「コーヒー飲むかな?」
その男性が僕に聞いた。この人は庶務じゃないようだが。
「あ…はい…すみません」
男性は立ち上がりキッチンに消えた。立つと背が高いのがわかった。キッチンから音がして彼が戻ると、コンビニのサンドイッチとコーヒーがトレイに乗せられて僕の前に置かれた。
「昼飯の替わりだ。よかったら食べるといい」
「あ…すみません…いただきます」
ホントに保護されてる…のかも。食べ物をもらえると少し警戒心が弛むような気がした。野良猫みたいだ。
「そろそろ君の担当官が来る」
男性はソファーに深く掛け直した。
「そうなんですか!?」
僕は思わず口走った。
「来なければならない…というべきだろうな」
男性は変なことを言った。
「彼とはクサレ縁でね。いろいろとあるんだよ…」
もしかして…
「あの…それって…」
「ああ、聞いてるかな? 彼から私のことは…悪口だろうけどね」
そう言うと男性は苦笑した。
「あれがこんなに必死なのを初めて見る。その原因は君らしい」
その人はあまり表情を変えなかった。
「長い付き合いだ。彼の母親も知っている…最低の母親だったがな」
ドキッとした。無意識に僕は感じていた。この人と彼の関係について。
「母親から…愛されていなかったと彼…言ってました」
「ああ…あれは、あの女の道具みたいなもんだった。金儲けのな。しかもあの女ギツネは第一級の犯罪者だった」
男性の眼差しが翳った。とてもイヤな話だ。僕も聞きたくないような彼の、実の親から愛されていない過去。胸が悪くなる。兄の過去に重なって倍増していく。
「そして君の兄さんの父親は、あの女とグルだった…知っていたかな?」
それは唐突に手渡された蛇の死体みたいだった。実害はないのにとてつもなく気持ちが悪い感触が背筋を走った。遠近感が狂い始める。遠いものが近く、近いものが遠くに感じた。めまいを覚えるような、認識を捻じくられた感覚。
「ほんとう……なんですか…?」
僕はそれしか返せなかった。
「嘘じゃない。あの新聞記者は彼女の犯罪システムの一環を担っていた。犯罪が犯罪として成立しなくなるような、法をすり抜けるシステムを様々な形で仕掛けて保身を図っていたからな…ズル賢いが大した女だった。あの新聞記者はそのいくつもある逃げ道の一つだったと言える」
唖然とした顔しか出来ない僕に、男性は構わず話し続けた。
「あの男が度々特ダネを掴めたのはあの女のおかげだ。あの女は裏の世界の情報網のある部分を握っていた。しかも財界や霞ヶ関…永田町の香ばしいヤツをな」
母がランチのとき言っていた話がこんな時につながった。しかも最悪な情報として。
「あの女は財界御用達のある高級クラブの女経営者の私生児だった。父親が政財界の大物でその女経営者は愛人だった。その中で育ったあの女は“情報とは財産である”ということを人生で早々と知った。そして自分の育ちがこの世界では一生日陰者のままだということもな」
彼はソファーに深くもたれた。
「日陰者同士…あの新聞記者もだ」
男性は物憂げに呟いた。
「君の兄さんはあの女の息子と似ている…」
“兄さん”と言われ僕はハッとした。
「兄貴を知っているんですか!?」
「ああ、最近知った」
男性はソファーにもたれたまま、軽くうなづきながら僕に答えた。
「行方不明だとか」
「はい…」
僕は言い知れない失望をその言葉に覚えながらそう答えた。この人も兄の消息を知らないんだ。兄の話しが出た瞬間の淡い期待がまた一瞬で白紙になった。
「あなたも…兄の消息は知らないんですね…」
手付かずの冷めたコーヒーカップを、僕はじっと見つめていた。
「わからないわけじゃない」
「えっ…!」
一瞬心臓が止まりそうになった。
「ど…どういうことなんですか!」
僕は思わずソファーから立ち上がっていた。意味がわからない。わからないわけじゃないって、なんなの? 口の中がカラカラに乾いていて、それ以上声が出なかった。
「すぐさま口に出来ないのは公安がこれ以上個人の要件に関わるわけにもいかない、ということだ。情報は握っている。だがそれも公の捜査の結論ではない。ただ単に部外者の私の前を通りすぎていっただけだからな。あれのやらかした尻拭いも含めて、私はこの件に関してはボランティアみたいなもんだよ。しかも内緒のね。私がもみ消せることにも限度があるしな。そろそろ終わりにしたい。良いキッカケだよ」
「兄の居場所…教えて下さい」
「今はダメだな」
「なんでですか!」
僕は声を荒げた。
「等価交換だよ。あの女が若造の私に教えてくれた貴重な教訓だ…それだけの理由じゃないが」
「僕に何を出せと言うんですか? 切り札なんか何もないですよ!」
「いいや、取引の相手は君じゃない」
その人の威圧的な否定に、僕は一瞬ビクッとした。
