彼の去った公安のシェルターから僕が解放されたその頃に、兄が見つかった知らせと記憶喪失を同時に知らされた母は、それを聞かされた警察署で倒れた。 救急車で運ばれた母は胃潰瘍で吐血していた。兄の記憶が無い事のショックに耐えきれず、ほんの一瞬で胃に穿孔が開いた、と内科の医師が父親に説明したという。母の入院は1週間で、思ったより回復が早かったのは兄に一刻も早く会いたい、その一心だったと思う。母は父に、私に構わず早く会いに行って、と言ったが、お前と一緒でなければ行かないと、父は頑なにそう言い張った。僕が兄に会いに行くとシェルターから電話すると、母さんが回復するまで行けないから、お前、すぐに行ってくれと父は囁くように電話口で僕に願った。そして、兄の発見に尽力してくれたあの担当官の方に礼がしたいと言った。僕は一瞬言葉を失ったが、彼は薬物依存の研究のために欧州に行ってしまったと伝えた。今はその人の話は聞きたくないと父親に言いたかった。
兄に会って、彼の父親と実家に帰ると、言えることだけを話した。両親は記憶喪失の兄に実家に帰るよう説得するつもりだと僕に話した。だけど正直それは今の兄には無理じゃないかと僕は思った。なんにせよ僕は兄から脳腫瘍のことを両親に言うことを止められていた。それに、執着があるのは僕たち家族であって兄ではない。すべては兄の一存だが、僕は兄は死ぬまであの病院で過ごすことを望んでいるように思えた。しかしそれは言えることじゃない。僕は曖昧に返事をしながら唇を噛んだ。
ようやく治りかけた母の身体。でも兄のあの病気のことを聞いて今度はどうなってしまうだろう。兄とまた暮らしたいと言う母とそれを叶えたい父を見て、黙っていなければならないことが拷問みたいに思えた。
「兄貴は…いままでの兄貴じゃ…ないよ。でも変わらない…それが嬉しかったし…辛かったよ…」
僕が両親に言えたことはその程度でしかなかった。彼の父親はそれを見て、複雑な顔で黙っていた。そして、僕に自分の連絡先をそっと渡して帰っていった。
放心した母と泣きそうな父が兄の病院から帰宅したのは夜だった。おかえり…と呟くように言って玄関に立った僕に、母は無言で倒れ掛かってきた。とっさに抱きとめると、あまり食べていない母は、ハッとするほど軽かった。三人が三人とも言葉を失って、ひたすら悲しみに耐えていた。なにか言ったらもうそれで崩壊してしまいそうだったから。母の後ろで立ち尽くしていた親父がそれを見て、ゆっくりとまた踵を返して外へ出ていった。そして振り向かずに僕に手で合図した。
(ちょっと走ってくるわ…)
玄関前に止めてあった愛車に戻り、そしてすぐにエンジンの音がして父はもう一度出ていった。たぶん独りで泣きたいんだろう。兄のことで父がなぜいつも泣くのか今ならわかる。どうにもしてやれなかった…その悔恨が重すぎて、泣くのを止めることすら出来ない。
僕は久しぶりに母を抱きしめた。久しぶりじゃない、初めて自分から抱きしめていた。
「うああああぁ!」
母の喉の奥から叫びとも嗚咽ともつかない声が絞り出された。あまりのことにいままで泣くこともできなかったんだろう。いまごろ車の中で親父もきっとこんなふうに泣いてるのだろう。
「辛かったね…母さん…」
言った途端に僕も声が震えた。
「あ…あああぁ…ああぁぁぁ…!」
止まらない嗚咽に震え立っていられない母を抱きしめたまま、二人で玄関に座り込んでいた。自分が悲しいことより、母が悲しくて僕は泣いた。慰める言葉が何一つなかった。一緒に泣くことしか出来ない。それがこの日の夜だった。
やはり兄は実家に帰るつもりはない、と両親に話したそうだった。『ここで私は終わろうと思います』と。母は気丈なフリしてこう言った。
『そうね』
母はそれしか思いつかなかったと言った。
『あなたの好きにしてね、でもいつでも待ってるから…気が変わったら連絡してね…』
「私…うまく言えたかしら…」
母は翌日もボーッとした様子で、僕を相手にぽつぽつと昨日のことを食卓でお湯を飲みながら話した。ハンカチをずっと握ったままの母は、やっぱり真っ赤で泣きはらした目をしていた。僕も同じだったけど。晴れた昼下がりだった。父はあのあと遅く帰ってきて、酒をガブガブ飲んでシャワーを浴びて寝てしまったようだった。今朝もやつれた顔で出勤していった。休めばいいのに、と言ったら、仕事してたほうがいいと弱々しく笑った。
