地は彼らの前におののき
天はふるえ
日も月も暗くなり
星はその光を失う
《ヨエル書 第ニ章10節》
彼は貧血を起こしていた。幸いなことに出血はなく、ショック状態の低血圧と低血糖を起こしていた。内視鏡が終わり出血がないと知らされ、兄と僕は安堵した。あの身体であの話は過酷だったとわかっていても、それでも話さなきゃならないこともある。彼にとってもそれは身体よりも大事なことだから…
医師に促され僕らは帰ることにした。彼は点滴を受けながら僕に言った。
「また必ず来て欲しい」
兄は僕に囁いた。
「来てあげて」
僕はうなずいた。複雑な気持ちになった。
帰り道僕は少し兄に近く居れた。僕の心が少しだけ兄に寄り添えるようになっていた。兄が時おり僕を見ている。その眼差しが愛しい。胸の中に温度が戻ってきたような温かさがあった…久しぶりの温度。だが真相はまだ半分しかわからない。なぜ兄が父親の入院を知らなかったのか? なぜ父親の不在の部屋であんなことが起きたのか? 事実はまだ闇の中だ。それは明るみに出る日が来るのか? 僕にはわからない。ただ彼は何か気づいている。彼がショックを受けて倒れるほどのシグナル。あの…兄を壊した奴らがもしかすると…彼の知り合いなのか。あんなやつらとの接点って…彼はどんな人付き合いをしてるんだ? 僕は少な過ぎる情報を頭の中で切り貼りしながら、もう一人の重要な誰かを思い描いていた。でなきゃこのパズル…埋まらない。誰か関わってる。彼がショックで倒れるような誰かが。
日が暮れて辺りは真っ暗になっていた。この電車…4回乗った。帰宅ラッシュが始まりかけていて、座っている僕らの前には大勢の仕事帰りのサラリーマンやOL達が手すりや吊革につかまって、電車の中は混み合っていた。僕は兄が発作を起こさないか心配になった。
ふと兄を見ると、いつもの耳栓替わりのイヤホンを兄がしていないことに気がついた。僕は思わず兄に尋ねた。
「兄貴…音楽聴かないで大丈夫?」兄ははっとして言った。
「忘れてた」それは良い兆候だった。
「忘れてても平気ってこと?」
「あ…うん…そうだね…ホントだ」
兄自身が意外そうに笑った。兄のそういう笑顔を久しぶりに見た。僕の罪が少しは贖えただろうか…また前のように兄に触れても許されるだろうか? でもまだ予断はしちゃいけない。僕は期待にすがりたくなる気持ちを横に押し退けた。電車の中は暖かく、僕はいつの間にか兄の肩にもたれて眠っていた。長い一日が終わろうとしていた。だが僕のトライアスロンはまだ終わってはいなかった。
あまりの疲労感と久しぶりの安堵で、僕の身体と心は限界に達しかけていた。夕飯を食べ風呂からあがると僕はベッドに倒れこんでいた。ひたすら眠りたくて時間も構わず、僕は布団に入りすぐに意識が落ちた。
真夜中、誰かの気配でうっすらと目が覚めた。身体に手の感触がある。すぐに兄だとわかった…
兄貴…? 一瞬のうちに僕は意識を取り戻した。兄が僕に寄り添っている…! 僕は暗闇の中手探りで兄の身体を求めた。兄の指が僕の指に絡まる。ああ…僕は兄の胸に顔を埋めた。
「ごめん…お前疲れてるのに」
兄は耳元で僕に囁いた。僕は…いいんだ…と言って、兄の指を握りしめた。互いに互いの痺れが伝わるのがわかるほど、僕たちは重なり合っていた。兄が激しく僕を求めてくる。身体が熱い。兄の指が僕の身体を執拗に弄ぶ。
「兄貴…どうしたの…」
僕はいつもと少し違う兄の愛撫に戸惑いを感じた。兄は息を殺して囁いた。
「ごめん…止まらない」
「いつもと…違う…よ」
