「はうぁ…」
僕はスウェットの中に手を突っ込み無造作に性器をしごき始めた。彼の前で自分からオナニーする。初めての行為だった。
「したいのか?」
彼が僕の足元からなんか訊いてる。僕はそれに答えられなかった。聞かれたことの意味がわからなかった。
「うっ…あっ…あっ」
正気じゃないことに自分で気づけてなかった。誰かの前で…しかも誰かの前で自分から見せつけて声出しながら抜くなんて。ヤク中のときでもしなかったのに。
「はあっ…はあっ…はっ…あはぁ」
スウェット…邪魔だ…身体をくねらせて足で脱ぐ。下半身がむき出しになる。あえぎながら彼を見る。足元に座って僕を見おろしてる。見られてるのが良い…すごくイイ。
「ほら…こんな…おっきいよ…」
誰に言うわけじゃなく。
「たまんない…よ…」
性感に飲み込まれてく。
「あぁ…ここがぁ…」
足をM字にいっぱいに開く。恥ずかしさを感じない。どころか、自分がなにしてるのかわからない。
「あっ…あっ…あっ…」
「どうした。エロくて良い眺めだが」
「んあ…あはぁ…」
ひとりでに漏れるかすれた声、のけ反って性器を見せつけてまた興奮していく。
「見てぇ…ほらぁ…ぼくインランだから…もう出ちゃうよぉ…」
スウェットの上をまくり上げ、自分で乳首をこねた。ズンと全身に淫靡な波が広がる。
「くはぁ…僕の中…グチャグチャになる…」
彼はなぜか黙って見ている。焦らされてるのか、放っておかれてるのか、それが僕を更に狂わせる。先走りでヌチャヌチャになっている亀頭の尿道口を指先で広げグニグニと嬲る。
「ひぃぅっ! ダメッ…ここも気持ちいいよぉ…」
マンションに監禁されている頃、客の誰かにさんざんされた尿道プレイを不意に身体が思い出す。これもフラッシュバック? でもこれならいくらでもなっていい。
「ここ…たまんない…」
尿道に差し込まれた金属の滑らかなプラグの冷たさと硬さを性器が思い出す。またそこを責められたい。して欲しい。手錠で緊縛されて、うしろを固いペニスで塞がれて、プラグをペニスに差し込んで、そのまま何度もイキたい。
「あああっ…もうだめぇ…ここっ…たまんないよぉ…何でも良いから挿れてよぉ…」
何も言わないで視姦されてる…またあの時みたいに輪姦されたい。冷たい道具で虐めて…知らない男たちに代わる代わる犯されて、中から精液が溢れてくるくらい何度も中で出して…狂いたいよ…狂わせてよ…だって僕はもうからっぽなんだ…なんにもないから…何かで…埋めて…
「調教されて…僕はカラダ狂ってる…なんでも好きにしてよぉ…中で出してよぉ…もっと欲しいよぉ」
彼の冷たい嗜虐的な目が僕を見下ろしている。蔑んでいるのか、憐れんでいるのか。僕にはもうどちらでもいい。それがたまらずに僕は上り詰めようとしていた。
「犯して…また皆んなで…ね? 前にしてくれたよね…知らない男の人がいっぱい…いやらしいこといっぱいされて…いっぱい犯して欲しいよぉ…皆んなで僕をグチャグチャに犯して…あのとき…ぼく…壊れて…すごい気持よかったんだよぉ…」
言えば言うだけ興奮してカラダが熱くなっていく。もう、彼の視線も感じないほど狂っていた。気持良すぎて息が苦しい。目の中にチカチカと星が飛んでいる。熱い…下腹部が灼けるよ…イキたい。我慢できずに性器を両手で鷲掴んで激しくしごいた。固い。自分じゃないくらい固く感じた。すると今までにないほどの自慰の快感が下腹部で充満した。
「ああっ…出るっ…出る…出る…ヤダっ…出るぅ…!」
ブシュッと勢い良く精液が弾け飛んだ。その瞬間頭の中が真っ白になって、僕は軽いめまいの中、顔を激しく左右に振りながら仰け反っていた。その時…
「あぐっ!」
ゴツッ…という鈍い音と共に前頭部に激痛が走った。平衡感覚を失った僕はソファーから落ちていた。
