病室に戻ると彼は背もたれを直さず、座ったままで眠っていた。待ってたのかな…ベッドの中で座ったまま3時間も人を待つのは辛いだろうに。
「ただいま…横になろうね…」
このままでは身体に負担なので、背もたれを直そうと彼を起こした。
「あれ…寝てた…」
眠そうな顔を挙げて彼が僕を見た。
「目が赤い…」
「あ…いや…痒くてこすった」
「ごめん、泣かせた」
「ちがうよ」
すると彼は僕をじっと見て言った。
「泣くならここで泣いて」
「そん…な…」
「私が悪かった。だからひとりで泣かないで…お願い」
「だって…あなたが…辛くなるじゃないか」
「泣いて帰ってきた君よりマシ」
彼はとても切ない顔をした。
「ごめん…私のせいなのに…せめて慰めさせてくれないかな。まだ生きてるんだから…こうして」
彼はまた泣きそうな僕の手をつかんで自分の方へ引き寄せた。引かれるままに僕はベッドに腰かけ、彼の腕の中に抱かれていた。
「大丈夫だよ。私は、“むこう”はどんな世界なのかなって、ちょっとワクワクしてるくらいなんだ」
僕を腕の中であやしながら、彼はそんなことを口にした。
「むこう…って?」
「あの世だよ。みんないろいろ言うでしょ? あるとかないとか含めてね。知らないことは怖い…でも私は怖さと別にそのことに好奇心があるんだ」
彼の言葉に僕は驚いた。ここまで来て“好奇心”なんだ。記憶が無くても兄が生来の科学者だということを僕は改めて感じた。そして、あの世、なんて言われてるのに、なぜだかさっきのような悲しさを感じなかった。
「もし私が死後“意識”というものを残してたら、君にサインを送るよ。なんか決めておこう…なにがいい?」
それを聞いて僕は思わず言った。
「あのさ…僕…臨死体験っぽいの…したことあるんだ」
「えっ? それほんと?」
彼の声が躍っている。本当に知りたくてたまらないんだ、というのが伝わってきた。
「医者が心停止してたって言ってたから…大間違いでは無いと思うよ」
僕は例のヤク中のときの、ドSの若い客から拷問を受けた時の話をした。
「ああ…君はそんなひどいことに巻き込まれてたの? 整形の先生から聞いた話なんかほんの一部なのか…ぞっとした」
彼は顔をしかめて首を横に振ると、僕をぎゅっと抱きしめた。
「でも、気を失ってトンネルの中に立った時、恐怖はなかったんだ。現実のほうが痛くて不安でたまんなかった。あっちの世界はすごくはっきりした夢みたいな…痛みもないし…静かで平穏だった」
彼は僕の顔をじっと見た。
「君の体験、今の私にはとっても必要だ。もっと詳しく話してくれないか?」
僕はうなずいた。痛みと苦痛で気を失ったこと、そのあと暗いトンネルにいたこと、誰かが手を振ってたこと、それは彼の父親だったこと…
「私の実の父が?」
「うん…亡くなってたからあの世からサポートしてくれたらしい。でも僕の親父はそれを聞いて“兄貴はまだ死んでない”って確信したんだ。もし兄貴がもう生きてなかったらその人に代わって僕を助けにくるはずだろ…って」
「そういう理論も確かにあるかもね。君のお父さんは面白いな! そっか…私の父はもうむこうに逝ってるのか。あっちで会えるかもね…私が覚えていたらだけど」
僕は少し動揺したが精一杯明るく答えた。
「大丈夫。きっと思い出すよ。あなたによく似てるもの。それに絶対迎えに来てくれるよ。僕は追い返されたけど」
彼はとても幸せそうに微笑み、そして僕の頬に何度もキスをした。キスしながら彼は僕に言った。
「あぁ…ありがとう、話してくれて。やっぱり君は私を助けに来てくれたんだね! 私が一番聞きたかったことを君が話してくれるなんて…奇跡だよ…なんてことだろう…」
そして彼は、僕が初めて会いに来る直前まで、死についてずっと考えていたことを僕に話してくれた。
「未知の領域はどこであろうがいつも誰でも不安なんだ。それは多分、全人類ほぼそうだって思う…私にとっても死は未知の世界だ。でも、そこに体験者がいたら、私はその体験談を旅行に行く前のガイドブックみたいにそれを聞ける! そのとき死は喪失じゃなくて、新たな旅の始まりってことになる。まさか君がそのガイドだったなんて…それは…ほんとにスゴイことなんだ。意識は無くならないんだね…驚きだ…驚きだよ!」
