それをすべて黙って、あの日兄は家を出て行った。僕こそ許して欲しいと懇願したかったのに。
「違う…僕のせいだ…あんなぼろぼろの兄貴を…あんなひどいことして…僕こそ兄貴に取り返しのつかないことしたんだ」
「違うんだ!…俺さえいなければ…お前に俺がすがりつかなければ、普通の人生を普通に送れたはずなんだ…俺がお前の人生を奪った…それこそ…取り返しがつかない…俺はずっと…ずっとそれを…」
「…違う」
「違わない…俺は許されない…それが俺の絶望そのものだったから」
僕は耳を塞ぎたくなった。兄が僕にとって許されないなど、僕は考えたくもなかった。
「俺はお前の人生から消えてしまいたかった…そしたらお前のいない俺は脱け殻同然となった…生きていく理由がなくなったみたいに…」
兄はしばらく黙っていた。少しの沈黙のあと、兄は再び話し始めた。
「その日からだ…俺の身体の中の狂気が再び俺を犯し始めたのは」
その声は暗くて虚ろだった。
「脱け殻になった途端…俺の身体はサディスティックで暴力的な客達の行為に狂ったように感じ始めた。まるでお前のいない虚無を快楽で埋めるかのようだった。衝動は客のいない昼にも突然起きるようになった。毎日が性感の地獄だった。そんな時客の一人から気に入られてつきまとわれた…俺はあの部屋に…その男を入れた」
兄は一瞬言葉を詰まらせた。
「俺は…その男に狂った」
兄はまるで教会の懺悔のように陰惨な告白をし続けた。
「その男はサディストだった。俺は奴隷のような行為を俺がこの世に生きている罰として受け入れた。俺が生きていること自体が罪で、人の苦しみなんだって。俺は自分が壊されていくことに身体が熔けてしまいそうな異常な快楽を覚えた。貶められれば貶められるほどそれは強くなって、俺は男の過酷な責めに狂った。もう戻れない…戻らないほうがいい…いつかこの男に責め殺されたい…そんなことを渇望していた」
兄はゆっくりと身体をベッドから起こした。
「でも俺は…戻ってきてしまった」
暗闇に慣れた目の中で、兄が僕を見ているのがわかった。
「あの日…突然解放された俺の足は、あの部屋じゃなくて、お前のいる教会へ向かってた」
僕はたまらず兄に言った。
「そうだよ…帰ってきてくれたんだ。僕は…僕は待ってたんだ」
「どうしてなのか…わからない。俺が戻ったところでお前の未来を奪うだけなのに…どうして戻った
のか俺には自分がわからない。今だってそうだ…ずっと変わらない。お前は俺がいたんじゃ幸せにはなれないのを…ずっとわかってた」
僕は息が出来なくなりそうだった。兄貴…やめて…お願いだから…僕から…兄を奪わないで。ああ…僕はようやくはっきりわかった。未来なんていらないんだ。兄がいないなら未来もない。もし兄がこの世から消えたとしたら、それが本当の致命傷。それは傷つくとか苦しむなんて可笑しく思えるような死に至る傷。逆なんだ…真逆だよ。
僕は少し前に抱いていた不安が、兄を奪われていたこのしばらくの絶望と悲しみと悪夢の時を越えて、消えてしまっていることにその時気づいた。僕には大事なものがあるんだよ兄貴。未来より、人生より、日常より、この世より、自分より…僕には…大事なものがあるんだよ、兄貴。わからないのか…未来より人生より日常よりこの世より…自分より…
僕は激しい悲しみに震えながら、兄にそれを伝える言葉を探した。
「兄貴…兄貴…お願いだから…お願いだから…どこにも行かないで。お願いだから…お願いだから」
僕は兄にすがりついた。涙で視界が見えない。
「兄貴が…兄貴がいなかったら、僕が此処で…ここで生きてる意味がな…い」
そうなんだ…生きてる理由がない。兄はそれを聞くと、愕然とした顔で僕を見た。
「お前…なんで…だ…?なんで…? こんな俺を…こんなやつを…なんで…?」
兄は嗚咽しながら僕に問いかけた。罪…罪…僕たちを引き裂こうとする、この世という壁。兄を絶望の淵に叩きこみ、罪悪感という業火を点火した、掟という倫理という裁きの剣。なぜ愛し合ってはいけない? なぜこの世で…結ばれてなら…ない? なぜなんだ。なぜ性別が同じなだけで、血のつながっている兄弟、というだけで、僕たちは愛し合うことさえ罪だと言われなければならないのだろう? なぜただ愛し合ったが故に、こんなにも苦しまなければならないのだろう。自分の存在さえ抹消しようとした。でも…兄貴…僕はごく自然に兄貴を愛してたんだ。ずっと大事だったんだ。かけがえがないほど自然に…しかも激しく。抗い難いほど強く。
