「日本へ帰った私は支援者のプロフィールの中から仕事のパートナーを探した。候補を絞りその中の1人が君の兄さんの父親だった。独り身でゲイだというのもあったが、彼のプロフィールから失うもののない自棄な生活と社会への怒り…そして空虚な人生を感じた。学歴も知能も申し分ない。彼の欲しいものが、会う前から手に取るように見えた」
とうとうあの男が現れた、彼の人生に。話を聞いてしまったらまた理不尽な嫉妬に傷つくのかというトラウマのような苦しさに、独りでに身体が身構えていた。
「…彼とは色々あったが結局組むことになった。君の兄さんが彼から去った頃だ。たぶんそれがきっかけだろう。そしてなし崩しに肉体関係を持ち、互いに頽廃的な快楽を貪って過ごした。彼が吐血するまではね…」
彼は懐かしそうに目を伏せた。それを見てやはり胸の奥に理不尽で焼けるような気持ちが膨らんだ。
「彼が死んだあと私は誰とも組む気がなくなった。しかし次第に状況が私に不利になり始め…君も知っている通り私はある者から命を狙われるようになった。そしてあの交通事故に見せかけた暗殺未遂で私が死んだことになり、そしてそれと引き替えにあの資料は警察へと渡った。だがそれを隠蔽したい人間が警察内にいた。それも複数だ。監察に知られたら懲戒ではすまない犯罪をやらかしている汚職幹部がな。そして案の定…そのファイルは消えたのだな」
怒りを露わにはしなかったが、彼は怒っていた。
「恥ずかしい話だが…」
彼の父親があとを継いだ。
「詳しくは言えないが押収したファイルの内容がすり替えられた可能性が出てきた…」
彼の父親は苦々しい顔で深いため息をついた。
「その頃は保管中のファイルのバックアップはまだ半分も完成していなかった。すり替えられたのがわかるまでしばらくかかったのは担当の油断なのか、それとも監察すら絡んでいるということなのか、その時にはまだわからなかったのだが、読みが甘かったとしか言いようがない」
そして彼の父親は僕を見た。
「だが…ファイルはもう1つ存在している」
ドキッとした。それが…まさか…
「それを君のお兄さんの父親が持っていたと思われる」
それが遺品…だった。彼にも、兄にも。
「…やっぱ…り…」
僕は震える唇で呟いていた。兄は処分してはいなかったのか? 母の感じた違和感は本当だった。兄は捨てられなかったのだ。隠していた。僕に見つからないように。再び心が凍りつくような寒気が僕を襲った。
「でも…遺品も…なかったんです…そのような類いのものも…メモリーも…なくて…」
「それらがなかったのは、お兄さんの父親が、もしくはお兄さん自身が、メディアにではなくクラウド上にファイルの情報を隠したからだと推測される」
クラウド…?
「それって…ネット上…?」
「そう…ネット上の保管庫にね。IDとパスワードがなければアクセスは出来ない。考えられるのは君のお兄さんは物理的なファイルをもらったのではなく、IDとパスワードをもらったという可能性がある」
「でも…」
僕にはわからなかった。
「でもなんでそれがわかったんですか? ネット上にあることを知っているのは兄しかいないのでは?」
「だから彼は連れ去られた。誘き寄せられた…の方が近いかも知れないがね。わかったのは多分ハッキングだろう。君のお兄さんのパソコンに入って中を調べた。データの中に何かそれらしいものがあったのか、それかサーバーから偶然見つけてIPアドレスから割り出したか、父親の関係者が漏らしたか、それはお兄さんと接触した警察内の人物にしかわからない。だがいまは推測は出来るが特定はまだだ。監察は動き始めているが、明るみには出さないだろう。処分はある程度期待出来るが」
彼のような抜け目のない人がファイルの管理者なのに? それも僕には解せなかった。
「あなたも…知らないうちに? 兄貴の親父が勝手にファイルをオンラインに上げてたの?」
