洗濯物が回り泡がふくらんでいく。ゴーッゴーッという反復音が鳴り、反転する水流がジャブッと逆巻く。その中で水流に押し流される洗濯物。流れのままにクルクル踊らされてる。まるで僕たちみたい。泡だらけになって絞られて、冷たい水にさらされて…汚れているからなのかな…僕たちは。こんなに打ちのめされて押し潰されてるのは、人生という大きな洗濯機の中にいるからかも知れない。いま僕は脱水されてる。与えられた愛が絞り取られていく。干されるんだ。カラッとフワッと、暖かいお日さまの下で……? あれ? イメージに悲惨さがなくなってる。洗濯洗剤のCMみたいに、青空にはためく白いTシャツ…さわやか過ぎる。さっきの薬の効果なのかな?
回る洗濯機の中を見てるのはなぜか飽きない。壁にもたれてずっと眺めていた。
「気分でも悪いのか?」
びっくりして振り返ると、またいつの間にか彼が洗面所の戸口に立っている。いつもだけど気配がないんだよね。
「…あ…大丈夫…」
「洗っている音はするから操作は出来たようだとはわかったが、いつになっても戻って来ないからまた倒れているかと思ったぞ」
「ごめんなさい…心配かけて…」
「で…なにしてるんだ?」
「回るの見てた…洗濯物」
「変わった趣味だな」
「趣味…じゃないけど…」
「トリップしそうか? 安あがりでいいな」
彼が意地悪くニヤッとする。
「トリップしません」
口をとんがらせて僕が言い返すと、あきれたように彼も返してくる。
「趣味でもないのに見ていられるなんて、それで十分だろう」
そう言われればそう…かな。まあ、なに言っても変態扱いは変わらないみたいだし。
「ん…そうかも…」
僕が適当に終わらせようとすると、さらに意地悪そうに彼が言う。
「思ってもいないくせに」
「めんどくさっ!」
思わずあきれて噴き出した。
「意地悪すぎてる」
「至極私らしいな」
そう言うと彼は僕の肩をつかみ、身体を洗面所の入り口に向けた。
「さて、趣味の時間は終わりだ」
彼の目が次のタスクを促す。
「ああ…うん…」
僕らはリビングに戻った。
「昨日の私の話を覚えているか?」
僕はうなずいた。
「そうか。ではどうする? 君はセラピーが必要と思うか? それとも必要ないと…まあ…必要だが私にはされたくないという解答もあるが」
僕は考える余地なく言った。
「必要だよ…僕には…朝から泣くのはもう…いやだ」
「そして?」
「あなたに任せる。経緯を他の人には話したくない…たぶん…」
教会での懺悔、警察での聞き取り、どちらもトラウマとなった。
「リスクは覚えているか?」
「誰に話しても…リスクなんて…消えないよ」
「プロのカウンセラーは君や兄さんを断罪したりしない…あの神父と違って」
「それを信じられる気力がない…それに僕達のこと話せる自信もないよ…あなたと別れて…記憶のない兄と逢って」
僕の気持ちには変わりがなかった。
「なんでもいい…あなたに任せる」
「理由は?」
そう訊かれて僕は自分でも意外なほど反射的に答えた。
「もう待てない…とても辛いんだ。今すぐ楽になりたい」
僕の言葉を聞いて彼は一瞬止まった。
「耐え難い苦痛…か…」
「なにを見ても泣けてくるなんて…壊れてるよ…今だってこの薬が切れるのが怖くてたまらないんだ…」
また涙が出そうになる
「わかった。洗濯が終わったら始めよう」
彼はそう言ってしばらく黙った。洗濯機がピーピー鳴って僕を呼んだ。洗濯機の上にある備え付けの電気乾燥機に、脱水した洗濯物を放り込んでタイマーをかけた。
「タイマーは最大にしとけ! 乾いても中に放っておけばいい!」
リビングから彼が大声を出して僕に指示を出した。僕の悲鳴を聞いて一刻も早く始めようとしてくれてる。それがわかる。
「わかった!」
僕も洗面所からリビングに大きな声で答える。タイマーをマックスにセットしてリビングに戻った。
「ソファーが良いだろう…横になれるように君は長い方に座れ」
僕が長いソファーに腰掛けると、彼は斜め前の1人掛けのソファーに足を組んで座った。
「さて始めよう…心の準備はいいか?」
彼が慎重に僕に訊く。
「うん…大丈夫…」
「そうか。ではまず聞かせて欲しい」
彼は組んだ足を解き僕の方を向き、身を乗り出した。
「いま君が苦しんでいるのはどんな感情だ? 言葉にしてみてくれ。なるべく感覚的に…思いついたことをそのまま…理論的じゃない方がいい。感情をイメージして言葉にしてもいい…どうかな?」
軽く目を閉じるように言われ、言われた通りにする。
「ソファーに寄りかかって…楽にして…」
感情を…言葉に…
「かな…しい…」
「どんな風に…?」
どんな…かなしみ…? 支えが…なくなる…いや…なくなるんじゃない…ポキン…と…
「折れる…支えてた木の棒が…ポキンと折れる…みたいに…」
「折れるのが悲しいのか?」
どう…だろう…
「ちがう…かなしくて…折れる…んだよ…」
「そうか…」
彼は少し黙った。
「折れると…君はどうなるんだ?」
折れる…と…ああ…ダメだ…そんなこと…考えたら…正気じゃいられない…
「折れ…たら…もうダメだよ…考えただけで…気が…遠くなる…」
「…どんな風に…ダメなんだ?」
彼が畳み掛ける。僕は即座に答えた。
「生きていけない」
自分が思うより早く口が動いた。
「だって…なにひとつ…生きてく…意味が…ない…」
「そこか…」
彼はしばらく目を閉じた。それから独り言のように呟いた。
「だから神…か…」
なにが“だから”なのかは僕にはよくわからなかったが、彼がしばらく沈黙したあとかすかに苦笑しているのがわかった。僕は思わず目を開けて彼を見た。
「可笑し…い…?」
「いや…君を笑ったわけじゃない。自分を笑ったんだ…自嘲だ」
「なん…で…?」
「いつものヤブへびだからだ…それも出たのが大蛇だ」
彼はまた笑った…自嘲?