僕は喘ぎながら兄に問いかけた。
「だめだ…狂いそうで」
「狂い…そう…?」
「お前のおかげで…心が救われた。そうしたら身体が開いて…だめだ」
「あに…き…僕は」
「お前のせいじゃない…お前には感謝してもし足りない…」
「あっ…あっ…声が」
あまりの激しい愛撫に僕が耐えられない。
「俺は…狂ってる…お前のこと…おもちゃみたいに…こんなに」
ああ…なぶられてる。
「兄貴…も…許して」
「もっと…したい…もっと…」
兄は今までと違う壊れかたで僕を責めた。兄は止められなかった。今までの抑圧が解放された隙間から噴出した熱い熔岩みたいに、僕を燃やし尽くそうとしてる。あの時の僕と同じだ。兄を貪った…あの夜。僕には兄を止める資格はない。暗い…狂気が…僕にも感染りそうになる。僕は声をあげないよう枕を噛み締めて耐えていた。その耳に兄が荒い息の中で囁きかけた。
「俺がまだ小学生の頃…親父が別れた母に内緒で俺に会いに来てた。クスリをやってた…タチの悪い薄汚いゲイバーに通ってて…そういうパーティで俺はあいつの仲間からも…まわされてなぶられた…親父は人生を投げていて…壊れかけていた。俺はそんな親父を見捨てられずに言いなりになって…繰り返しそんな目にあわされてた」
兄は僕を貪りながら僕が初めて聞く過去を告白し続けた。
「嫌なのに身体がだんだん狂っていくのがわかって…俺はそれなしでは耐えられない身体になっていった…多分嫌だから快楽で耐えてるしかなくて、そんな風に身体を馴らしてしまって…俺はそれを…お前に教えてしまった…俺がお前をこんなにした…俺を救ってくれたのに…それなのに俺は…止められない…」
兄に貪られる。それは僕にも初めてのこと。兄はいつも僕に与えてくれてた。していることは同じ…なのに。これは…奪われてるんだ。これが奪われてる感覚…ああ…愛じゃない…魔的な衝動につき動かされてる。兄はこれを…父親から…ずっと…兄が渇望を満たす分だけ。僕は奪い取られる。痛み…心が渇いてしまいそうな…
だけどその時僕の身体にも、悪魔が入り込んでくるような異様な快楽が襲ってきた。身体が反り返る。入っ…て…くる…僕は身体の中に生暖かい黒いモノが押し入ってくるような幻覚を見た気がした。
「…一度だけクスリを使われて犯されたことがある…あんな快感…知ったら…まるで人間じゃなくなる…猿みたいに…みんなも俺も悪魔に取り憑かれたみたいになって…身体から消えないんだ…どれだけ出し尽くしても…足が萎えても身体から快楽の火が消えない…苦しくて苦しくて…また親父の元へ…嫌なのに…ヘドが出そうなのに…自分を裏切り続けて…自分を傷つけて…お前も傷つけて…」
兄はうわ言のように、今まで口にもできなかった忌まわしい陰惨な過去を吐き出していった。
「俺は自分の身体が許せなかった…自分の周りの誰とも共感出来ない忌まわしい性癖も…現実も…」
兄は僕への愛撫を緩めることなく話を続けた。
「…悪魔が父親だったばっかりに愛さざるを得なかった…だけど…俺も同じなんだ…お前は悪魔が兄だったばっかりに…」
兄は大きく息を吸い震えた。
「お前を俺は汚し続けてるんだ…俺がされたことなぞって…いまも…だけど…今日…止まらない…あの時のクスリと同じ…だめだ…」
兄はずっと僕を汚し続けてるとそう思ってるんだ…僕は愛されたことしかなかったのに。僕は兄に後ろから貫かれたまま、手で口を塞がれて身悶え続けた。その中で僕は首を横に振った。
喘ぐ息のなかで僕は口走った。
