「なんで…なんでわかるの?」
「愛撫の空白の時間など彼にはあり得ないからだ」
彼はとても学術的な客観的口調で僕に答えた。生々しさを極力廃した気遣いで。
「あの身体は狂ってる。いや…狂っているなんて生易しいもんじゃない…異常性…あれは深いところで人格を壊されかけ、心を病んでいることも普段は忘れている状態だ。君の錯乱など問題にならないくらいにだ。君には痛い話だが、君の兄さんの空白を埋めた私にはわかる。愛撫に飢えた彼はほとんど二重人格に近い。しかし性行為が終わると、その記憶すら不確かになることがある。目つきや口調も変わり、違う人間かと思えるほどだ。プレイで長く焦らすと自傷を始める。それで手足を縛り付けることになる。暴れるのを止めるために私はベルトで打ち据え、タバコの火を押し付け、カミソリで肌を切り裂き、首を絞め窒息させる。彼は陶酔しきった表情でそれをすべて受け止める。あの人が自分の息子をどんな風にここまで狂わせたのか、その様を想像できてしまうのは辛いところだったが。だが彼の本当の不幸は、そのもう一人の自分を決して許さなかったことだがな」
彼は軽くため息をついた。
「君の親父さんと君の兄さんの肉体関係…多分それは1回だけのことじゃない。君の親父さんはヤンキー上がりだが倫理的にはまっとうな常識人だ。始めは兄さんに懇々と諭したに違いない。怒鳴り付けて叱りもしただろう。だがすでに精神に快楽を乗っ取られた君の兄さんに対して、それは無力だったと思われる。そしてついに君の親父さんは彼に負けた。最後に自傷する彼を止めるために仕方なく愛撫してしまったのだろう。それからなし崩しのように親父さんにとって気の狂いそうな淫靡な行為の時間が生まれた…そして、君が現れた」
そうか…そうだろうな。父もきっと自傷し始める兄をどうすることも出来なかったんだ。あの時の母さんのように。そして…
「夢の中で親父は僕と目が合った…恐怖に戦いた顔で、親父が僕を見た。僕は布団に寝かされてた…親父は兄貴に囁いた『兄ちゃん…お前の弟だよ』って。それからは兄貴は僕の方に寄ってきた…親父は……僕を…身代わりに…僕は兄貴に心の中で言ってた…お父さんが困ってるから…僕と…しよう…って…」
「ああ…そうか」
「僕は思った……助けてあげなきゃって。親父も…兄貴も、両方」
「うん。そうだな」
「それから僕は…僕たちはきっと…僕と…兄貴は……その時…から……」
自分でそう言いながら、とても切なくて悲しい気持ちが胸に込み上げてきて、最後は言葉にならなかった。代わりに彼が言葉を継いだ。
「その関係を、始めた」
「……そう…はじまった…んだろう…ね…」
それから僕はひとしきり静かに泣いた。誰も彼もが悲しくて悲しくて、それ以上に自分が哀れで泣いた。彼がいみじくも言ったように、初めて自分の過酷な運命のために泣いたのかも知れない。背中をさすられながら長いこと泣いていると、彼は口を開いてゆっくりと囁いた。物語のエピローグのように。
「それから親父さんは解放され、君が兄さんの愛を一身に受けるようになった。そして君は父親の身代わりになることを許した。すべてが愛ゆえに起きた尊い犠牲の物語だったというわけだ」
「そんな歳じゃ身代わりなんて…わかるわけないのに…ね」
「いいや」
彼は首を横に振った。
「子供はわかっているのだよ。難しい言葉ではなくただ根っこの気持ちそのものをな。それは正しい見解なんだ…対処する方法はともかくとして」
「そんなこと…ファンタジーみたいだけど?」
「それがそうでもない。学術的にもデータはあるし統計もある。君は聞いたことはあるか? 母親の胎内で聞いたことを生まれてからも覚えている…という話を」
「いや…ないよ…初めて聞いた」
それは初めての話だったが僕には思いあたる。
「でもわかるよ…僕も親父のあの声を産まれる前からずっと聞いてたって気がして仕方ないんだ…なんの根拠もない話だけどね」
長かったろうな…あの親父にとって。僕は父の気持ちを想像し、苦しくなった。誰にも言わなかったんだね、必ず夜に酒を飲むのもそのせいなんだろうか?
