逢いに来てはみたものの、それ以上なにを話していいかわからなかった。下手なこと言ってもボロが出そうで、頭の中がグルグルした。頭の中は真っ白で、なにか言おうとすればするほどなにも口から出てこなかった。兄はそれでもずっと笑顔だった。
「天気いいね…散歩行こうか?」
兄が出してくれた助け舟に、僕は真剣にうなずいた。おかしげに兄は提案した。
「海を見に行こうか…私が漂着した浜辺とか…見たくないか、あはは…」
無邪気に笑ってそう言う兄の車椅子を押して、病院を出た。
「…あの頃はまだ松葉杖で歩けた。歩けるようになったんだ…足骨折してたからね。足首だけじゃなくて、肋骨も腕も折れてたけど。それでも治って、それで海岸に出られた…それが間違いだったんだ。ウツも治り始めが一番自殺率高いって…私もウツだったんだね…きっと…」
それでここで死のうとしたんだよ…そう言って兄は堤防の上から浜辺を指さした。高い秋の空を映す青い静かな海は、人を飲み込むようには僕の目には到底見えなかった。兄も微笑んでいた。その姿も死を望んだ人間とは僕には見えなかった。
「見事死ねると思った瞬間、あの先生が海に飛び込んできた。白衣でだよ? で、助けられちゃった。でもそれも序の口。助けられてからが大変だったんだ…聞いた? あの話…」
兄が僕に訊いた。
「うん…聞いたよ。信じられないような話で…聞くのやめたくなった」
「そうか…そうだよね。君には辛い話だったね…」
兄がすまなさそうな顔をして車椅子から僕を見上げた。その顔が愛しくて、僕は思わず目を逸らした。
「でも君の事件の話も、あのあと先生から聞いた。だからおあいこだ。辛い話だったよ…君がそんな目に遭ってたなんて。辛かったけど…なんだか…他人事とは思えない話で…シンクロしてるみたいで…不思議な気持ちにもなった」
「そう…だね…ホントだ」
僕は兄に言われて気がついた。
「なんでかな…でもいつもそうだった」
「いつもって?」
兄に聞かれて僕は答えた。
「兄貴の味わったことを、僕は追いかけるように体験させられるってこと…たぶん…兄貴を…理解したくて…」
兄は驚いたように尋ねた。
「じゃあ…私がなにもかも失ったから…君も?」
「うん…なにもかも失った…記憶じゃないけど…僕にとってのすべてが失われたんだから…なにもかもだよ」
僕にとってのすべてだった。あなたがね。兄には言わなかったけれど、心の中で僕はそう言った。
「じゃあ、私がもうなにも失うものがないって思えた…そのとき君は? 君はいま…どうなの?」
兄はまた僕に訊いた。
「僕の世界はリセットされたままかな。まだ淋しいよ、とても…。でも…なにかに寄り掛からなくても…僕は生きていける…たぶんね…まだ確信はできないけど。まだなんだ…いつも僕は追いかけてる。兄貴のこと…だから…僕はもうすぐそう思えるん…だろうね…」
でももうすぐ…いやでも分からされる。きっとあなたが旅立つ日に。僕がそれでも生きていられるか、僕は僕自身でそれを見届けなきゃならないんだ。独りでね。秋の海風は少し肌寒く、僕は兄に聞いた。
「寒くない?」
「少し…」
「帰ろうか?」
「いや…もう少しいよう」
風にはためくひざ掛けの端を、僕は兄の身体の下に入れ込んだ。風が入らないように足元をしっかり包みこむ。
「ありがとう…だいぶ暖かい」
そしてしゃがんでいる僕に兄はこんなことを言った。
「手を握っていい…?」
「え…?」
きょとんとしてる僕に、兄はもう一度言った。
「君の手を私に握らせて…?」
カァッと頬に血が昇るのがわかった。それはちょっとマズイ。そんなことされたら兄貴を抱きしめてしまう…抱きしめちゃうじゃないか! なんでなんでなんで?
「恥ずかしい?」
兄が僕に訊く。当たり前でしょう!?
