翌日から始まったのはなぜか普通の1日だった。セラピーは延期。予定は未定。僕の心は空白のまま茫然としていた。
彼との二人だけの生活も、普通とは言いがたい軟禁状態も心の中の空白も、日常とはかけ離れていて、自分がいったいどこに居るのかとか、夢と現実の区別がつかない感じとか、ほんとにパラレルワールドに紛れ込んでしまったようなのに、夢の中の例の奇妙な“当たり前感”がこの空間を支配していた。
僕が発狂しかけたことでセラピーは中断し、彼は仕事の薬物更正プログラムのデータの整理を始めた。今までデータを取った薬物依存の患者のケースごとの具体的な対応とか…なんとか。当然僕のケースも…というか、それがメインとかなんとか。
「アントニオ・グラムシの獄中ノートのようだな。期間が短か過ぎるが」
これはつまり、この軟禁された時間を有効に活用…という意味だと思うけど、そのナニ虫さんについては説明もなく、訊く気もなかった。なにもかもが寝ても覚めても夢の中にいるみたいだった。
「君にレポートを書いてもらいたいんだが。ヒマだろう? 寝て起きて簡単な家事をするだけならヒマ過ぎて考えなくてもいいことを考える。精神衛生上良くないからな」
と、変な日常が少し過ぎた頃、彼は僕にワークを課した。
「なに書けばいいの?」
「時系列で、薬物依存の起きた順に、きっかけと経緯…だな…まずは」
彼は有無を言わさず僕にレポート用紙を押し付けた。
「鉛筆か? それともボールペン派か?」
「なんでもいいけど…」
筆記用具とかどうでもいいが、抵抗がかなりある。書かされる…書きたくない…というか思い出したくない。でも仕方ない。それで彼の仕事が完成するなら。
だがふと思った。これが上手くいけば、少しでも苦痛から解放されて壊れた人生を取り戻せる可能性が誰かに生まれるのかも知れない…と。僕がこうやって彼のおかげで壊れかけた精神と身体を薬物から救ってもらった、それと同じように。それは彼と僕が出逢い、結ばれないまでもそれは無駄では決してなかったということになるそのことが、今の空白の中にある僕の心の支点になるんじゃないのか…と。
そう思った瞬間僕は、思わず顔を挙げ彼の顔を見た。
「誰かの…ために…なるかな…」
彼は少し驚いたような顔をしそしてクスッと笑った。
「ああ、もちろんだ。私が作るプログラムはこの国では画期的だ。君の協力は必要不可欠だがな」
「…できることをしたい」
彼はうなづいた。
「では早速取りかかろう。君がまずアルコールにハマったきっかけを書くんだ…まさかその前にはやってないだろう?」
「…パニックの薬は?」
彼はああ…と言って、それをパソコンに打ち込んだ。
「あとから書いておいてくれ。今はアルコールからだ」
レポート用紙を前に、曖昧な記憶をたどっていった。誰かのためになるとはいってもあの頃の自分を思い出すのは苦痛だ。僕が酒を飲み始めたのはいつからだったんだろうか? 飲み過ぎて学校に遅刻したり、兄を断罪する不良神父の幻覚に酒ビンを投げつけたりしたのは、もうアル中になってからだった? あれ…そのときはもうあの売人にヤラれたあとだっけ? ヤツに忠告されたのはアルコールじゃなくて、あいつと関わるなって言われたよな…
ダメだ…この時期の記憶は頭の中で出来事が錯綜してる。情けないことに、ほんとに書きながらじゃないと、ちゃんと思い出せないみたいだった。
もらったレポート用紙の真ん中に“教会”とだけ書いてみた。ここが酒とクスリの境目だからだ。紙にそう書いて眺めているうちに、僕は不意に大事なことを思い出した。ああ…そうだった…これがすぐに出てこなかったことがある意味ショックだった。実家から酒ビンをつかんで、アパートに逃げた日…興信所を親父に勝手に変えられた、あの日のことを。これ…彼に話したかな? ヤク中になってからあとの記憶はもっと曖昧で前後が混沌としてる。話したような話してないような…彼に直接訊いてみる以外に僕には判断出来なかった。
「あの…さ…」
パソコンに向かう彼に、僕は遠慮がちに話し掛けた。
「いま…話してもいい?」
「ああ、なんだ?」
「僕がアル中になったのって、親父とケンカしたから…だったって…僕あなたに話したかな?」
「いや。聞いてないぞ」
やっぱり話していなかった。
「…というか君がアル中になったのは兄さんの失踪が直接の引き金じゃなかった…ということか?」
彼は少し驚いたように僕に尋ねた。
「…違うんだ…親父と口論して…それからなんだ。忘れてた。多分、思い出したくなくて…」
彼からは叱られることもなく、会話に少し間があり、彼が何か考えながら僕に質問した。
「口論…とはどんな?」