「つうぅっ…!」
痛みに頭をかかえているうちにいつの間にか彼に抱き起こされていた。
「痛い…痛い…イタ…」
「ベッドに行くぞ。額が切れてる」
手がヌルッとした。見ると額を押さえてた右手の指が血で真っ赤に染まっていた。
「運がいいな。正気に戻ったか?」
彼がティッシュを頭に当ててくれる。
「うう…なに…?」
「自分で押さえろ」
僕が額をティッシュごと押さえると彼が僕を抱き上げた。
「まだ抱かれたいか?」
「頭…いた…い」
「テーブルの角にあの勢いでぶつけたら痛いのは当たり前だ」
彼が呆れたように言う。
「なんで…? 僕落ちたの?」
「エロすぎてのたうち回ってたからな」
僕はそっとベッドに下ろされた。
「じっとしておけ…わかったか」
「ううぅ…」
救急箱でも探しに…だろうか。彼は慌てもせずリビングに戻っていった。おかしくなった頭が痛みで元に戻ったみたいだ。さっきまでの変な感じは、痛みですっ飛んでしまった。まるで憑き物が落ちたような。リビングに向かった彼は、案の定救急箱を持って寝室に戻った。ベッドに腰掛けて傷の手当を始める。
「縫うほどじゃないな。内出血やタンコブより、切って出血したほうが治りが早い」
僕はうす目を開けたまま大人しく手当てを受けていた。痛みはだんだん治まってきたが、身体のどこかに力を入れるとすぐさまズキッと傷に響いた。脱力を余儀なくされる。
「こんなまぬけな事態…」
彼が思い出したように笑う。
「君らしいな」
反論する精神の余裕はない。
「だが…これからキツいな」
彼が真面目な顔になった。
「本当のリセットなんだろうな。現実と君の認識が一致したわけだ。君は晴れて自由だ。人生の支えになるほどの意味など初めから存在はしない」
初めから…なかった…?
「君はきっと、生まれてこの方、兄さんのために生きていると自分で思っていた、そうではないか?」
僕はうなずいた。頭の傷がズキッと疼いた。バレてた。この人には隠してもムダなんだ。彼は大判のバンドエイドを出し、僕の額に貼りながら言った。
「君はこれから生まれて初めて自分のために生きることになる。誰のためでもない…自分のためにだ」
彼はため息をついた。
「孤独だ…その作業は」
無表情にそれを聞いている僕に、救急箱を片付けながら彼は尋ねた。
「私の言っていることがどういうことかわかるか?」
僕はまた黙ってうなずいた。わかってるのかな。目を閉じる。さっき見た空が広がる。高すぎて果てしない。あまりにもなにもないことに、淋しくて虚ろなことに涙が伝った。
「生きるための支柱を失った君がそれに唐突に気づいたとき、精神に異常を起こしかけたのは当然と言えば当然だ。人によってはあのまま狂ってしまうこともある。帰ってこられるのは運の良い者だ…もしくは…最初から“持たざる者”だろうな…かつての私のように」
「あなたも?」
それを聞いた僕は思わず彼を見た。
「…つうっ!」
うっかり動かした頭に痛みが走り、僕は顔を歪めた。彼は苦笑しながら僕に言った。
「バカだな。じっとしていろ」
そしてもう一度繰り返した。
「じっと…してるんだ…」
ゆっくりと囁くその二度目の言葉は、なんだか違う気配を帯びていた。ゆっくりと彼の手が僕の唇に触れた。
「う…」
そして彼は人差し指と中指の二本で半開きになった僕の口をこじ開け、その指をゆっくり挿入していった。
「忍耐の限界…だ…」
彼は呟いた。
「動くな…」
「んっ…」
「エロいことさんざん言って挑発した挙句、私の前で怪我などした罰だ。しかも血まで…たまらない」
僕の舌の上を二本の指がゆっくりと上下に動く。僕の傷と血と…痛みに耐える声、彼の嗜虐を満たしたに違いない。こんな風に溢れるほどに。彼の恍惚とした目が僕を見下ろす。