「…え…え…あ…あの…なんで?」
僕はどもりまくって逆に聞いた。
「人の体温に触れたいな…って」
兄は笑いながら無邪気に言った。
「君は私のこと嫌いじゃないし、弟だし、遠慮なく言えるでしょ?」
「あ…そ…そうだ…けど…」
「誰にでも言えるわけじゃない」
ちょっとだけ真顔になって兄は言った。それは…確かにそうだけど…
「だめ?」
その「だめ?」は反則だぁあっ! と大きな声で言いたくなるくらい、兄は愛おしかった。なぜそんなことを言うのか、よくわからないまま僕は言葉もなく無言で、兄の膝の上に右手を差し出した。そして僕は恥ずかしさのあまり、無意識に目を閉じていた。
温かなものが触れたと感じた途端、僕の右手は兄の両手に包まれていた。頭の中が痺れて、なにも考えられなかった。自分の心臓の音が耳に響く。満たされていく。一瞬が永遠に感じられるほど。
「ありがとう…変なこと言ってごめんね」
兄の言葉で僕は我に返った。僕の手はまだ兄の両手の中にいた。思わず兄を見上げる。自分の目が潤んでいるのが恥ずかしかった。
「人の温かさにふれていたい…それがもし可能なら」
「僕で…いいの…?」
兄はにっこり笑った。
「君がいい」
「気持ち悪く…ないの?」
僕は恐る恐る聞いた。
「まさか…そんなふうに感じてたら自分からそんなこと頼まない。まったく感じてないよ…逆にすまないなって思ってる」
「なぜ?」
「君が悲しむから。仲良くなってもすぐに…さよならしなきゃならない」
僕の身体が一瞬こわばった。また世界がグラっと揺れた。そこに引き戻されるのか…こんな心の中に入ってきて。今ここで、もう一度泣き叫んでしまいたくなった。声が詰まる。
「い…言わないでよ…わかってる…わかってるのに」
「ごめん…そんなつもりじゃ…」
「他人だって…兄貴にとっては…他人だって…だから仕方ないって…でも…」
兄は黙った。
「逝くって決めたんでしょ…僕たちを置いて」
意地悪を言ってる…わかってても止まらない。苦しすぎて止められない。
「だから、いいから…やりたいこと言ってよ…せめて後悔しないでよ…」
兄は黙ったままだった。僕は立ち上がった。兄の手が力なくスルッと下に降りた。温かさだけが僕の手に残った。そして兄の車椅子を押し、堤防から病院へ戻った。
病室に二人で無言で帰り、ベッドに寝かせるために兄の介助をした。気まずい中でもまた身体が触れ合う。触れ合った部分がそれでも変わらずに愛しさに痺れる。それを感じながら僕はとてもやるせない気持ちになった。
「悪いね…ありがとう」
ベッドに上りながら、兄がようやく口を開く。声が小さくて悲しかった。帰りに車椅子を押しながら、僕はとてつもなく後悔していた。兄の残り少ない時間を汚したようで、とても気分が悪かった。あんなに満たされた瞬間のあとにこんな気持ちになるなんて、それも後悔だった。こんな気持ちでは帰れない。そう強く思った。
「さっきは…ごめん。僕ひどいこと…言った」
自分の後悔の痛さに耐えられず、僕はベッドに戻った兄に謝っていた。
「いいよ。ひどいこと言ったのは私の方だから」
兄もヘコんだ顔をしてそう言った。
「私のほうが謝らなきゃ。ごめんね。距離感が…わからなくて…君と私の…」
「僕もだよ…兄貴だけじゃない」
「正直…兄貴と呼ばれるのも…私は後ろめたさを感じるんだ。君の兄だったことをほんの少しも思い出せないのに…」
「それでも兄貴は兄貴だ…」
僕がそう言うと、どうしよう…と言う感じで兄はうつむいたまま額に手を当てた。
「…って言わなきゃならないところなんだけど…」
そのあとに続けた僕の言葉に、兄の動きが止まった。
そうなんだ。兄だけじゃない。僕自身も“兄貴”って呼んでいいのかって。無理強いしてるようなこの違和感。兄が兄であった…と、過去形でしかもう呼べないのが、今の僕の偽らざる感覚だった。
「兄貴だった。正確には…だった…なんだよ…もう」
うつむいてた兄が僕を見た。
「兄貴だったけど…兄貴じゃない。あなたはそんな存在…いまの僕には」
兄の口元がフッと緩んだ。
「そうだったんだ。じゃあ…もう私のことは…記憶喪失の前みたいな感情は…そんなに無いんだね…」
意外なことに兄の言葉は少し自嘲気味だった。
「ごめんね。そんな君に勝手なこと頼んで…困らせてたんだ」
「だったら…いいのにね」
「え…」
間髪入れずに僕はそう言っていた。
「そしたら…僕も少しは楽になれたかも」
