「うっう…うっ…」
止まらない嗚咽がしばらく続いた。気がつくと彼がとなりに座っていた。足を組み腕を組み目を閉じて、慰めるでもなく放っておくでもなく、ただとなりに。
「ありがと…う…写真…」
しゃくりあげながら彼に感謝した。
「幸せそうなんだ…今までみたこと…ないくらい」
「…そうか」
彼は少し脱力したような声だった。
「すぐに会わせられないのは申し訳ないが、まだ片付いていないんだ。内々で処理される可能性が大だがそれは仕方ない。上は後腐れなく処理される方を取るだろう。君の兄さんの一件は事件としては取り上げられない。それ以外には上手くは収まらんだろう…」
「構わない…よ…兄貴が解放されるなら…」
それが兄や僕たちや家族にとって、どんな生活になるのか見当もつかないけど…
「…君は勧善懲悪を望まないのか? …若いのに…」
「か…カンゼン…チョーアク…?」
知らない言葉がまた彼の口から出た。
「悪は滅ぼし正義が勝つように、という意味だ」
「ああ…そうなんだ…」
僕は兄を苦しめた奴らへの感情を心の中に探した。兄を苦しめ、家族を引き裂き、僕の心を押し潰して薬漬けにした者への憎しみを。
(誰の意志をも超えて、因果の収支が釣り合わせられる)
またその言葉が頭の中に響いた。思わず僕は彼を見上げた。
「インガのシュウシが釣り合わせられる…」
彼は驚いた顔をして僕を見た。
「…驚いたな…勧善懲悪も知らないバカな子の言葉とは思えん」
「どういう意味かは…はっきりわからない。でも…やったことは返ってくるってことはなんとなくわかる」
「因果応報というんだ。経文でも読んだのか?」
キョーモンはわからないし読んでない。
「頭の中で言葉が響いたんだ。なんかがたまに…なんか言う…」
「おいおい、幻聴か? マズイな…クスリやってからか? 聞こえ出したのは」
「違うよ…高校の頃からだよ」
「…天然か…参ったな」
確かにオカルトな話だ。
「ごめん…電波なこと言って…」
「いつもか? 常に頭の中で誰かの声がしているのか?」
「ううん、たまにするだけ…それはあなたと最後にホテル行ったあとに聞いた…」
僕は省略した部分を付け足してもう一度彼に言った。
「誰の意志をも超えて…因果の収支が釣り合わせられる…」
兄の笑顔…
「僕には…善と悪の分け方が分からなくなってきちゃった。僕は憎むべき…なんだよね。あなたにまた怒られるよね…偽善者だって…」
彼にまたなじられるかと思うと、僕は心の中で少し怯えていた。でもそれは偽善者と言われても今の僕の中の真実だから、正直に言うしかなかった。
「…兄貴の写真…見たら…僕は分からなくなっちゃった。何が悪で何が善なんだって…」
あ…。その瞬間、僕はとても根本的なことに気づいた。
そ…の…とおり…だ…この僕…だって…兄貴にとって善なのか、悪なのか。世界が裏返るような衝撃。頭をハンマーで殴られたみたいに。
僕は自分だけ特別だと思い込んでた…? 僕だけが兄貴にとって善だと?