「兄貴…あの部屋に…行こう」
僕は兄を見上げた。
「な…ぜ?」
「僕にも同じことして」
「どうして…」
「同じことして…僕を束縛して」
「そんな…だめだ」
「隠さないで。ぶつけて…僕に全部。兄貴の全部が見たい。昨日も、今日も…兄貴がいつもと違ってて最初戸惑ったけど…僕は…狂った兄貴がいとおしくて…僕にしか、きっと僕にしか見られない兄貴の狂気だから。僕は…兄貴を全部見たい」
「イヤじゃないのか…?あんなに無理矢理犯されて…」
「僕は身体ごと…兄貴にあげる…だから…あの部屋で全部見せて。奴隷の兄貴も…サディストの兄貴も全部見たい。僕にも分けて。一緒に狂いたい…僕はどんな兄貴も…愛しい」
僕が兄の手に口づけると、兄は声を殺して泣いた。いつまでも、いつまでも。
シド・ヴィシャスのマイ・ウェイは最低だった。と、僕は冬休み明けの部活で僕にセックス・ピストルズを教えてくれたヤツに感想を述べた。ヤツは大笑いして言った。だろ? 最低かつ最悪…人に聞かせるような代物じゃねぇ。それがパンクだっ! 偉そうに片手を腰にあて(牛乳を飲む時のあの仕様)片手は高々と中指を立てて僕にどや顔をして見せた。観衆の期待に応えるというアーティストとしての既成概念をシドはラリラリながら打破したのだ。これぞパンクスの鏡…最低だぜ!
おまえ…なにもんだ。僕は前回に引き続きヤツをほめた。俺か?俺はな…何者でもない。一瞬ヤツの目がマジになった。俺の名前を呼ぶなよ。俺には名前などなかったはずだ。厨ニ病以外に評価の出来ないはずのそのセリフに僕は期せずして鳥肌が立った。ヤツはもう普通の顔に戻り、僕にニッと笑って去って行った。
聴衆の期待に一切応えない。それで"マイ・ウェイ"なんだ。僕の脳裏には一瞬かいまみたヤツのマジな目が焼きついていた。ヤツも…追い詰められてる。きっとなにかあるんだろう。僕はヤツに少し親近感を覚えた。
マイ・ウェイ。明日僕はあの部屋に行く。最低の人生…人はそう言うだろう。だけど僕は信じている。僕の大事なものは僕にしかわからない。どんな価値があるか、どんな重さがあるか、だから僕は明日あの部屋で兄に壊されに行く。そして兄も僕も知るだろう。壊しても壊れないものが何か? ということを。
その夜も僕は兄にいだかれた。手足にアザが着くほどの激しさ…兄を受けとめきれない自分の身体が悔しい。
兄は窓のカーテンを開けた。殺風景な部屋に昼の光が差し込んだ。僕は冷たく冷えきった部屋で寒さに肩をすくめながら、周りを見渡していた。兄の部屋はガランとしていた。デスクトップのパソコンが一台、ベッドの足元にあるきりで、パソコン台の下には大学のテキストや書類や本が乱雑に積まれてあった。キッチンにはほとんど何もなく、電気ポットが一台シンクの横にぽつんと置かれていた。兄がつけたエアコンの暖房が徐々に効き始め、僕は無言のまま帽子と上着を脱いだ。それをどこかに置こうと見回した僕の目が、ベッドに釘付けになった。
黒い簡素なワイヤーベッドの枕元のスチールの横棒に、銀色の手錠が二組吊るしてあった。ベッドの周りをもう一度よく見ると、縄の端と黒いゴムのチューブがベッドの下から見えていた。
「見つけたんだな…」
黙ってベッドを凝視している僕に、兄が小さく確かめるように言った。兄は僕に背を向けて、窓の外に顔を向け立ちつくしていた。僕は膝をつき、ベッドの下を覗き込んだ。そこには幾重にも束ねられた黒い縄の束がいくつも置かれ、ゴムのチューブが何本かその横に押し込まれていた。そしてグロテスクな黒いバイブレータやディルドが透明なビニール袋に入れられて隅の方に無造作に置いてあった。足元には鎖の山があり、その上に黒い首輪が乗っていた。ローションの瓶が転がり、グリセリンと書いたボトルが何本もならんでいた。僕は呆然とベッドの下から顔を上げ、床に腰を落としたまま、冷たく光るステンレスの手錠を見詰めていた。