「親父が兄貴探してもらう興信所を僕に黙って変えたんだ…」
僕は興信所のいきさつを彼に話した。担当者とのことや父親の精神状態、そしてあの日のケンカの様子を。
「怒りに身体が震えた…あんなの初めてかも知れない。それまで僕にとって一番激しい怒りだったのは、兄貴の父親に感じてた怒りだったのに。でもさ…親父に感じた怒りって…ぜんぜん違ってて…」
僕は記憶をたどりながらあの日の激情を思い出そうとした。
「…親父の気持ちもわかる。僕だって調査が進まないことに焦ってたし、不安で仕方なかった…だからこそ最初の興信所の担当さんと一緒に精一杯動いて信頼関係を築いて、少しでも成果を出そうと無理にでも前向きに努力し続けてたんだよね…張りつめてた分…いきなりハシゴを外されたっていうか…言いたくないけど…」
話してるうちにある感情が湧き上がってきた。それは言っちゃいけない気がして、言いかけたその言葉に詰まった。
「言いたくないけど…なんだ?」
止まった僕を促すために彼が言う。
「素直に言いたまえ。誰かにぶつけているわけじゃないんだから。我々はレポートを書いている。ありのままを報告すべきだ」
ありのまま…それでもいいなら…。彼の言ってくれた言葉に、僕の罪悪感が少し弛んだ。
「じゃあ…言いたくないけど言う」
僕は出しにくい言葉を出すために息を吸った。
「裏切られた…って思った。親父から」
それを聞くと彼は、ほう…と感心したように呟いた。
「確かに君らしからぬ激しさだ」
「親父の心の中を思うとそれを言っちゃいけないと思った。兄貴と血がつながってないのは家族の中で親父だけ。兄貴の失踪が自分のせいかも知れないって、親父が自分を責めて苦しんでるのは僕には痛いほどわかってた。だから虚ろな親父の顔を見たら…それ以上責めるのは僕には出来なかった。でもそうすると…僕には怒りのはけ口が…なんにもなくて…吐き出せることも吐き出せる人もいない。じゃあ前向きに新しい興信所の担当者とまた一から関係を築くなんて、その時は絶対無理だったし…まぎらすしかなかった。それで意識を無くしたくて…飲んだ…何も考えられなくなりたかったんだ」
その時の悲しさと自暴自棄な感覚が胸の中によみがえってきた。あのことさえなければ…僕はクスリなんかに溺れなかった。あんな地獄のような恐ろしいほどの苦しみを味わうことは…
「…親父が…僕の気持ちを…少しでもわかって…くれてたら…」
不意に涙が込み上げてくる。家族に…父親に…
「わかって…欲し…かったんだ…」
無理だとはわかっている。家族全員…ギリギリだった。そして決して理解されない僕の秘密。
「…耐えられなかった。生きてくことにも…耐えられなかったんだ。打ち明けることが出来ない秘密の重さにも押し潰されそうになって…誰にも…誰にも頼れないことにも…」
窒息しそうなほどあの日僕は孤独だった。
「だが…不思議だな」
彼は椅子の背に寄りかかり、腕を組んで僕を見た。
「君はなぜ守ってくれる立場の親を逆に守ろうとするのだろう? そんなにボロボロになってもまだ君は親御さんに対してまるで保護者のように振る舞う。かなり年上の兄さんに対してもそうだが…なぜなんだろうな」
守ってくれるはずの立場…? 僕にはその言葉に意表をつかれた。彼の言うことは当たり前のことで、世間的にはまったく矛盾のない話だ。なのに僕は、そんな視点で家族を見たことが…ない? いや…なかった。そのことに今言われて初めて気がついた。じゃあ僕は今まで…どんな風に感じていたんだろう?
「僕は……みんな…を…」
僕はなにを思ってたんだろう? 小さいときから幸せな家族だとずっと思ってきた。兄貴との秘密さえ隠し通せば…それだって小さい頃はこんなには苦しんでいなかったはずなんだ。もっと単純で…無邪気な秘密で…
「思い出してみたまえ。君はどんな風に君の家族を見ていた? 幼い君が意識を持ち始めたとき、彼らはどんな様子だった?」
「意識…?」
僕は彼の言う意識という言葉の意味をすぐには理解できずに問い返した。
「そう、君の意識だ。産まれてから、しばらくして周りに誰か居ることを知った君は、それが家族だと認識し始めた。君には家族はどう見えたか?」
「そんなの…覚えてるわけないじゃない」
僕がそう言うと彼は話を続けた。
「それがそうでもないんだ。人の記憶はちゃんと蓄積されていると言われている。思い出せないだけだ。それは記憶の中に映像化されて残っている。感情と思考の思い出せる限りのイメージを思い出すんだ。どんな風に君が見ていたのか」
イメージ…と言われ、僕は記憶をさかのぼった。小さい頃、僕はなにを見ていたのか。見ていた…?
