わたしはなにもしないということを知りながら
なんであれ、起こるに任せて行為する
そしてわたしは、幸せだ
(アシュターヴァクラ・ギーター)
梅雨が明けない。太平洋高気圧が弱い、とかで、寮の食堂のテレビのニュースをボーッと見ていた。
復学の話はまた今度に持ち越し。それより、彼の涙が僕の心から消えずにあの日からずっと再生し続けていた。なにかの予感、彼が知ったなにかが僕との関係に決定的に作用する予感。兄が生きてる。冷静にいま考えれば、それしか考えられない。
そうだね。苦しみの限りを彼と僕は味わう。そして兄も。その運命を彼は、一瞬垣間見たのだろうか。
(苛酷な運命に涙し、自由に憧れることをお許し下さい)
ヘンデルのアリア。『私を泣かせてください』。帰りの車の中でその曲を聴いた。
(他人の運命でなく、自分の苛酷な運命のために泣いて欲しいものだ…ヘンデルの歌曲のようにな…)
いつだったか、まだ病院に居た頃だった気がする。彼から責めさいまれて突き刺さったその言葉を、彼と別れてから思い出した。
彼はどこからその予感を兄の情報として得たのだろう? 以前言っていた兄の父親の線なのか、それとも『身内』の線なのか。確信のない話を聞くべくもなく、遺品の件も関わりがあるのか、ないのか。上からの圧力のある中での捜査に、僕があれこれ訊くのもためらわれた。
だが…きっと事態は動く。まるで途中で止めることのできないドミノ倒しみたいにそれは、次々と連鎖していくのだろう。そして、彼は組織の中でどうなるのだろうか。そうじゃなくても微妙な立場なのに。例の組織内の“知人”にはもう頼れないのだろうか?
(孤独でも…生きていける…)
僕が兄と再会し、兄を選ぶから? つまり兄は…失踪は…
兄自身の意志ではない。もしかして、そういうことなのか。それを予期していたから彼は…。斎田弁天の漆黒の闇に立つ彼の姿が、不意に蘇った。もしかしてあの夜彼は、運命を大いなる何かに預けに行ったのかも知れない。風の中に立ち、本殿に無言で対峙していた彼の姿。あの時はわからなかったそれは、彼の決意…? あのゾッとするほどの彼の美しさを僕は忘れられない。それはすでに彼がなにかを知って、だからこそ…
失踪からもうすぐ一年経つ。止められないドミノ倒しはもうあの日から始まっているんだ。兄が消えたあの日から。
雨の中独り、今日という日を迎えた。兄のいなくなったその日を。1年という月日、1年という重さ、すべてが灰色になった1年の記憶。その中でひとつだけ、色を持つあの人との再会の映像。だがそのたったひとつの色も、刹那を彩る夕焼けのように色を変え、闇に飲み込まれていくように感じた。7月を僕は二度と受け入れられないように思えた。もしかしたら、この人生も。
(誰の意志をも超えて、因果の収支が釣り合わせられる)
頭の中に突如なにかの声が響いた。幻聴なのか? 声のあまりのリアリティに固まったまま、僕はしばらくそこから動けなかった。
数日後、朝から1本の電話が携帯を鳴らした。警察だった。僕のあの事件での証言で曖昧だったところをもう一度確認したいということだった。担当が車で迎えに行くから1~2時間でそちらに着く。所長には連絡済みだというので、僕は急いで出掛ける準備をした。30分ほどすると、車の音がした。所長が僕の部屋に来た。警察の方が迎えにきてるけど? 僕はすぐ行きます…と答え、玄関に向かった。1~2時間って言ってたのに、ずいぶん早い到着だな。
小雨がぱらつく中を、スーツ姿の私服刑事のような人が僕を車に案内してくれた。車の後部座席を開けてくれて、僕は乗り込んで待っていた。刑事のような人が所長になにか玄関先で二、三言話していたが、所長は急に僕の方に向かって小走りで近づいてきた。だが所長より早く刑事が運転席に戻って来た。所長が車の窓を拳でドンドン叩く。なにが起きたのだろう? 刑事は窓を開け所長に言った。
「時間がありません。とにかく先ほど申し上げたようにして下さい」
「あの、あのね、どういうことか詳しく説明して下さいよ」
所長が食い下がる。いつもの様子と違う。なにかマズいことが起きてる…?