「兄貴に汚されるんなら…それで僕は…構わないよ…兄貴が僕を壊すなら…僕は壊される…」
僕は首をいっぱいにひねり兄の唇を探した。
「でも…さ…兄貴…ぼくは…汚されてない…んだ」
兄の口に舌を入れ口移しに囁いた。
「愛してるんだ…汚せるもんなら汚してよ…早く…僕も…もう…狂ってるよ…良いんだ…兄貴になら…たとえどうされたって」
大丈夫…兄貴。狂気の連鎖、僕が終わらせる。だからもう壊されても構わない。だって兄貴、彼に抱かれて…きっと兄貴もそう…思ったんだよね…きっと…
明け方まで続いた兄との狂宴の紅い残り火を抱いて、僕はほとんど寝てないまま始業式をむかえた。
めまいがする。まだ兄の感触が生々しく残っていて日常にいるのが辛い。久しぶりの学校の友達に意識が飛んでるのをからかわれても、大したリアクションも出来ず呆れられた。
…無理だ。僕…生きていけるのか? 日常とかけ離れた不安しかない。この冬休みを越えて僕の中に残しておいたこの世で生きて行く上で最低限必要なはずの《日常性》(だったっけ)は…脆くも消し飛んでいた。どちらが夢? こんな学校の夢も見るよね…頭が朦朧としている。いきなりゾクッとあの感覚がフラッシュバックする。教室の席に座り、机の上に突っ伏して放心しているしかない。僕はずっとこんななのか? 不便だ。だが日常に戻す気力はない。動機も失せた。兄に逢いたい。互いの身に巣喰っている悪魔が呼ぶ。呼びあって互いに繋いだ首輪の鎖を引き合っているような…もうだめだ。あはは…明日からどうしよう? 今日が始業式で本当に助かった。高校卒業…出来るのか?
学校が終わる。帰り際部活のやつに会う。明日から部活始まるぜ。お前さ…なんか有ったの? 僕は勘の良いそいつをほめた。人生が消しとんだ感じ。僕はそう答えた。やつは笑って言った。シド・ヴィシャスみたいに生きろ! え?誰それ? 知らねーのか…ググれ! そしてyoutubeで一日ピストルズを聴け! ピストルズ? うう…セックス・ピストルズだよ。お前パンクスじゃなかったっけ? そっかー僕はパンクスだったのかぁ。僕は自分がパンクスというカテゴリーに入ってるんだと知った。
「お前のギターは破壊的で好きだぜ。人生なんかよ…」
やつは中指を立てて言った。
「FUCK OFF!」
「…お前良いやつだな」
僕は珍しく人を短時間で二回ほめた。僕は兄の待つ家に帰った。
夜僕たちは早々とベッドに入った。風呂上がりにもう二人とも待ちきれなくて、互いに目で合図を送った。本当にダメになってしまうかも。僕は僕の中の悪魔に心の中で囁いた。悪魔が笑いながら腰を抱く。理性の蕩ける音が聞こえる。電気を消す。兄が僕のベッドに潜りこむ。
「我慢出来ない…ごめん」
兄はいつも謝る。
「ごめんはいらないから」
僕は兄の耳に舌を入れながら言う。
「僕の中の悪魔が許さない」
「お前は天使だ…いつだって」兄は僕にくちづける。
「日常がなくなっちゃった…僕」
「ああ…俺も生まれてから一度も」
「それでも兄貴は大学で研究までしてる…社会の中にいるよ」
「違うよ…俺にとって物理学は日常のない場所だ…俺はそこにしか居れない」
兄は今日も初めて聞く話を語った。
「無口も変人でカタがつく」
兄はクスッと笑った。
「俺にはあれがあるから正気の振りをしていられる…まるでこの世でちゃんとやれてるみたいに見えるだろ」
僕を弄びながら兄は続けた。
「物理をやってると…突然わかる」
「な…にを?」
「宇宙は完璧で…美しい」
その通りだ…すぐ忘れるけど。
「僕もそれを見たこと…ある」
兄は僕にキスした。
