女はごみ捨て場に転がっていた。
本来なら繊細な色合いのダークブロンドの髪の毛もくすんでいて、透き通るような白い肌も所々に汚れており、傷も足に数箇所見受けられる。
今にも衰弱死してしまいそうな脆さを感じさせる震え方。
服はそれなりに上等なもので、化粧も薄めだがしているようだった。ただ気掛かりなのは右足の靴を履いてないこと。
女を見つけた朝雨はしゃがみ込み、頬から首筋までを撫でた後、顔を軽く叩いたり肩を揺らしたりする。
「おーい、大丈夫ですかー。生きてますかー」
意識の確認をするために朝雨は彼女に呼びかける。すると女は目を薄く開き口を微々たるほど動かしたが、その後何秒か経っても返事は返ってはこない。
(意識はかろうじてあるか。じゃあ救急車を呼ぶか)
彼は携帯電話を出そうとポケットに手を突っ込むと、服の袖が女の手によって握られた。先ほどは口を動かすことも一苦労という様子だったにもかかわらず。
まるで絶対に誰も呼ばないでほしいと、そう言わんばかり。
朝雨は割と大きく、そして深くため息をつく。
(ごみ捨て場からの持ち去りは禁止されてんだけどな)
倒れていることからも、その格好からも、何かとんでもないことが起きたに違いないと予測する朝雨。とは言っても彼は面倒に巻き込まれたくないからといって、見て見ぬ振りをするほど冷徹ではなかった。
それに今の時刻は深夜の零時。少しは暖かくなってきたとはいっても深夜はまだ冷え込む。それにいくら何でもこんな時間帯では色々と危なかろうと朝雨の善心が顔を見せた。
(まぁ、全く顔の知らない赤の他人ってわけでもないし)
女の膝裏、肩と腰に腕を回し抱き上げようとする。朝雨は人間の重さに一度戸惑ったが、それでもなんとか持ち上げた。
「お、これって初お姫様抱っこだわ」
抱えられる方はだらりと力無く重力に従っているので、バランスも取りづらく重さも感じた。だがごみ捨て場は朝雨の家からかなり近いので、とりあえずは我慢して自宅にテイクアウトする。
(これは誘拐ではなく保護。断じて誘拐ではなく、保護だ)
内心で言い訳めいたことを考える朝雨。
歩き始めると女の髪の毛が少々揺れる。お腹のあたりに収めておいた両腕の片方が彼の服をぎゅっと掴む。安心したのか僅かばかり震えが治まったように感じられた。
対する朝雨もなんだか小っ恥ずかしくなって、ずっと彼女に凝視していた目線を進行方向に向ける。
いつもゴミを捨てに来る所だけあって、帰るべき自宅はすぐそこ。夜に点灯する照明灯の光を幾らか浴び影を作っては闇に溶かす。それを何度か繰り返すと目的地に到着する。
(あ、しまった)
と、ここで思わぬ障害があったことに気付く。両手が塞がっていて財布にしまっている鍵を取り出すことが出来ない。抱えた女を地面に一度置くのもなにか罪悪感のようなものが湧く。
なので深夜に申し訳ないと思いながらも、しょうがなく家族の助けを借りることとする。朝雨は不格好にも肩でチャイムを鳴らす。
ピンポーン。
何度も聞いた標準的な音が響いた。
しかし、誰も出てこない。
今度は二回連続で押してみた。
ピンポピンポーン。
だがやっぱり、出てこない。
(あいつ、起きてるくせに居留守決め込んでるな)
事実、隣の部屋の窓から光が漏れていた。
ピンピンポピンポピンピンポピンポーン。
なんとなくリズムよく、チャイムを鳴らす。
すると、どたどたとうるさい足音が近づき、玄関のガラス窓が影の黒から光の白に変わる。そして窓には数分前に見たパジャマの柄がぼやけながらにして写り、ガァラガラと音を立てて引き戸が右にずれる。
「うるさい、うるさい、うーるさーい」
呪詛でもしているかのように、地獄から吹く風の如く、言い放つ。
猫っ毛でボサボサの茶髪に、つり目ともたれ目とも違うじっとりとした目の女の子。女性と呼ぶにはまだ幼い風貌の少女は、目をこすりながら玄関に佇んでいる。
「て、ありぇ? にーちゃんじゃん。どうしたの?」
