気持ちの変化というやつがもしあるんなら、こんな感じなのか…と僕はその日を境に変わった“なにか”を体験した。諦めでもないし、開き直りでもないそれは、僕がいままで味わったことのない気持ちの変化だった。なんでかな…それは不思議な気分だった。いままでなら誰かを支えきって、その人の苦しみを肩代わりする、そんな不可能な理想に向かってもがき苦しんでいた。でも今はその執着が希薄だ。兄だった彼を僕は愛し続けてる。いまだにそれは変わらない。呆れてしまうほど僕の中であの人は愛しい。でもあの人自身を差し置いて僕が彼を支えようとは、なぜか思わない。やっぱり愛されてないから…かな。そうかもしれない。あれほどの兄から受けた愛が、いまはすっぽり抜け落ちている。そんな僕と彼の関係の中で、どれだけ一方的に愛していても支え抜く気持ちになれないのは、ある意味当然のこととも思えた。冷たくなった…のかな? 兄貴を突き放せる…突き放せるって、この僕が…さ。突き放したんだろうか? 僕が突き放したのは彼? それとも…もしかしたら自分を? 違う。兄だったあの人は、今、自分だけで持ちこたえていられるんだ。僕が支える必要もないくらい。過去の兄貴とは違って。
駄々をこねても良かった。彼の時間に僕を割りこませて、僕の存在を認めてもらっても。それでも兄…いや彼なら拒まなかっただろう…きっと。それでもそれが嫌だった。曖昧な気持ちで過ごす時間…そんな時間はもう彼には過ごして欲しくない。過ごすべきじゃない。忘れ去ってしまいたい事実をいつも突きつけられながら、僕は次の一歩を決めなきゃなんない。兄の時間がもう少ししか残されていないっていうことを。その壊れそうな悲しみに見合うのは“出来うる限りの最高の決断”。それを僕だけじゃない、彼にも願っている。そうじゃなければ報われない。互いに手を抜いた途端、それは穢されてしまうような気がした。彼の生きた時間すべて、そして僕が自分自身を投じて賭けたその年月…その気持ち…その愛が。
そこまで思って少し自分にがっかりする。この思いにもまた…見返り。そう、僕の費やした労力に対する神からの見返りが欲しい…そんな欲望に満ちてるって。でも心底思う。もう思い残すことがないと言った兄であったあの人は、そう言った時とは違う状況で飛び去るまでの時間を過ごす。僕達というピースが期せずして彼のパズルを埋めたとき、そこにはどんな風景が描かれていたと知るんだろう。
空が高い。ひっそりと誰もが歩き話す。そんな秋の深まる冷気の中で、僕もそんなことを思う。淋しい。それでも淋しいよ…兄貴に逢いたくて。そして遠い異国の空に思いを馳せる。あなたは今、どうしてるのかな…こんな秋空の下で。寂しくないかな…二人の愛する“あなた”は。
兄の荷物がアパートから父によって運ばれて実家に戻ってきた。部屋はその日に解約された。僕と母はそんなに多くないダンボールの中から、捨てる物としまうもの、いま使えるもの…というように仕分けしながら片付けを始めた。
「服…まだ捨てられないな」
母が呟く。もしかして記憶が戻るかも知れない。そして短い間でもまた一緒にここで暮らせるかも知れない…。口に出さなくとも母がそう思っている事は僕にはわかった。母もまた会いに行きたいだろう。今すぐでも会いに行きたいだろう。でも会いに行くには勇気が要る。勇気も忍耐も挫けない心も。彼と僕達家族の気持ちの温度差、それを超えて愛する強い気持ちと。
「取っておきなよ。いまは片付けるだけでいいよ。しまう場所だけ考えよう…ね?」
「そうね…そうしようね」
厳しい作業だ。淡々とやってるつもりでも折れそうになる瞬間がある。それでも時間と共に居間に積まれたダンボールは次第に数が減っていく。荷物が兄の匂いとともにこの家にしまいこまれていった。まだ…まだ居てよ。匂いだけでも、まだ…さ。
夕方も夜になっていく頃、晩ご飯の後、家の電話が鳴った。電話を取ったのは母だった。
「はい…もしもし?」
誰だろう。相手がなにか話してる。なんだか呆然として母が聴いている。
「え…?」
母の顔が次第に驚いた顔に変わっていくのがわかった。そして母はソファに座っている僕をじっと見て、そして切れ切れに言った。
「電話…お兄ちゃん…あなたに…って」
母が受話器を僕に差し出していた。
「兄…貴…?」
意味がわからなかった。なんで“彼”が僕に、それも電話で?
