こんなことになるなんて、10日前には夢にも思わなかった。あの部屋がなくなったとたんに新しい部屋が用意された。質量保存の法則ってあるけど、賃貸保存の法則なんてないだろ?
新しい生活…二人の。兄が望んだのはそれだった。帰宅して経緯を両親にかいつまんで話した。もちろん話せる部分だけ。出来るなら普通の生活をしたいと、そして兄が僕に看取って欲しいと。兄からも直接両親に電話があった。弟をお借りしますだって、と、母は言って笑った。安心したみたいだった。でも、あの子はここじゃない生活を選んだのね、ご飯作ってあげたかったわ…と一瞬寂しそうな顔をした。僕は、母さんは親父のメシと世話があるでしょ、来たい時に遊びにくればいいよ、と励ました。
兄の病院から遠くない街なかの、マンスリーマンションの契約。院長の知り合いの不動産屋で、病院に近い物件を紹介してもらった。病院へは外来で通うことになった。マンスリーマンションの契約は電話と書面で済む。実家でそれらを全部済ませた。父が保証人になってくれた。兄が車椅子だからなるべくならバリアフリーで1階が希望。スロープ付きの1階の角部屋がほどなく見つかる…奇跡だ。マンスリーマンションだから、家具や電化製品を買うこともない。
「軍資金はあるから心配しないでね。結構持ってるんだよ。君に口座を作ってもらうよ。管理して欲しい」
軍資金なんてどこから来たのかと尋ねた。小切手を見せてもらった。院長の名義だった。
「あの事件の口止め料」
「マジで?」
「うん…要らないって言ったんだけどね。でもこんな風に役に立つんだね。ところでこれってどうやったら現金になるんだろう?」
「…わかった…調べとく」
「それは頼もしい。よろしくね」
とりあえず小切手に書いてある銀行に行けば教えてくれるだろう。不案内な街で銀行を探すことにした。まずはじめに地図を買った。
3ヶ月分の家賃を前払いで振込み、いつ終わるかわからない生活を不安と幸せがない混ぜのまま、ふたりで送る。母が取っておいた兄の服が、そのまま新しい部屋に送られた。取っておいてよかったと、母が切なげに呟いた。
「君が弟で良かった。男二人の生活を世間様に疑われずにすむからね」
入居当日の昼下がり、マンションの管理人に挨拶をした。部屋に案内され鍵をもらって、管理人さんが立ち去った後そんなことを耳元で囁かれた。
「弟なんて思ってないくせに」
少し意地悪を言いたくなる。
「それも良いいんだよね…ドキドキする」
意地悪い言葉にもめげない…笑ってる。嬉しそうででちょっと困る。何と言っていいかわからなくなる。
玄関に車椅子用の簡易スロープを前もって設置しておいた。部屋には歩行器が先に届いている。整形の先生が注文してくれた。とりあえず試しに歩いてもらおう。車椅子から歩行器に移行するのも、先生の推薦機種だけあってわりとスムーズに行けた。これなら1人でも移動が簡単だ。
「綺麗な部屋だね。消毒液の臭いから解放だ」
「ここのトイレ手すり付いてるんだよ。ほら…狭いけどわりと使いやすそうだね」
「ホントだ…入ってみる」
とはいうものの、歩行器からここの便座に移るのは案外一苦労で…
「これは…ここからが至難の業」
「いつもどうしてたの?」
「松葉杖のほうがここは楽かな」
「じゃあそうしよう」
「とりあえず肩貸して」
「ここに座る?」
「そうだね…つまり、そこに丸椅子があればいいのか」
いろいろ動線を確認しながら備品の買い物リストを作った。彼の車椅子を押して一緒に買い物に行った。そのひとつひとつを胸に刻んでいった。
「ああ…お疲れ。いただきます」
