プロローグ やってきた男の子
それは、彼女が自室の扉を閉めた直後のことだった。
「ゆぅ~りちゃんっ!」
「――きゃっ!?」
突然のことに少女――
百合が背中に感じるのは、
いや、健太に『抱きついている』つもりはないのかもしれない。
背中越しに回された両腕、そこに込められている力の強さを思えば、その行為は『しがみつく』や『すがりつく』と表現したほうが正しいような気がする。
なぜだか百合は、そんな必死さを六歳年下の少年から感じていた。
だが、だからといって年頃の女の子である彼女が、その行為に動揺せずにいられるわけもない。
後ろから伸ばされたその両手が、白いブラウスの上からとはいえ、百合の大きな両の胸を柔らかく包んできているのだから、なおのこと。
しかし、健太の心情を推し量れば、強い口調で叱ることもためらわれた。
この少年は、昨日の夕方にこの静希家に預けられてきたのだ。
ランドセルや筆記用具といった『勉強道具』を除けば、ほとんど身ひとつで、ひとりだけでやってきたのだ。
転校先で上手くやっていけるのか。一度の交流もない静希家の人間たちと上手く付き合っていけるのか。
きっと、ふとした瞬間にそんなことを考えて、そのたびに不安を覚えているに違いない。
だから、そんな彼に強い言葉をぶつける気には、どうしてもなれなかった。
そもそも、百合は口数少ない大人しい少女である。高校で異性と気軽に話せる性格でもない。
そんな彼女が『手が胸に当たってるから、ちょっと離れて』などと言えるはずもなく。
結果として、百合は自室に入るとほぼ同時に、うつむいて立ち尽くすこととなってしまった。
当然、頬は真っ赤。少しばかり汚れている白いカーペットに視線を固定し、『今度の水曜日から、小学四年生の男の子と同じ屋根の下で暮らすことになりそう』と二つ年上の先輩に相談したことを思いだそうとするでもなく思いだす。
その先輩は、『できるだけ優しく、『お姉さん』のように接してあげればいいと思いますよ。相手は子供なんですから、叱る必要があるときも、たしなめる程度にしたほうがいいでしょうね。そう、努めて包容力豊かに』とアドバイスしてくれたわけなのだが。
(包容力豊かに、たしなめる……。む、難しいなあ……)
言うのと実際にやるのとでは大違い。
アドバイスされたとおりにするのなら、『女の子のそんなところを触っちゃだめだよ』的なことを言うべきなのだろう。間違っても怖がらせないように、穏やかに、『もう、しょうがないなあ』という苦笑と共に。
だが、頬を紅潮させ、動揺を抑えられずにいる百合に、そんな余裕たっぷりの『お姉さん』なことができるはずがない。
それ以前に彼女は、健太のほうへ顔を向けることすらできずにいるのだから。
そんなふうに、どうしたものかと困惑していると、不意に健太の両手が引っ込められ、密着していた身体も離された。
しかし、それに少女がホッとするよりも早く、
「百合ちゃん! ねえ、百合ちゃんってばぁ!」
「――痛っ! いたたっ……!」
腰まである絹のような美しい黒髪が、後ろからグイグイと引っ張られた。おそらくは、その綺麗な髪が何本か抜けたに違いない。
だが、これを百合は好機と見てとった。
胸を触られているときは言いよどんで――というか、なにも言えずにいたが、これならば恥ずかしがることなく注意できる、と。
「も、もう、だめだよ。健太くん」
そう口にしながら、安堵の表情と共に百合は健太へと振り返る。
そして、人差し指をピンと立て、
「髪は女の命っていってね、とっても大事なものなんだから。だから、もう引っ張ったりとかしちゃだめ」
それに健太は目を丸くする。
「い、命なの!? いま、何本か抜けちゃったから……もしかして、百合ちゃん死んじゃうの!? やだやだ、そんなのやだぁーっ!!」
「だ、大丈夫だから! いまのはただの
柄にもなく、片目を瞑って右腕に力こぶなんかを作ってみせる百合。……もっとも、実際に力こぶを作ることはできなかったが。
それでも、健太は安心したらしい。
「ほ、本当……?」
「うん、本当」
微笑んで返しながら、百合は思う。
(本当に、こういうところはすごく可愛いんだけどなあ……)
そんな気持ちが常にあるせいなのだろう。
先ほどのような少し過剰なスキンシップにも、彼女は嫌悪感を抱かずに済んでいた。
