その瞬間兄の手がカミソリの歯を素手でつかんでいた。飛び込んできた兄の勢いで僕たちはもつれあい、そのままベッドに倒れこんだ。
「バカなことするな!」
兄は僕の手からカミソリをもぎ取り、キッチンに投げつけた。ガランガランとシンクに金属の当たる音が響いた。
「うわあああぁぁ」
僕は叫んでいた。兄を振りほどき、僕はベッドから転がり落ちキッチンに突っ込んで行った。兄は間髪入れずに僕を後ろから追った。
「やめろっ!」
シンクの中のカミソリを取ろうとして手を伸ばした瞬間、追い付いた兄がもの凄い力で僕を後ろから羽交い締めにした。
「やめてくれ! 頼むからやめろ!」
「兄貴には僕を止める権利なんかない! 僕に死ねって言ったくせに」
「そんなこと言ってない!」
「言ってるんだよ! 分からないの? 僕に死ねって…僕から全てを取り上げるって!…兄貴を僕から取り上げるって!」
僕はシンクに手を掛けたまま床に泣き崩れた。
「兄貴…僕もう涙が涸れちゃうよ…ずっと泣いて…泣いて…ずっと泣いてばかりいるんだよ…もう泣きたく…ないんだ…」
なんでこんな悲しいことばかり。涙がキッチンの床にボロボロとこぼれおちた。
「血を…血を止めなきゃ」
兄がキッチンの横にかかっていた。タオルを取り僕の手首を縛った。兄がカミソリを取り上げたせいで僕の傷は動脈から逸れていた。兄の手の平も切れて血まみれだった。僕の嗚咽は止まらなかった。兄の愛から切り離される悲しみが全身に満ちていた。
「うっ…う…ううっ」
慟哭とはこういうものなんだと僕は思った。シンクの縁を握った手が痺れて、切った片手がシンクから滑り落ちた。
「な…んで…なんで分かってくれな…いの? 僕が大事なものを知らないの?…僕の人生よりも大事な人を取り上げるの? 僕より…僕自身より大切なものを…僕から奪うの?」
兄は僕を後ろから抱きしめながら静かに答えた。
「…お前はまだ高校生なんだ。お前はまだ知らない事がいっぱいある…お前はもっと経験するべき事が山ほどあるんだよ。俺だけを見てたら気づけないことがお前の未来には広がっているんだ…お前は本当に優しい。泣きたくなるほど優しい。壊れた俺を救おうと自分を全て犠牲にして俺を愛してくれたんだ。最低の人間をお前は恨むことも憎むこともなく、精一杯の優しさで受け入れてくれた。俺は悪夢の中に生まれたけど、天使はどんなところにも…地獄にも救いに来てくれるんだと…お前のおかげではっきりわかったんだ」
兄は僕を強く抱きしめた。そして僕の耳元で囁いた。とても優しい声で。
「ねぇ、聞いて…お前が俺を親父のいる病院に連れて行ってくれた時、俺は親父を初めて許そうと思った。俺はあの時初めて親父が最期に俺を愛そうとしているのを知ったんだ。だまされてひどい目にあった俺のことを本気で…本気で心配して…あの親父がだよ…悪魔が俺を初めて親として…欲望の捌け口ではなくて息子として心配してくれたんだ。俺はお前のおかげで初めてあいつの“息子”になれたんだ」
兄は僕に話し続けた。
「まだ全てを許せるわけじゃない。それでも俺は…ようやくあいつの死を静かに見守ってやれる。俺があいつを死に追いやったという罪悪感は少しマシになった。人は自分のした報いというものがあるんだと…あの時親父は言った。ここで死ぬのは当然だと」
泣きながら僕は、あの日以来兄が閉ざした心を開いた理由がわかったような気がした。
「そして俺も…罪に報いなければならない」
シンクをつかんだ僕の手首を兄は掴み、そっと外した。
「お前を解き放つんだ…俺から」
そして兄はわずかに微笑んだ。
「俺はこの部屋で死を望んだ。親父への憎しみと絶望…お前から奪った人生の報いとして。俺はそれを決めたはずだったのに、あの日…クリスマスの日お前に逢いに行ってしまった。俺が家に帰って起こした発作は、お前を抱かないようにするための無意識の抵抗だったかも知れない。だから俺はあの発作が辛かったけど、どこかで安堵していたんだ…」
兄はそう言うと、大きく息をついた。その息は少し震えていた。
「でもね…親父に逢いに行って俺は、あいつを許しかけた途端心の鍵が外れかけてしまったんだ。止めなきゃとどんなに足掻いても身体が止まらない…お前に飢えてて…もう…タイムリミットはとっくに越えてるのに…俺はまだお前に甘えていた。お前が俺をまだ求めていることが辛くて…愛しくて…俺は狂ったようにお前を抱き続けてしまった。俺のしてることはあまりにも裏腹で…俺は自分のしてることに寒気がした…」
