも知れない、僕とあなたとの絆。互いの届かない愛と嫉妬に同じように苦しんでいる僕たち。それでも、互いを支え合ったこの日々をまるで刻みこむかのように、僕達は相手の身体をむさぼりあった。
僕は泣きながら彼に許しを求めた。何度もごめんなさいと繰り返して、それは止まらなかった。謝るたびに僕の身体は震え、溶けて痺れるほどに感じた。彼はそれを止めなかった。そして僕の頬を思うままに平手で打った。その痛さが僕の罪悪感と孤独をを救い上げた。打たれてベッドに倒れこむ僕の胸ぐらをつかみ、床に引きずり落とした。脅されて無理やり犯されていた頃に散々されたサディステックな責めを、再び激しい歪んだ愛の中で味わっていた。固い床の上ではだかに剥かれ手錠で繋がれる。繋がれただけで喘ぎ声が止まらなくなった。その声を塞ぐように彼の固い性器が喉の奥まで突っ込まれ、顎が痺れるまで口で奉仕させられた。射精した彼の体液をうまく飲み込めずに口の端から垂れ流したことをネチネチと言葉で責められながら浴室に運ばれ、穴の中を洗われながら激しく指で前立腺をこねられて僕も簡単にイッてしまった。シャワーの中で犬のように這いつくばらされて、後ろから深々と挿れられる。火照る身体がたまらなくて、我慢できずに声をあげると、彼の嗜虐心が煽られて僕に意地悪く囁く。
「ヤクザの監禁部屋でこんな格好でキメられて犯されていたろう? よがって叫んで…薬漬けで最高に気持よかったか? あのヤクザの男のぶっといモノでえぐられて、腰を振って狂ってたんだろう?」
腰をくねらせながら僕がごめんなさいと言う度に彼は固さを増し、激しさを増した。そして僕が彼の唇を求める度に「助けてください」と僕に言わせた。身体を拭かれて再びベッドに上げられると、裸の身体中の傷を彼は恍惚とした顔で眺めた。両足を抱えられ、また深く挿れられる。彼は挿れたままその傷を唇と指でくまなく弄んだ。
「この両腕の傷は私のものだ…」
彼が耳元でささやく。
「君が欲しい…君が…君をぜんぶ」
「くあああっ…!」
それを聞いたとたん頭の中が真っ白になり、僕ははじけた。彼の白い腹部に僕の体液がしぶき、それを見た彼は深く吐息をついた。
「すぐ…私も…いく」
彼が喘ぐ。その声が愛しい。僕もまた高まる。
「だめっ…また…イっちゃう!」
「何度でも…イクんだ…ほら…」
乳首を甘く噛まれると、もう止められない波が襲ってきた。
「いやぁぁぁっ! イクぅっ!!」
「あ…イクっ…」
同時に彼が低くうめいた。すでに何度も出されて中から溢れてくる。だが、それでも彼のモノは緩まなかった。イッてグッタリした身体に構うこともなく、また体中の急所をこれでもかと責められて、射精もなく僕はイキ狂った。朦朧としながら終わらない性感の中で、僕と彼は果てしなく昂ぶり、互いに狂乱し続けた。
「静かだな…」
狂宴が終わったあと彼は、ベッドの中で僕を抱き締めてそう呟いた。口の中がどこか切れて血の味がうっすらした。
「最悪だと理解していても、これでも私はこの上なく幸福なんだ…いまこの瞬間が」
彼の顔を見上げると、僕を見てゆっくり微笑んだ。
「この世は無常だ…すべては保証のないただの偶然、もしくは誰も抗えない運命…私は抵抗し続けたから良くわかる…変えることは出来ない」
僕は黙ってうなづいた。
「この瞬間の幸福から踏み出すのがとても怖くなる…無常が私を待っている…君にもだ…私の救いは君がそれを知っているということだ」
彼は笑った。
「君は私よりも早くそれを悟っているんだな」
「違うよ…」
僕は力なく彼の胸に頭を預けて言った。
「僕は…無力なんだ…それだけ」
「それを知っているなら同じことだ…だから君は自分の力に頼らない。運命を受け入れる…私すら受け入れた…バカな子だ」
バカな子と言った唇が急に降下して、僕の唇をふさいだ。
「んっ…」
甘さが脳を直撃する。脳震盪みたいなキスに僕は耐えきれず喘いだ。長い指が僕の股間を再び弄ぶ。グッタリした身体がそれでもピクンと震える。腰の抜けた僕を意地悪くもてあそびながら彼は僕に言うともなく呟いた。
「なにかが明らかになっていく。謎が増えることもある。その中で君と私は今のままではいられなくなるだろう。君はまた今まで以上に苦しみ、私も苦悩の中に溺れる…だが…」
彼は目を閉じた。愛撫をやめると、両手が僕の腰に回された。
「私が一瞬でも、自分の幸せよりも誰かの幸せを思った…その奇跡があれば、孤独でも…生きていける…」
その時、閉じられた彼の目からひとすじ涙が伝った。僕は自分の目を疑った。
「どうしたの…?」
彼は流れる涙もぬぐわずに答えた。
「私を…泣かせてくれ…」
「どうして…?」
「過酷な運命を受け入れているんだ。今日くらい君のように…ただ泣いていたい」
僕はその日初めて彼の涙を見た。その涙の意味すら、まだわからないままで。
『Lascia ch'io pianga』
私を泣かせて
Lascia ch'io pianga
mia cruda sorte
過酷な運命に涙し
e che sospiri la liberta.
自由に憧れることをお許しください
Il duolo infranga
私の苦しみに対する
queste ritorte
憐れみだけによって、
de'miei martiri
苦悩がこの鎖を
sol per pieta.
打ち毀してくれますように
『リナルド』より“アリア” ヘンデル
次回は31日の更新予定です。絶不調中…