引越し初日も夜になり、近くのコンビニで弁当を買い、部屋で待っている兄と一緒に遅めの晩御飯を食べた。とても不思議な気分だった。
「明日から僕がご飯作るから」
「うん。よろしく頼むね」
「家で母さんが煮物と炒め物の作り方を伝授してくれたよ。ああ…あと味噌汁も」
「お茶くらいは淹れるよ」
「ありがと。でも出来ることはやってもらうからね」
「ああ、任せてよ」
細かい生活のことをあれこれ話す。病院の生活とはかけ離れた暮らし。彼が不便じゃないか気を遣う。それが楽しい。
「時間が許す限り、君といろいろ話したいんだけど」
「うん…僕も話したい」
でも、過去のことは話せない。気をつけなければ…と思った。この期に及んでも兄としての記憶を僕は封印したい。奇妙で不思議な彼はとても魅力的で、兄の持っていた影や静けさも僕はとても愛していたけれど、今の兄であって兄じゃない彼の率直さと自由さが僕を安心させる。麻痺した足も失くした記憶も、痛々しいはずなのに感じさせない。悲壮感がないのだ。昔の兄のほうが痛々しくて壊れてた。本当になにが幸いなのか、遠近感も価値観も崩壊してる。
「ごちそうさま…」
「美味しかった」
「えぇ? コンビニ弁当だよ?」
「誰かとご飯を一緒に食べるの、初めてじゃないかな。いつもより美味しいね。病院の臭いがしないのもいいな」
それを聞いて切なくなった。それで逆のことを言った。
「今日からはケンカしても二人で食べなきゃなんないんだよぉ」
「ケンカか…我々はどんなことでケンカするんだろうね」
「思いやりのすれ違い」
彼がプッと噴いた。
「そういうケンカしてたの?」
「そう…いつもだよ」
僕はわざとふくれながら言った。
「確かに。この前なりかけた!」
「でしょ…そういうとこ変わんないね…全然」
彼はふと目を細めて僕を眺めた。
「ん? どうしたの?」
「私も君のこと…好きだったんじゃないかな」
一瞬心臓が止まるかと思った。なるべく顔色を変えないように取り繕った。
「そ…そうなの? なら、もっと早く言ってくれたら良かったのに。記憶があるうちにさ」
「照れてる?」
そう思っててくれ…!
「うん…だって…あなたから好きなんて言われたら、幸せ過ぎて…怖くなってくるよ…マジで…」
過去のことはやっぱり言っちゃいけないんだ。僕は肝に銘じた。何かを思い出したのだろうと感じた。
夜もふけて寝る時間になった。彼は移動しやすいようにベッドで、僕は片付けやすいように布団で、それぞれ寝るように準備していた。寝る支度をして彼はベッドに入る。そして僕は約束どおり、彼のベッドに潜り込んだ。
抱き合っていちばん怖いのは、兄が過去を思い出すこと。でもこの行為は今の彼の唯一の望み。性欲じゃない。人の肌に触れていたい。抱きしめられたい。抱きしめたい。とてもシンプルで純粋な欲求。それが彼の言った“肉体関係”の意味だったと知った。
「に…肉体関係っていうから…エッチしたいのかと思ってた」
「でもこれも身体のことだし…」
兄はなんで? という顔で僕を眺めている。
「いや…ふつうそれ肉体関係って言わないし」
「でもさ、男同士で布団の中で抱き締めあったらもう十分肉体関係だって」
「そ…そりゃ…そうかもだけど…」
「たぶん…セックスより気持ちいいって思うんだ」
「抱き合ってるうちに…したくなるかもよ? いや…絶対したくなる」
「その時はその時。あ…君の性欲のこと考慮に入れてないな…ごめん」
「僕はしません。絶対しないから」
これが彼の願いだった。僕を欲しいと言ってくれた日、彼が言った肉体関係を僕は出来ないと言った。すると彼は笑って言った。抱き締めるだけだよ…と。実はそれ以上は望んでないんだ。それも無理?