何もかもが変わった。そしてなにも変わってない実家のいつもの食卓。このタイミングで僕が帰ってこれて、なんか良かったんだな…と、母の話し相手をしながらしんみりそう思えた。
「胃の具合…大丈夫?」
あんなショックのあとで、また吐血しないかと行く前からずっと心配だった。
「重いけどね。なんとか耐えてくれたみたい。でもちょっとは痛いな…」
情けない変な顔してニコッとしようとする。痛々しくて見てられない。
「無理しても少しは食べないと…胃に悪いんじゃないの?」
「そうね…朝はお粥食べたわよ」
そう言って母は黙り込んだ。目が潤んでいた。仕方なく僕が話を継いだ。吐き出させないと…たとえ泣かせたとしても。
「ごめん…兄貴から…黙っててくれって言われてた…病気のこと」
「…うん…わかってる…お兄ちゃん言ってた。自分から私達に話したかったって…もうあのとき…知ってたのね…辛かったでしょ…黙ってたの」
そう言ってるそばから母の頬に大粒の涙がポロポロこぼれた。
「でもさぁ…そんなの…ないわよ…ねぇ…。また逢えたのに…ようやく戻ってきたのに…また…行っちゃうの? そんなの…ひどいわよ…ねぇ」
「うん…ひどいよね…ひどすぎる」
胸が痛い。背中まで痛さが突き抜けるみたいに。
「でもさ…兄貴…変わったよね…」
母の気持ちをとりなしたいわけではなかったが、僕は自分の心のためにあの病院で見たままの気持ちを話していた。痛くて耐えられないからだろう。
「なんか明るくなっててさ…ずっと兄貴に覆いかぶさってた心の翳りみたいのがさ…消えちゃったみたいって…思わなかった? 僕は…それだけは…なんか良かったのかなっ…て…良かったって…良くないけど……ごめん。上手く言えない」
泣きながら母は首を左右に振った。
「ううん。わかるもの。離婚する前のあの子を思い出したわ…あの笑顔…もう随分長いこと忘れてた」
母の意外な言葉に胸が詰まった。
「あんな感じだったの…? 知らなかった」
ハンカチを両目に当てて、鼻をすすりながらうなずいて、とぎれとぎれに母は答えた。
「記憶…無くなって…ショックだけど…私もね…ヒドイようだけど…それだけは少し救われたような気がして…ごめんね…変なこと言って」
僕の言葉は肯定してるのに、母もまたそれを言いにくそうに言った。そうか…やっぱり母さんも…
「いいよ…僕も…そう思ってるって…そう言だしたの僕だし。兄貴の記憶からあのことが消えたのが嬉しい…僕は自分のこと思い出してくれなくても…後悔しない…くらいだよ」
ハンカチから顔を上げて、母は泣き笑いみたいな顔をした。
「やっぱり…そう思う? 母さんもね…そう思っちゃったの…だってお兄ちゃん…幸せそうなんだもの…」
そうだよね、母さん。やっと兄貴…解放されたんだよね。
「わかるよ…ほんと…幸せそうだったよね…兄貴。いままで見たこと無いくらい」
「変よね…悲しくて悲しくてどうしたらいいのかわからないくらいなのに…これでいいって…どこかですごくホッとしてるの…それが私自分で信じられなくて…母親なのにひどすぎる…って」
自分も母親も、普通じゃない人生のねじれが、他人にはわからない非常識な感覚で出来ている気がした。他の人には言えない。でも母親がわかってくれてるのが僕には本当にありがたかった。
「違うよ…母さんは兄貴の辛さを自分のことみたいに感じて生きてきたから。僕にはわかる。僕も同じように兄貴の幸せを祈ってた。兄貴言ってたよ…この前僕と会って…いま…幸せだって。思い残すことは無いって…僕はそれが嘘じゃないって…わかる…母さんも感じてたんだよね…」
母は無言でうなづいた。そしてまたぽろぽろと涙をこぼした。それは悲しいだけじゃなく、兄があの苛酷な人生から解放された、その万感の切ない想いが溢れているんだと僕には思えた。
その1週間後、僕と母は兄のアパートにいた。この部屋を引き払うために。
朝から母と二人で電車に乗った。なんてことない話をして、1人で行くより早かった。母が定期的に換気に来てたので、僕が荷物を取りに来たときのまま、部屋はカビ臭くもなく綺麗だった。
「さてさて…さっさと済ませて早く帰ろうね!」
母がふっ切れた声で言った。荷物をまとめたらあとは親父が今度の休みに会社の軽トラを借りて、ぜんぶ運んでくれる。それで不動産屋に鍵を返して終わり。この部屋とさよならだ。