「さっき…犯してしまえば良かった。戻ってくる前に。気が狂ってしまった君をさらって異国の地で暮らすこともあの瞬間には可能だったかもな。異国のどこかの古いレンガ造りのフラットにでも頭のオカシイ君を閉じ込めて…。だがそれが愚かだとわかっている自分を欺けるはずもない。悔しいがな…とても悔しいが…」
さらって欲しい。僕はもう誰のものでも…ない。
「う…くふっ…」
彼の指で口の中がいっぱいで、それを言葉に出来ない。
「なにも…話すな…なにも…君が何を口走るか…私にはわかってるんだ」
彼が低く囁く。
「ただ喘ぐんだ。感じた分だけ声を出せ。今まで溜め込んできた鬱屈した快感をここで解放するんだ。圧し殺して行き場を失った膨大な快楽の奔流をさっきのように吐き出せ。いや、さっきだって声を殺していた。あんなに狂っても君は意識があると喘ぐときに声を殺してしまう癖がある。もうそんなことをしなくていい。さっき以上に…好きなようによがってイケばいい」
そう言うと彼は僕の口から指を抜いた。一度イッたのに既に固くなった僕の性器を、彼は僕の唾液で濡れた指で包み込むように握った。
「は…あっ…」
そして僕の身体の上に覆い被さった。
「君はここが…」
耳に囁く。わざと。
「んあっ…」
「君は耳が…一番…悶える」
吐息と囁きで交互に。
「あうっ…」
「もっと感じるんだ…もっと声を出してよがるんだ」
容赦なく低い声が入ってくる。その唇が耳輪をかすめる。ああダメだ。おかしくなる。
「はうぅ…!」
「もっと感じているはずだ。もっと。もう君は耐えなくていい。動くな…力を抜け…筋肉を締めるな」
握った性器をゆっくり離れて、腹部を撫で上げていた彼の指が不意に止まった。
「ここで、耐えていたのか?」
みぞおちの筋肉が固く閉じている。触られて気づいた。自分でも知らないうちに声を殺す。兄に初めて身体ごと愛された瞬間からその喘ぎ声を圧し殺して、真夜中の狂宴を耐えてきた。もう忘れてしまうくらい前から。小さい頃から染み着いた、快楽と引き換えの秘密。
(バレたら…死ななきゃならない)
命懸けのルールに耐えれば耐えるほど快楽は膨れ上がった。僕も兄もあのベッドの中でひっそりと狂い続けた。互いの口を手で唇で塞ぎあって…
「息を吸うんだ…」
彼が囁く。
「そうだ…いっぱいになったら吐くんだ…肩の力を抜いて…」
彼の導くままに吐息のように吸気を吐き出す。吐きはじめたとたん奇跡のように、一瞬だけ僕の緊張がスッと抜けた。力が抜けたと同時に、えも言われぬ不安とざわざわした感覚が皮膚をおおった。
「ああっ! ダメっ!」
細かい虫が皮膚の下をびっしりと、全身を這い回るような異様なおぞましい感覚。瞬間的に僕のみぞおちはまたもとの緊張に戻っていた。
「ダメだよ…力抜くと…不安過ぎてザワザワする…耐えられないよ」
この感覚…なにかに似てる。とてもいやな、思い出したくないようなこの感覚。でもすぐにその忌まわしい記憶が精神の抵抗を突き抜けてフラッシュバックしてきた。クスリの離脱症状だ。思わず息を詰めた。ひとりでに顔が歪んだんだろう、頭の傷に痛みが走った。
「うう…イヤだ。これ…禁断症状…似てる」
「そうか。それは嫌だろうな。嫌なら叫べばいい。だが気持ち悪さから逃げるな。さっきみたいに錯乱してもかまわない。どうしても耐えられないならまた固く締めて守ればいい。だが、それで終わらせるな…いいか?」
「うぅ…」
彼の言葉にうめいた。愛撫の快感と記憶の不快さが交互にやってくる。ただ腹部の力を抜くだけのことがこんなに抵抗感のあることなのかと、自分の身体をもどかしく感じた。自分の身体なのに自分の自由にすらならないなんて…。でも僕は生まれてからずっと、こうやって兄との秘密に耐えてきた。バレたら死が待っていた。それを今日ここですぐには解放できそうにはなかった。
