ダメ…なんだな…もうなにもかも。気づかれてる。どんな希望も思い通りになんかなりはしない。当たり前だ…こんなに愛しいんだから。自分の決意は無残に散っていく木の葉のようで、こんな短い間に僕の手の中には何も残っていないことが不思議だった。
なにも隠せやしない。だってこんな崩壊の中で、何にすがれば耐えられるんだ? 愛しい人がこの世界から永遠に奪い去られるときに、僕は何を耐えたら生きていられる? 兄は幸せだと言った。では僕は…?
神さま僕はもうあなたに見放されたのかな。僕からどれだけ奪えばあなたは気が済むのかと、僕は様々な祈りの時間を思い出した。あなたが再び逢わせてくれたあの人はまた去って行き、あなたが返してくれた兄は再びあなたに連れ去らていく。あなたは僕をどうしたいんだ? どれだけ悲しみに耐えられるか試してるのか?僕を。祈りに応えお前の願いは叶えたから、さあ、今度はお前がその宿命を飲み干す番だ、とでも? 神さま…と心で呟きながら、その存在に対して僕は激しい怒りを感じ始めた。そうだ……そのとき僕はこれのひとつの回答を思いついた。
僕だけが兄を愛してたんだ、と。それは永遠の僕の片思い。この思いは消せはしない。だけどそれなら、僕だけが罪を担うことになる。どうせ兄の記憶は消えてしまった。それなら嘘もほんとももう区別なんかつかない。兄貴にも、僕にも。だって現実に僕は、もう片思いなんだから。それなら許してくれるでしょ? ねえ…残酷な神さま!
「ほんとのこと…言おうか」
僕は兄に言った。ほんとじゃない。でもウソでもない、残酷な、ほんと。それは怒りだった。ボロきれみたいな僕の人生。兄と一緒に終わらせる…それは当然の権利のように思えた。
「君は……構わないの?」
「うん…言わない…つもりだった…でも…隠せないなら…隠す意味が…ない」
この自暴自棄を僕は制御できない。責任取るのは神だ。僕じゃない。責任とって下さい。僕はもうとっくに限界を超えてる。もういい、僕はこれを言って、
「お願い…笑わないで聞いて」
そして、あなたが亡くなったら…僕もすぐ往くから。
「うん…わかった…約束する」
背中が痺れて口元が震えた。だが、兄を追って死ぬのなら、これだけは言って死にたいと思った。
「僕ね…あなたを愛してた」
そう…本当のことだよ。
「じゃあ…やっぱり…君…私の弟じゃ…ないの?」
「弟だよ」
「え…」
兄は絶句した。逆に僕はひとりでに微笑んでいた。目の前がゆがんで見えた。
「弟だから…ほんとの弟だから黙っていたかったんだ!」
「君……」
「ああ…そうだよ…血のつながったほんとの兄弟だよ僕達は…」
兄の驚く顔を僕はじっと見ていた。見られていると灼けつくようだったけれど、嫌がらせのように僕は兄の顔を見つめながら話した。声が震えて止まらなかった。このまま血を吐いて死んでしまってもいいとすら。
「驚いた? 僕も同性しか愛したこと無い。兄貴と一緒。その上……兄貴を好きになった…異常だよね…気持ち悪いでしょ…そう思ってくれてもいい…もう会いたくなかったら拒絶してもいい…でも…でもさ…切ない顔くらいさせてよ…僕を置いて…逝っちゃうんだから…もうすぐ……二度と逢えなくなっちゃうんだから!」
もういい。もうどうなっても。なんでこんなこと…隠しても無駄。嫌われてもいい。どうせ届かない。なんにも届かないんだ。
兄はじっと黙っていた。その顔が無性に悲しげで僕は少しとまどった。そうだよね…こんなこと言われて困るよね。優しいから。とても優しくて…きっと今も僕のことで心を痛めてる。ごめん。僕が悪いんだ。取り繕えもしないでこんなこと吐き出して。最低だ。言ってから後悔する。いつもいつも同じことの繰り返し。平穏に死にゆく人のなにを壊そうとしてるんだ僕は。最低だ…ほんとに最低だ。唇を噛んだ。兄から顔を逸らしていた。
ごめん。もう…帰るよ。僕はまた兄貴を困らせてる。いないほうがいい。ようやく自由になったのに、僕が邪魔してる。あとを追うんじゃなくて、先に僕が死んでしまっても良いかも知れない。とにかく今日はもう帰ろうと、そしてもうここには来ないと、心の中で決めて僕は兄にそれを言おうと口を開いた。
「あに…」
「君…」
僕達は同時に話しかけていた。
「な…に…?」
僕が先に言葉を求めていた。話しかけられた途端、なんでもいいから兄の言葉が聞きたくなった。兄は少し言葉を探した。そしてこう言った。
「本当に…?」
「なに…が…?」
なにを本当だと確かめたいの?