もちろん、だからといって恥ずかしさや困惑が消えてなくなるわけでもないのだが。
そして気づけば、彼女はなんの気なく思い返していた。
深山健太という少年と出会った、昨日の夕方のことを。
現在に至るまでに見た、この少年の困ったところと可愛いところを――。
◆ ◆ ◆
現在、百合は母親と二人暮らしをしている。
といっても、別に父親がいないというわけではない。
環境自体は『女手ひとつで育てられた』に近いものの、決して父親の温もりを知らないわけではないのだ。
百合の父親は現在、単身赴任中。
だから会う機会がとても少ないというだけのことであり、百合と父親の関係は非常に良好であるといえた。
そして、その父の同僚の子供が、今日、この家に――百合とその母親の二人しか住んでいないこの家に、やってくることになっていた。
健太は、人見知りをしない子であった。
出会ったばかりの『姉のような少女』である百合に、なんの抵抗もなく、すぐに
もちろんそれは、百合のほうが意識的に彼の存在を受け入れようと頑張っていたからでもあるのだろう。
彼が静希家にやってくるやいなや、百合は二階にある自分の部屋に招き、前日にテレビに繋いでスタンバイさせておいたゲーム機の電源を入れ。
そして、自己紹介もそこそこに二人でレーシングゲームに
そのときに百合は強く思ったものだ。
やはり、ゲームは優れたコミュニケーションツール。歌よりも優れた、リリンの文化の極みである、と。
また、健太がテレビゲームをまったくやったことがなかったのも、彼女にとってはプラスに働いた。
ゲームは勝ち負けを競うために持ち出したものではない。
お互いのテンションを高め、少しでも早く打ち解けあうために用意したもの。
そこに『操作を教える』という行為まで加われば、『年上』として振る舞うのも簡単にできるようになる。
健太が勝敗にこだわる性格ではなかったのもよかった。
彼が操作を覚えてからも、勝っただの負けただので険悪な空気になることはなく、また、これはレーシングゲームの初心者にありがちなことなのだが、コーナーを曲がるときの車の動きに合わせて、健太はときどき身体を思いっきり傾けるものだから――
「――ぶっ!?」
「――痛っ!?」
などと、隣に座ってプレイしていた百合に勢いよくぶつかってくることになってしまったりもした。
しかも、百合が「だ、大丈夫? 健太くん」と少年の身を心配すれば、
「だ、だいじょ~ぶぅ……。百合ちゃんは? 痛くなかった?」
「あ、うん、大丈夫。全然痛くなかったから」
「嘘だ! 百合ちゃん、『痛っ!?』って言ってたもん!」
「うわ、目ざとい。じゃない、この場合は『耳ざとい』……?」
などと、なんとも微笑ましい光景ができあがったりもする始末。
それから、夕ご飯の時間だから、と母に呼ばれるまでゲームを楽しみ、二人で一階にある畳敷きの和室に向かい、母も交えて夕飯を食べ。
先に食べ終えた百合が先にお風呂に入ることになり、次に入った健太が自室に来て。
そして、彼が望むなら、ゲームの続きをするのもいいかな、と気楽に構えていたところに。
「ねえ、百合ちゃん。ぼく、ここで寝ちゃダメ?」
などと、可愛らしい上目遣いで出会い頭に尋ねられた。
当然、これには百合も答えに詰まる。
まず目の前の少年は、子供ではあるが同時に異性でもある。もちろん、異性ではあるが同時に子供でもある、ともいえるわけなのだが。
それに、時刻は夜。当然、扉には鍵をかけるのだから、ここは完全な密室になってしまう。
しかし、すぐさま『だめ』と返すのもためらわれた。
『ここで寝たい』と明るく言われたのなら、『それはだめ』と軽く返すこともできたかもしれない。
だが、心細そうに『ここで寝ちゃダメ?』と訊かれてしまうと……。
そもそも、心細いことは事実であるはずなのだ。
彼は今日、この家にやってきたばかりなのだから。
それに、こうして百合を頼ってきたということは、それだけ彼女に心を開いてくれているということでもある。本当に、心の底から懐いてくれているということである。
だから、『今日ぐらいは』と思って、百合は首を縦に振った。
そう、『子供相手になにを意識しているのか』と自分に強く言い聞かせて。
それからは、特になにがあったというわけではない。
強いて挙げるとすれば、『手を繋いでほしい』と頼まれ、それに応じたくらいだろうか。