彼は噛み締めるようにつぶやいた。
「役に…立ってるんだね?」
「ああ…このうえなく…」
「よかった…よかっ…た」
僕はあまりの安堵感に、それ以上何も言えなかった。
「君は最高だよ…私の天使だ」
悲しみがとけていく。もつれた糸が解きほぐされ、きれいに巻かれていくみたいに。彼が得たこと、僕が体験したこと、そのエッセンスを互いに交換して僕らは次の世界に行こうとしてる。悲しみさえふりほどいて、かつての苦しみの糧が慰めに変わる。彼の凄惨な体験の昇華が僕の空虚に光を与え、僕のあの薬漬けの日々さえ、彼の苦しみを和らげる魔法に変えてしまう。ああ、なんて、この世は愛しいんだろう…
それから少しして、彼はよく眠るようになった。朝に吐く頻度が増えた。痙攣の発作も。脳圧が上がってると院長が言った。ステロイドが処方され内圧を下げる。楽になると彼は言う。会話が減ってきている。院長に僕だけ呼ばれて話を聞いた。覚悟しておいたほうがいい…と、そのことだった。ゆっくりと…でも確実に、彼の身体が旅立つ準備を始めた。
毎晩キスして帰る。次の日にはもう往ってしまうかも知れない。彼と僕が毎日を悔い無く過ごす。もうそれしか考えられなかった。
僕は実家に電話した。彼がまだ意識があって話せるうちに両親に会わせたかった。電話で兄がもう長くないことを母に告げた。無言になった母の電話を、ずっとそのまま聞いていた。
「すぐに…行くわ…お父さんと」
最後に母はそっとそう言った。
「わかった…待ってるよ」
僕がそう言うと母は電話を切った。
次の日には電話があり、親父が臨時に休みをとってすぐに来るという。彼にそれを伝えた。
「ありがとう。さすがだね。私もお願いしようと思ってた」
彼は窓の外を眺めた。
「ふたりともほんとはいつでも来たくて…でも、僕にその心を託してくれてたんだ。いわば僕は全権大使みたいなもんだよ」
「君に心を開けて私は良かったって思ってる。両親には悪いことをしたな…でも…君を通して彼らにもつながってる…きっとね」
彼は僕の手を取った。
「こうやって私はどうにかつながれる。私は記憶の視覚障害者のようだな。親密さが見えない…どこにいるかわからない。でも君に手を引かれて想像する…私は…愛されてたのかなって…ね」
彼は淋しげな顔をした。
「自分の子供に他人のように扱われて、二人も辛いだろうに。でも…どうすることもできない…」
僕はその言葉が辛くて、思わず彼をベッドの上で抱きしめた。
「いいんだよ! あなたが幸せそうに笑っていることが、親父も母さんもいちばん嬉しくて安心するんだ。それが記憶より何より…嬉しい…僕だって…そうだよ」
「君は……君は…」
彼は僕をぎゅっと抱きしめた。
次の日の朝、病室のドアをノックする音がした。ドアが開くと母が部屋を覗いた。僕と目が合うとニコッとして言った。
「おはよう、来ちゃった」
「早かったね…おはよう」
彼のベッドを離れてドアに向った。母の後ろに父が立っていた。
「おーす」
父は照れくさそうに片手を挙げた。
「運転お疲れ」
「まあな」
「兄貴…いまうとうとしてる」
母が心配そうに尋ねる。
「いいの?」
「うん、いいよ。二人が来るの待ってたよ」
「そう…良かった…」
「こっち来て座ってよ」
僕はパイプ椅子を2つ出して、ベッドの横に並べた。
「さっきまで起きてたんだ」
僕がそう言うと、母は唇に人差し指を当て、シーというしぐさをした。
「起こさないであげて…」
母は彼に聞こえないように僕の耳元で囁いた。母はベッドサイドに立ち、彼…兄の寝顔を覗き込んでいた。その母の顔はとても幸せそうに見えた
「しばらくこのままでいいわ」
ふりむくと母はそんなふうに言った。
「お兄ちゃんの寝顔を見てる」
「いいの?」
「ええ…いいのよ」
母は微笑んだ。
「これがいいの」
僕は父を見た。父は静かにうなずいた。僕は缶コーヒーを買いに病室を出た。誰もがいちばん良い兄との距離をお互いに模索してた。その意味では兄が失踪する前とあまり変わりはしなかった。唯一変わったことは、兄が幸せそうに笑っていること。だが、その変化は僕らがずっと心から思い続けていた願いだった。
それからしばらくして、父と母は昼食を摂りに行った。僕は病室で彼の寝顔を見ていた。少しして彼がうっすらと目を開けた。
