そしてゆっくりと、目に見えない季節の変化と一緒に、ゆっくりと彼の命の形も変わっていった。秋から冬へと移行する季節は葉が落ち肌寒くなり日が短くなり、それに呼応するように彼の意識のレベルが落ちていった。長くなった睡眠の間に目を覚まして、彼は不思議そうにつぶやく。
「ここは…どこかな…?」
僕はそのままを説明する。
「病院に入院してるんだよ」
「…そうか…暗いね…明かりをつけて欲しいな」
そう言われると胸がキュッと縮む。もうあまり見えてないのだ。これもだんだんと進行してきていた。
「もう夜だから…消灯するんだよ」
まだ夕方でもそう答えてしまう。少し前までは視力が落ちているのを、彼自身がそれなりに理解していた。だが最近は記憶や認識の低下が大きい。僕のことも認識しているのかしていないのかよくわからない時もある。でも「君は誰?」とは言われない。だが彼がいまどんな意識状態なのか、それを知るすべはなかった。僕たちに気取られないような速度で、彼は向こうに行く準備をしている。密やかに、でも確実に、僕たちを驚かせることなく。
そうしているうちに、眠る時間はちょっとづつ長くなり、彼はいつの間にかほとんど昏睡状態になっていた。ごくごく自然に訪れたその状態に、僕はそれを泣くこともなかった。静かな時間と感情が淡々と過ぎていった。それはいつの間にか暮れた秋の夕暮れのようでもあった。
そのころから母は僕と一緒に、彼と住んでいたマンションに暮らすようになっていた。淡々と過ぎる時間の中に母も静かに加わった。僕と母で交代で彼を看るようになり、母の作ってくれる手料理を僕も食べられるようになった。食欲だけが日々なくなっていた時に、母は僕のことも看ていたのだろう。そこに気づいて僕は、本当の母の強さを見た気がした。
彼の夜中の付き添いも、母と僕で交代になった。疲れていないようでも、独りで部屋に居ると椅子に座ったまま寝ていたりする。明け方暗いうちにふと目覚めて、ああ…ここで寝ちゃったんだな…とかぼんやり思いながら、少し覚めた頭で彼のことを考える。いつか来るその時には、きっと彼の父親が迎えに来る。そのことは今の僕に、苛立ちでなく安らぎを与えてくれる。あんなに嫉妬して恨んで、殺したいほど憎んでいたあの男が、今の僕には天使の代わりなのだ。祈る必要もないほど僕には確信がある。そうだよ、それくらい彼に償ってくれ…と、少し意地悪な気分にもなるけど。
死は良いものでも悪いものでもない。この世に未練を残す人もいれば、この世から解放される人もいる。どう生きたかがその時死を彩る、そんなふうに思った。クスリで苦しみぬいて気を失った時、僕は意識だけになっていた。精神の崩壊もなく禁断症状も消え、穏やかな静寂だけがあった。それが彼にもおとずれる。記憶も何もかも取り戻して、それでも最後の僕との生活を幸せに思ってくれるだろうか。思ってくれるね…きっと。
遠くで何かが聞こえてる。なんだろう…眠すぎて朦朧としている。聞いたことある音だよね…そう思いながら不意に現実に戻った。いつもの通りいつの間にか寝ていた。どうやら携帯が鳴っている。こんな時間に。深夜と明け方の間の、いちばん暗い時間だった。ハッと我に返った。病院からだ。それしかない。慌ててテーブルの上の携帯を取る。母からだった。それは多分彼のことだろう。思った以上に携帯を持つ手が震えた。
「なんかあった?」
「お兄ちゃんが痙攣の発作が出て」
「すぐ行くよ」
「早く来て。危ないかも知れないって…先生が覚悟したほうがいいって。あと…2…3日かも知れないって…」
「わかった。母さん、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「じゃ…今からすぐ出るから」
深夜タクシーに電話する。病院で教えて貰ってた。この時間がいちばん、向こう側に近いから…と。
病室に到着した時には、彼の痙攣は治まっていた。点滴のチューブが彼の腕に1本だけ繋がっていた。母の顔も思ったより落ち着いていた。優しい母がそれよりも優しい顔して、パイプ椅子に座ってじっと彼の眠ってる顔を眺めていた。
「おつかれ…お兄ちゃん落ち着いてるわよ…」
病室に入ってきた僕を見上げて、母は微笑んだ。
「どんなだったの?」
「うん…急に全身に痙攣が始まってね。3時くらいかな…先生呼んで痙攣止める注射して…すぐ治まった。それから点滴始めて…中に痙攣止めの薬入ってるって」
「そうだったんだ…驚いたでしょ、母さん…前にも1回あったんだ」
「そうなの…? でも早く治まって良かった」
「うん。僕も安心した。替わるよ…家で少し寝たら? タクシー、待っててもらってるから」
「ありがとう…そうするわ…」
あと2、3日という話は彼の前ではしなかった。意識がないように見えても耳が聞こえてることがある。母を玄関まで送る。
「これに乗って帰ればいいよ」
「ありがと。じゃ…あとお願いね」
「うん…なんかあったらすぐ電話するし」
「うん…あなたも無理しないでね」
「わかってる」
見送って一人で病室に戻った。落ち着いてる彼の横に座り、眠っている顔を母のように眺めている。ほんとだ。信じがたいくらい優しい気持ちになれる。生きていてくれればいい…母は以前兄にそう言った。でもその条件さえ今はもう無い。死さえ、許されてるんだね。そうだね、生きなきゃいけないのは苦しくてツラい。誰かから死を許されたら…生きていくのがもう少し楽でいれるかも。いつも兄は僕の先に立つ。