そのとき僕は我に返ったようにハッとした。ということはつまり、僕と兄の関係は、バレなかったんじゃない。あの狭い部屋の中の二段ベッドの秘密の行為…この秘密のせいですべてが苦痛と悪夢に満ちていたそれ。その死と隣合わせの秘密は…
「これは…秘密じゃ…ない…」
親父はなにもかも知っていたのだ。知らないふりをしてただけだったのだ。なぜなら、それを始めたのは、親父だったから。
暴かれた事実によって、僕の秘密が変質していくのが僕には信じられなかった。僕たちの残酷な秘密をもう一つの凄惨な秘密が飲み込んだ。身体から力が抜けていく。安堵と果てしない徒労感が僕を襲った。
「僕と兄貴のこと…親父は…なにもかも…知ってた…のか…バカだね…僕…バカだよ…僕たちが…!」
直後にものすごい怒りが襲ってきた。苦しんだから。死ぬほど苦しんだから。兄と二人でがんじがらめの鎖を引きずって血まみれになって、この孤独で道を誤って 、これでクスリ漬けになって、泣いて、狂って、壊れて、殺されかけて…!!
すると、僕の心に初めて本当の殺意が生まれた。誰にどう当たっていいかわからない。誰を殺したいのかもわからない。誰も憎めなくてみんな被害者で。でも僕はお前らに言いたい。
あんまりだ。僕を…返せ。僕の人生を返せ!!
「それで…全部か?」
彼が僕に声をかけるまで、怒りで僕は彼に抱かれていることをすっかり忘れていたほどだった。
「うん…それで…全部」
地の底を這うような声しか出なかった。いま、殺意で頭の中がいっぱいになってる。
「全員…皆殺しにしたい」
僕はつぶやいた。
「人生を返して欲しい」
「私も…か」
あなた…を? そう…兄をだまして地獄に陥れ、僕を脅してレイプした。身体も心も壊されて、恐怖で縛り付けられた。でも、あなたは…
「ううん…あなたはもう処刑済みだから、いい」
僕を地獄から救い出した行為と、潰れて切られた足首から先と一緒に彼の罪は許してやった。
「でも、皆殺しだ…みんな死ねばいいんだ!!!」
初めて爆発した怒りは自分でも驚くほど凄まじかった。今までどれだけこの感情を抑圧し続けてきたのだろう。僕の怒りを爆発させたのは、兄と約束したあの秘密が実は秘密ではなかったと気づいたからだ。誰にも知られてはならないという命にも等しい束縛は、僕にとってどのくらいの重さがあったか、自分でも計り知れないものだった。その絶対的ともいえるような《秘密》というルールが壊れたとき、僕に大きな怒りがあったことを知る。簡単に殺意に転化するほどの、膨大な憤怒が。
そんな僕を彼は安心したかのような満足げな顔で見守っていた。なぜか僕が怒りを爆発させ、「殺してやる! 殺してやる!!」と殺意をわめき、ベッドのマクラを壁に叩きつけていても、困りもせずむしろ楽しげだった。それどころかキッチンの包丁を僕に微笑みながら握らせてくれた。
「これが良い。殺傷力が高いから殴るより爽快感がある。ただし自分を切るなよ…いや、切ってもいい…そう…血塗れの君を犯す…それもたまらない…」
僕は生まれて初めてマクラを殺った。包丁でえぐったマクラの羽毛が寝室に舞い散った時、僕の青いフェンダーの爆音が不意に耳の中で鳴った。
(なにもかも、壊・れ・て・し・ま・え!)