「本当に…私を愛してるの?」
その問いは、真に純粋な問いかけだった。弟かとかゲイなのかとか、そんなことではなかった。僕は確信した。兄は本当に僕が自分を愛しているのかを、それだけを確かめたいのだと。その一言は、神さえ呪った僕の自暴自棄を一瞬のうちに浄化してしまうほどの真実に満ちていた。僕はそれを、兄がいなくなる前から、心の底のずっと奥でいつもいつも待ってた気がした。それは記憶とか兄であるとか、そういうこともなにもかも超えて響いたからだった。
「うん」
涙が頬を伝った。
「ほんとだよ…」
「今でも…?」
「うん。ずっと…愛してる」
言えた。これが言いたかったんだと、僕はそう感じた。心にあった重いカセが軽くなったのを感じた。すると兄はためらいながら僕に尋ねた。
「私は…知ってたの? 君が私を愛してたって…」
知ってたのかな…僕はふと思った。本当の意味で知っていたのかなって。知ってたかもしれない。それはでも、本当の意味で伝わっていたのかな。
「わからない…知ってたかもしれない…でももうそれを確かめるすべは…ないよ…」
それは本当にそうなのだった。でもそれでいい。そうじゃなきゃいけない。僕はあなたに2回も告白できた、もうそれでいいんだよ、と。そして少しだけ、自分の自棄を許せるかも、そう思った。これで兄に拒絶されてもそれを受け入れられる。そのあと壊れても、もういいか…とさえ思えた。
「ごめんね、もう帰るよ。聞いてくれてありがとう…笑わないで聞いてくれて。言えて…良かった…もう来ないほうが…いいね…」
僕はほんのちょっとだけ兄に心から微笑むことができた。でもそれだけだった。兄であって兄でないこの人に僕はもうどうしていいのか、それ以上わからなかった。他人だったのだ。最期を看取りたいその気持ちで胸が張り裂けそうだったけど、それがこの人にとって良いのか悪いのか、僕には判断つかなかった。兄は黙っていた。そうだね、来なくていい…なんて、優しいから言えないよね。じゃあ僕から言うよ。そして最後の気力を振り絞って、別れの挨拶を僕は告げた。
「さよなら…もう…ここには…来ないから」
このままだとまた泣きそうだから、すぐに兄に背を向けた。そのままドアの方にむかって歩き始めたそのとき、背中から声がした。
「また来て」
思わず僕は足を止めた。その声は柔らかくて、透明だった。
「来て…くれるよね」
僕は振り向いた。兄はまっすぐ僕を見ていた。
「君が…イヤじゃないなら…ここに…また来て」
兄の瞳にはかげりがなかった。ほんの少しも。憐れみも、同情も。
「…また来て…いいの?」
「うん…私が頼んでる。ごめんね…わがまま言って」
「わがままじゃ…ないよ」
「じゃ、約束」
僕はゆっくりうなずいた。心が震えた。震えるほど愛してる…愛してるんだ…兄貴。その時僕の心にはそれしか無かった。ああ…かみさま。あなたがそういうなら、ぼくはどこにだっていく。
その日、僕は兄の病室を出た後、整形の先生に会いに行った。兄が自分では話せないと言った例の話を聞きに。
兄が変質者に粘着され、クスリを盛られて夜な夜な性的な暴行を受け、いいなりにされていたこと。しかもそれが兄の担当医の仕業で、自分がそれを兄から打ち明けられ、その現場に立ち会ってしまったこと。担当医が逃げ出したあと、兄の病気が発覚し、実は半年以上前から担当医は兄の腫瘍のCT写真を隠蔽してたこと。
こんなことがあったなんて、僕には信じがたかった。整形の若い先生は続けた。兄は記憶を失った苦しみを違う苦しみで覆い隠そうとした。残酷な行為でも、孤独と虚無をまぎらわせることの出来た束の間の耽溺という救いの時間だったと。だが苦しみは変わることなく、自分がこの世に生きている意味は見いだせなかった。でも、やがて激しい苦痛の中からそのことに真正面から向かい合うことが兄の心をやがて解放し、いまの平穏な境地へ導いたと。そんなふうに整形の若い先生は僕に語ってくれた。
「私はね…君のお兄さんを医療者として救えなかった。それなのに彼は、私に感謝をくれた…」
この先生がいなかったら、兄は海で自殺していた。その話を聞いて、僕もこの先生にたいして感謝があふれて止まらなかった。
「感謝されても非力な自分が余計に際立ってしまうようで…私はどうも…素直に受け取れないんだ」
