それから二週間くらいしたある朝のこと。
ベッドから起き上がった彼が、なんの前触れもなくいきなり嘔吐していた。
「そのまま…動かないで」
驚いた顔で口を押さえてる彼に、そう言ってパジャマを脱いでもらい、すぐにティッシュとタオルでまわりの後始末をした。
「病院…行こう」
彼の胸元の吐瀉物を拭きながら、僕は彼の顔を見てそう言った。彼は珍しく無言でうなずいた。
「まだ吐き気する?」
僕が訊くと彼は首を横に振った。シャワーを浴びてもらって彼が身体を洗い流している間にすぐに洗濯機を回した。着替えて一息ついた彼に食卓で白湯を飲んでもらった。その頃には動揺してた彼の気持ちも少しは落ち着いたらしく、受け答えしてくれるようになった
「白湯飲めた?」
「うん…」
「いつから気持ち悪かったの?」
「それは…ないよ」
「じゃあ急に吐き気?」
「吐き気はなかった」
「え…?」
「こういうことがあるって…脳腫瘍の症状で。聞いてたから知ってたけど、こんな風に来るんだ」
スッと血の気が引いた。彼が珍しく動揺してるのはもしや、症状が進んでるのがわかるから? 同じように動揺してる場合じゃない。僕は平然を装って言った。
「まぁ、とにかく病院に行こう」
「ああ…うん…そうだね」
電話で病院に連絡すると、すぐに来てもいいと言われた。初めてタクシーを呼んだ。
診察を受けると、前倒しで検査をすることになった。CTの予約が明日空いているというので、予約の時間を指定されて今日は帰宅することになった。明日の検査の結果如何によってはすぐ入院するかもしれないと、院長から言われた。彼は「はい…わかりました」とだけ静かに言って、僕と一緒に病院を出た。帰りのタクシーの中でも彼はずっと黙っていた。
部屋に帰った。引っ越してからまだ一ヶ月ちょっとの、僕達の小さな城に。
「お腹すいた?」
ちょうど昼前だったので、僕は彼に聞いた。
「うん…少しね」
「食欲ある?」
「多少」
「そっか…ちょっとは食べれるね。パンとご飯どっちがいい?」
「軽くパンかな?」
「わかった」
これがこの部屋での最後の一日かも知れないんだ…と、キッチンで僕は一瞬目を閉じた。自分が唾を飲み込む音が耳の中で響いた。いつか来ると思っていた、それが今日かも知れない。小鍋で卵を二つ茹で始める。それがまるで僕らに見えた。
結局は彼はちょっとのサラダと6枚切りのトースト半分でおわり。卵は2個とも僕が食べた。食後にテレビでしばらくニュースなんかを見ながら休み、そのあと夕方まで横になって安静にしていてもらうことにした。ベッドに彼を寝かせて寝室を出ようとすると、彼は僕を呼び止めた。
「こっちに来て」
「どうしたの?」
「一緒に…居てくれないかな」
彼が今日初めて僕に頼んだのは、一緒にいて…だった。
「うん。いいよ」
僕がベッドに腰掛けると、彼の手が僕の服の袖を掴んだ。
「隣に来て」
布団に引きずり込まれた。
「一緒に寝る?」
「うん…いいでしょ?」
彼の隣に滑りこむと、すぐに彼の腕が僕を抱き寄せた。彼が僕を必要としてくれてる、その思いが伝わってきて、僕も彼を強く抱きしめた。その抱擁の中で彼が囁いた。
「キス…して…」
彼がそう言った。いままで一度も言わなかったことを。
「いいの…?」
「お願い…何も言わずに…言うとおりにして」
その彼の囁きを聞いた時、僕はその言葉が終わらないうちに彼の唇に自分の唇を重ねていた。もうその願いを止められる抑制は僕の選択の中に無かった。たとえ彼が兄としての記憶をこれで取り戻してしまったとしても。確信…そう、もうきっとあなたは記憶の中の影を恐れはしないだろう。たとえ思い出して苦悩しようとも、それがあなた自身の存在を脅かすような決定的な影響はもう持ち得ない。僕にはそんな気がした。あの話を聞いてから…
「もういちど…キス…して」
「うん…」
いま彼はその影よりももっと深い孤独の中にいる。死への不安…恐怖…絶望…たとえ治療を放棄して自ら死を受け入れていたとしても、その味が匂いがリアルに襲いかかるそのとき、その瞬間にはどんな覚悟も一瞬でも揺らぐだろう。僕は実際この時のためにいる。このためにそばにいる、あなたのそばに。そんな気がする。あなたが暗闇を手探りじゃなく、明かりを灯して行けるように僕は見送るだろう、その扉のすぐ前まで。