「だから…ヤブヘビ…ってなに?」
あの時は訊きそびれたけど今度は…
「『ヤブをつついてヘビを出す』と昔から言うんだ。余計なことをやって災難に遇う…というような意味だ。この遭遇はヘビじゃ済まないな。世界の終わりとの遭遇…とでも言おうか」
彼は軽く首を左右に振った。
「手強い相手が出たもんだ。闇が深すぎる…闇? 闇すら届かないかも知れないな…」
彼は真顔に戻っていた。
「フランクルの言葉を思い出す。『人生に意味を問うな。人生の問い掛けに汝が答えよ』と」
そして彼は僕に問いかけた。
「折れたら無くなると言った君の生きる意味とは?」
僕は黙った。わかりきっていたことだから。彼に言いたくないから。セラピーの意味がなくなるけど、言えない。僕の生きる意味は、兄貴だから。
兄貴…だか…ら…? そう思った瞬間あの写真の兄の姿が脳裏にフッと浮かんだ。不意を突かれて僕はうろたえた。僕の…生きる意味は? あ…いま僕はなにを思ったのだろうか? わかりかけた答えに戦いて、瞬時に思考から切り離していた。でももう遅かった。
(どちらの兄が?)
(愛し合ってた過去の兄?)
(記憶のない今の兄?)
(それともどちらも?)
(僕は誰を愛してるの?)
(記憶のない兄は僕を必要としてるの?)
止めようとしとも止まらない自問。答えをそらすための問い。見たくない。混乱してる。どうしたらいいんだろう? いや、どうしようもない。だって僕にはもう。
「言いたくなければ無理に言うことはない。自分の中で確認出来ればそれでいい」
彼が僕に言った。いつものように的を得たアドバイス。でももう遅いんだ。言いたくないことは崩れ去って、確認すべきことは…なんだろう? 僕はバカみたいになにも言えず、なにか言おうと口を半分開けたまま彼を見つめていた。
過去のない兄に僕は必要がない
兄が生きる意味だった僕は…
なにもない。自由…だ…
青い空が見える。鳥は…自由だ…
悲しい人を慰める歌をもう歌わない。
もう誰かのそばにいなくていい。
悲しい人を慰める歌を、歌わなくて…い…い…
僕にはもう、生きていく意味が、ない
「あはっ…あは…あはははは…」
その時半開きの口をついて出たのは、なぜか笑いだった。
「どうした…?」
不審そうな彼のその声を聞いて、僕は彼を上目遣いで見上げながら自分の口を手で押さえた。でも笑いは止まらなかった。
「くっくっく…」
空が広い
広すぎる
空白だ
明るくて果てしなくて
なにひとつない
みわたす限りの…空白…
「あーっはははははは!」
手を伸ばしても誰もいない!
自由でひとりでなにもない!
「あああああああぁっ!」
突然叫んでいた。止まらないしどうでもいい。なにかの線がキレたのか、フタがハズレたのか知らない。
「うああああああっ!」
彼の手が僕の両肩をつかむ。
「どうした? 何が起きているか言うんだ」
なにを?
「あぁぁぁぁぁあああ!」
もういいでしょ、僕は自由だ! なにもない!
「あっはぁはぁはぁっ!」
首から力が抜けた。そのまま自然に天井を向いてた。
「うっくっくっくっくっ」
「どうしたんだ? いまなにを感じてる?」
彼が冷静に尋ねる。
「あは…もういい…いいんだ…!」
「何がもういいんだ?」
「全部! 全部だよ! あははは!」
彼の不思議そうな顔を見てたら急に淫らな気分になった。
「あ…あはぁ…」
僕の肩をつかんでいる彼の首に腕を絡ませる。
「ふふ…」
「君は…んっ…」
彼の口を唇でふさぐ。
「んっんっ…」
鼻であえぎながら彼の身体をソファーに引き寄せたが、彼は唇を離しソファーの背もたれに僕を押し付けた。
「待つんだ…まだ終わっていない」
「ダメだよ…ダメだよ…ああっ」
興奮して腰を彼にこすり付ける。
「説明しろ…なにがあった?」
「…もういいんだ…誰もいないんだよ…ああ…早く…」
「誰もいない?」
彼が聞き返す。
「そうだよ…誰もいないんだ…なんにもないよ…なんにもない…僕はじゆうだ…なにも…なにも! なんにもない! なんにもない! なんにもぉぉぉ!」
また叫んでた。
「わかった…」
彼がゆっくり僕の腕を解く。
「あ…」
不意に空虚感。
「やだよ…いや…」
そのままソファーにパタンと倒れた。力が入らない。意識がモウロウとしてくる。してくれないなら…いいよ…自分で…する…
すぐにたまらなくなり、僕は彼の面前で、両手で自分のモノをつかんでいた。