それで色々話し合った結果、僕はそれを承諾した。彼がどれだけそれを望んでいるか、わかってしまったから。実際僕はしたい。したいけど怖くて出来ない。する気はない。だからそれでいい。利害が一致してる。でもこれは綱渡りみたいだ。ハプニングは断固拒否。お互いにしたくならないよう祈る。したら絶対に彼は思い出す。ほんとに神様、兄の記憶を封印していて下さい。お願いだから。
ベッドに潜り込んだはいいが、緊張しすぎてワナワナしてる。すぐ隣に彼の身体。体温が生々しく伝わってくる。
「待ってたよ」
仰向けのまま顔だけこちらを向いて、微笑みながら彼が僕に言う。
「はい…腕枕」
彼が右腕を僕の頭の下に入れた。無意識なんだろうか? 毎夜繰り返してきたこの仕草。記憶はなくても身体が覚えてるんだ。懐かしさと不安が同時に襲ってきた。“彼”が不意に“兄貴”に見えた。あ…帰ってきたんだ…兄貴。ほんとに。
「ううっ…」
どうしようもなく泣けてしまった。彼の肩口に顔をふせて、泣きながら身体にすがりついていた。抱き締めたかったのは僕だった。彼の腕が静かに僕を包んでいた。
朝早く目が覚めると、まだベッドの上にいて、となりで彼が眠っていた。抱き締められながら泣いてその後の記憶がない。泣いたまま眠ったようだった。懐かしい…この感じも兄の体温も。まだ馴染まない部屋の中で、彼の存在が僕を安心させる。ずっとこうやってきた。それは思考とか記憶に頼らない消えないなにかなんだと、僕はそのとき思った。だが、これももう終わっていく。それなのにこの優しくて透明な時間はなんなんだろう? 絶望とも違う諦めでもない、この透き通った光の差す見知らぬ部屋は。まるで時間が流れていない。それはかすかだがまるで、永遠に触れるような静けさ。この中なら、僕はあなたを狂わないで見送れる…そんな気さえするほどここには、影がないんだ…
なにもない
なにもないから
ふたりでいよう
朝の光が差す部屋…
不意に歌が流れた。僕の耳の奥にだけ聞こえてくる音と詞が、そのときゆっくりと響いた。不意に隣から彼の声がした。
「ん…あ…目さめた?」
彼は寝ぼけながら目を開けると、隣で彼を眺めてた僕に気づいた。
「おはよ…起きてたよ」
起きてくれたのが嬉しくて、僕は口元が緩んでいた。
「よく眠れた?」
と彼が僕に聞いた。
「ぐっすりね。腕枕がいつ外れたのかもわかんなかったよ…全然」
「私も良く寝た。なんだか落ち着く。君といると」
彼が目を細めて天井を向いた。
「ずっと…家族だったからね」
「ああ、すごいな。身体って忘れないんだ…」
彼も覚えている。それはまるで諸刃の剣のように。
「記憶がなくなって家族の誰かとこんなふうに居られるなんて…予想もしてなかった」
彼はしみじみとそんなことを言った。
「君が私を好きでいてくれたから」
だめだよ。そんなこと…言ったら。僕は気づかれないようにゆっくりとうつぶせになった。布団と自分の身体の間で挟まれて押し潰されている衝動。最後まで自制できるのかよ…。僕は自分が信じられなかった。あなたに…キスしたい。思わず枕に顔を埋めた。そしてその枕を抱きかかえた。
朝は朝ごはんの支度から始まる。病院の朝は早かったので、彼はけっこう早起きする。病院の生活リズムは健康的だ。朝は6時に起き7時半に朝食。昼食は正午、夕食は6時半、消灯は9時。改めて決めるのも面倒なのでそれに準じて生活することにした。朝は実家がパンだったので、それを踏襲することになった。
彼は小食だ。昔からそんなに大食いではなかったが、今はさらに食は細くなっていた。それを聞くと、舌に細工されて食べ物を食べられなかった時期があったから…と、彼があの担当医からの虐待の日々をさらっと口にする。あの頃は自分より食べ物のほうが神聖だった。人間以下の私にはそれを口にする資格がないって…背筋が一瞬凍る。その固まった顔を見て、彼は微笑んで言う。もう大丈夫だよ、私は君と食べられて嬉しいし、美味しい。