「自分もその完璧さに含まれていると思いたい…すると俺は悪魔さえも…完璧な宇宙の美において」
兄の愛撫が激しくなる。また今日も兄は狂っている。
「許さねばならない」
「ああっ…」
「しっ…声…出しちゃだめだ」
無理だ…こんな。
「あ…にき…も…無理」
「苦しいな…いつも」
「うん…」
もっと声を出して喘ぎたい。イクときに兄のこと呼びたい。朝から抱えこんでいた熾火が燃える。それが今は叶う切なさに互いに狂う。秘密という扉で抑えつけられた狂気、だけどもう漏れ出している。
「…気が…気が…狂う」
「ダメだよ…耐えて」
わざと弱いところを…見たことのない嗜虐的な兄。苛められてる? わざと? 僕が耐えるのを見て欲情してるの? やめて…聞こえちゃうよ。ああ…また…貪られてる。
「お願い…許して」
もう壊れる。兄は全く耳を貸さない。僕の声で更に嗜虐を重ねる。
「壊しちゃいたい…お前」
「きついよ…これ以上」
あの日解放されたのは、誤解とトラウマだけじゃない。兄の暴力性? …嗜虐?
「あっ…ああ」
「まだ…許さないよ…まだ…まだ終われない」
「んああっ…」
僕の口に枕元のタオルを咬ませる。
「ん…んん…」
「これで少し楽になる」
僕の耳たぶを噛みながらそう言ってなぶる。楽に…させないくせに。僕は兄のなすがままになる。こんなこといままでなかったのに。でも僕の中で今までと違う性感が生まれ膨張する。それがたまらない。悪魔の哄笑が聞こえる。こうやって此処に堕ちていくんだ。辛くて飢えるんだ…これから。僕は震えていた。飢えてるのは、なぜなんだろう。
「まだ欲しい…お前を食べ足りない。もっと…ぐちゃぐちゃにしたい」
「んっんっ…んっ」
甘くて苦い、生暖かい黒い沼にはまる。
「どうすればいい?…どうすればやめられる?」
そう言いながら激しさが増す愛撫。兄が我に返る…一瞬。
「ダメだ…こんな…お前…壊れる」
ああ…壊される。
「…俺のこと…やめさせて…」
兄の言葉に僕ははっとした。兄を振りほどいてベッドの上に起き上がった。片手でタオルの口輪を外して、まだ荒い息をついて横たわる兄の背中をさすった。
「あの人に…こんな風にされたの?」
僕は兄に小さく問いかけた。
「いつだって…いつも…いつも…同じだよ…お前以外は」
「これも発作みたいだ」
僕は思ったことを口にした。
「これが治まっていたのは、お前のおかげだから」
兄は少し正気に戻った声になった。
「お前は汚されない…だからいつも俺は驚く…薄汚れた俺まできれいになったみたいに見える…でも、お前から離れて客を取らされて…やっぱり自分が汚れてることに気づく」
兄は最後、自棄な声で虚ろに呟いた。
「身体は変わらない…だんだん開いてしまうのがわかるんだ…刻みこまれた刺青みたいに…いや罪人に当てられる焼き印みたいに」
兄の声が淡々と響く。
「この前も最初は死にたいぐらい苦しかった…なのに絶望のピークから脱け殻みたいになった」
兄の父が言ってたのを思い出した。《魂の抜けたボロ人形》と。
「俺のせいでお前が壊れかけてるとわかった時、俺はお前に取り返しのつかないことをしたと震えた。自分自身の存在に戦慄を覚えた。お前にあんな…あんな辛い思いさせるくらいなら…いっそ俺は死んだほうがまし…って」
それは僕が暴発した時のことだとすぐにわかった。兄は自分が犯されていることより、僕が壊れたのを自分のせいだと責めさいなんでいたのだ。
「俺はお前のまえから消えたかった。あの部屋は…此処を出て借りたあの部屋は…俺の墓場だった」