「……!」
僕は震えながら彼を見上げた。
「兄貴にとって…僕…さえ…も…」
いままで…僕は…疑いもしない…で…。呆然とする僕の耳元に唇を寄せて彼が畳み掛けるように囁く。
「愛した君が善…だと思っていた? 愛ゆえに疑わなかった? そういうことか?」
悪魔みたいに正確な言葉。
「兄さんの父親が悪で、善なる君は悪から兄さんを救おうとしたと?」
呆然と…でも震えながらうなづく。うなづきながらそれがもう、それこそが過ぎ去った言葉だとわかってしまっている。独りでに両手で頭を抱えていた。僕が兄にとってなんだったのか、気が狂ったみたいに何度も何度も頭の中で自分に問いただす。どんな意味があったの? 兄貴にとって僕は必要だったの? 違うんだ。僕は僕は僕は…結局兄貴を苦しめたんだろう? 僕が愛したから兄貴はやめられなかったんだろう? 救おうとして追い詰めたんだろう? 兄貴の罪を深く掘り下げたのは僕? 抜けられないところまで…
兄貴の…罪…? あの時の神父の言葉がよみがえる。違う…罪…じゃない…罪じゃないから愛したんだ。愛せたんだ。なのに僕は、それでも兄にとって、善か悪かわから…な…い…
「その…とおりだ…よ…愛することも…善か…悪か…もうわからない」
僕はほとんど独り言みたいに言葉を吐き出していた。
「僕は…愛することで兄貴を追い詰めたのかな……記憶を失った兄貴が…幸せに見えた…それは僕が兄貴の罪悪感を…僕の存在が…僕が愛することが兄貴を苦しめてたって…どっかで知ってたから……。神父が罪だって…そう言ったことを僕は絶対に認めない。でも兄貴は抜けられないんだ…自分の罪を兄貴は許さないんだ…僕が愛すれば愛するほど…兄貴は自分…許さない…兄弟だから…男同士だから…そんなこと罪だなんて…僕は認めない。でもそれが…兄貴を知らないうちに追い詰めた…兄貴は僕とは背負っているものが違ってたんだ…僕はそれを理解したくなかった…理解したく…なかったんだ…そして…本当に…理解出来てなかったんだ…」
そう、理解出来なかったんだ。兄貴が苦しんでいる理由を僕は理解したくなかったそれ以上に、理解出来なかったんだ。この写真の笑顔を見るまで。その罪悪感がどれだけ深かったかを…その罪悪感は僕が愛すれば溶けると思ってた。でも違っていた。僕がいたから兄は苦しんだ。僕が記憶から消え去ったとき、兄に本当の平和が訪れた。それを見た僕はなにかを覗かされた。僕が超えられなかったなにかを。どんなに愛しても、そして愛されても、引き抜くことの出来ない十字架に打ち付けられた手の平の釘みたいに…
「確かに理解していないな…君は」
そう言いながら、彼が僕をスッと抱き寄せた。あまりに軽くあまりに唐突に彼の胸の中に入ってしまった僕は、そのまま彼の身体に身を任せた。抗う気力もなく、この世に居ることの理由すら無くて。
「バカな子…なんだよ…あなたが言う通り…何もわかってなかった…」
「違うよ…」
彼は子どもをあやすように言った。
「君の兄さんの本当の罪はね…私が君に犯した罪と一緒なんだ。同性だから? 兄弟だから? 違うんだ」
「あなたと一緒…?」
僕は思いもよらない彼の言葉になぜか一瞬ビクッとした。兄が隠していた深い闇を暴かれてしまうようで。
「君の兄さんの一番恐れていた罪はね…君を無理やり犯したことだよ」
それは、一切想像もつかなかった理由だった。いつも僕の心を見透かす彼が、これだけは間違ってると思った。兄貴が僕を無理やり犯した? 何を言ってるんだ…彼は。
「それはないよ…間違ってる。兄貴は絶対に無理やりなんてしなかった。嫌がるようなことを絶対にしなかった」
だが彼は続けた。
「君が抵抗できなくても? それどころか、なにをされているかわからなくても? そうとも…君にはわからない。例えば君の兄さんが父親から犯されていても父親をどこかで求めてたように…あれだけ酷い仕打ちをされていても兄さんがまだ父親を愛することがやめられなかったように…だ。君にはわからない。君は抵抗出来ない相手を調教したことがないだろう?」
だが僕の中にはそれに関するなんの疑いも不信もなかった。僕が兄から愛されていたことに。
「兄貴はそれしか愛しかたを知らなかったんだ。あいつに…父親に小さい頃から刻みこまれたのは兄貴のせいじゃない! あいつには愛がなかった…わかってるでしょ? 同じ行為だって愛されていれば受け入れられるんだ…兄貴の気持ちに僕を傷つけようなんて…僕を調教しようなんて思い…これっぽっちもなかったよ! それは僕が一番よくわかってる」
「そうだ…間違いない。君は疑いなくそう思える。だがな…それをした者はそうは思わない…」
そう言うと彼は、僕の耳にフッと吐息をかけた。
「あっ…」
ズキッと下腹部を直撃する感覚に、思わず声が漏れた。
「ほら、どうだ? 君はとても感じているが、君は誰にそうされてもこんなに感じるんだろう? それは私がそうしたからだ。誰にも開き、とても敏感に感じるように君の身体を変えた…」
彼は服の中に手を入れ、僕の背中を下からなぞりあげた。
「んあっ…!」
こんな時に…なんで?