(お前に楽に生きて欲しいんだよ)
そう言ってるみたいに、こんな風に意識さえ無くしても僕になにか大事なものを与えようとしてくれる。記憶すら無くしても、僕をそのまま愛してくれたように。
歌うように、微かに風、そして雨
明け方に冷たい雨
でも窓を開けてみる
黒い雲の隙間にわずかに、朝の光
東はまだ雨に濡れてない
言葉もなく言葉のない会話、あなたに
振り向くとほんの少し、微笑んでる気がする
ああ…伝わってるんだ
胸の中に込み上げるもの
でも静かに穏やかに
それなら
彼にキスした。唇の温かさ、それが答え。幸せなんだ。こんな中でもそんなふうに思えてしまうんだ。僕が変なのかな? でも、それでもいいかな。
そしてその数日後の明け方、彼はひっそりとあちらへ往った。
母が病室の簡易ベッドで仮眠を、僕がマンションの部屋で寝ている隙に、まるで猫が最後に独りで行くように、彼は誰にも看取らせずにこっそり往ってしまった。泣き虫な母も僕も、不思議なくらい泣かなかった。それを知らされた時も、身内だけの葬儀の時も、実感がないからなのか、それとも…
火葬場での最後のお別れで、僕らはその時だけ涙を落とした。それでもそれは悲しみよりも、兄の壮絶な人生が、最後に平穏の中で終わったことへの、兄に対する労いと感謝の思いの涙、だったように思えた。
「魂って…抜けちゃうのね…」
火葬場の待ち時間の間、施設のラウンジで赤い目をした母がポツリとそうもらした。それは僕も兄の遺体を見てなにか不思議な違和感を感じた、そのことと同じことだったように思う。
「そうだね…抜けるとそれってもう…兄貴じゃ無くなっちゃったような気がして…不謹慎かも知れないけど…残ったものはただの容れ物なのかなって…僕不思議でさ」
それが臨終で僕達を泣かせなかった、本当の理由かも知れなかった。いちばん憔悴し、ずっと泣いていたのは、父だった。今頃あちらの世界では、容れ物を抜けだした自由な兄が、実の父親に出迎えられて、僕の話が本当だったんだと思ってる頃かも知れない。ついこの前お前を助けるために、あの子を現世に送り返してやったんだぞ、とかアイツが道中言ってたらちょっと頭に来るな。うちの親父がどれだけお前のせいで苦労したかわかってるのか。でも、それでも親父は悔しそうに再び言うだろう。「あの馬鹿野郎がこの世に居なかったら、母さんとは逢えなかったんだ」と。独り離れたラウンジのテーブルで、缶コーヒーを握りしめながら茫然としている父を見ながら、僕はそんなことをぽつりぽつり思っていた。
ほんの少しの親戚の参列者の中に、初めて会う男性がいた。それが母の従兄弟、あの従兄弟だった。式の始めからたびたび母を目で追っているのがわかった。母に似ていた。それだけにあの人の面影がほんの少しあった。あの人の父親の方に似ていた。あの人より年が近いからだろうか。若ければ母やあの人にもっと似ていただろう。兄の父親が執着したように。でも今の母の従兄弟は人生の年輪を重ねて、僕にとっては過去の残像のようだった。
「久しぶり」
母が淋しそうに微笑んでその従兄弟に話しかけた。ようやく話せて、でも困惑したような顔で従兄弟がうなずいて、後ろの僕に気づいたみたいだった。
「彼が…?」
「そう…あの子の弟」
「大きくなったね」
「あなたの結婚式以来だったっけ」
「そうかもな。あの時はまだ1歳くらいだったかな」
「きっとあなたのこと覚えてないわよ…でしょ?」
母が振り向き、いきなり僕に話を振ってきた。
「あ…う、うん。あ、ごめんなさい、覚えてません。えっと…はじめまして…じゃないんですよね…お久しぶりです…では変かな」
見覚えのない再会に少々僕はとまどった。過去のエピソードを知ってしまっているから尚更だった。従兄弟は母を諦め結婚していたらしい。その結婚式で幼い僕は会ってたことを初めて知った。知ってるのかな…いろいろと。それとも母は何も言ってないのかな。でもそれももうどうでもよかった。兄の葬儀でこの人に会う。そのことがなにかひとつの終焉の儀式みたいに思えた。
「あの人も病気で亡くなったのよ…3年前…だったかな…」
「そう…だったのか」
従兄弟が不意を突かれたようにそう言って、言葉が途切れた。
「ごめんね…あなたに知らせなくて。いろいろあって…わかってるわよね」
「…いいよ…もう忘れたことだ」
「亡くなる前に…会いたかった?」
今まで聞けなかったことを、母は聞いたんだなと思った。
「いいや…アイツとは…もう切れてた。俺にとってはあの頃の思い出の中にしか…アイツはいないんだ」
「そう…そうね…」
淋しそうに母は呟いた。
「我々は、すれ違い過ぎたよな…取り戻せないくらい。でも…」
「でも?」
「夢のように楽しかった…あの日々は俺の中で特別なんだ…今でも」
「そうね…それは私もよ」
僕はそっと目を閉じた。若い母たちが目の前に浮かんだ。夢の名残りが僕の前を淋しげに通りすぎていった。その特別な若かった彼らの日々がこの物語すべてを、僕までもを産み出し、そして去っていった。兄の抜け殻が燃えている間、彼らの夢の抜け殻も風に舞い紛れて消えていったような気がした。
次回、最終回です。いつもご閲覧頂きありがとうございます。