「無理…かも…いますぐには…」
途方にくれて僕は彼に言った
「そうか。無理はするな」
彼は意外なほどすぐにその抵抗感をわかってくれたようだった。無理はさせないように僕を待ってくれてる。僕は少し安心した。でも…少しずつなら…できるかも。
「…ごめん…僕小さいころから…多分…声出さないように我慢してた。バレたら死ななきゃならないって兄貴に言われて。だから…すぐは…無理なんだ。すぐは無理だけど、これから少しずつなら…できると思う…」
彼はうなづいた。
「それでいい。君のトラウマは生まれつきだ。それを認めるだけでも時間が要る。焦ることはない。だが私以外にこんな話をできるセラピストを将来予定していないなら、私と離れる前に君は…」
見たくない現実が語られた。言葉を遮るように僕はさっきとどめられたその言葉を口走っていた。
「離れられないよ! なぜさらって行ってくれないの? 僕はもう誰のものでもない!」
彼はゆっくりと口を開いた。
「今の君をさらってもまた繰り返すだけだ。嫉妬…疑心暗鬼…妄想…私が…耐えられないんだ…私が…」
そう言うと彼は苦しそうに僕をかき抱いた。
「あのときも言ったはずだ。支配と依存の中には愛はない…いや…仮にあったとしてもそれは加虐と被虐の檻の中では意味をなさない」
「あなたは僕を…もう支配していないよ」
彼はフッと笑った。
「気づかないか? 君は私を支えとしている。なぜなら私は君の肉体…精神…心…すべてに私という麻薬を打ち込んでいたからだ。私がいなければ生きていけないと思わせられるほどにな」
彼は忌々しそうに自嘲した。
「変わらないのだ。私が君にしているのは…君のためを思ってする行為も…私の欲望を満たすことも…君から君の力を奪う。支配…支え…一文字しか違わないのはそれが実質的にほとんど同じものを示しているからだ。違いはやり方だ。力でねじ伏せるか、それともそれを捧げるか。私は両方のやり方で君の中に私という存在を埋め込んだ。だから私は君の自然な愛には触れられない。私が縛りつけたからだ…」
「そんなことない! そんなこと…もう…言わないで!」
「君があの時捨て身で私にくれたものすら、私は不意に偽りではないかという疑いの中に入ってしまう。そして悶えるんだ…崩れそうな礎の上でな」
必死に否定する僕の目を彼はじっと見ながら言った。
「自由という虚空の中で、君自身を自分の支えにして生きるんだ。孤独に耐える力もそこから立ち上がる力も、人の生来の有り様だ。自分の中に支点が見いだせる…それが本来の君なんだ。そうでなければ我々は、再び逢うことさえままならない…私もまた…」
その言葉は不意に途切れた。
「…どう…したの…?」
彼は顔を挙げて僕を見ると、なぜかさっきより可笑しそうに笑った。
「君を自由にすることもまた作為の罠かも知れないな。君に『逃げるな』などと…私が言えるわけも無いのに…」
「そんなこと…ない…あなたに言われなきゃ…気づかないよ…僕は!」
「ああ…そんな解釈も有り…か」
それから彼は僕の身体を抱いたまま、愛撫を続けること無くじっと黙っていた。時間が知らないうちに過ぎて、夕方の日差しになっていた。この静かに抱き合っている時間が僕の心に染み透ってきた。愛撫も嗜虐も言葉もなくただこうしていることが、僕の心の空白を満たしていくような、そんな安らぎを感じた。彼はどう思い、何を感じているんだろう。静けさが眠気を誘った。知らないうちに僕は睡魔に襲われていた。まどろみの中で僕はかすかな彼の寝息を聞いたような気がしたが、それもつかの間、夕闇に部屋の中がなにもかもまぎれてしまったようだった。