「キスして…」
彼は何度もくちづけを求めた。強く抱きしめ合い、唇を離すと互いの目を見つめあって、そしてまた彼は言う。
「キスして…」
わずかな命の炎を、僕に口移しに注いで。
翌日病院へ向かった。検査の結果はすぐに知らされた。腫瘍が大きくなっていて、脳圧が亢進している…と。朝の吐き気・頭痛が今までもあったのでは、と、院長は彼に聞いたが、彼は首を横に振った。いつ意識障害が出てもおかしくはない。そんな説明を遠くで聞いていた。実感がほとんどなくて、認めたくなかったのか。それを現実だ…なんて。
そのまま再入院の準備を始める。もう帰っては来れないだろう。彼も呆然としていた。ショックもあるのだろうが、軽い意識の低下が始まっているのかもしれない。昨日はあのまま意識を失うように抱き合ったまま眠った。この入院に関しては、まだなにも二人で話してはいない。一人部屋しか空いていないと事務に言われたが、そのほうがいい…と内心思った。話さなきゃ、聞かなきゃ。意識があるうちに、このことを…ふたりで、あなたも僕もまだ話していないことを。まだこれからなんだ。まだこれから…
舞い戻ってきた病室のベッドで、彼はまだ呆然としたようなうつろな顔をしていた。そんな彼は再会してから初めてで、それがどれだけショックだったかを彼のその表情が物語っていた。こんな時こそ僕がしっかりしなくてはならない。そのために僕は此処にいるのだ。彼…死を受け入れたはずなのに…それが彼のあの透明な明るさの原点だったのに。そんな吹っ切れた彼でさえ、それを目の前にしたらこんなふうになるのかと、その痛ましさが僕を苛んでいた。
病院を一旦離れて部屋に帰り、パジャマや下着やタオルなんかを紙袋に詰めていると、それでも僕はこうやって彼を見ていることができるそのことにギリギリで救われてるような、激しい安堵感に襲われた。もし彼が僕に興味を持たなかったら、僕は今頃どうなっていたんだろう? それを考えると心底ゾッとし、そして今の状態が奇跡に思えた。神様は残酷なのか優しいのか、今の僕にはわからないけれど、でも僕は理由もなく、この悲しみと優しさに満ちた日々を、愛しい…と思った。
荷物を抱えて病室に戻ると、彼はベッドに横になっていた。
「おかえり」
寝ていると思っていたら起きていた。
「ただいま。着替え持ってきた」
「ああ…ありがとう」
少し表情がある。ちょっと安心した。
「気分はどう?」
「まあまあ…かな。実家に里帰りした気分だよ」
「嫁ぎ先から?」
「そうそう」
彼は少し笑った。
「お産で実家に帰らせて頂きます。あれはつわりですダンナ様…って感じ」
そんなふうに吐いたことを茶化して、彼はもう一度笑ってみせた。僕を慰めてくれてるのがわかった。僕が慰めなきゃいけないのに。それで、そのジョークに乗った。
「ふざけちゃいけませんよ奥さん。つわりも大変ですよ。いろいろ対策しなきゃね」
「そうだね…話そうか。今後のこと」
彼は微笑みながらも淋しげな顔で、ベッドから僕を見あげた
「うん、話そう。一緒に考えよう」
彼はうんうんとうなずいた。
「いま…なにを考えてるの?」
僕はいま一番知りたいことを最初に聞いた。いつものように、回りくどいことをしている時間は僕達には一切なかった。
「言いたくないことは話さなくていいよ」
彼は再びうなずいて言った。
「ありがとう、じゃあベッド起こそうか」
彼は馴れた様子で身体の位置を変え、電動ベッドのスイッチを押した。
「これで君がちゃんと見える」
「横になっていても良かったのに」
「視野がちょっと狭くなってる」
「えっ…い…いつから?」
「ずいぶん前だよ。引っ越してからだけど」
彼…黙ってた。
「なぜ言ってくれなかったの?」
「言い出せなかったんだ。あの部屋に居たかったから。先生にも言ってない…でも君にバラしちゃった」
彼は寂しげにそう言った。僕は何も言えなくて彼の顔をじっと見つめたまま言葉を探した。