僕らはしばらくの間互いに黙りこんでいた。互いの顔を見ることが出来ない。しばらくして僕は立ち上がり、ベッドの上の掛け布団を剥ぎ取った。軽い掛け布団はばさっと床に落ちた。表れたシーツの上には、黒い血の痕が点々と染み着き、違う体液で滲んだ茶色のシミがいくつも広がっていた。枕にも血の痕がなすりつけられて、彗星のように尾を引いていた。恐る恐る枕を上げると、血のついたカミソリと金属の口輪が枕の下から現れた。僕は思わず息を飲んで枕を落とし、よろけてベッドに手をついた。シーツの血痕が手の先に広がっていた。ふと血痕をよく見ると、シミのいくつかに穴が開いていた。僕は変だなと思いそのシミをじっと見た。だがそれは血痕ではなかった。僕は思わず兄の方を振り向いた。その穴は焼け焦げて開いていた。
兄は窓際から振り返り、僕をじっと見ていた。兄は静かに近づいてきた。僕はすがるような目で兄を見あげていた。兄は静かに言った。
「見…る?」
兄の手が服に掛かり、彼は上着を脱いでいった。最後のTシャツをめくりあげた時。そこには僕が今まで見たことのない光景が目の前に現れた。Tシャツで見えない場所…胴、肩、胸、背中…カミソリの切り痕と火傷の痕が赤黒い点と線で皮膚を彩っていた。僕は今まで気付かなかった自分が信じられなかった。
「隠してたの!?」
「明るい場所で裸にならないし…」
「…ひどすぎる…こんな…なんで今まで隠してたの?」
僕は座りこんだまま兄の足を握った。
「でもこれだけじゃない…腰から下も…」
僕は耳を塞ぎたくなった。兄は変わることなく静かに話した。
「この部屋全部が俺を罰する処刑場なんだ」
もう聞きたくない。辛くて受け止め切れない。僕は自分の弱さに歯ぎしりをした。
「罪の分だけ印を貰うんだ」
「罪なんかない!」
僕は兄の言葉が終わらぬうちにそう叫んでいた。
「本当はそうかも知れない…でも罪はなくても人は傷つく…その傷で死んでしまいたいほど…それに報う術がない」
「報うことなんかない!兄貴は人を本当に傷つけたのかよ?…全部自分のせいにして!…全部勝手な大人の都合だろ?…なんで兄貴だけが背負うんだ…みんなに責任があるじゃないか!」
僕は声を荒げて兄に抗議した。だが兄は認めなかった。
「お前を巻きこんだ…お前が何度それを否定しても俺はこの罪だけは自分を赦すことが出来ない。お前が俺を愛すれば愛するほどその罪の深さが俺に迫ってくるんだ。俺はお前を人生の始めからうち壊した…憎んだはずの俺の父親と…同じことをした。ずっとずっとずっと! いつやめられるのか…いつお前を手放せるのか…毎日毎日自分に問いかけて責めてきた。ずっとだ…お前を愛してから…俺の弱さがそうさせるなら俺自身がここに居ることが間違ってる。わかって欲しい…お前に今まで言えなかった。それが一番卑怯なんだ。お前は俺がいない方が幸せになれる。お前はノーマルだ…親父の血を引いてない…俺とは違う。俺にはわかる…お前は…お前は」
兄は言葉を切った。
「お前は…ゲイじゃない」
それはあまりに悲しくて、消えてしまうかのように僕には聞こえた。
「普通に…女の子と恋愛して普通に…結婚出来る。お前はまだやり直せるんだよ…」
ああ…わかってもらえない。こんなに愛してるのに。わかってもらえないんだ。こんなに愛して…いる…のに。心をもぎ取られたような、なすすべのない本当の絶望感。僕の心…伝わらない。どうやっても、何をしても、兄貴の心に伝えること、でき…ない。どうしたら、どうしたら…いい? どうしたらわかってもらえるの? 兄貴がいなければ生きてる理由がないっていうことを。どうしたら、どうしたらわかってもらえるの? あんなに愛し合っても、抱き合っても、なんで伝わらないの?
なんで
なんで
なんで
なんで…
どんな言葉も無力…だ。いや…言葉じゃない。僕が…無力…なんだ。なんの罪もないのに、僕の心をわかろうとしないまま、僕を愛したまま自分を責めて、去って…
僕は夢中で枕を手ではねのけ、兄の血のついたカミソリをつかんだ。僕は兄を見た。涙が床に落ちた。言葉じゃ伝わらないんだ。
「やめろ!」
兄が叫びながら窓際から僕をめがけて飛び込んでくるのが見えた。僕はそのままカミソリを手首にあて、躊躇する間もなく真横に引いた。