「君の身体を征服した私はひとつの矛盾に気づく…快楽を与えれば与えるほど君は私にのめり込むが、私の中にはある不安が膨らんでいく。それはなにをしてもどんなに君を愛してもぬぐえない不安と痛みだ。君を抱けば抱くほどそれは膨れ上がり君が感じれば感じるほど絶望的に手のひらからこぼれていく。調教した者はそれが成し遂げられたあと、ある時気づく…本当は君が私を愛してはいないんじゃないか…という影のようにつきまとう考えにな…」
彼は苦しそうに微笑んだ。話しながら彼は僕の身体を愛撫し続けた。僕が身をよじり感じれば感じるほど、彼は執拗に弱いところを責めた。僕になにかを確かめさせるように。
「思い通りにした征服感はあっけないほどすぐに消えた。愛していれば愛しているほどに…言いなりにさせているだけの空虚さが私を支配し絶望感がそのあとを埋め尽くす。そして君を苦しめて試す。君が私を愛しているということを確かめるために。だがそれは永遠に確かめることはできない。私は君を言いなりにした。思い通りに操った。それが上手くいけばいくほど私は君の愛に触れられない…君が本当に私を愛していても…だ」
彼は僕の耳に舌を入れた。
「くはっ…!」
そこはだめっ…! ずっとジーパンの前が痛いくらい張りつめて狂いそうになってる。そこに腿を押し当てられ、腰が浮く。
「私は思う。この快楽のためなら君は私に寄り添うと。いや…快楽だけではない。心の中にすら私は忍びこんでいる。私という支えを君の生存に刷り込んで、君を私に依存させて支配する。私の存在が君の人生になくてはならないように仕込まれた…もう君は私から離れない。だが愛だけは私には届かない。言いなりにさせた私が後悔と同時に気づく。君が自分から自然に私を愛することだけが、この支配から抜け落ちていることを。一番欲しいものだけが…永遠に手に入らないことを」
彼は唐突に愛撫をやめ、僕の肩をそっと抱き、囁いた。
「君を自由にしたい。私から」
同じ…だ…あの時と同じ…兄が僕を…自由に…そしてあのあと…兄は…!
