あまりに率直で、そして予想外の言葉に、僕の頭の中は真っ白になった。脇の下から冷や汗が流れでた。どうしよう…僕は知らないふりを押し通すべき、なのか?
「な…なんでそう思うんですか?」
口をついたのはそんな問いだった。
「いろいろ…あったんだ。こんな狭い病院の中でもね。君にも話せないようなことが…それに…」
「それに?」
「夢を見た…男に抱かれてる夢。でも夢の中でも…夢から覚めても…私には男に抱かれているのが普通の感覚だった。それらを総合するとね、私はゲイだったって、確信してる。どう? 君の知ってる私には彼女はいたの? それとも彼氏? それとも君は私のそういう性癖については知らなかったのかな?」
もうこんなに早く、決断したことが瓦解しそうになりかけてる。こんなに唐突にこんな核心を兄が訊いてくるなんて思いもしなかった。冷や汗は止まらずに脇腹を伝ってシャツに染みていく。これを言ってしまったら、僕はどこまで隠しおおせるんだろうか? なにを言ってしまうんだろう。止めてくれるはずの彼はいない。何かを言おうとして口を開けたまま、僕は木偶の坊みたいにつっ立っていた。
「当たり…だね」
兄はクスッと笑った。
「黙ってたら、イエスって答えてるのと同じだよ。でも言えないよね…ごめんね」
どうしたら…いいんだ…ろう…パニックになりそうだった。
「もういいよ。座って…」
兄は僕を質問から解放してくれた。全身の力が抜けるように、僕はそばのパイプ椅子にストンと座り込んだ。話せない僕を見ても、兄は嫌な顔ひとつしないでやさしく僕を見守ってくれていた。
「そう…でもね、私が自分の記憶のようなものに触れたのはこれだけ…優しさでも仕事でも家族でもなくて、こんなこと。笑っちゃうよね。でも、それだけこれは私の中で大きいことだった…それはわかる」
そして兄は寂しげな顔をした。
「恐怖…誰にも言っちゃいけない秘密…のような…そんな感覚と一緒にそれがフラッシュバックしてきた。死ななきゃいけない…そんなメッセージ。夢の中で私は殺されていた。溺死…海…でも…言いようのない解放感…」
そして兄は僕を見た。
「君は私のそういうこと知ってたんだね。ねえ、それじゃ、これだけは本当の事を教えて欲しいんだ。私は事件に巻き込まれて海に落ちたって聞いた。その犯人は私の恋人だったのかな? 私が生きてるばっかりに…その恋人が困ってないのかなって…心配で…」
兄は少し苦しそうな顔をした。
「違うよ。違う…それは誓って、違う」
僕は言下にそれを否定した。兄の深層が夢で暴かれてる。こんなところまで。
秘密。僕達がいちばん苦しんだこと。その苦しみがまだあるんだと、僕はそれが悲しくて痛かった。僕達にとってはもう秘密じゃないそれが。
「犯人は恋人とか知り合いじゃないって。たまたま預かった書類を兄貴のものだって誤解されて狙われたって…さっきの公安のエライさんがそう言ってた。何も関係ないのに標的にされて…こんなことに…」
「そうか…よかった…」
それを聞いて兄は安堵したように大きく息をついた。
「夢の中で私達は愛し合ってた。でも誰かなんてわからない…繰り返しその男は言うんだ。誰にも言っちゃだめだ…話してはいけないよ…って。言ったら死ななきゃ…って。だから私はその男に殺されかけたんだって、そう思っていた」
「ううん…違う…」
「私の恋人は…誰だったのかな?」
「…いなかったよ」
「え…?」
「その時はいなかった。僕はそう聞いてたよ。ウソがつける人じゃなかった。だからホントだと思うよ」
僕は嘘をついた。あらかじめ考えてた嘘を。それを聞くと兄は嬉しそうに微笑んだ。
「私は君には打ち明けてたのか。君を信頼してた証拠だね。君はそんな私を受け止めてくれてたってことになる…で、それで?」
「前はいたよ、もちろん。でも失踪した時は誰とも付き合っていなかったんだ。兄貴はあのときフリーだったって言ってた。でも昔付き合ってた人は自分がゲイだって隠してたって。だからすごく辛かったって。だからその人じゃないかな。ずいぶん年上で、結婚してて、妻も子供もいる人って…昔、兄貴言ってたから」