兄の言葉が優しければ優しいほど、僕は肩を震わせて泣き続けていた。
「この部屋…お前が見たいという願いを聞いた時、俺はお前だけには此処には来て欲しくないと思った。前に言ったよね…この部屋は俺の処刑場…俺の墓場だから。だけどお前に俺の思いを聞いてもらうために、俺がお前を手放しお前を自由にするために、俺はこの部屋に来ることを選んだ。
そしてそれを、お前に伝えるために」
兄は泣きじゃくる僕の頬を血まみれの手でぬぐった。
「俺の手じゃお前の涙をぬぐっても、お前が血で汚れてしまうだけだな」
兄はいつもの笑いかたをした。諦めと、自分の愚かさに呆れるわずかな微笑み…でもその血は僕のせいで流れた血なのに。
その血を見つめながら、僕は慟哭の中でで教会のイエスを思い出していた。イバラの冠、裏切りと過酷な運命、そして磔の十字架。すべての罪を僕らの替わりに背負ったと神父は言った。だけど僕にはあの十字架の血を流したイエスの姿が、どうしても兄そのものに見えてならなかった。僕は一度として犠牲なんか感じたことはない。僕は愛された。僕はただ愛された。だけど兄こそが犠牲と血の中にいた。
兄を僕に返してくれたのは悪魔じゃない。僕は天に祈ったんだ。血を吐くように歌ったんだ。もしこの世に神がいるのなら、僕の兄を僕に返してくれと。その祈りを叶えてくれたのは、神。そう、それは神だ。あの光…あの…光。僕に見せてくれた天の光。兄を照らしていたあの…光…
僕は顔を挙げた。兄の瞳を見つめると僕は兄に問いかけた。
「宇宙に背くつもり?」
その僕の声は、その時僕の頭上から響き、語られたかのようだった。兄は目を閉じた。
「宇宙は完全だ…だから俺は、お前を解き放つんだ」
その言葉に僕は答えた。
「兄貴…決めるのは宇宙だ。僕でも…兄貴でも…ない。もし…宇宙の完全性ではなく、それが罪と罰による答えならば…」
僕の声はもう、僕のものではなかった。
「…それが悪魔の業だ」
その時、突然兄の携帯が鳴り響いた。僕たちはその音がまるで何かのアラームのように聞こえ、二人で何かを察したように同時に顔を見合わせた。兄はあわてて脱ぎ捨てたコートのポケットに手を突っ込み、携帯を取り出して開いた。
「はい…」
兄の顔色がサッと変わるのが僕の目からもよくわかった。病院だ。僕は兄のことが心配で、急いで兄の横に張り付いた。
「ええ…はい…そうですか」
兄の声は緊迫していた。
「はい…わかりました」
兄は携帯を畳むと、急いで服を着込みながら僕に言った。
「親父が吐血した…三回目だ」
「三回目って…」
「今から病院に行く」
兄は再びコートのポケットに携帯をしまった。コートには兄の手の平ににじむ血が、ポケットの当たりに染み着いてしまっていた。
「わかった…兄貴…手」
僕はジーパンのポケットからハンカチを出した。
「手…出して」
「あ…ああ」
僕は兄の手をハンカチで縛った。
「ありがとう」
「違うよ…僕のせいだ…ごめん」
冬の凍った夕焼けに押されて兄と僕は病院に向かい、その部屋をあとにした。
僕らが病院に着く頃には冬の短い日はとうに暮れていた。僕達は三階のナースステーションで彼の状況を聞いた。彼の主治医が呼び出され、簡潔な説明が兄になされた。今回の出血は食道静脈瘤破裂。先程止血処置を行ったが、出血が多く意識は混濁している。今夜が山だと。彼の出血は今までで一番多く、1リットルに近い血液を失った。今彼はICUに居て輸血と点滴を受けている。少しだけ意識が戻りかけているから、家族は面会しなさい、とのことだった。
彼はいま生死の境をさ迷っている。僕に「また来い」って言ったのに。僕は彼と話をしなければならなかったのに。
「面会に行くよ」
兄は僕にそう言い、担当のナースに面会を依頼した。僕たちはICUに案内された。身体を滅菌され、面会用の白衣と帽子を着けて僕たちは病室へ入った。
彼は血圧計や点滴のチューブの中に埋もれていた。兄はベッドの上の彼の手を取った。彼はうっすらと目を開けた。彼には兄がわかったようだった。彼の目に涙がみるみる溜まり、目の端からあふれるのが見えた。