「そうよ…早く出て」
あまりに唐突だったその電話に僕も呆然としていた。
「なにしてるの? 早く替わってよ」
母の声ではっと我に返った僕は、ソファから落ちそうな勢いで電話に駆け寄り受話器をもらった。
「も…もしもし…」
「居たんだね…良かった」
「どうしたの?なにかあったの?」
兄から電話があるときの条件反射で、僕は無意識に非常事態を想定して聞いていた。
「なにもない」
「…ああ…良かった…」
背中から汗が出ていた。でもなんで何もないのに電話するの?
「ごめん…いま話してていい?」
「いいけど…僕に…話があるの?」
「うん…急用じゃ…ないんだけど」
いつもより少し緊張してるみたいな彼の声だった。
「なに? どうしたの?」
なんでもいいから喋って欲しくて、僕は彼の先をうながした。
「あのね…」
「うん」
「淋しい…」
それを聞いて一瞬、頭の中が痺れた。
「悪いね…また変なこと言ってる」
彼は少し笑ってるみたいだった。
「変…じゃないよ」
「そっか…そう言ってくれると助かるよ」
「どこから電話してるの?」
「病院のラウンジの公衆電話」
「そう…お金まだ切れない?」
彼の手元に小銭があるかどうかとちょっと心配になった。
「カードがあるから」
「ああ…じゃあ大丈夫だね」
「ごめんね…なんでもないんだ。でも淋しくて…声が聞きたくなった」
「僕の…?」
「ああ…君の声」
彼は少し沈黙してまた繰り返した。
「…君の声だ」
「そう…なんだ…」
僕はなんと答えていいか戸惑った。
「あの…もう…ほんとに…ここには来ないつもりなのかな?」
と、彼は遠慮がちに僕に訊いた。
「…あなたが…僕に気を遣い過ぎてて…不自由じゃないかって…」
僕は帰りの電車で考えたことをそのまま言った。
「やっぱり…そんなふうに思うの?」
彼はそう僕に聞いた。
「…違うの?」
「もう…来るのがイヤになったのかって…思ってた」
「なんで…?」
「私がひどいこと言ったから」
「どんなこと?」
「覚えてないの?」
「もしかして…仲良くしても僕を悲しませるだけ…って言ったこと?」
「そう…最低だ。せっかく会いに来てくれてるのに」
「僕が…そのあとひどいこと言ったんだ…悪いのは僕だよ」
「いや、余計なこと言って君を怒らせたんだ。だからもう私には会いたくないんだろうなって」
「でもあなたは僕のこと気遣ってくれてたのに」
「間違った気の遣い方だよね…どうしていいか私もちょっと混乱してて…すぐには自分の気持がわからなかったんだ…許して欲しい」
彼が謝っていることが変に思えた。
「いいんだ…僕…あのあと色々考えた。僕も混乱してたから。少しゆっくり考えないとさ…頭よくないんだよね」
「そう…なの?」
彼は次の言葉を少しためらった。
「…君…あの…」
「なに?」
僕はドキドキしながら聞き返した。彼は言葉に詰まりながら、僕にこんな提案をしていた。
「あの…もっと…率直に…話しがしたいんだけど…」
「えっと…それは…どういう…」
「もう…来てはくれないの?」
来て欲しいの…? ほんとに僕に?
「あの…僕に気を遣って言ってくれてるんだったら…もう…やめて」
そして僕はこの前から言いたかったことを初めて口にした。
「もう、あなたは人に左右されちゃダメなんだ…そんな時間を過ごしちゃいけないんだよ」
彼はまた沈黙した。
「僕はあなたに曖昧な決断はして欲しくないんだ…だって…」
だって、もう残された時間は…
「うん…わかってるよ」
彼が口を開いた。
「わかってるから君と話がしたい」
僕は電話口で目を閉じた。わかってるんだ。わかってて僕と。それ、信じていい…んだね?