「悪い、ちょっと大物を見つけてな。手一杯なんだわ」
「……ふーん」
何かを察した様子の少女。
「でも血抜きは済ませてないみたいだけど」
「しっかり生きておるわ」
「ならちょうどいいじゃん。心臓動いている方がベストだよ」
「そこまでやりたいんなら、お湯やら水やらで洗いながらやってくれ。もちろん女子なので、これ以上傷付けないようにな」
「無茶苦茶だねー。ていうかそれお風呂に入れろってことじゃん」
「……とりあえず中に入れろ」
「ほいほーい」
広くない、むしろ狭い玄関では扉の目の前に立たれると、必然的に入れないので少女は外用のスリッパを適当に履き捨てて、奥に消えていく。それに続き、朝雨も靴を乱雑に脱いで玄関から直通の廊下奥にある風呂場に向かう。
浴室手前の洗濯機や洗面台がある場所に常時置いてあるかごを足で動かす。
「さてと、そろそろ立ってもらわないとな。おい、おろしても大丈夫そうか?」
抱えられていた女は、支えられながらバスマットの上に腰を落とす。
「とりあえずは妹に体を洗ってもらえ。傷にしみるかもしれないが、我慢だ。風呂から出たら消毒と温かい飲み物を用意しておくから」
朝雨の言葉に女は、小さく頷く。対する朝雨はニカッと晴れやかに笑い、頭を撫でる。
「いよっし、いい子だ」
まるで犬か猫を可愛がるように接する。
その最中、階段を降りる足音が一定のリズムを刻み大きくなっていく。そのあと開きっぱなしだったドアから少女は頭だけひょっこりと出す。
「おーおー、これはとってもいい雰囲気。もういっその事、にーちゃんがお風呂に入れたら?」
「……蒼芽、その冗談はお前にはまだ早い」
「冗談じゃないよー、本気だよー」
「はいはい、面倒くさいのね。今度シュークリーム買ってきてやるから、こいつを入れてやってくれよ」
「わーい、みたらし団子とゼリーとシュークリーム奢ってくれるなんて、にーちゃんやっさしー」
「遠慮なしに追加してきやがったな、こいつ」
マットの上に座っている女をちらりと見て、部屋から出て行こうとする朝雨。その途中、自身の妹にデコピンをくらわせる。
「あふぅ。……なにすんのさ」
当然怒る蒼芽。涙目で睨んでいる。
「真夜中にバタバタとうるさく階段を下りた罰だ」
「ぶぅー」
「文句たれてないで、さっさと風呂に入れてやれ」
それだけ言い残し、ドアを閉める朝雨。
隣にある台所付きのリビングに入室し、ガスコンロの前に立つ。上にある戸棚からヤカンを取り出し、水を適当に注ぎガスコンロの上に置く。火をつけ、朝雨は台所に置いてある小さな椅子に座る。
熱されているヤカンを呆然と眺めつつ、今洗われているだろう女のことを考えていた。
小岬恋歌。
(この漢字でレンカと読まずコイウタと読み、オミサキではなくコミサキ。……やーっぱややこしいなー。まぁ変わった名前は慣れてるけど)
隣の部屋からキャッキャと騒がしい声が聞こえてくる。
それは深夜の静けさとは似ても似つかない。
(……うるさいな、主に蒼芽が)
腕を組んだ朝雨は目を閉じ、必死に友人が言っていた小岬の情報や噂話を思い出そうとする。
その会話をした日は忘れてしまったが、内容はほんのりと覚えていた。
………………。
「……おい朝雨、小岬恋歌を知ってっか?」
「……確かどこかのクラスでそんなような名前が呼ばれてたような?」
「そそっ、三組にいるキレーなお方さ。なんでも祖母が外人さんで、クォーターらしい」
「へぇー、どこの国の人だ?」
「そこまでは知らん」
「……あっそ」
「しかしあの流れるようなダークブロンドの髪、新雪を想像させる白い肌、もぉーたまらんね!」
「美女美少女の観察はそんなに楽しいか?」
「美幼女を忘れてもらっちゃ困るぜ」
「警察に連絡しておくぞ」
「おいおい、待てって、まだ手ぇ出してないんだ。通報するのは、僕がいい思いしてからにしてもらおう」
「我が友ながら、どうしようもない変態野郎だな。……で、小岬恋歌がどうしたんだよ」