「すみません。いま詳しく説明している暇がありませんので。彼を守らなければならないんで…身内ながら…あとから来る連中に彼を引き渡すわけにいかないんです。とにかく彼は今、外出中でいないとおっしゃって頂ければ良いです。私のことには一切触れないで下さい。内部不正の摘発がかかってるんで…彼は巻き込まれてしまっているので保護が必要です。この情報は他言無用ですよ。あなたも標的になりたくなければね」
刑事は窓を閉めた。所長は食い下がるのをやめた。僕たちの車が走り去るのを所長は無言で見つめていた。
「あの…僕の担当官は知ってるんですか?」
急速に不安が増大していくのを押さえつけながら、僕は刑事に尋ねた。
「もちろんだ。だから保護を頼まれたんだ。急なことですまないが対象が予想外の動きをしたものだからね。少々目的先行になった…所長さんには申し訳なかったな。」
そして刑事は僕に警察手帳を見せた。
「公安課の者だ」
あまりこういうことに詳しくない。でも公安って刑事ドラマでしか見たことがないし、警察と公安はいつも仲が悪いような筋書きだった気がするけど…
「あの…さっきの電話をくれたのは刑事さんじゃないんですか?」
「いや、私じゃないよ。正確にはここの県警の名前を使っている警察…まあとりあえずあまり現状は話せないから質問には答えられないことが多い。申し訳ないが知ったことは口外はしないこと。これは約束してもらいたい。ことがまだ終わっていないからね。報道にも乗らないだろうから、全貌を君が知ることはないかもな」
ああ…なんてことだ! 彼の心配が的中した。とうとう巻き込まれた。これは僕の事件? それとも兄貴の? 事態が動き出したのだろう。でもこれからどうなるのか何が起こっているのかまったく理解不能。この人が敵か味方かさえ。
「…これ…僕の関わった事件の影響なんですか? それとも…」
質問するなと言われたが、こらえきれず僕は刑事に尋ねた。
「それは後でね」
刑事に軽くいなされて、僕は事件の質問を断念した。この人が本物の公安警察なのをただ祈るばかりだ。もし違ったら…殺されるのかな…? それともまた監禁? 拷問? 本当に彼が僕を保護しようと? 不安と恐怖にうんざりした。もういい。こういうのはもう勘弁してほしい。いま信じられるものは、彼の仕組んだセーフティネット…もしそれがあれば…だけど。彼なら僕がいつどこでこんなことになるのか察知出来ないわけがない。その防御が発動したんだ…と思いたい。それで僕は『非常時の際に母の用いる方法』を取ることにした。答え:現実逃避。
「あの…公安って…普通の警察とどう違うんですか?」
この質問には答えて欲しいなと僕は心底願った。刑事さんの語る公安はいまいちわからないこともあったが、個人的な殺人とか盗みとかじゃない、国家を危険にさらす団体、例えば外国のテロリストやスパイや、国内の反体制的な政治団体とか、あとはカルトな宗教団体とか、そんな団体を見張ったり摘発したり防犯している、ということだった。
「ことが起きてからでは遅いからね。阻止が最も大事だ。そのためには正確な情報の入手がとても重要になる…それは解るだろう?」
「はい…まあ…」
「だが我々の動きを感づかれてはならない。誰が公安なのか知られないようにする。何を知ったかわからないようにする。これらに最大の注意をはらって捜査が行われてる」
「CIAみたいですね」
「まあ…ある意味似たような部分もあるね」
「…でも」
「なんだい?」
その話を聞いた最大の感想を述べた。
「国家的な危機に僕が関係してるとは思えません」
「私もそう思う」
刑事さんは笑って答えた。僕は少しホッとした。
「良かった…刑事さんもそう思いますよね」
それを聞くと刑事さんはまた笑った。
「私は刑事じゃないよ」
「え…?」
一瞬背筋が凍った。刑事じゃ…ない…?