「だから? だからなの? だからあなたはお父さんと…この取り引きをしたの? 日本から出ていくってそういうことなの!?」
兄は僕から…去ろうと…
「君にしては珍しく察しが良い。そうか…君の兄さんからも同じことを言われたことがあるからか…全く同じ言葉で」
なぜ…わかるの…それがわかるの? やっぱり…同じ…だから…? 僕にはわからないそれが…彼には…わかって…
「わかったか? とはいえ私と違って君の兄さんは確信犯じゃない。君の言うとおり、父親を真似した、それだけだ。だからそれがどういう意味を持つのかが成長するにつれて理解されてくる。頭の良い君の兄さんのことだ。早いうちに私の陥った呪縛を自覚したはずだ。そして自分のしたことを責め苛む、君のために…また自分のためにな。そしてそれに耐えられなくなった時に…」
彼は抱きしめていた僕の身体を突然フッと離した。
「あ…」
不意に足元が崩れるような浮遊感に襲われた。上っていたまだあるはずの階段がもう無かったみたいに。
「だめ…」
僕は両手を泳がせて彼の肩を掴み、彼に追いすがろうとした。その手を彼は優しくつかんだ。
「支配者はリセットを乞い願うようになる。君が…ごく自然に私を自発的に愛するようになる奇跡をどこかで待ち望みながらね」
「離さないで…お願いだから…」
彼は目を見開いたように僕を見た。
「その言葉を聞くと震える。支配というものがこれほど渇くものなのかと思い知らされる。離さないでもらいたいのは不安だからか? それとも私を愛しているからか? いや、もう確かめるすべもないんだ。君自身だってわからないだろうから。なぜなら君は…まだストックホルム症候群のままだからだ」
彼は微笑んだ。
「男同士だからでも兄弟だからでもない。物心つかない幼い君の心を支配した罪…それに兄さんは戦慄し絶望していた。私が兄さんの部屋に行くと、彼はまるで刑罰を待つ囚人のように私の責めを受け入れた。最初はなぜかはわからなかった。だがある日、いつものように激しい責めに意識が朦朧としてきて、彼は初めて君の名を呼んで言った…許してくれって…うわごとみたいに何度も呟いて…そして私に言った。微笑みながら、殺してくれと…」
心が鋭いもので刺されるような痛みが走った。その兄を僕は引き戻そうとした。
(お前を解き放つんだ…俺から…)
兄の声が耳の中で響いた。
(そして俺が本当に恐れていたのは…俺がお前を手放せないことだ)
「では…これが? これがあの教会の…祈りの答え…」
脈絡のない僕のその言葉に彼は不思議そうな顔をした。
「あの…神父の教会か?」
「そうだよ、あなたの幸せを祈ったとき、僕たちは互いに互いの幸せを祈った。僕は兄貴が自分を裁くのが耐えられなかった…自分の断罪じゃなくて天が決めたことに従って欲しいと…そう願った。僕たち…別れようと決めてた。でもそれで兄貴は苦しみ抜いた…僕を…手離せない…って…」
また涙が伝った。
「懐かしい…君と私もそれを聞いた日に別れたんだ…君が兄さんを解放したと言った日にな」
そう…本当の幸せを…祈っ…た…
「その結果が…これ…なのかな…」
互いに互いを手放せそうとしてあの時できなかったそれを、こうやって…根底から粉々に完全に…リセットして…それが写真の兄の笑顔…
「願いが…叶ったのか…な…」
とめどなく溢れてくる涙。
「逢えば…わかる」
彼は目を細めた。
「早く逢えるといい…」
そう言うと彼は諦めたように、もう一度僕を自分の胸に抱き寄せた。
「だが今日は無理だ。君を抱きたい…君の兄さんの葛藤をなぞっているみたいだな…とんだお笑い草だ」
唇を奪われて頭の中が痺れる。さっきの愛撫の残り火が疼く。
「君がいとおしい…君の無垢な魂はいつも私を驚かせる。君は知性で考えるのではなしに魂の声を聞くんだ。そして突き抜けた解答をいつも手にする。君の知性がまったく及ばないような理解と境地…私が理性と知性を研ぎ澄まして偶然たどり着くそれを、君は一瞬にして聴くのだ。善悪の彼岸へまで跳躍して…」
僕をかき抱く彼の手に力が籠る。
「本質にたどり着ける者は少ない。本質を望む者が少ないからだ。君は本当に普通の男の子に見える…だが君を知れば知るほど普通の中に普遍を見つけてしまう。行為でなく思想でもなく、ただその存在に驚嘆し…いつしか虜になる…こんなに深く…」
彼の囁きにあえぎながらいつの間にかソファに押し倒されて、彼の下にいた。重さが愛しい。彼の言葉は難しかったが、優しく甘く溶けそうだった。善悪の彼岸…善悪を超えた向こう側? 僕にはあなたもそこにいるような気がする。
僕たちにも時間を下さい。互いを手離せる時間を…神さま。