「こんな風に気持ちが変わっていくんだね。先のことは予想もつかないな。私はひとりで気楽に死んでいくつもりだったのに…君に出会って…君を置いていくのが悲しくてたまらない」
窓の外の街の景色を眺めながら、彼はそう呟いた。
「自分が死ぬことは前と変わりない気持ちなのに…君を悲しませるのが…ほんとうに…イヤだ」
それは兄が言ったことと同じだった。“お前がいるから俺は死なない”。
「さっき、着替えを取りに君が帰った時院長に聞いたんだ。私が今からできる治療があるのかって」
「え…ほんとうに?」
僕は驚いた。
「うん…こんなこと相談するなんて思っていなかったよ。どうすれば君と少しでも長く暮らしていけるか…可能性があればなんでもしたいって…そう思えたから」
「い…院長はなんて?」
僕は椅子から思わず立ち上がった。彼は自分の手を見つめて言った。
「…遅い…って」
「そん…な…手術とか…抗ガン剤とか…あるじゃないか…」
「もうそんなステージじゃない。三ヶ月前なら…なんとか手は打てたって。治りはしないけどね…延命程度にはなったかなって院長が」
僕は立ちあがったまま動けなかった。そんなこと、聞きたくなかった。なぜ…だよ…
「君と…暮らしていたかった。そんな人がいてくれて、私は幸せだよ…」
僕は言葉を失った。そんなことを聞かされて正気で居られるはずがない。
「君…」
心配そうに無言になった僕を彼が見上げる。なにか言わなきゃ。何を?
「…ごめん…ちょっと…いま…無理…だ…」
買い物に行くと告げて、ひとりで街に出た。ひとりになりたかった。すこし考えたかった。混乱してるのは僕も彼も同じ。僕がしっかりしなきゃいけないのに。弱っていく彼のすべてを支えていきたいのに。少しでも一緒に居たいけど、今はちょっとだけ時間を貰いたい。心を建てなおす時間を下さい。
僕のために治療をしたいという彼の言葉に驚いて、今もそれが頭に響いて離れない。遅すぎた。なにもかも時が僕達を動かしてる。それが完璧だという事を理解するのはいつも、そのエピソードが終わってからだ。それまでこの悲しみと付き合うのか、そう思うと愕然とする。いまはひとりになりたい。ごめんね。泣いていいかな…もう泣くのはやめようって思ったのに。僕が悲しむと彼が苦しむのに…
チェーンのカフェにふらりと入る。ホットコーヒーを注文して席に座る。笑いながら死を語ってた彼が、僕のために延命を望むことを、それがもう間に合わないことを、心が砕けるような気もちで聞いていた。そんな彼を見ていられないくて、泣きかけた自分を見せられなくて、病室を飛び出して…泣くことしか出来ない僕の涙が、人を苦しめる凶器に思えた。
なぜ悲しいんだろうか? 僕はなぜ悲しんでいるのだろうか? そんな根本的な疑問が生じる。なぜ彼の死はこんなに苦しい? いや…死はなぜこんなに悲しい? コーヒーカップを両手で包む。彼の手のぬくもりを思い出した。あれが永遠になくなるんだ…永遠にもう…戻ってはこない。あの声があの姿がもう二度と、あの笑顔が永遠に失われるんだ。それが僕の悲しみの原因だろう。僕はテーブルの上で泣き崩れた。平日のカフェは人もまばらで、僕が泣いていることを誰も見ていないと勝手に決めて。腕の上に顔を伏せて、震える肩を手で隠して。彼に見せられない涙をここで流しきってしまえばいい。部屋で泣けばいいのに、なんでここで泣いてるんだろう。だってあの部屋には戻れない。今はね。二人で居たのに、ひとりでそこで泣くなんて。いまは…無理だよ…
とりとめもなく頭の中で思いがはらはらとめぐった。僕が彼と一緒にいるのは誰のため? 彼のため? 僕のため? いいや…愚問だね。二人のためだよね。ごめん、早く帰るよ。でも、もう少し待って。
どんな気持ちなんだろう、愛する人を残して去っていくのは。いまなにが欲しい? 僕は何をしたらいい? あなたは何が欲しいの? ねえ…兄貴…
《近況》
いつもご閲覧頂きありがとうございます! さて、久々に『僕を止めて下さい』の方を再開しました。昨日1ページUPしてます。『失われた物語』共々よろしくお願い致します。