失うものなんか、なにもない。
その夜、僕はその言葉をゆっくり確かめていた。昼間、僕がなにを怖がったのか知るためにだ。過ぎ去った日々がどこまで今の空っぽな僕を追いかけて打ちのめす余地があるんだろうか? まっさらになってしまった僕の人生というキャンバスを、今さらなにが更に白くするのか。どうせならキャンバスごと壊してしまいたいとすら思う。そこに新しい絵を書き直せるかなど、今の僕には計り知れないほどの徒労感を感じる。ここで過去の僕のトラウマが仮に露呈したところで、これ以上の恐怖や絶望を感じる何かが、僕にはこれっぽっちも残されてなどいない、と、多少の合理的な思考で考えていた。
覚悟…と彼は言った。覚悟が僕にできるかはわからないが、諦めることならできるかも知れない。自分の人生に対する期待を捨てること。それが今の僕にとっての覚悟と同じことのように感じた。
期待だ。染み付いてる。どうにか良くしたいって、ずっとずっと小さい頃から思い続けてきたんだから。だけど、この人生も兄の人生も、白紙…なんだ。本当に。だから失うものなんて、なにもない。怖いのは、見たくないのは、これ以上のどん底の下があるんじゃないかっていう恐れか? それとも墓場の破けた提灯を見て、幽霊と間違えて怯えているような、ただの誤解なのかも知れない。だが僕はもうどうでもいい気持ちになっていた。だって、抵抗しようが望もうが、僕の思い通りになったことなんて何ひとつないじゃないか…。やっぱり僕にできるのは、覚悟より、諦めの方だった。
諦めたその夜、僕は夢を見た。
薄暗い部屋に兄がいる。小さい頃の兄だ。となりにいるのは…父だ。顔はよく見えないが、暗くても誰だかわかった。父は床に座っている。幼い兄は泣きそうな顔で父に甘えている…甘えて?
夢の中で僕は気づく。これは、甘えているんじゃない…と。良く見ると父は少しずつ、後ろへあとずさっている。父の顔を見たその時、僕はゾッとした。目を見開き口を開き、恐怖で顔を引きつらせ固まっていた。兄の楽しげな顔と対比して、それは異様な光景だった。
兄は後ずさる父に縋りついた。
「…おとうさん…おとうさん…いかないで」
父は壁ぎわに追い詰められていた。すると兄は救いを求めるような目で父の膝にのぼり、父の首筋に舌を這わせ始めた。父は目を見開いたまま兄の顔を両手で押さえ、そっと引き離した。
「なんで…? おとうさん…ぼく…ぼく…」
兄の顔が次第に上気していく。目つきが変わっていく。でもそれは、いつも階段を登って僕のベッドに来るときの兄の顔そのものだった。
(たす…け…て…くれ…もう…限界だ…)
声は無かった。父の声は全部僕の頭の中に響いてきた。死霊でも見たかのような、父の恐ろしい声だった。無音の声に僕は耳をふさいだ…いや塞ごうとした。手足がなぜかうまく動かない。
(もうやめてくれ…たすけ…て…くれ…やめろ…)
耳を塞いでも全く変わらないだろう。だって頭の中に直接響いているんだから。すると兄は顔を支えている父の手を小さな手で掴んだ。そして顔をねじり、その指を舌でしゃぶり始めた。ただ吸っているんじゃない。舌で指先から指の股に舌を這わせていく…それは愛撫だった。子供のはずの兄は、まるで淫らな娼婦のようにその行為に耽りながら父の顔を恍惚とした目で見上げた。
(やめろぉ…! もう…だめだ…だめなんだ…)
父の声が絶え間なく頭の中に響く。その叫びも虚しく、兄の唇と指先が硬直して動くことも出来ない父の身体をなぞりながら少しずつ下に降りていく。まるで小さな鬼が屍肉をなめているみたいに。とうとう兄の頭は父の股間に沈んだ。
「おとうさん、今日も気持ちいい?」
ピチャピチャという音が部屋におぞましく響く。父親の呼吸が切迫した音でハァハァとその音に重なる。
「ねぇ、おとうさん、ぼくのも、して…」
兄が苦しそうな顔で自分のズボンをおろしていく。小さな白い尻があらわになった。父親の喉がヒッ…と変な音を立てて鳴った。
「おとうさん、おとうさん、ねぇ…して…? いつものきもちいいの、して…もうぼく…がまんできないよ…あたまがこわれちゃうよ…おとうさん…おとうさん…」
股間から顔を上げた兄は、よだれにまみれた口を半開きにして荒い息をつきながら父に言った。
「たすけて…おとうさん…おねがいだから…ぼく…もう…こわれちゃうよ…」
幼い声でハァハァとあえぎながら父の膝に深く跨ると、兄は自分の股間を父親の性器にこすりつけた。おとうさん、たすけて、おとうさん…とうわ言のように呟きながら。
それは発狂しそうな光景だった。でも僕も声が出なかった。するとそのとき父がゆっくりとこちらを見た。僕と父の目が合った。虚ろな真っ黒な目が僕を見てた。絶望的な恐怖が奥に宿っていた。
「にい、ちゃん…さ…」
僕と目を合わせたまま、父が虚ろに兄に語りかけた。兄は父にしがみつき、腰を回して股間を父の性器にこすり続けていた。
「ほら、おまえの弟だ…」
父はそのまま兄をぎゅっと抱えると、兄に僕が見えるように身体の向きを変えた。
「ほーら。今日は一緒だ」
そう父に言われた兄が、淫靡な目つきで僕をチラッと見た。
「うん…おとうと…」
兄が僕に向かってゆっくり向きなおった。そして僕をじっと見つめた。
