1.失ったふたり
だから、彼が望み通りにすることを
誰が止められよう?
(アシュターヴァクラ・ギーター)
崖の下から風が吹き上げてくる。目の前に怖いくらい深くて青い海が広がっている。高い…目がくらむほど。此処から兄は……足が震えた。
「そろそろ行こう…」
茫然と崖から海を見下ろす僕に、後ろから呼ぶ声が聞こえた。そこにいるのは、彼ではない。
「……」
僕は無言で振り向いた。
「気が済んだか?」
目を合わせずに黙ってうなづく。
「行こう…」
彼の父親は車の方へ歩き始めた。そのあとを僕はついていく。車に乗り込む。
「大丈夫か?」
「…はい」
彼を失ったふたりが、車で旅をしていた。彼を失った僕の悲しみが父親である彼にもわかっていて、そしてまた、一度心をつなげた親子がようやく出会った時間をすぐに手放したその切なさを、僕は自分のことのように悲しかった。
「私は君に感謝してる。あいつと逢わせてくれたのは…君だ」
彼はそう言った。でも僕もです、お父さん。あなたがいなかったらあの人は存在しなかった。たとえ報われない関係の中で、後悔に苛まれた行為の結果だったとしても。
「いえ…あの人を僕と逢わせてくれたのが…あなたです」
人の世はいつもそうだ。なされたことすべてがどんな意味を持つのか、それをした時には誰もわからず苦しむ。だけどそのすべてがなにかをまっとうするパズルのひとつのコマだったって、いつか気づかされて…そう…母とあの男みたいに。
そう思ってふと気がついた。この人の言ったように、やっぱり兄とあの人は似てるんだと。悪意と愛の中で生を受けて、傷ついて、求めて、それでも人生は愛しい。愛しいんだ。そんな葛藤の中でさえ。僕の空虚な心の中を、いまは涙と愛おしさでいっぱいにして。
車で高速を飛ばして6時間、実家から遠く離れた見知らぬ海に、僕は彼の父親に付き添われてやってきた。
これから僕は兄に逢う。記憶を失った兄に。車での6時間は長くなかった。彼の父親…公安の参事官というキャリア組のエリートだったが、彼はその後の事件の概要を車中で僕に出来る限り説明してくれた。
あの隠れ家での話し合いの日から、今日という日を迎えるまで2ヶ月余りの日々だった。兄を陥れた人物が処分されるまで、僕らは待たなければならなかった。あの隠れ家のマンションの部屋で。
守られて過ごした、奇妙で不思議で悲しくて、とても愛しい日々。あの部屋で一緒に暮らした、彼とのほんの少しの時間。彼がこの国を離れ、以前留学していたあの国へ旅立つそれまでの準備の期間、彼もまた彼を狙う誰かからの追っ手を避けるため、そして僕を守るために彼の父親にあの部屋に留められた。それは彼の父親の無言の配慮だったのだろうか。彼の父親が僕らの関係をどこまで知っているかは僕にもわからなかったけれど。
兄が海に転落したと言われている崖をあとにした僕たちは、再び彼の父親の車で、海岸線をくねくねと走り続けた。この先に兄が待ってる。僕の知らない兄が。
「大丈夫かい?」
次第に緊張してくる僕を見て、彼が声を掛けてくれる。
「ええ…たぶん…」
兄に面会したときにどんな顔をしたらいいのか、いまだによくわからない。
「決意は変わらないのか?」
「はい…それは…絶対に」
それだけは再考の余地なく、僕は決めた。僕は僕と兄の関係を記憶を失った兄には絶対に話さないと。そして兄とその父親との忌まわしい過去のことも。兄の記憶が戻らなければ、絶対に。兄のあの屈託のない笑顔のために。僕は兄の記憶を、永遠に封じてしまいたいとすら思った。それが僕にとって、諸刃の剣だとしても。
兄は求めているだろうか。自分の記憶を蘇らせたいと、必死で病院の治療を受けているのだろうか。もしそうだとしても僕は、もう兄をあの罪悪感と狂気の中に連れ戻しはしない。僕は黙っている。今度こそ普通の兄弟として、兄を愛するために。僕にできるだろうか? 我慢の出来ない僕に…違う。しなければならない、どうしても。
白い建物が見えてきて、彼の父が“あれだ”と言ったとき、僕は膝の上で指を握りしめた。ついにこの時が来た。滑るようにスロープを降りていく車。平面の駐車場にスッと入る。彼が心配そうに僕をチラッと見た。その目があの人に少し似ていた。
「私がいない方がいいかな?」
病院の玄関の前で彼は僕に尋ねた。
「いえ…いて下さい。僕…なに言い出すかわからないし。そしたら止めて下さい…絶対に止めて下さい…病室から連れ出していいですから。お願いします」
「そうか。それでいいなら…うん…わかった。出来る限りのことはする。君もがんばれ」
少しだけ気が楽になった。でも憂鬱な気持ちは変わらない。僕がどんなふうになってしまうか、それが怖くて足が震えた。
(大丈夫だ…君はひとりで立てる)
不意にあの人の声が頭の中で響いた。そうだった。僕はあなたに言ったよね。あなたが望んでいた言葉。行こう、兄のいる場所へ。彼が先にたって歩き出した。まるであの人がそばにいるみたいに。
消毒液の匂いの中、また死にそうな緊張の中で大事な人に病院へ逢いに行く。兄の父親に会いに行った“賭け”みたいな日を思い出す。こんなとこまで似なくていいよ…兄貴。ほんとにまた僕はベッドサイドなのかよ。緊張しすぎて心の中で思考が脱線してる。なにを話すんだろう? なにを言われるんだろう? どんなふうに感じるんだろう? ドスッ…