いや…違う。僕はある印象を思い出しかけていた。でもそれは見たんじゃない。それは視覚ではなく、それは、それは…
(…け…て…)
そのとき僕の頭の中にその記憶が蘇った。誰かの声がした。聞こえてた。そうだ、僕は聞いていた。しかもそれは耳で聞いたんじゃない。直接頭の中に入ってくる音。みんなの…沈黙の声。心の叫び…? だって、それは…そう…耳をふさいでも入ってきた。だから僕は、その怖い言葉を消したくて…
「声…だよ」
「…声?」
彼も不意をつかれたように僕に聞き返した。なんで忘れてたんだろう。僕はずっと聞いていた。それも産まれたときから…ずっと? そんな気さえする。
「映像じゃ…ない」
「…音か…」
僕はうなづいた。彼は少し黙った。
「人とは…多様なものだな…」
考えこんだような彼の顔に僕は少し不安になった。
「声でも…いいの?」
「ああ。問題ない…いや問題は私の先入観だ。参ったな、だから君は面白いんだ」
「よかった…」
「思考とは不自由なものだな。固定化されて、君みたいなバカな子に蹴られないと動けない」
「バカは…余計だ…」
僕は少しムッとした。
「…それで?」
彼の問いかけは続いた。
「君はどんな声を聞いたんだ?」
「頭の中に…家族の声が直接聞こえてたんだ…変だけど」
「またか。テレパシーだな。神だけじゃなくて人の心の声も聞こえるのか…参ったな…」
「もう…人の声は聞こえないよ。っていうか忘れてた…いつからかわかんないけど」
「そうなのか。まあいい。注目すべきは君が何を聞いたのか…だ」
(…す……て……)
無視できない…でも振り返ると飲み込まれる…どうしよう? どうすれば…
「声が…怖かった」
「怖い…?」
僕は…何を怖がっていたんだろう?
(知りたくない)
僕の中のなにかが拒否反応を示した。怖いから…聞きたくない。それは僕にとって怖い声だったからなんだ…としか言い様がなかった。でも…どんな? 物心ついた時から僕には、父にも母にもそんな印象がない。母の自殺未遂や離婚のことを聞いた時もびっくりした。まるで別人の話を聞いてるような変な感じだったくらい母はふつうの、能天気で心配性の天然の母親で、親父はのんきなヤンキー上がりの腹の据わった頼れる男だったし、その両親の印象と蘇ったその怖い声とは、僕の中で全くつながらなかった。
では、それは兄貴…の声? それなら納得できる。一番追い詰められてたのは兄だったろうから。でも奇妙なことに僕は、その声が兄からの声とはどうしても違うように思えてならなかった。18年間も忘れてたのに、印象が思い出せるのが不思議だった。まるで記憶の底で生きてたみたいに、そしてそれは僕の予想できる範囲のものではないようだった。
(いやだ…思い出すな…!)
だが、隙を突かれるように、急にまた強烈な拒否反応に襲われる。
「…どうしたんだ?」
知らないうちに顔を歪めてた僕に彼が問いかける。
「思いだしかけると、拒否反応が来るんだ。それで記憶が…止まる…それを繰り返してる。さっきからずっと…。いやなんだ…思いだしたくない。わからない…なんでかわからな…」
それを聞いて彼が口を挟んだ。
「つまり、君は知ってるんだな」
「え…?」
僕は一瞬ギクッとした。直後にゾワッと鳥肌が立った。
「え……知ってるって…なんで?」
「そりゃそうだろう? 知らなければ恐れることはない。違うか? 君はわかってる…なにを聞いたかをな」
わかってる…その先に有るものを、どこかで…知ってる。
「ううっ…!」
思いだしたくないっ! 足元が崩れそうな不安感が僕を襲う。
「やめて! 知りたく…知りたくないんだ…」
すべてを失いそうな感覚。なんなんだこれは? 僕の全神経が危険を告げる。だからわかる。核心に触れてることが。なにかに心臓を掴まれて息ができなくなる。発作が起きる前兆みたいに。机に突っ伏した僕を見かねて彼が助け船を出した。
「やめるか。抵抗が辛そうだ。無理するとまたショックに陥る危険もある。レポートを先に書いてしまった方がいいかもな…どうする?」
「そのほうが…それで構わないなら…」
顔を机に伏せたまま僕も答える。
「君の覚悟が必要だな。その先を見ることの」
彼がゆっくりと呟く。本当だ。
「ああ…そうだね…あなたの言う通りだよ」
失うものなんか、なんにもないはずなのに。