「君はあれの心をつかんでいる。君自身が私の切り札だ」
その時インターホンが鳴った。
「噂をすれば…あれがやって来た」
白黒のモニターに彼の姿があった。
部屋に入ってきた彼はとても疲れた顔をしていた。思わず立ち上がった僕の姿を見て立ったまま軽く目を閉じて、肩で息をついた。ホッとしたのか嫌気がさしたのかわからないような仕草。まあ…それはいつものことだが。
「なにがどうなってるの?」
たまらずに僕が尋ねると、彼はとても機嫌の悪い顔で立ったまま男性に視線を向けた。
「お前が知らないことも起こるんだぞ。せっかく保護してやったのに、礼の一つも無いのか」
男性は彼の威圧的な不機嫌さをまったく意に介することなく、彼を見もせずソファーから答えた。
「相手だってバカじゃないんだ…わかるよな?」
彼の顔色が一瞬変わった。沈黙が怖い。
「……」
「ネズミを追い詰め過ぎたな。あれでも噛まれると結構痛いんだぞ」
それを聞いて彼はチッと舌打ちをした。
「ネズミじゃない…ウジ虫だ…」
「まあ、お前が撒いたタネだ。当然の報いだ。始末はつけろ」
「そっくりそのままその言葉を返すぞ…責任取ってもらう」
さっきから聞いていても会話の意味がさっぱりわからない。意味はわからないけど、ひとつだけわかること。この二人は、親子だ。頭の上を飛び交う低い声、この似すぎたトーン、同じような骨格。本人達はわかっているのだろうか? 少なくとも父親はきっと知ってる。彼は気づいているのだろうか? あの別れた日には彼は父親は知らないと言った。死にかけた時に父親と知らずになぜ助けを求められたのか、想像つかないけど。
「…まあいい」
男性は諦めたように口調を変えた。
「ただ、今回はボランティアとはいかないぞ」
男性の言葉にムッとした顔をしたが、彼は開き直ったように答えた。
「仕方ない。私も負債を負うのは不本意だからな…条件を聞こう」
「素直なお前はほめるべきだな」
無表情に男性は僕の顔を見た。素直な訳はこの子のせいだ、とでも言うように。彼は更に声を落とした。この声、そろそろキレそうだ。
「無駄話はいい…この子も疲れてる。早く終わらせよう」
はいはい…と言いたげに男性は、彼にソファーに座るよう手招きした。彼は男性の正面に座り足を組んだ。
「この子の今後の身の安全、それにお兄さんの消息情報を加えよう」
彼は驚いた顔で男性を見つめた。
「……本気…か」
「良い条件だろう?」
「それで? 代わりに私に死ね…とでも?」
「逆だ。命を助けてやる」
男性はじっと彼を見つめた。
「出ていけ」
「は…?」
彼は怪訝そうな顔をした。
「死にたくなければ国外退去しろ」
「待って…よ…」
僕はひとりでにそう呟いていた。僕というカードはJOKER? ひどすぎる…そんなの認めない…。僕が呆然としている間に、男性はソファーから身体を起こし彼の方に身を乗り出した。
「この子を巻き込みたくはないだろう? お前が生きているだけで快く思わない輩がいる。死んだことにしたのに日本にいると嗅ぎ付けてくる。特に誰かさんはしつこいようだしな。まあ当然と言えば当然だ。お前の後ろには何人もの怨霊がいる。片足はいわば脅しだ。それに今後の奴等は放っておけばお前を殺すよりこの子を狙うだろう…その方がお前が苦しむのを知るからだ」
男性は苦々しい顔をした。
「お前がこんな弱点を負う選択をしたとはな…」
「弱点じゃない」
彼はフッと笑った。
「支点だ」
泣きそうになった。兄と彼の間で引き裂かれて、もう死んでしまいたい。男性は眉を上げた。
「そりゃ申し訳ない。つまり覚悟は出来ているってわけだ」
「ああ…」
「物分かりがいいな…驚いた」
「…行き先くらいは斡旋してもらえるんだろうな?」
「お前が気に入ればな」
彼はあっさりと、驚くほどあっさりとここからいなくなる提案を受け入れた。
「建前はご立派だし事実なんだろうが、厄介者は目の前から消えろ。まあ本音はそんなところなんだろう。あんたも尻拭いで苦労するのに嫌気がさしたんだろうな。幽霊の伝言も時間が経ちすぎて効力が切れたようだ。あんたもあの女からも解放されて然るべき時なんだろう」
彼は憑き物が落ちたような、変な脱力感のある声で言った。
「あんたの奇策は3年しか持たなかったが、おかげで最後にこの子を助け出せた。意味はあった」
そして彼は僕の顔をチラッと見た。
「さあ、条件は飲んだ。あんたからの情報をもらおうじゃないか…この子に早く教えてやってくれないか」
終わる。
唐突に彼との時間が終わる。
待ってよ…あなた言ったじゃないか…兄貴を探しだして、同じスタートラインでフェアに勝負しようって…僕を完全にあなたのものにするって…僕を奪うって…すべてをあなたのものにするって…なんでこんな言いなりに条件を飲んでその未来をやめてしまうの!?