「す…すみません…」
先を歩く彼が止まったのもわからず、彼の背中に顔から突っ込んでいた。
「おい…大丈夫か」
「ああ…はい…ごめんなさい」
「ここだよ」
え…もう…? 胸の中で心臓がドクッと変な飛び上がり方をした。彼がノックする…コンコン…コンコン。どうしよう。ノックしてる…やめて欲しい。
「はい…」
ドアの向こうから返事が聞こえた。それは、兄の声だった。
どうしていいかわからないくらい頭の中が真っ白になった。胸がいっぱいになり過ぎて、気が遠くなるようだった。
「入ります…」
彼がドアを開けた。
「この前お話しした公安の…」
「ああ…どうぞ…こっちに」
明るい声だった。彼はためらうことなく病室に入っていった。僕は躊躇した。足が動かなかった。
「入れば?」
彼が再び廊下に顔だけ出して僕を促した。足元だけ見ながら、僕はおずおずと病室に入った。
「こんにちは」
おもわずその声に顔を上げてしまった。ベッドの上のその人は、不思議そうな顔で僕を見ていた。兄だった。求めていた兄がそこにいた。まるで夢のようで、言葉が出なかった。
「あなたの弟さんです」
ベッドの上に半身を起こして座ってる兄にむかって、彼が僕のことをそう言って紹介してくれてるのを、戸口に立ち尽くしたまま茫然と聞いていた。写真と同じで髪が長くなっていた。その顔は以前より母に似ていた。そう…母に似るってことは、あの人の面影までたたえて。
しゃべれない僕の代わりに彼が兄に尋ねた。
「見覚えは…?」
微笑みながら兄は首を横に振った。そして済まなさそうに言った。
「ごめんなさい…でも…ありがとう。来てくれて」
僕は少しうつむいた。そう…それで…いい。同時に涙があふれた。ごまかすために後ろを向いて病室のドアを閉めた。ほんとに…覚えてないんだね。安堵と絶望とが、僕の中で両方、うねりながら加速していった。
(兄貴…!)
心の中で叫びそうになりながら、僕は口を震える手のひらで押さえた。ドアを押さえたまま、兄のほうを向けなかった。
「大丈夫か?」
彼が僕の肩に手を置く。無言で頷くと、兄の声がした。
「ごめんね…悲しませて」
それを聞いて僕は崩れそうになり、戸口に手を着いた。その言葉が上辺だけの慰めなら僕は耐えられたのに。それは兄のいまの心の中の気持ちを、そのまま表したものだったから。
変わらない。ぜんぜん変わらないんだね。やさしくて、自分を責めて。でもあの翳りだけが、どこかに消えてしまっていて。すると背中から彼の両手が僕の両肩をやんわりと掴み、そして僕の身体を兄の方へゆっくり向けた。きっとそうしてくれなかったら、僕はそのまま病室を出てしまいそうだった。
「自分を責めないでよ…」
振り向くことのできた僕は泣きながら兄に言った。
「いつもそうなんだ…兄貴は…」
それを聞くと兄はフッと微笑んだ。
「ようやく声が聞けた」
今度は兄の方が少し照れくさそうに僕から視線を外した。
「いつしゃべってくれるかって」
そして付き添いの彼の方を向いた。
「すみません。弟とふたりきりで話したいんですが…いいですか?」
いきなりの言葉に僕はとまどった。二人きりになったら僕…なにするかわからないよ。だが彼は軽く頷いた。
「そうでしょう。わかりました。心置きなくゆっくり話して下さい…」
「待って下さい…僕…」
僕は小さな声で彼を留めた。
「いいんだよ」
「でも…僕は…」
「それでもいいじゃないか。自分を信じろ」
彼は僕の背中をポンポンと叩いた。
「あの…でも…」
そう言う間もなく、彼は病室からあっけなく出ていった。追ったがドアを閉められてしまった。部屋には僕と兄の二人きりになった。
「会いに来てくれて…ありがとう」
ふたりきりで部屋にいて、何を言っていいのかわからない僕に兄は微笑みながらそう言った。
「私にも…家族がいて…会いに来てくれて…泣いてくれる弟がいたんだって…嬉しい」
兄は目を細めた。
兄は自分のことを“私”と言った。俺…じゃないんだね。余計あの人に重なって見えて、少し困った。でもそれは取り戻したかった、まごうかたない兄の声だった。兄はどんな風に説明されたんだろう。自分のこと、警察からどれぐらい聞いてるのかな? 僕はそれが心配だった。
「何も…思い出せないんですか?」
なぜか僕は敬語を使っていた。僕には兄でも、兄には初対面の他人だからか。それは不意に出た僕の気遣いみたいなものだったのかも知れない。兄は微笑んだまま軽くうなずいた。言葉にすればまた僕が傷つくと思ったんだろうな…そんな優しさをまた感じた。
「でもね、今回のことでいろいろ私のことを教えてもらう前に…なぜかこれだけは…わかっちゃったんだ」
僕はちょっとドキッとした。嫌な予感がした。
「え…なにを…ですか?」
「私は…ゲイだった。違う?」
その言葉に僕は驚いて、二の句が告げなかった。
新章始まりました。短編の『イナフ』とようやくここで合流です。長かった…自分のめんどくささを思い知った。今後共よろしくお願い致します。最終章です。