そんなことだけをぶつけて殴りつけるように鳴らしたギター。殺意だったんだ。僕が弾いていたものは。
それから毎日が彼のレポートの作成に追われた。噴出した怒りのエネルギーが書くことに化けてくれた、と言っても過言ではない。自分の人生を振り返ること…まだ短い年月だけれど、こんなことでもなければやることもあるはずもなく、やる時間もないはずだった。今は動機もその時間も十分過ぎるほどあった。幸運だとつくづく思った。
ある日の昼下がり、彼が僕に一枚のコインをくれた。これを投げてくれ…と言った。裏ならこの紙を開け。表ならこちら。私が答えを操作していないことを、予め君にわかってもらっておく。
嫌な予感がした。でももうこれは止められないんだ。それがなんとなくわかった。有無を言わせないいつもの彼の無言のプレッシャー。本気なんだ。でも彼はこう付け足した。
「君の神に…願ってくれ。真実を表してくれと」
まるで神を試すように。僕は目を閉じた。
(あなたに任せます…神さま…僕と彼に真実を)
なにを尋ねられているかも聞かずに、僕は彼に手渡された10円玉をそのまま宙に放り投げた。落ちてきたコインを受け止める。握りしめた手を開くのが怖かった。
「表…だ」
僕は開いた手の中を見て、彼にそう告げた。
「ではこちらを開こう」
彼は“表”と書かれた紙を開き、僕に見せた。
言う
そこには、《言う》とだけ書かれていた。
「そうか…わかった」
と彼は諦めたように言った。
「なにを…聞けばいいの?」
僕が言うと彼は僕をじっと見た。切なげな目を見ていたら、彼がなにを言い出すか、それがわかってしまうくらい。
「行くんだね…」
「ああ…さすがだ…察しがいいな」
「犯人…確保したんだ…」
「そうだ…ようやくな。君ももうすぐ解放される」
「…裏だったら…言わないで行っちゃったんだ」
「言わないで行こうと思っていた」
「そんな…」
「だから…君に任せた」
「…そう…だったね」
「神は私よりサディスティックなんだな」
「…違うよ…それは違うよ」
「言ったら君が壊れそうで…」
「違う! 僕はもう…ひとりで立てる…ひとりで…」
「こんなに泣いていても?」
「そうだよ…泣いていてもだよ」
とうとうこの日がやってきたんだ。こころから感謝を。あなたに、神に。僕はもう…ひとりで立てる。たとえ、泣き崩れたとしても。言葉が途切れた時、僕たち二人は同時に互いを強く抱きしめていた。
なんどキスしても尽きないよ。
なんどもなんどでもなんどでも
このキスが、あなたに届くかな
(君に逢えて良かった)
なんどキスしたら届くかな
(私が君を愛したこと)
そうなんどでもぼくはくりかえす
(それが奇跡そのものなんだ)
この愛を
そうだこの名前のないおおきなもののなかで
うちのめされてあえぐ
なんどでもくりかえす
それがぼくのいきるすべて
いきていくことそのもの
はげしい鼓動と熱さのなかの
孤独
だからなんどでも出逢う
あなたに
孤独でなければこんなに求めない
こんなに愛さない
だから届くかな
僕がひとりで立てる
と言ったからにはね
僕の気持ちが奈落の底に
落っこちていくけど大丈夫だよ
ありがとう
僕は愛されてた
あなたを愛してた
ほんとうだよ
カラダを愛撫されると、自然に声が出た。なにも怖くない。秘密も、罪悪感も、僕のカラダを脅かさない。その声を聞いて彼は微笑んだ。犯されるまま、喘ぐと横隔膜が自由に息をしていく。腹筋が柔らかく僕の劣情を快楽と共に吐き出す。自分の声じゃないような透明な音がする。恐れに濁した吐息の中にこんな声が隠れてたのかと驚く。その開放された声を彼がわかっている。
「宿題はAだ。その声が…聞きたかった。君のほんとうの声…」
吐息と一緒に耳の中にそれを注ぎ込まれる。
「もう…イキそう! もうだめっ!」
「これが聞けてもう思い残すことはあんまりないな。でもイク時に叫んで欲しい…私の愛撫が好きなら…」
「好き…好きだよ…全部…あなたが全部好きだよ」
焦らされ、えぐられ、突き上げられ、身体中を嬲られて何度も高みに投げ上げられ、僕はその度に泣き叫ぶように喘いだ。悲しみで泣いたのか快楽で泣いたのかもうわからなかった。ただなにもかもが切なかった。大事な時間。大事なあなた。愛してると何度も叫んだ。彼は泣かなかった。だが、彼も声を出して喘いだ。僕の記憶に刻みつけるように。
寝ているうちに出ていったようだった。目が覚めて、彼がいないことが気配ですぐにわかった。彼のいない部屋が、凶器みたいに僕に突き刺さって、身動きも出来ないまま痛くて痛くて死にそうだった。しばらく死んでいていい? それくらい許してよ。なにも言わずに出ていくよりきっとマシだったって、証明するよ。ひとりで立てるからには、ひとりで死ねるんだ。また…行っちゃった…1度目の別れより、2度目の別れのほうが…悲しい…のかな。
彼のデジタルプレーヤーだけが、再び僕の手の中に残った。ヘンデルの“私を泣かせて”がいつのまにか追加されていて、僕の耳の中で響いていた。
誰かのためでなく、自分のために泣いて欲しい…彼の言葉が、耳の奥でリフレインした。ギターが弾きたいな…。ベッドに沈みながら、起き上がる気力もないまま、ぼんやりと僕はそんなことを思っていた。
第2章 時の檻、終了です。このあとは第3章突入です。ついに最終章です。27日頃UP予定です。