しどろもどろで、半分嘘のような本当のようなことを言ってごまかした。ごまかせたかはわからないけど。でも、兄はそれを聞いておかしそうに笑った。
「ようやく敬語が抜けたね」
僕は恥ずかしさに顔が熱くなった。
「ああ…うん」
「こんな風に話してたんでしょ?」
「うん…あ…でも…」
「なに?」
「兄貴は自分のこと“俺”って言ってた」
兄は面食らった顔をした。
「おれ…か…」
ダメだ。どんどん思い出させること、兄貴に言ってしまう。自己嫌悪が襲ってきた。失った記憶を求めてる兄が切なすぎて、何でも言ってしまいたくなる。そして僕があの頃の兄を取り戻したくて言ってしまう。
「記憶…戻るのかな」
僕は訊いてしまった。当の兄が、どれほどそれを取り戻したいのか知りたくて。
「どうだろうね。もう1年もこのまんまだ…でも私はどっちでもいい」
意外な答えに僕は驚いた。
「いろいろ訊きたくないの? どんななことしてたとか、どんなことが好きだったとか…」
「いろいろ…は…いらない」
それは僕にとって、信じられない答えだった。
「もう、思い残すことはないんだ。ここで起こった“いろいろ”ってヤツがね、私を自由にしてくれた。そんなに前の話じゃないんだ。ほんの半月くらい前だ。私はもう思い残すことはなにもない…そう思えた。君にいろいろ聞いたのはね、確かに教えてもらえたらって思ったけど、それより君と話したくて訊いた。キッカケがないと君も私も何話していいかわからないし…」
それを話す兄は静けさに満ちていた。
「ここでのいろいろは自分では話しづらい。もし聞きたかったら整形の先生が私の話を聞いてくれていたから、その人に聞くといいよ。そのように伝えておいたから」
なにかを思い出すように、兄は遠い目をした。
「そして…なにも思い残すことはない…って確信したその直後だ」
兄はさも愉快そうに笑った。
「私に警察から連絡がきてさ。私の身元がわかったって! あははは…事件に巻き込まれて捜索が妨害されていたっていうのも聞いたよ。あんなに自分の事を知りたかった時には、なんの音沙汰もなかったのに、こんなふうに気持ちが自由になった途端だよ。思いもかけないプレゼントだよね…でも…嬉しかった。それがたとえどうしようもない最低の過去だったとしてもね」
それから兄は僕をじっと見た。少し黙った後、兄は口を開いた。
「君に言わなきゃならないことが…あるんだ」
ちょっととまどいながらも、兄は淡々としていた。
「なにを?」
「私の今の身体の状態のこと…君は聞いていないだろう?」
それは記憶障害のことと、僕はなんの疑いもなくそう思った。
「うん…詳しくは知らない」
「私から話したくて警察の人には口止めしておいたから」
兄の脳がどういう状態なのかは想像出来なかった。
「あのね、私の両足はね…いま麻痺していて歩けない」
不意打ちのような事実に息が止まった。
「そ…うなんだ…」
あの崖の景色が脳裏を過ぎった。寒気がする。頚椎を損傷したのか、それとも脳挫傷? もしかして、兄はもう以前のように走ることも叶わない身体なのか…? ひとりでに身体が震えていた。記憶も、身体の自由も失ってしまったというのか…それなのに、こんなに微笑んで僕を気遣って…。兄は次の言葉を少しためらっていた。耐え切れず僕は訊いていた。
「…崖から落ちたのが…原因?」
「会ってすぐなのに…したくない話だけど…聞いて欲しい…」
「な…なに?」
ザワッとした。
「じつはね」
いや…だ…聞きたくない、と、本能が拒絶した。でも兄は話し続けた。
「原因は…脳腫瘍なんだ」
見てるものすべてが、グルンと大きく回った。世界が弾けた風船みたいにしぼんだ。
「……う…うそでしょ?」
「ウソじゃない…末期だ…悪性の脳腫瘍だって。グレードは4…進行性だ」
なにを言ってるの?