当然のことながら、他人に話せないようなことなど、なにひとつ起こりはしなかった。
もっとも今朝、母に、
「昨日の夜は健太くんと一緒に寝てあげたんですってね。健太くん、『おかげでぐっすり眠れた。すごく嬉しかった。手まで繋いでくれた』ってすごく喜んでたわよ」
と、健太の心情を教えられることになるとは思わなかったが。
というより、健太が『一緒に寝たこと』をバラすとは、これっぽっちも考えていなかったといったほうが正確か。
だが反面、母にそう聞かされて嬉しくなったり、誇らしくなったりしたのも、また事実。
本来、異性の間にある『距離感』。
埋めようと思ってもどうしようもない、『性別』という名の
それの無さに困ったり戸惑ったりは、確かにしているけれど。
それでも、百合の健太に対する印象は、総合して『年下の可愛い男の子』というものになりつつあった――。
◆ ◆ ◆
そして、いま。
百合から『髪は女の命』と聞かされて目を丸くした明るい髪色をした少年は、一体どういう思考を経てそうなったのか、ものすごく申し訳なさそうな表情になっていた。
「ど、どうしたの? 健太くん」
「……ん。いまさらだけど、髪引っ張ってごめんなさい。痛かった、よね。怒ってる、よね……?」
『痛くなかった』と嘘をついても無意味なのは、昨日の経験からわかっている。
だから百合は、痛かったか否かに関しては返答を避け、もうひとつの問いに返すことにした。
「ううん、怒ってないよ。だからほら、そんな心配そうな、しゅんとした表情しないで」
「本当? じゃあ、今日も一緒に寝てくれる?」
「うん、もちろん」
昨夜は『今日ぐらいは』と――一回限りのつもりで受け入れたわけだが、相手が健太であるのなら警戒する必要なんてないだろう。
「本当に? じゃあ、あのあの……もうひとつお願い、いい?」
「うん、いいよ。わたしにできることだったら」
にっこりと笑顔でそう言い、少し屈んで健太に目線を合わせる百合。
だがその瞳は、健太の『お願い』を聞いて、驚きに見開かれることになる。
「じゃあ、あの、その……。ほら、この家のお風呂って広いでしょ? ひとりで入ってると、ちょっと、前居たところのことを思いだしちゃって。それが、すごく嫌で……。だから、一緒に入ってほしいんだ、お風呂……」
「そ、それは……」
当然、言いよどんでしまう百合。
むろん、それはできない。『それはだめ』と言わなければいけない。
遠まわしに、この少年を傷つけることなく。
だが、言葉を探す少女を見て、健太はなにか勘違いしてしまったようだった。
「やっぱり、怒ってるんだ……」
『それはできない』という百合の気持ちは、正しく伝わっている。
しかし、『なぜできないのか』というその理由を、健太は誤解してしまっていた。
だから、百合はそれに慌てて両手を振って、
「怒ってないよ。怒ってないから、本当に。でも、一緒にお風呂に入るのは、さすがに、その……」
「百合ちゃん、ぼくは子供だから一緒に寝ても大丈夫って、昨日の夜、言ってた。なのに、一緒にお風呂入るのはダメなの? 子供なのに?」
言っただろうか。……言ったような気がする。昨夜、『ダメって言われるかと思って、怖かった』と健太が布団の中でこぼしたときに。
(じゃあ、いまも……こうして『お風呂に入って』ってお願いしてきてるいまも、怖いのかな? 健太くん。わたしに拒絶されるんじゃないかって、思って。
おまけにいまは、わたしが『怒ってる』って思ってもいるみたいだし……)
だったら、と気持ちが揺らぐ。
だが、言葉にはできなかった。百合の羞恥心が、『いいよ』と口にするのを邪魔していた。
その沈黙に不安を感じたのだろうか。健太が弱々しく抱きついてきた。
「あっ……」
健太の頭は少女の胸元までしかなく、自然、彼の頭はその大きな胸に正面から埋まるようになる。
それに恥ずかしさを覚えない百合ではなかったが、健太からは、体温と一緒に小さな震えも伝わってきていて……。
「……うん、わかった。いいよ。その……い、一緒に入ってあげる。それで健太くんが、安心、できるなら」
気がつけば、百合はそう口にしていた。
だが、そのあとにこうも続ける。
「で、でもっ……! きょ、今日だけだからね? 明日からは、ひとりで入るんだよ?」
その釘刺しに、百合の胸元に顔を埋めたまま、健太はコクコクとうなずいたのだった――。