「親父…苦しくないか」
兄は彼の耳元で言った。彼は首を横に振り、そしてゆっくりと口を開いた。
「…俺はずっと…お前の心にすがっていた…空っぽの…壊れた俺を支えられたのは…お前だけ…だ…」
彼は苦しい息の下で兄に語りかけた。
「俺は幸せだな…お前に看取られて死ねる…こんな最低の人間には…見合わない幸せだ…」
彼は僕に気づいた。
「…お前はあの子を天使と言ってたな…俺もそうだ…お前が天使だった…俺はそれを…"死"に教えられた」
それを聞いた瞬間、兄は膝から崩れ落ちた。床に崩れたまま顔を伏せた兄の嗚咽が聞こえた。その音の中で彼の父は言った。
「死は…優しいな…死にかけて自分の本当の気持ちに気づく」
彼は微笑んだ。
「そして…伝えら…れる」
兄は彼の耳に顔を近づけ、嗚咽の中で囁いた。
「全部…許してるよ…父さん」
子供の頃に彼を呼んだように、父さん…と兄は彼を呼んだ。
「愛してた…ずっと」
すると彼は僕を見上げてフッと笑った。
「君…こいつ…たのむ…」
そして彼は兄の目を見上げ、すぐに目を閉じた。彼は静かに話すのをやめた。
「父…さん?」
医師が飛んできた。血圧計が異常な低下を示していた。
「父さん!?」
「心拍数低下」
ナースが僕たちを後ろに下げた。兄は口を手で塞ぎ、必死に嗚咽をこらえていた。医師が処置を施す間もなく彼の心拍数が0を示し、波形が完全に平坦になった。医師がナースに告げた。
「19時12分」
彼はベッドの上で静かに微笑んでいた。
おお死よ
わたしを揺すって眠らせておくれ
私を静かな休息に運んでおくれ
疲れてメッキの剥げた私の霊を
私の大切な胸から運び出しておくれ
弔いの鐘をならして
悲しげな響きをわたしのために流し
その音がわたしの死を告げるように
わたしは死なねばならぬ
処方はないのだ
そう今わたしは死ぬ…
でも…と、僕はその時なぜか思い巡らせていた。なぜ彼は空っぽだったの? なぜ母さんと結婚したの? なぜ死の間際まで気がつかなかったの? 兄を愛してたことを…
なぜ、なぜあの人はこんな人生を選んだの…と。
すべてのはじまりのなぞをのこして、彼は旅立って行った。兄がこちらを振り向かずに言った。
「ひとりに…させて欲しい…今夜だけ…」
今夜だけ。僕は返事の替わりに兄の手を握り、ひとり病室を後にした。降るような星の下をバス停に向かって歩いた。手当てをし忘れた手首の傷が、切なく疼いた。
彼の死は兄からの電話で、翌日母の知るところとなった。
彼には姉が一人いて、彼の遺書を預かっていた。彼の死の際には病院からその人に連絡が行くように手配されていた。葬式もせず彼の姉と彼の息子の二人きりで密葬してくれと。兄はそんなことをかいつまんで母に話したらしい。
僕はその日、いつもより静かな母の側で、一日彼女を見守るように過ごした。どんな思いが母を駆け巡っていたか僕にははっきりとはわからなかった。だが母の複雑な悲しみが、沈黙の中から伝わってくるようなそんな気がした。
兄は二日間帰らなかった。家はその間いつもよりしんとして、まるで喪に服しているような、そんな時間を僕たちは過ごしていた。
僕の手元に一通の手紙が届いたのは、あの別れの寒い夜から二日経った、兄のいない休日明けの午後だった。学校から帰った僕の机の上に一通の茶封筒が乗っていた。宛名は僕の名前だったが、差し出し人の名前はなかった。僕には普段切手を貼った封書などほとんど来たためしはない。僕は何か不穏な思いを覚えながら、その封筒を開いた。
それは死者からの手紙だった。
『前略この前は本当にありがとう。この手紙を君の兄に見せるかどうかは君の判断に任せる。君も知っている通り、私の命はそう長くない。君が来てくれるのすら間に合わないかも知れない。だから手紙として書くことにした。書く体力があまりないし、いつ何時出血が起きるかわからない。この手紙も生きているうちに君に届く保証はない。手短に話す。あいつを陥れたのははっきり誰かはわからない。だがあいつに私の吐血と入院を知らせなかった人間がいる。呆れないで聞いて欲しいが、その男と私はつい最近まで肉体関係にあった。私の愛人のような関係の者だ。彼がその日私の部屋に来ていて、吐血の介抱をしてくれた"知り合い"だ(と君に話したと思う)。