「…ん」
「目…覚めた?」
「ああ…なんか…話し声がしてた?」
「うん。聞こえてたの?」
「なんとなくね」
「親父と母さんが来てる」
「あ…そうなんだ。起こしてくれればよかったのに」
「母さんが起こすなって」
「そうか…悪かったね」
「いいんだ…母さんは寝顔が見れて幸せそうだったよ」
「まさか…もう帰っちゃったの?」
「ううん、いまお昼食べに行った。すぐ帰ってくるって」
「そっか。ならこのまま起きていよう」
「そうだね。そろそろ僕達も昼飯だ」
病院の昼食が運ばれてきた。彼はもうそんなに食べないので、僕が余りを食べてそれで終わる。配膳が始まる時間の独特の匂い。僕はこれがあまり好きではない。
「ごめんね…いつも残りで」
「あ、いいよ。そんなに沢山食べても太るだけだし。それにほとんど僕に回ってくるじゃん」
「君、太るタイプかなぁ」
「クスリで身体壊してから、なんか食欲が控えめでさ」
「それ、いいのかな?」
「特に病気とかになんないからいいんじゃないの?」
そんな話をしているとまたドアにノックの音がした。
「ただいまぁ。あ…起きてた!」
母がまたドアからニュッと顔を出した。起きている彼を見た顔がほころんだ。
「こんにちは」
彼…兄が二人を見て挨拶した。
「あなたたちご飯中だったのね」
「いいよ。もう終わるから」
僕は口にご飯が入ったまま答えた。
「ゆっくり食べなさいよ」
「これっぽっちだよ。ゆっくり食べる量じゃないし」
「わりと美味しそうねぇ。私が胃潰瘍で入院してた病院より良さげだわ。切り干し大根煮てある。美味しそう」
「うん、わりと味は良い。薄味だし。母さん、胃はもう良いの?」
「だいぶ良いわよ。食べ物が美味しそうに見えるもん」
「…っていっても、前と同じじゃねぇなぁ」
珍しく父が間に入った。
「食う量がほんと減ったよな」
「おかげでダイエットよ」
「俺が逆に太ったんだわ。作るオカズの量変わんねーんだから」
「それはお酒です」
「でも調子が良くなって良かったですね」
彼が母に敬語で話しかけた。それでも母は嬉しそうに答えた。
「この子があなたと一緒に暮らし始めてからよ。安心したからだわね。定期メールで様子もわかるし」
「ありがとう。無理言って一緒に暮らしてもらって…お二人にもいろいろしてもらって…今日も遠くから来てくれて…感謝してます」
「いいのよ、したいことしてるんだから。勝手にやっちゃいますよ…迷惑でもね」
「ごめんなさい…ほんとに…ごめんなさい…私の記憶が無いばっかりに本当につらい思いをさせて…」
彼はためらいながら母に言った。
「もう…いいのよ、そんなこと」
「私は…みんなに何もしてあげられない…できることが…ないんです」
彼はまた申し訳なさそうにそう言った。その言葉がとても切なかったが、同じようにそれを感じた母がニコニコしながら彼に答えた。
「残念ながらなにかしてもらおうなんて考えてなかったわよぉ! 勝手にこっちがしたいのよ。なんでもしてあげたいって…でも私達もあんまりできることなくってね…けっこうツライわねぇ、こういうの」
「それはお互い…ツライですね」
彼がポツリと言った。本音ではあるが、それを聞いて母はプッと笑った。
「そうよねぇ、ただ気持ちを伝えたいだけなのにね!」
「そう、ですね。でも…彼が私にあなたがたの分まで伝えてくれてます。彼にはほんとに感謝してるんです…私は救われてるんです」
すると父が口を開いた。
「おまえも一緒にこいつを育ててくれたんだぞ。一生懸命可愛がってくれて…色々あったけどこいつは馬鹿正直で優しい人間に育ってくれたのは間違いねぇ。オレは兄ちゃんには感謝してるよ…ほんとだぜ」
それを聞いて僕はどうしようもなく胸に込み上げるものがあった。そうなんだ。結局僕は愛されてたんだ。あの夢の記憶の中の父と兄が浮かぶ。でも僕は愛されてた。誰にでも限界はある。若い父と狂った過去、それでもギリギリの選択の中で僕はみんなに必死で愛されてた。涙が溢れてくる。みんなの前で泣くのは嫌だったけど、それはもう止められなかった。
「トイレ行ってくる…」
そう言って僕はバタバタと席を立った。トイレで泣こう。泣きたいだけ泣こう。親父のバカ。