「だ…ダメだよ…そんな…」
「もって、あと半年だって…君は知らなかったの? 一緒に居た頃、私の病気は君には内緒だったのかな…」
「兄貴は病院なんか通ってない! そんなありもしないことなんで言えるの!? ウソつかないでよ!」
僕は受け入れられない。そんなこと信じない。
「なんで!? なんでそんなウソつくの? 僕をここから追い出したいから? ショックなこと言って僕を試してるの? ねぇ、どうして…どうしてそんなこと言うの!?」
「落ち着いて聞いて」
「いやだ! ウソつかないで!」
「お願いだから…聞いて」
「いやだよ!! そんなの…いやだよ!!」
椅子から立ち上がった僕は思わず後ずさっていた。そしてそのままワナワナと床にへたり込んだ。うそだ。もう兄のことを見られなかった。めまいがする。平衡感覚がオカシイ。いや、世界がオカシイ。こんなことを聞かなきゃいけない世界が間違ってる。間違ってる…僕を陥れようとしている。全員、嘘つきだ…
ごめん。これでも自分で立ってられる? あなたとした約束に僕は耐えられない。こんなことってあるの? こんなことって…
「うそだ…嘘だって言ってよ…なんで黙ってるの? 冗談だって言ってよ!!!」
床を拳で殴りつけて叫んだその時、兄が震える声で呟くのが聞こえた。
「こん…なに…愛されてたの?」
僕は思わず兄を見上げた。泣いていた。兄が…いま…兄が茫然と僕を見ていた。涙を流しながら。
「愛されて…た…私が…」
すべての緊張を投げ出したみたいに、兄は背もたれに身体を埋めて宙を眺めていた。頬に流れ落ちてくる涙もふかないで。その姿に僕は叫んでいた。
「愛されてるんだよ! どれだけ、どれだけあなたを愛してるか!…僕だけ…じゃないんだよ…母さんも親父も…どれだけ兄貴が見つかるのを待ち望んでたか…いなくなって…どれだけ僕たちが兄貴のこと…死にものぐるいで探して…」
兄は放心したようにつぶやいた。
「いなくても…いいと…この世にいなくてもいいって…思われてるんだって…確信してたのに…」
「ありえないだろ…そんなことありえないだろ…だって…」
僕の命より大事だったんだと、そう告白してしまいたかった。
「優しくて…頭が良くて…僕を…家族をとても大事にしてくれて…仕事でも求められてて……皆んな兄貴のこと大好きで…でもある日突然いなくなって…探して探して待ち焦がれて泣いて絶望して、それでも諦めることなんか出来るわけなくて…ようやく…見つけたのに…ようやく逢えたのに…そんなの…あんまりだよ…ひどす…ぎ………ねぇ、ほんとは病気なんかないんでしょ? 僕を試してるならそう言って…でないと僕…僕…なにするかわからないよ…」
それを聞いて兄は両手で頭を抱えた。
「院長にでも…聞いたらいい。ほんとうに私は脳腫瘍なんだ。そうだ…私は脳腫瘍だから…治療をすべて断った…死を望んでいたんだ…ずっとずっと死にたかった! 自殺未遂までした! それなのに…こんなに悲しむ家族が…私にいたな…ん…て」
まさか…ほんとうに兄は…脳腫瘍を…その瞬間、僕は兄のベッドに駆け寄り両手でその手をつかんだ。
「お願い…お願いだから手術を受けて!」
だが兄は悲しそうに首を横に振った。
「ごめん…もう…遅い……」
「なぜ!? この病院がダメならほかの専門医に執刀してもらえばいい! お願い、兄貴、こんな再会酷すぎる! 半年なんて…半年なんて…僕に死ねっていうの? 僕は兄貴のいない世界で生きて行けかなきゃならないの!?」
「私は…死を受け入れてしまったから」
「どう…して…?」
「私には…もう生きる理由が…ないんだ」
「僕達が…いても…?」
それを聞いた兄はしばらく黙って僕を見つめた。そして辛そうにこう言った。
「ごめんね。こんなこと…君にはほんとに言いたくない。だけど…私はね…もう君が知ってる君の兄さんじゃ…ないんだよ…」
僕の手から力が抜け、兄の手を取り落とした。兄の言葉は優しかった。でもそれは僕の心にとって致命的な言葉だった。
兄貴、記憶を取り戻したら、死をとどまってくれるの? 僕と愛し合ったこと思い出したら、僕のためだけに生きるって、そのとき僕にまたそう言ってくれるの? 約束したこと、思い出してくれたら、そうすればもう一度生きるって思い直して…僕と…生きて…くれる…の…?