僕は思わず彼に尋ねた。彼はしばらく黙っていたが少しすると重い口を開いた。
「多分…そうだ」
「なぜ…?」
「以前、彼がまだ吐血する前…私と組んで1年位してからのことだ。私のいくつかある拠点のひとつの、マンションの留守中の部屋に窃盗が入ったことがあった。多分私の強請っていた金づるが証拠を回収したくてプロを雇ったのだろうと思ったが、遺品のファイルや証拠の隠し場所はそこではなかった。当然彼にさえその場所は教えていなかった。だが、そのとき、私がもし逮捕されたり殺されたとき、自分の身の安全のために客のリストや証拠品やネットワークのリストを警察や他の敵に渡さないよう、自分が燃やすよう許可してくれと彼に強く要求された。もし私がたまたまその部屋にいたら、窃盗の後に殺されているかも知れないと。私は懐疑的ですぐには首を縦には振らなかった。だが、その頃我々は急速に肉体的な接触が増え、互いの所有欲で相手の気持ちを試していた時期だった。お互いがお互いの信頼を証明することを求めていった。私はそこで、この愛人の本音が見たくなった。母の遺品のファイルの話で興味を釣り、ニセのファイルと証拠品を作り、隠し場所を変える間、短期間預かってくれとカマをかけたのだ。その情報が欲しくて私に近づいたのなら、ファイルと共に私への執着は消えて、手にした財産を持って私から離れることもあるだろうと。しかし彼はファイルを預ける前と後とで、一切私への関係を変えることはなかった。そのことでむしろ、彼は自分が必要とされているという私への信頼を強めたようだった。私はニセのファイルを回収したあと燃やした。そして彼にそれからもっと執着するようになっていった。そして私が死ぬような非常事態には、本物の隠し場所の地図と鍵を彼に送られるよう手配し、彼にもそう告げた。彼に渡したものが偽モノであったことは私しか知らない。しかしそれが本物という認識で存在をクラウド上にUPされたのなら、その内容は偽物であっても本物として価値を生み出してしまうだろう。彼にファイルが渡ったのは後にも先にもそれきりだ。彼が亡くなった後に彼のマンションにはそれらしきものはなかったのは確認した…パソコンにも…もちろん彼が知らない入院中に中を調べた。君の兄さんの部屋も同じくだ。だが、あれを残すことが禍根になりこそすれ、息子にとって遺産になどなり得ないことなど分かりきっていたはずだ。私と別れた意味がないだろう? だが彼はそれを息子に託した。君のお母さんは直感的に感づいていたが…」
彼はまた黙った。
「ああ…そうか…」
彼は不意に目を上げた。
「どうしたの?」
彼はなにかを思いついたようだった。
「デリート」
彼はそう呟いてまた黙った。
「デリートって…削除?」
キーボードのデリートキーを僕は思い出してそう尋ねた。
「そうだ。入院してしまったために情報をオンライン上から削除出来なかった。だから君の兄さんに削除を依頼したのかも知れない。もしかすると遺書に書いてあったのかもな…突然消されることもある…あの女みたいに」
「それならお兄さんが削除する時にハッキング出来たのも分かる。しかしそれならIDもパスワードも同時にハッキング出来るはずだ。それに奴らの目的もその情報をデリートすることそのものだ。勝手に持ち主が削除してくれたら手間が省けて大助かりだろうに。なぜ手に入れたかったのか…それがポイントだ…」
彼の父親が彼の仮説の穴を突いた。そのとき僕は奇妙なことに気づいた。兄の居場所を知っているならそれを兄から聞き出せばいいはず。なぜ彼らは兄に事情聴取せずに憶測を議論しているんだろうか?
「あの…なぜ…ですか? 居場所知ってるのに…兄から訊けば全部わかることじゃないんですか?」
その瞬間、二人は急に黙った。なにか聞いてはいけないことのような空気が流れた。
「もしかして事情を訊き出せないような状況なんですか? まさか…監禁されてるとか…」
なにか…言ってよ!