「弟は、かわいい…だろ?」
「うん…いつもかわいい…ぼく…だいすきだよ」
父のひきつった顔が少しゆるんだ。そして懇願するような目で僕を見た。そして兄に言った。
「これからお前が可愛がってやれよ…俺はもういいから…」
兄は下半身裸のまま四つん這いで僕に近づいてきた。そのとき僕は自分が、布団に寝かされてることに気づいた。兄が僕の顔を見下ろす。そのとき僕は理解した。自分がどうしたらいいかってことを。すると兄の指が僕の唇に触れた。
「ぼく…かわいがっていいの?」
「ああ…おにいちゃん…だからな…」
「おにいちゃんだから…ぼく…」
残された僕の顔に兄の顔が近づいてきた。いつのまにか父の姿がどこかに消えていた。そして僕の唇を割って、兄の舌が口の中に入ってきた。布団がはぎとられ、服の中に兄の小さい手の感触が忍び込んできた。
うん…いいよ…
おにいちゃん…ぼくとすればいい…
おとうさん…こまってるから…
「うわああああああぁぁぁぁっ!!」
叫びながら目が覚めた。
「ああっ! ああぁ! うあああぁ!!」
「どうした! 発作か!」
彼が隣ですぐ目を覚ました。
「いやだ! もういやだ!」
全身がガクガクして止まらない。寒気と震えがおおっていた。自分で自分の身体を抱きしめる。それでも震えはまったく治まらない。この寒気はクスリより凄まじかった。
「いやだ…やめ…て…やめてやめてやめて…やめてよ…」
「大丈夫だ…大丈夫だから」
彼はあやすように僕の身体をかたく抱いて背中を手でさすった。
「どうしたんだ? 悪い夢でも見たのか?」
悪い夢、だったらいい。でもこれは夢であって、夢じゃない。
「夢だよ…夢だけど…違うんだ…! 記憶の夢…でも…悪夢だ…こんなのいやだ…」
「どんな夢だったんだ?」
「見た…見ちゃったんだ…あの先を…見たくなかったあれを…見ちゃったんだ…」
「そうか、見れたのか。良かったな」
良かったと言われて、僕は気が遠くなりそうになった。
「僕は…こんなこと…知りたく…なかった…!」
堰を切ったみたいに溢れてくる涙。
「寒気がする…こんなこと…こんなのって…ないよ…」
歯の根が合わず、言葉にならない。
「頑張ったな。君は勇気がある」
それを聞いた途端、叫ぶように僕は泣いていた。
(これ以上、過ぎ去った日々が、どこまで僕を追いかけて打ちのめす余地があるんだろうか?)
余地はあったのだ。それも決定的なものとして。こんなおぞましい形で。
慟哭の中、激しい悪寒と嫌悪が長いこと僕を苛んだ。そしてそれらが少しずつ和らいでいくのを、彼の腕の中で感じていた。
知ってたことを思い出した。あのざわざわした悪寒、そしていくつにも重ねられたショック。二度と感じたくないと思っても不思議じゃない。ほんとはあの時、僕は叫びたかったんだと思った。でも僕は父のために、兄のために叫ぶことをしなかった。愛してたから、ふたりを。みんな苦しんでいたから、だから僕は記憶ごと封印した。嫌悪感も寒気も恐怖も、僕のパニック障害の本当の原因はこれかも知れないとも思えた。
僕と兄の関係を、父にバレることをいちばん恐れていた。でももっと恐れていたのは父のほうかも知れない。虐待が発覚した兄と家を出た時に母がせざるを得なかった行為を、父も同じようになぞっていた。母はそれで自殺未遂をし、父に助けられ、その父は同じ行為を続け、その後、耐え切れず僕を身代わりにした。父も母も互いに兄との秘密で苦しんで、そして僕も…
こんな重荷を背負って、僕たち家族は一見ふつうに暮らせてこれたのかと、僕は今さらながらに驚く。これを父から聞ける日は来るんだろうか? そのとき僕がこれを聞ける勇気はあるんだろうか? 思い出した記憶を父に告げるのは、今の僕には無理だと思った。いや、一生それを語ることはないかも知れなかった。
「もう私に話せるか?」
彼が僕を腕の中に入れたまま訊いた。ベッドの中でどのくらいの間こうして抱きしめてくれているんだろう。彼に守られていなければ壊れていただろう。僕は誠意を持ってその問いに答えなければならないと思った。
「なんとか…話す」
「無理はするな」
「ありがと…でもまた…錯乱するかも…それでも…構わない?」
「ああ…君の錯乱には慣れた」
そう言って彼は笑った。それを見て僕はうなづいた。この人にしかこんな凄惨なこと、打ち明けられないと。
「わかった……」
話そうとしてもためらいが舌を強ばらせた。僕は大きく息を吸った。
「夢の中で…小さい頃の兄貴が…親父を…誘惑…してた……後ずさる親父の身体を愛撫して…親父の顔がキチガイみたいに引きつってて…兄貴…笑ってて…そこで親父の声が聞こえた…頭の中に…たすけて…って…」
話し始めると、再び悪寒が身体をかすめた。思わず身を固くする。
「まだ辛いな…」
そう言って彼はゆっくりと再び背中をさすってくれた。
「…ごめん…まだ苦しい」
「無理するなと言ってるんだ」
「でも…言わないと」
吐き出したほうがこの悪寒が抜けていってくれるような気がした。すると彼がそっと僕に囁いた。
「だが、想像はしていた。君の兄さんは君の親父さんともそうなっていたかもしれない…とね」
「え…?」
その言葉に僕は思わず眼を上げた。