その日は何度も激しく抱かれた。求めるままに縛られて僕は気が狂ったように何度もイッた。疲れはてて身体も動かなくなり、夜に二人でシャワーを浴びたあとリビングの奥の寝室のベッドの中で、彼は僕に添い寝しながら話し始めた。
「君の依存症はいつ始まったのかな。あまりにも幼いうちから始まった家族との特殊な人間関係が原因ということは誰が見ても明らかだが、なにかもっと深いところに、君が気づかない理由のようなものがあるように感じる。それがなんだかはまだわからない。だが、もし君が良ければ、私に心理学的ななんらかのアプローチをこの期間にさせてもらいたいと思う。君はこれから私と別れて記憶を無くした兄さんと逢う。それは君にとって新たな試練の時だ。このままでは君がまた薬物依存に戻る可能性は十分にあると言える。それも性的関係に引きずられながら深みにハマる可能性が高い。特にゲイ社会は薬物が横行している。音楽業界もまたしかりだ。今後もニアミスの機会は君も増えるだろう。君の自我は弱い。弱さは両刃の剣だ。魂の声を聞くには良いが、他人に巻き込まれいいようにされる。私が君にしたように…だ」
別れを前提の心理療法。聞いている耳を閉じたくなった。いまこんなこと言わなくても…と、心に刺さる言葉に耐えながら聞く。合理的。いつものあなただね…。耳の痛いこと平気で言えるあなたが、僕みたいな甘ったれには必要なんだろう…彼の話は続いた。
「誰しも依存期はある。自分の心を自分で慰められるのは、反抗期を経てうまく自立した者だ。だがそれに失敗すれば男でも女でも、孤独の淋しさに耐えきれず、身体の関係に依存し破滅の道を辿る…そんな話は珍しいことではない。そして自分も周りも不幸になる。君の兄さんの父親がいい例だ。幼少期の父母との関係が影響する。親から無条件で愛された実感が自分を愛する礎となる。だが君の両親は君を愛しているし、君もそれをよく理解していると思う。一見不足のない親子関係だが、その陰になにかあるのではないか、というのが私の推察だ。兄さんとの関係が特殊過ぎて、君は両親とのトラウマを意識せずにここまできた可能性がある。君はこのことについて思いあたることはないだろうか?」
話の最後は僕への質問だった。
「今日すぐに答えを出す必要はない。1ヶ月はここで足止めをくらうだろう。だから互いに納得づくでやる。だが君だけのためじゃないんだ…これは私のためでもある」
彼は呆れたように言った。
「こんな関係でクライアントとセラピストをやるなんてセラピーにおいては言語道断なんだがな。本来やってはならない関係だ。私は過去において君にマインドコントロールを仕掛けた人間で、恋愛関係で、肉体関係まである。原則的にこんな関係ではセラピーは絶対にしてはならない。しかし今はそうも言っていられない。言語道断以上の緊急事態だ…危険極まりない。だがやる。君さえ良ければだが…?」
選択肢はくれたものの、彼の言葉には緊迫感があった。これで互いに別れられるんだろうか。心の奥をさらけ出したあとで、兄の愛も、彼の愛も失ってもなお、僕が独り立ち、その心を持ちこたえていられるのだろうか?
「わかった。今はまだ、考えられない…明日また…話して」
「ああ…そうしよう」
僕たちは浅い眠りについた。途中何度か目が覚めると、隣で彼が僕を見ていてくれた。
「…起き…てるの?」
「ああ…」
「眠れ…ないの?」
「君を…見てる」
「ん…」
安心するのか、いつの間にか奈落に落ちるように眠ってしまう。夢うつつにかすかに彼の唇の感触を感じながら。
朝気がつくと、彼に後ろ抱きにされていた。彼は寝息を立ててまだ眠っている。いつの間に…覚えてないな。彼の腕が痺れないように、ゆっくりと頭を上げ枕を引き込む。こんな風に抱かれて眠ったの、ずいぶん久しぶりだ。
思い出す。夜は欲望の捌け口になり、その場だけの優しい言葉に酔い、朝起きたら独り取り残されて泣いたクスリ漬けの日々を。あのゾッとするほどの淋しさを、二度と味わいたくないと思っても、この温かさにはリミットがあるんだ。それが悲しくて泣けてきた。だめ…だ。悲し過ぎて息が止まりそうだ。兄のぬくもりを失い、そして…あなたまで…。朝から起き抜けに泣いてるなんて、どれだけ僕は悲しいんだろう。
「う…」
嗚咽をこらえてると身体が震えた。
「どうした…?」
「あ…」
彼はいつしか起きていた。
「また泣いているのか」
「ごめ…ん…朝から…こんな…で」
「君は笑っているときより泣いている時間の方が長いかもな」
からかわれてる気すらしない事実。
「別れたく…ないんだ…」
「わかりきったことを言うな」
彼は躊躇のかけらもなくそう言って、僕を後ろから抱き締めた。
「厳しい1ヶ月になるぞ。覚悟しておくんだな…まあ…人のことは言えんが」
「きっと…もっと…好きになる…」
耐えられない、そんなのには。
「そうとも限らないが…」
彼は意味深なことを言ったが、単に僕を慰めているだけなのかも知れず、僕にはよくわからなかった。
「朝飯を食おう。昨日はほとんど食べていないだろう?」
そう言えばそうだった。食欲なんかないけど。