彼らはお互いを見ていた。無言でやり取りしてるみたいに。彼は首をかすかに横に振った。それを見た彼の父親が僕の方をゆっくりと向いた。
「わかった。それを話さなければならないな…どうか落ち着いて聞いて欲しい」
それを聞いた途端、全身に鳥肌が立った。ものすごく嫌な予感が走った。パンドラの箱を開けたみたいに。
「…わかりました」
そう言いながらも僕は今この場から逃げてしまいたいという衝動に駈られた。だが身体は固まったままだった。僕の了解を聞き、彼の父親は深くうなづいた。そして次の言葉のために息を継いだ。
「君のお兄さんは…いまある病院に入院している」
背中が凍りついた。兄は事情を聞けないような病気になってしまったのか?
「まさか…意識不明とか…まさか…」
「いや、お兄さんは意識はある」
それなら、なんで!? と問い詰めようとしたとき、その次の言葉は、まるで死神が命を刈るように僕の思考そのものを奪っていった。
「だが…彼は記憶を失っている。すべての記憶をだ」
「……い…やだ…」
耐えきれず両手で耳を塞いだ。もう誰も話していないのに。全身の震えが止まらなかった。
「これが…お兄さんの資料だ」
ゆっくり彼は立ち上がると、ソファーの脇に置いてあった黒いアタッシュケースの中からA4の茶封筒を取り出した。
「まだ会わせることは出来ない。さっきも言ったが、君にもお兄さんにも危険が及ぶ可能性がある。監察が動き今回の一件にカタがつくまで待ってもらいたい」
そう言うと彼の父親は、ソファーの上で膝を立てうずくまり膝に顔をうずめている僕の前にその封筒をそっと置いた。
「あとは…任せた」
彼の父親は小さく彼にそう言うと、僕たちを残して部屋を去った。静寂が訪れた。彼も僕も身動きもせずに、しばらくそのままで止まっていた。外からかすかに車の流れていく音…部屋の中の静けさが際立つ。
どのくらい時間が経ったのか、彼がソファから立ち上がる音がした。思わず伏せていた顔を上げた。彼はテーブルの上の封筒を取り、中を開け僕の前に立った。
「見たら…いい」
彼は僕に言った。困惑しながら囁かれた言葉には、彼の優しさが溢れていて、僕は泣きそうになった。
「写真がある。半月前の写真だ。見たら安心すると思う」
彼は僕の横に立ちスナップを一枚、僕に差し出した。僕は怖くて震える手でその写真を受け取った。
見知らぬ海岸の道に、後ろには青い海と水平線。遠くを見てる眼差し。それはまぎれもなく兄だった。髪が伸びていた。とても痩せていた。車椅子に乗っていた。だけど…笑顔だった。
「…生き…て…る」
僕はひとりでに呟いた。兄が生きていた。記憶をなくしても、見知らぬ土地で遠く離れていても、兄は生きて微笑んでいた。
「生きて…る…兄貴」
それだけで、もうそれだけで、それだけでいい。
「生きてる…生きてる…」
生きてそこにいてくれる。もう…それだけで…いい…
「生きて…た…」
涙がポロポロ落ちて、泣きながらいつの間にか笑ってた。
「…生きてた」
記憶がなくても…? 僕のことなど覚えてなくても? ああ…かまわないよ。兄貴、生きていてくれたんだ。こんな辛い中で、微笑んで。かまわない。この写真みたら不思議にそう思える。なぜだろう。
陰りがないんだ。ずっと持っていたあの罪の意識の片鱗すら、父親との異常な関係も、僕との許されない秘密も、あの陰惨な事件も、母の心中未遂も、何もかも記憶と共に失われ、消えたんだ。兄の笑顔を見ていると、記憶の喪失はまるで桎梏からの解放に思えた。不幸で絶望的な事故ではなく、まるで神さまからの恩寵みたいに。僕の存在の記憶さえ、愛し合った思い出すらもう失われたのに?
そんなことどうでもいいくらい、嬉しくて切なかった。過去の闇から解放された兄の笑顔はありのままで自然で、安らいでいた。そのことが自分でも驚くほど。もう兄貴は大丈夫なんだって、安堵よりもゴールに似た想いで。
そんなこんなで2日か3日置きに更新してます。ご閲覧ありがとうございます!