私は彼に伝言を託したがそれはあいつに伝わらなかった。彼とあの日会っていたのは、人生の最期にするべきことのために彼と別れ話をしていたからなのだ。自分でも驚くが、その者とのただれた不誠実な関係を死に際に持ち込むことはその時の私にはどうしても無理だった。君の兄…私の息子に対して私が行った非道な仕打ちを死ぬまで謝罪し続けなければならないからだ。私には自分をあいつの親と呼べる資格などない。だが人生の最期に私がしなければならないのは息子への贖罪だ。あいつに許して貰おうとは思わないし、むしろ憎んでくれたほうが私の死を悲しまないでもらえる。だがあいつは私の命が長くない事を知り私の贖罪のために私との時間を作ってくれたのだ…』
手紙は何枚にもなっていた。僕は夢中で文字を追った。
『…私はその者とようやく話のケリをつけたが、その事の負担により吐血したのだと思う。話し合いが長引き、私はその者が私に対して思いがけない執着を持っているということがわかった。到底愛情で結ばれているとは思えないような互いの関係だったはずが、その者は私とは違う感情を私に対し抱いていたのだと知った。だが私は自分の決意を通した。しかし息子はあの男と別れた日を境に私の元へ来なくなった。私が書いたメモはなぜ消えたのか? 私は吐血した直後に救急車が来るまでの間倒れながら自分で書いたメモをあいつに分かるように玄関の目に着く場所に置くようその者に頼んだのだ。彼は承諾しそのメモを持って玄関に向かった。その後は私は意識不明となり、気づいた時には病院のICUにいた。だがあいつはあのメモを見つけなかった。私は息子に再び捨てられたと思っていた。しかしそれは当然だとも私は思った。あいつは一度ならず何度も、いつものように我慢して私に付き合ってくれた。むしろ一度でも会えたことに感謝せねばならないと思った。だが君が来てくれたおかげで事実が明るみに出たのだ。犯罪が行われたという恐るべき事実が。状況、タイミング、そして動機、この事件にその者が関わっているとしか思えない。残念だがそれ以外考えようがないのだ。この事件が彼の仕業なら、私は死んでも息子に詫びようがない。この事は直接あいつには言えないが、君はうまく判断してくれると信じている。手掛かりはその者の連絡先だけだ。番号を別紙に書いておく。私では連絡がつかない。ただ危ない事はしないで欲しいのだ。少しでも君らが今後あるかも知れない危険を回避すること、それに役立てて欲しい。君には本当に感謝している。あいつの傷をどうか癒して欲しい。ではまた生きているうちに会えたら、幸せに思う』
最後の便箋に携帯の番号が一行書いてあった。090-××××-◯◯◯◯。僕はそれを見て、妙な既視感に捕らわれた。どこでそれを見たのか記憶にないが、確かにそれはどこかで見掛けた番号だと思った。どこだろう…? にわかには思い出せない。あり得ない既視感に寒気がした。僕は手紙を机に広げたまま椅子に座りこんだ。この二日の心身の混乱に追い打ちをかけるかのような、あの世から送られてきた手紙。彼のいい知れぬ不安が僕にも伝染してくる。兄はもう真相など追ってはいない。兄は自分の業としてその仕打ちを受け入れてしまってるように思える。それ以上にあの地獄のような日々を思い出すことが苦痛なのかと思う。
だけど…
僕にはこの手紙が不安でならない。見えない火種がまだくすぶっているような、言葉に出来ないこの感覚。しばらく止まっていたパニックが再燃しそうな不安感。これを兄にどうやって伝えるんだ? 僕は途方に暮れた。
『…君の判断を信じている』
彼の手紙の言葉が響く。でも全く自信がない。だって僕のやることは暴発の連続だ。策なんてないんだ。手首が痛い。カミソリが切れなかったのか、兄が止めるのが早かったからか、予想外に傷は浅く、だが長く…痛い。もしかすると兄の傷の方が深い。いつもそうだ。僕のために僕より深く傷を負う。それが堪らなく苦しい。
その時僕は唐突に、この寒気と不安の出所が何か悟った。悪意だ。
あの時彼の話を病院で聞きながら、僕は偶然ではない意図された悪意をひしひしと感じていた。あの時の感覚と同じだ。僕はもう一度この電話番号の記憶を辿ったが、その時はまったく思い出せなかった。