そうなれたらいい…どこかで期待してたこと。でもダメだね。全然ダメだ。あの時、思い知った。手に触れただけで、身体が痺れるほど好きだ。
「僕が好きなのは…あなたの記憶じゃないんだって…あなたの存在そのものが…僕にはかけがえがないって…」
そうだよ。おぞましくて怒りに震えた、あの幼い頃の夢の中の記憶さえ、今はあなたの存在の愛しさにあとかたもなく消えてしまって。逢えた瞬間に、なにもかも許してた。それがよくわかったんだ。さっき、あの海風の中で。
「どんなに楽だろうかって…思うよ。この気持ちが薄れて褪せてしまっていくならね。でもそれはただの希望的観測だった…あなたがそこにいる…それだけで…もう…」
「それだけで…?」
その後は今は言えない。愛しくて抱きしめてしまいそうになる、なんて。
「…でもあなたには重いよね…僕の気持ちは。飛び立つあなたには…重すぎるよね」
だから僕に釘を差したんだよね、手を握ったときに。人のぬくもりを感じたかった、それだけなのに、僕の想いが伝わってしまったんだろうな、想定外の重さで。兄…いやもう“あなた”としか呼びようの無い兄は、僕の言葉に黙ったままだった。僕は努めて戯けたように兄に告げた。
「これ以上言わせないでよ。僕も…恥ずかしいだろ…すごく」
記憶のない兄を前にした、まるでストーカーの妄想みたいな僕の告白。自分で聞いても…引く。兄…いや彼にとっては、この重さでは重荷どころか困るだけかも知れない。僕を傷つけるから断れない? 優しいから会ってくれてる? そんな推測が胸に渦巻く。でもそうならば僕も迷惑だ。とても悲しいけど、そんな配慮はもうして欲しくない。
「気を遣ってる? 僕に…」
「……」
兄は黙っていた。
「そうだよね。そんなこと言えないよね…優しいから…そこは全然変わらないね。記憶が無くなっても。そんな優しい兄貴には、後ろめたいなら、僕は兄貴って言わないようにする」
僕は精一杯明るい声でそう言った。
「あの日、僕にまた来てって言ってくれたのは、あなたが優しいから…かな。でもあれは僕には社交辞令みたいには聞こえなくてさ。それは僕の願望だったのかも知れない…だけどあなたがほんの少しでも僕に…なにか…思ってくれてるって…そう思いたかっただけの…」
僕は自分がなにを言いたいのかよくわからなかった。どこに着地するのかも。
「…大事な時間…だよね、これからの一日一日が。だからあなたは…」
そう言いながらわかってきた。確認したい。確認しなきゃ。だってもう、兄には…時間がない。
「あなたはもう誰かに気を遣ったり、誰かの犠牲になったりしないで欲しい」
そう、僕の悲しみなんか、あなたは気にしちゃダメだ。
「あなたの邪魔をしてる。今もこうやって…あなたの心の平和を壊してる。それはあなたのためにならないから」
いまならそう言える。自由になって…って。なにもかもから。
「僕はもう大丈夫だよ。少しは成長したんだ。それに宿題なんだ…独りで立つって…だから…」
僕は、何も言わずに僕を見ている彼に手を差し出した。きっと、僕の言ったことは図星なんだろうなと僕は察した。
「ありがとう…少しでも僕に時間をくれて…」
「君…」
「やっぱり僕は帰るよ…だから…握手して下さい」
彼は僕の差し出した手をじっと見た。そして僕の手をそっと握った。また身体に電気が走るようだった。変わらない…思わず目を閉じていた。
「私は…わからなくなった…」
次第に彼の握る手に力が籠っていくのがわかった。ハッとして目を開けた。
「いったい…私はどうしたいのか」
「ごめんなさい。混乱させて」
「いや…君のせい…じゃないよ。君のせいなんかじゃ」
そしてまた彼の手からスッと力が抜けていった。
「今日は…私の方こそ…ありがとう。ほんと…だよ。ウソじゃない」
最後は消え入りそうな声で、彼が言った。
特急に乗って座席に着いた。自由席でも平日の上りはガラガラで、両手で数えるほどしか乗客は居なかった。もう夕方の空になっている。窓際の席で景色を眺めていた。虚ろな気持ちは隠せない。でも僕は兄に言ったことに後悔はしていなかった。列車がトンネルに入る。視界が黒くなって景色が遮られた。少しするとまた夕焼けの空が唐突に現れた。
(私は…わからなくなった…いったい…どうしたいのか…)
兄の言葉が不意に思い出された。僕も同じだ。いったいどうしたいかなんて、わからないままだ。でも今はこうするんだ。トンネルと夕空を繰り返すように、混乱と理解を繰り返して。