足が不自由なのでカロリー消費は実家にいた頃よりかなり少ない。前は走っていた。その足はもう使えない。だがリハビリは欠かさない。そのストイックさが兄らしい。整形の先生は毎日歩いて筋肉を落とさないように指導した。殿筋・腹筋・背筋…これらはまだ麻痺していないが、動かさないとどんどん落ちる。筋肉が落ちると代謝が落ちる。従って免疫も落ちる。太陽に当たって身体を動かすこと。なので二人で暮らし始めてからは、午前中の日課は公園へ行き、散歩と筋トレをすることだった。街には城跡の大きな公園があり、ジョギングコースや体育館もあった。天気のいい日には彼と歩きながら、リハの合間に木立の中でいろいろ話をした。
「…でね、結局気づいたことは、記憶があってもなくても、人は不幸にも幸せにもなりうる…ってことだった」
ある日の会話で彼はそんなことを僕に語った。
「人の幸せは記憶や自分っていう認識には依存しないんだと思うんだ…君はどう思う?」
僕は控えめに答えた。
「僕も…そう思うよ」
控えめだけど心の中では確信を持って。だって兄は…兄という人格を失って初めて“あなた”という幸せを知った。でも…なぜ彼はそう思えたんだろう? 僕はそこを聞きたかった。
「あなたは前は死んでしまいたいくらいの状態だったのに…なんでこんなに自由で明るくなったの?」
それを聞くと彼は僕の方を見て、ちょっと驚いたような顔をした。
「聞きたい?」
「うん…いちばん聞きたい…かな」
「そっか。えーとね…うん」
彼は自問自答みたいに独りごち、自分で納得したようだった。
「私は孤独で、淋しくて、誰からも愛されてなくて、必要とされてなくて、なんの役にも立たない社会のお荷物で、変態医師の奴隷で、犬以下の、家畜にもなれないほどの下らない存在…だった」
彼はそれをよどみなく一気に言った。微笑みながら言った彼のその言葉は僕にとってものすごい衝撃だった。
「…それを認めたんだ…全部」
彼はとても幸せそうに呟いた。
「み…認めたの…?」
「うん。プライドとか尊厳とか…自分への期待とか…生きる価値を見出したい渇望…誰かに愛されたい…それまでそれが微かにでもあって、なんとかしようって無意識であがいてた。気が狂いそうだった。でもそんなもの何もなかったんだ…ただ…五感が感じたこと…それだけしか私にはないんだって…わかった。わかったら苦しさが終わった。とても気持ちいい解放感に包まれてて…」
そのとき木立の中に一陣の風が吹き抜けた。彼は空を仰いだ。
「なんにもない…何もないんだよ」
「なにも…ない…」
「そうだよ…苦しむ必要がない…」
「なぜ…?」
「だって、苦しむべき“私”を失ったんだから」
「私を…失う…」
「ああ。そうだよ」
これが答えだった。これがその答だった。そしてそれは、過去の兄が渇望していた答だったと僕は思った。だけどこの答えはまた、僕がいちばん欲しかった答えそのものかもしれない。世界を…人生を失った空虚を、兄の支え無しで生きていくための。僕も彼と一緒に空を見上げた。
「青い空が見える…鳥は…自由だ…悲しい人を慰める歌を…僕はもう歌わない…」
「そうか…君は…知ってるんだね…それを」
あの時は受け入れられなかったけど…今なら…もうできるかな。ああ…あのとき狂気に陥るしかできなかった僕が。あの人に見せたい。
(君は晴れて自由だ。人生の支えになるほどの意味など、初めから存在はしない)
あの人の言葉を、兄であるあなたが僕に受け入れさせたんだ。
「僕は…また救われた…あなたに」
「それはおあいこだよ。それに私は君を救ったことなんて覚えてない」
「僕はそんな大したことしてない」
「君にはわからないかもね…私の気持ちは」
「わかりたいのに…」
「いつかわかるさ…ほら、いつも追いかけてるって言ったじゃない? だからもうすぐわかる」
「そう…だね。きっとそうだ」
「ああ。愛してるよ」
僕は焦って顔をそむけた。彼の顔、見られない。でも心の中で囁く。僕もだよ、愛してる。