片付けながら、長かったな、と思った。いや…短かったのかな。でも長かった。いろいろあった部屋だったから。犯されて、別れて、守られて、失って、待って、堕ちて…そして…もうここを守らなくていい。それは解放なのか、喪失なのか、僕には判然としなかった。ただここがもう古い場所で、僕達は泣こうが喚こうがもう新しい未知の場所に連れて行かれる、それだけはわかる。思い出というには多い暗すぎる記憶。でもその暗さは研がれた刃のように、鋭利な光を投げかけていた。神聖さすら覚えるほど。
母と一緒に近くのコンビニに歩く。段ボール箱をもらい、ミネラルウォーターを買う。兄と一緒に歩いた道を、初めて母と行って帰った。
『すみませんが、そこを片付けて、欲しいものは分けて、あとは捨ててくれますか。その借りてたという部屋も大変申し訳ないですが、自分では出来ないので解約して整理して下さいませんか? お願いばかりで…ごめんなさい』
母が兄からそう言われたと聞いた。兄の預金通帳に入ってた給料の残りも、払った部屋の家賃に当てて欲しいと。
『そんなものがあったんですか…私は要りませんので…でも…カードとか印鑑とかありますか? 困ったことに私はもう暗証番号は忘れてますし、本人じゃなくても預金下ろせますか?』
「なんかその話ししてたら…悲しいのに可笑しくて…だってお兄ちゃんらしいでしょ? そんな細かいことまで心配してて」
部屋を二人で片付けながら、そんなことを話した。
「僕、兄貴のカードの暗証番号知ってるよ。もしもの時にって兄貴が教えてくれたんだけど」
「あら! そうなの? 助かったわぁ。信用あったのねぇ。興信所の人に言われて毎週銀行で記帳してたけど、使い込んでなかったし。結構残ったものね」
信用だけはね。結局一度も使わなかったけど。捜索の時にいろいろ物色したせいで、そういう大事なものはほぼ実家に確保して整理していた。そんなことが今になってこんな風に役に立ってて変な感じだった。だんだん片付いて、最後にガランとした部屋に立ち、もうここでの物語が終わることを切なさの中で感じていた。
終わって…いいんだ。
自分にそんな許可が下りたようで、空虚感の中でその思いが支えだった。
「さて、あとはお父さんに任せようね! お腹空いたね。お昼コンビニのサンドイッチだけだったし…」
母の声で我に返った。思いのほか母は持ちこたえている。それは僕も同じだった。その理由を共有できるのは、母以外にはいなかった。たぶん父はもう少し複雑な気持ちなんだろうな。親父とも少し話したい。そんな気になった自分が、意外だった。
「近くにファミレスあるよ」
「そこにしようか。お父さん今日は食べてきてくれるって言ってくれたしね。たまにはステーキでも食べよっか?」
「ステーキって…胃のほうは大丈夫なの?」
「うーん…カレーよりは大丈夫でしょ。あなた食べなさいよ。母さんは一口もらうから」
「僕のメニュー決定権は無し?」
「あっ…そっか。でもステーキだよ? ステーキは男のロマンでしょ? 値段気にしないでいいわよ。今日はお兄ちゃんのおごりだから」
「わかった…ステーキ食ってやる。パフェも!」
兄とよく行ったファミレスもこれで最後だな。そのことは母には言わなかった。
それから一週間後、僕はまたあの病院を訪れていた。さわやかに晴れた秋の昼下がりは、透明な風の香りがした。
(来て…また来て欲しい…)
あの言葉が社交辞令じゃないのは僕にもなんとなくわかった。なぜ兄が僕を受け入れたのかそれはよくわからなかったけれど、僕を気遣ってくれてのも当然あるのだろう。優しい兄のことだ。それが変わらなかったことは、あの日よくわかったから。でも気遣いだけじゃない。その僕の感覚を信じたかった。
まだかなりの緊張感の中で、僕は病室のドアをノックした。
「はい…どうぞ」
ゆっくりドアを開けると、兄の声がした。心臓がドキンとした。
「待ってたよ。そこ座って」
兄は微笑みながら僕にそう言った。ベッドが起こされていて、兄は前と同じように半身を起こしてベッドにもたれていた。ドキドキが収まらないまま、僕は兄の顔も見れずに椅子に座った。
「…変わり…ない?」
黙っているのもどうかと思い、恐る恐るベッドの兄に尋ねた。喋り方がぎこちない。緊張がバレバレなのが恥ずかしかった。
「うん…まだね」
まだ…という言葉が刺さった。病気が進行してないことを祈った。