引き裂かれた心が悲鳴をあげる。彼はわかってる…この情報を逃したら後がないってこと。僕の心がこれ以上持たないかも知れないこと。兄に逢わなきゃ僕が心のもっと深いところで押し潰されて、血まみれのまま腐り落ちて死んでいくのをわかってる。そして彼は一切の躊躇なく、自分と引き換えの条件を飲む。僕のために。でも僕は今ここで粉々に壊れそうだよ。
「待って…よ…」
だから。彼が自分自身と交換してくれたそのものを、受け取らなくては。いま、ここで。
「待っ…て…よ…」
また僕はこうやって、この人と、唐突に別れる。
(…まって…よ…)
僕の押し殺した悲鳴は、誰の耳にも届かなかった。
その日、彼の国外退去の条件と引き換えで兄の消息が知らされた。この部屋で彼の父親が語ったことは、僕にとって残酷な事実だった。そしてそれは彼にとっても。
「こいつの母親と君のお兄さんの父親は情報を一部共有していた。あの女には危険な状況を回避するためのいくつかの方法があったと話したが、その一つが、ジャーナリズムへのリークだった。つまりメディアに暴露するという脅しだ。脅しが効かない場合はどこかの新聞記者達の出番となる。抑止力のある情報を特ダネとして記事にする。これは他の後ろめたい女の金づるの誰かにとっても脅しになる。言うことを聞かなければこうなる…という見せしめとしてな」
彼は淡々と語っていった。彼はソファーに深く腰掛けたまま、目を閉じて微動だにしなかった。
「子飼いの複数の新聞記者達には特ダネと報酬があり、その見返りとして記者の情報網やタレコミの中で使えそうなモノを彼女にバックする。上手くやれば記者は女からも信頼され関係を築く。ヘマをすれば…場合によっては抹殺もされる。社会的にも、肉体的にもそれがある。記者は淘汰され、新たに加えられていった」
前に従兄弟が言っていたという母の言葉を思い出した。『ヤバい奴らとつるんでるから…』。あの時ヤクザとかを想像したが、僕の脳裏には彼の顔が浮かんでいた。いま考えたら年齢が合わない。しかしそれは、彼の母親のことだったのだ。
「だがあの女も危ない橋を渡り過ぎた。あることをきっかけに警察の内部にいた彼女の協力者から裏切られた。よくあることだがな、飼い犬に手を噛まれる。しかもそれは嫉妬…愛憎のもつれ…っていうやつでな」
「ずいぶん他人事みたいに語ってくれるな」
彼が低く呟いた。そして少し彼は口調を変えた。
「まあ、痴話喧嘩が公共の秩序に貢献したと言える。あの女を殺したことは…」
母親が殺されていたのか…?
「…だが新たな火種をばらまいた元凶でもある…あんたが元凶のひとつを作ったのはまぎれもない事実だ。私という元凶をだ」
彼は男性を冷淡に見つめながらそのことを言い放った。彼の母親は殺されていた。彼が冷淡なぶん、僕の胸が窒息しそうに苦しくなった。だが殺されたことを秩序への貢献と言い、産みの親を“あの女”と呼ぶ、彼の母親に対する気持ちが僕には想像出来なかった。憎しみと…侮蔑? 悲しみさえ感じないほどの? 愛のない母親。彼女の道具だった…いったい彼は母親からどんな仕打ちを受けたんだろうか。
11月です。そろそろ立冬ですね。立冬前に更新予定です。5日頃になります。