でもそれが、言えなかった。僕には。今の僕には。言えないよ、兄貴。あの笑顔を兄貴から奪うなんて。透明な光みたいな、初めて見たこの陰りのない明るい微笑みをまた失わせるなんて。どうしたらいいのか、僕にはわからなかった。なにを考えているのか、僕は自分がわからなくなった。こんな絶望に満ちた悲しみを葬り去りたかった。でも押し寄せてくる感情に耐え切れる術がなかった。ここで狂ってしまえればどんなに楽だろう。それとも、兄が死ぬ前に、僕が先に…
僕はしばらくベッドの脇になすすべなくたたずんでいた。兄は茫然として、ベッドに寄りかかっていた。そのとき僕の心に浮かんできたのはある問いだった。僕はその問いをそのまま兄に問いかけた。
「兄貴…いま…兄貴は幸せ…?」
声がかすれてうまく出なかった。でもその問いを僕は喉から押し出した。その答えが僕の答えになる、僕はそう思った。
「兄貴は…いま…幸せ?」
そうだよ…生まれた時から僕が願い続けてきたことだ。泣かないで。苦しまないで。自分を責めないで。幸せになって。兄貴が心から笑えるように、僕は祈ってた…ずっとずっと。だからいま…いまだから訊くんだよ。
「おしえて…ください…僕に」
呆然とした中で、兄は静かに答えた。なんのためらいもなく、なんのわだかまりもなく。
「幸せだよ…そして自由だ」
その答えを聞いて僕ははっきりと悟った。僕はもう、あなたには必要ない。そうなんだね。あなたが泣き崩れるのをもう見なくていい。鳥はあなただった。だからもう、飛んでいってしまうんだね…誰の手も届かない、空の彼方へと……
「そう…あんしん…し…た…」
僕は、気が遠くなりそうになりながらそう答えた。
神さま、やっぱり祈りは届く。
ああ、だけど…ねえ…僕は?
僕はどうしたらいい?
あなたをこの世から失って
僕はそれから、どうしたらいいの?
おしえてよ…どうしたらいいの…?
「君は…だれ?」
そのときとても不思議そうな顔で兄は僕に聞き返した。
「君は…ほんとに私の弟なの?」
「そう…だよ」
ほとんど震えるような声で僕は答えていた。
「…ううん…違うよね」
兄は静かに否定した。
「違う…君は弟じゃない…君は…」
「弟だよ…間違いない」
僕はその後に続く言葉をさえぎった。
「なぜ疑うの? 戸籍でも、何でも…調べればいいよ」
「私に会うために弟と…偽って…?」
兄は首を横に振った。そして少し苦しそうに言った。
「ごめん…いまのは忘れて。私が…変なんだ」
どうしたんだろうか? さっきの兄と少し違う雰囲気だった。現実逃避? 僕があんまり錯乱していて怖くなったのかも知れない。だって、僕は今日初めて会った知らない男の子、だから。
「そうだね…見たこともない人間がいきなり現れて『弟』だって言っても…困るよね」
「違う…そんなんじゃないあの…」
兄はなにかを言いかけて息を飲み、困ったように目を伏せた。静かだがその表情は、さっきの穏やかさではなかった。
「ごめんなさい…一緒に写った家族写真でも持ってくれば…」
僕がそう言うと兄は僕の顔をじっと見つめた。
「なぜ? なんで君はこの部屋に来た時から、そんなに切ない目をして私を見るの?」
すべては儚い希望。嘘をつき通すことすら、許されないのなら。