そして先生は、弟が離岸流に飲まれて海で亡くなったことを話してくれた。
「人の命は儚い…それでも救える命がある。それを信じなければ私は弟の死を昇華出来なかった。だから医者になった…弟の死を意味のあるものにしたかった。そうじゃなきゃ、なぜ彼があんなふうに逝ってしまったのか、私には納得がいかなかったから…」
血を分けた兄弟を失った悲しみ。それにささえられた言葉。兄の死を待つ今の僕には、先生の言葉一つ一つが悲しみに溺れそうな心を救ってくれる想いがした。
「ぼく、兄が長くないって聞いて、悲しくて悲しくてどうしていいかわからないんです。でも先生の言葉は…いまの僕に受け入れられて、心が救われる数少ない言葉です。それだけでも…先生の経験された悲しみは…僕のとっての救いです」
それを聞いて先生は微笑んだ。そして僕の肩に静かに手を置いた。
「私の弟は突然逝ってしまった。彼が私に、家族に、友人たちに言いたいことも伝えたいこともあったはずなのにと、私はもう語られることのない言葉を、今でも不意に想像してしまう。でも君のお兄さんはまだ生きている…それは突然逝かれてしまう家族とは違う辛さと苦しさだろう。でも人はそれぞれの苦しみの中で、それぞれに出来ることがあると…私は思う…だからこの時間を君は、大事にして欲しいんだ」
「ええ…わかります。幸いなことに、兄は僕のことを受け入れてくれるようですから」
「それはよかった…」
先生は安心したように、フッとため息をついた。
「彼はほんとうに孤独だったからね。最期に家族が居てくれて…私も救われる」
兄をこんな風に見ていてくれてた、そんな人が居た。兄の傷ついた身体を治し、そして自死を止め、異常者の手から兄を救い出して。ひとりでに胸が熱くなった。兄の闇の中に救いがあったことが。そしてあの人のことを思い出した。僕を助け出してくれた彼を…そしてこの先生と彼が重なった。
「僕もいろいろあったんです…兄が失踪してから…」
僕のこの一年を、この先生には少しだけ知って欲しくて、ほんとに簡単に、ほんとにざっと、兄の消えた僕の月日を話した。言えないようなひどいことはさすがに言葉を濁しながら、かいつまんで。それでも僕の話を聞いた先生の顔が、頷きながらもだんだん暗くなっていくのが僕にもわかった。言わなきゃよかったかな…少し後悔した。でもこんなふうに言ってくれた。
「君も苦しんだんだね…よく還ってこれたね。薬物は抜けるのが本当に大変なのに…」
先生はいたたまれない顔になっていた。兄だけでなく弟まで…信じ難いような事実。僕は申し訳ない気持ちになった。でも違うんだ、救われた話をしたかったんだと、僕は続けた。
「僕にもそんな地獄から助け出してくれた恩人がいるんです。兄にとってのあなたのような。彼がいなかったらやはり僕も死んでいたでしょう。なんか、その人と先生とが重なって見えて…ごめんなさい。ひどい話、聞かせてしまって。でも兄がどれだけ先生に感謝しているか、僕、わかるような気がするんです」
もう…あの人はここにはいないけど。でもその話で先生の顔が少し和んだ。
「きっと君も、その人にあげたんだよ。大事ななにかをね…僕が君のお兄さんからもらったみたいに」
先生はフッと微笑んだ。
「大変な経験だったと思うけど、君たち兄弟は…強いんだね。うん…魂が強いんだろうな…」
僕はそれからとりあえず実家に戻った。彼の父が状況を説明するために、兄の病院から直接実家に僕を送ってくれたのだ。オヤジに対する恨みや怒りは記憶のない兄に逢って、どこかへ消えてしまった。秘密が秘密でなくなったいま、僕がもし発作を起こしてあることないこと言ったとしても、それに対して以前のような恐怖感はない。母もうすうす感づいていたのだろうし、実家に帰って僕がフラッシュバックを起こしても、世界が終わってしまうようなことは起きないと思えた。いつの間にかそんな日がきたことに、僕は少し遅れて気づいた。それは複雑な気持ちだった。ただの単純な安堵だけじゃなくて、秘密に怯えて暮らしてた幼い頃からのあの歳月の悔しさと悲しさとが蘇ってきもした。その秘密に終止符を打ったあの人との不思議な2ヶ月に、それでも僕は深く感謝した。僕は居場所を取り戻した。実家という居場所を。前の感覚とはちょっと違うけれど。
僕が帰ってすぐ、父と母が兄に会いにあの病院へ行くことになった。