「その言葉…本気に…するよ?」
僕は重いよ…わかってるの? そんな気持ちを込めて僕は言った。
「わかってる…っていうか…わかったんだよ…君が帰ってからね」
「帰ってから?」
「そう…あの日、君がいなくなってから私は気づいたんだ。だからもう一度、会って話そう」
公衆電話がピーピーとカード残金の残り少ないのを知らせていた。
「ごめん…もうすぐカード切れちゃうから。今日はありがとう。ね、本当に来てくれる?」
「行くよ…約束する」
「そう…良かった…待ってていいんだね」
彼は何度も念を押した。言われるたび鼓動が高鳴った。そんなこと言われたらもう、今からでも行ってしまいたくなった。
「待ってて。今週中には必ず行くから。身体気をつけてよ」
「うん、ありがと…君もね。おやすみ。待ってるからね」
「うん。おやすみ。行く日、決まったらナースセンターに電話するから」
「待ってるよ」
ツーツーといきなり電話が切れた。受話器を切ると母が僕を見て、うんうん…とうなずいていた。嬉しそうな、切なそうな顔だった。
つながってる。まだ…切れてないんだ、兄と僕は。そして僕は三日後、また彼の前に座っていた。
「元気だった?」
屈託ない表情で彼が訊く。
「うん…まあまあ…かな」
「そうか…良かった」
前回会ったときより照れがある。あんな電話…後からじわじわきて参った。抑えていた炎が燃え上がるみたいに、数日間僕は自分の感情に揺さぶられ続けた。でもそんな中で幸せだった。なにかがつながってる。それがとても嬉しくて。
「回りくどい話は無しでいい?」
彼が僕に確認するように訊く。当たり前だ。
「うん…単刀直入でいいよ…」
時間はない。いろいろな意味で。
「じゃあ…驚かないで聞いて」
「うん…わかった」
僕がうなづきながらそう言うと、ほんの少しの間の後に彼は言った。
「君が、欲しい」
「えっ…?」
一瞬、なにを言われたか聞き間違ったと思った。
「驚いたろ?」
彼は笑った。
「君が欲しくなった」
びっくりした。聞き間違いじゃなかった。びっくりして言葉が出なかった。
「私も、驚いてる」
彼はさも可笑しそうに言った。
「こんな気持ちになったことも、こんなこと口にする自分にもね」
「ど…ど…どうして…?」
どもりながらそれしか出なかった。
「…愛されてるのは…しあわせなことだから」
彼は夢見るように答えた。
「私はここで愛のない医師との肉体関係と愛のある医師からの手当てを体験した。両方私には必要だった。でも君と逢って私は確信した。両方一緒に欲しいってね…オールインワンが良い…限られた生ならそんな愛の中で死にたい」
清々しいほどの潔さで彼はそのことを言いきった。
「だ…だ…だって僕たち…兄弟…だよ…そんな…」
「半分ね…私たちは半分は他人だよね」
「なんで知ってるの?」
誰がバラしたんだそんなこと?
「父…から聞いたよ。厳密には君のお父さんだけど」
話したのか…なんでだよ。親父の後ろめたさってヤツか? いろいろと気が遠くなりそうだった。
「今から君以外の誰かとここまでの関係になれる可能性を考えてみて」
彼は真面目な顔でそう言った。
「それは…そうだけど」
「時間がないのを理解してくれてるって思っていたんだけどな」
その言葉に僕はなんの反論も出来なかった。
「でも無理なら断ってくれていいんだ」
君が欲しいと言ったその言葉と同じテンションで彼はそう言った。
「君が無理に私に付き合うなんていう状況は御免だよ。むしろそれなら私が断る」
だがそれを言う彼は満足げだった。
「言っただろう? 思い残すことはないんだ。でも君と居たい…この2つが同じ心の中にある。自分でも不思議なんだ」
それを聞いて僕は不思議と納得していた。自由なんだ。あなたは自由なんだね。囚われなくていい。そして欲しいものを欲しいってこんなに無邪気に言えるんだね。彼のこの一年になにがあったのか僕にはわからなかったけれど、彼はなにかを越えて真の自由を手にした、それがわかった。
「あなたが望むなら僕は…いや…違う。僕が一緒に居たいんだ」
こんなことを言っても迷惑じゃない。彼の確信に満ちた顔を見ていると、そんな風に思えてきて、僕は彼に自分の望みを打ち明けた。
「あなたと一緒に…居たい…」
彼はにっこり微笑んで言った。
「やっぱり君も? 良かった。ありがとう…すごく嬉しいよ」
誰かに似てる…この無邪気な感じ。不意に駅の改札で手を振る母の姿が記憶に甦った。これだ。こっちが照れちゃうほどの無邪気さ。記憶と罪悪感の失われた兄は、母の遺伝子が開花していた。