キッチンからチンという小さな音が聞こえてくる。彼がなにか朝食に食べるものを用意してくれているんだろう。ベッドをノロノロ抜け出した。裸なのでなにか着ようと思うが、リビングに脱ぎ散らかしてあるのを拾いに行く気にもなれなくて、重い身体を引きずりながら裸で顔を洗いに洗面所にいった。ぬるい水で顔を洗ったあと鏡を見上げると、泣き腫らした目が真っ赤でみっともなかった。もう一度水を出し腫れた目の回りをじゃぶじゃぶ洗ってみる。なにも変わらないけど。
泣くことに、疲れた。鏡に映る自分の肩に残る彼がつけたキスの赤い痕。彼を引き留めるために切った両腕に残る自傷の痕。消えてしまうものも、残ってしまうものも、どちらも悲しい。生きることは悲しい。生きていたくなくなるほど、悲しいよ。もう顔を上げられなかった。洗った顔が乾かないうちにまた涙が溢れてきて、洗面台の上に落ちた。
「メシの時間だ…」
いつの間にか彼が戸口に立っていた。
「……」
そのまま僕が押し黙っていると彼は僕の後ろに立った。
「トーストもコーヒーも冷めるぞ。泣きながらでも食え。薬の時間だ」
そう言うと彼は裸の僕の腰を抱え、無理矢理食卓まで引きずっていった。食卓の椅子に座らされ、リビングに落ちているTシャツを彼が人形みたいに僕に着せる。
「私が作った朝飯を食べないなど考えられんぞ。泣こうがわめこうが食うんだ」
「…わ…かった…よ」
かすれた声で答えて彼を見た。口をへの字に曲げてにらんでいる。少し…可笑しい。
「いただき…ます」
「しつけが良いな」
コーヒーを飲む。インスタントだな。
「それはクソ不味いな。レギュラーもないなんて最悪だ。ティーバッグが無いのがもっと腹がたつ」
そう言うと僕にポーションをくれた。
「牛乳もない。これでごまかせ」
「ありがとう…文句ばっかりだね」
「生活のスタイルが変わるのは…耐え難い」
この人ならこだわりは沢山ありそう。こだわりで生活が構築されてるかもね。そんなことを考えていると泣くのを少し忘れた。
「いつも…なに食べてるの?」
この人の日常生活って、想像不能。
「朝は毎日自宅の近くのカフェで決まりきったモーニングだからな。朝はミルクティーだ。近所ではそこしかまともな紅茶を出さない。日本の紅茶は不味いな。ミルクティーと呼べるようなシロモノがだいたいのカフェにないからな」
彼は絶望的だ…と言わんばかりの不服そうな顔をした。
「コーヒーが好きなんだと…思ってた」
「嫌いではないが、不味い紅茶を頼むのが嫌なだけだ。日本はまだコーヒーは多少は飲めるものを出す」
「紅茶なんて、缶のミルクティーしか飲まないな」
「ああ、乳臭い香料ジュースのことか。あれのことを私は紅茶と思っていない」
話がどこまでいっても文句しか出てこないみたいだ。
「晩ごはんは?」
「昼は訊かないのか?」
細かいツッコミをもらった。
「ああ…そっか。でも昼は職員専用の食堂があるって、入院中に聞いたような…」
彼はウッと詰まった。
「早くトーストを食べるんだ。冷めて不味くなる」
「あ…あぁ…そうだね」
バタートーストをほおばった。焼き加減が絶妙だった。
「美味しい…」
「そうか。なぜか冷蔵庫にパンが1斤入っていてな。あいつが買ったらしいが…」
美味しいと言われて、彼は嬉しそうにニコッとした。いつものようにズルい性格だ。
「料理するの?」
ふと聞いてみた。
「しない」
僕の周りの男共は料理が嫌いらしい。
「トーストは…美味しいよ」
「枚数と分数がトースターに書いてあるのになにを間違える必要があるんだ?」
それでも焦がす人もいるし。
「書いてあれば…出来るんだ」
「レシピさえあればとりあえず何でも作れる。しないだけだ。出来ないわけじゃない」
言い訳か自慢か判断つかない口ぶりで説明してくれた。でもマニュアルに書いてあることをその通り出来るというのは、出来そうで案外難しいよね…と専門学校のミキサー実習なんかを思い出しながらそう僕は思った。頭が良いのは何事にも有利だ。
「なんでミルクティーにそんなにこだわるの?」
素朴な疑問。
「私の売られたかの国では毎日3回以上のティータイムがあるんだ。1gだって不味い紅茶なんかなかった。義父は変態だが淹れた紅茶は美味かった」
そう言うと彼は少し遠い目をした。
「そんな美味しい紅茶…飲んだことないな…」
僕は何気なく言った。
「それはかわいそうだな…」
彼はその後をなにか言いかけたが、珍しくやめてしまった。
朝食を終え薬を飲まされ、少しだけ悲しみが遠ざかった。安定剤なんだろうか。あまり頭が働かない。彼はノートパソコンを前になにかしていた。仕事かなんなのかはわからなかった。雨上がりの湿度の高い蒸し暑さで彼が空調を入れた。エアコンの音と広がる空気の乾燥が肌に心地よかった。
「着替え…あるのかな…」
僕が彼に聞くと寝室のチェストからTシャツとスウェットのズボンを探して出してきてくれた。
「サイズはわからん。我慢しろ。あと、洗濯機の中に君の服を放り込んでおいてくれ」
「うん…わかった。洗濯しておくけど。あなたの洗う服も出してもらえれば」
「じゃ…頼む」
下着類を無造作に渡されて、彼と自分の服を抱えて洗面所に行く。昨日使ったバスタオルも一緒に、全自動の洗濯機にそれを放り込んだ。投入した洗剤が水に溶けていくのをボーッと眺めていた。