「捜査官ではないよ」
僕は思わず聞き返した。
「け…刑事さんじゃ…ないの?」
警官…じゃな…い? もしかしてこっちが…出しぬかれた!?
「違います。庶務です。つまり事務方だよ。公安は刑事だけじゃないんだよ。まあ…こんな仕事あんまりしないけどね」
一気に緊張が抜けた。めまいがしそうだった。庶務…さん…でしたか。ああ…もう勘弁して欲しい。
「ほら、さっきも言ったけど、公安の捜査員は面が割れたら終わりだからね。私は捜査しないからということで上司の直々の指令…ごくたまにあるんですよ」
「そうですか…知りませんでした」
僕はシートにぐったりともたれた。
「当たり前だよ。その歳で公安なんか詳しかったらスパイだ。ああ…それかオタクね」
冷房の効いた車の中で、額と脇の下に汗をかいていた。安堵と不安を何往復したら自分の状況が見えてくるんだろう。知らない人に身を委ねている、その不安定感がたまらなく怖い。
車は高速にも乗らず下道を走り続けていた。ここがどこだかわからない。降りだした雨はだんだんと強くなり、ワイパーが早さを増していた。今ごろ県警は僕を探しているのか。所長はごまかしきれたんだろうか。彼はなぜ僕に連絡してくれないのか。一体僕は誰からどんな危険にさらされているのか…公安の説明が切れて妄想が次々わく。説明聞いても逃避にならなかった…ここでパニック発作でも起こして気を失うほうがマシかも。
「あの…どこに…行くんですか?」
答えてくれそうにない問いだが、なにか話さずにはいられなかった。
「そろそろ着くよ」
「は? そうなんですか?」
答えてくれたことに意表をつかれて、声が変な風に裏返ってしまった。着いたのは大きなマンションだった。またか…悪夢のようだ。覚めない堂々巡りの夢? 監禁の記憶がフラッシュバックした。マズい…本気でパニックになりそうだ。
「け、警察署とかじゃないんですか?」
額の冷や汗を手の甲でぬぐう。
「ああ、居場所がわかっちゃうだろう? ここは身に危険がある被害者とか裁判の証人とかの一時退避する公安のシェルターだから大丈夫だよ。県警も知らない」
そんな場所があるのか。説明されて少し持ちこたえるが、ドラマみたいで現実感がなくなる。元々ない現実感なのに、それが更に希薄になった。
マンションの前の駐車場に車を止め、公安の庶務さんは僕を連れてオートロックの前に立つと、部屋番号をメモを見ながら押した。中に誰か居るんだ…誰もいなければ大抵鍵を差して回す。ここもそうなってる。中に彼が居て欲しい。そう願いながら僕は促されるまま庶務さんとエレベーターに乗った。部屋に入るとルームフレグランスかなにかのほのかな香りがした。玄関は掃除され小綺麗にしてあった。男物の黒の革靴が玄関にあった。廊下の先にドアがあった。
「上がって。着いてきて」
先に廊下を歩く庶務さんが玄関にいる僕を呼んだ。
「入ります」
居間との境と思われるドアを開け、庶務さんが入っていった。
「ご苦労…君は部署に戻りたまえ」
「わかりました。では失礼します」
知らない男の声が聞こえてきて、庶務さんが僕を廊下から部屋に通し、入れ替わりに帰って行った。2DKくらいの間取りなのだろうか。八畳くらいのフローリングの部屋に簡単な応接セットがあり、奥にはまたドアがあった。その男性はソファーに腰掛けていた。白髪まじりの髪と顔の感じでは50代くらいの男性だろう。一見穏やかに見えるが、メガネの奥に見える眼は鋭くて一瞬怖さを感じた。
「こんにちは。座りたまえ」
低い声で彼はそう言った。誰かの声に似ていた。
「あ…はい…」
その男性と目を合わせないように、僕は彼のはす向かいのソファーに腰をおろした。
10月も終わりますね…早いものです。11月もこの調子でUP継続したいと思ってます。2日頃予定。