「そうそう、その彼女がな、有名なダンス団体の誘いを蹴ったみたいなのさ」
「ふーん、どういう方向に有名なのかわからんが、勿体無いことするんだな。実際どうなのか知らんけど、誘いに乗ったら進路的にも人生的にも有益そうなもんなのに」
「ま、彼女は成績優秀。将来の事で困ることなんて今はないんだろうさ」
「性格良けりゃ完璧人間の出来上がりだな」
「予想通り期待通り、人柄良しリーダーシップ良し、誰にでも尊敬されまくりの完璧超人さ」
「そいつはまた……強制信頼作用でも持ってんのかね?」
「きょう……えぇ?」
「要約して説明すると、人間誰しも恨まれたり妬まれたり、行くところまで行くと憎まれたりするもんさ。いろんな人間存在するが、悪い面を持たないやつなんて誰一人としていないだろうからな。それでも誰にだって信用されてるってことは、人を魅了し虜にし惚れさせる何かを持ってるってこと。その何かに相手を強制的に信頼させるはたらきがあるって考え方」
「……よーわからんが、熱血バトルモノの主人公みたく、味方は勿論、敵や、敵の敵もいつの間にか自分の仲間にしてしまう的魅力があるってことか?」
「砕けた解釈だが間違っちゃいない。ある意味洗脳のようなものだな。どちらかというと狂信に近いのかもしれないけど」
「そういう言い方すると辟易するからやめてくれよ……」
………………。
朝雨が思考の水底から水面に浮き上がってくると、ヤカンの中の水はすでに熱湯になっており、ピューッと激しい口笛を鳴らしていた。
火を消し、保温ポットを寄せてヤカンの中のお湯を注ぐ。白く生暖かい湯気がもあっと吹き出す。
注ぎ終わった朝雨は粉末状のコーンスープの素を、棚から取り出したマグカップの中に出す。
すると今度はキッチンから離れ、リビングのテーブルに向かう。様々なものがごった返すテーブルから、発掘するかのように埋もれていた救急箱を引き抜く。その際に落ちた、蒼芽のボールペンや蒼芽のノート、蒼芽のイヤホンに蒼芽の財布をまとめて適当に空いている場所に置く。
(……今度片付けさせるか)
ため息をつきながら、朝雨は床に置いた箱を開け、消毒に必要な物一式と絆創膏を取り出す。
「よし、準備完了」
二人が風呂に入る前に宣言していた物は揃えた朝雨。
(あとなんか必要なものは……あ、着替えだ)
小岬は倒れていた時、体だけでなく服だって汚れていた。それをまた着させるのは、ここの家の者として我慢ならない様子の朝雨。だからと言って服を貸そうにも、蒼芽の服は小さすぎてサイズが合わない。
(どうするべきか)
朝雨はしばしの熟考の末、自分の服を貸すことにした。男物だがどうとでもなるだろうと、熟考した割にいい加減な結論で妥協することにしたらしい。
二階にある朝雨の部屋に向かい、考えなしに服を選んで、再度脱衣場に向かう。
部屋に入ると、シャワー特有の長い水音が聞こえて来る。向こう側の二人も扉を引く音で朝雨に気付いたようだった。
「わー、にーちゃんってばノゾキだなんてエッチだなー」
その言葉がきっかけか、ガタガタっと慌ててシャンプーやらの容器を床に落とす音がした。
「……着替え、かごの中に入れとくぞ」
「おー、にーちゃんにしては気がきくねー」
蒼芽のエッチ発言を軽くスルーして、服をカゴの中に置き、小岬の汚れた衣服を一度広げる。薄ピンクのカーディガンと白のワンピースだったため、汚れがよく目立っている。洗濯するためポケットの中を調べると、財布やスマートフォン、手鏡といったものが出てくる。出てきた物を取り除き、衣服のみを洗濯物の中に入れる。
(……まあ残るのはこれだよな)
手に取っているのは女物の下着。
朝雨の頬はほんのりと赤面し、洗濯機の中に放り込んだ。
「それじゃあ洗濯機回すから」
電源を入れ、水と共に洗濯用洗剤を必要な分だけ注いだら、蓋を閉めた。
「ほーい、よろしくー。よかったね、小岬さん。これでバスタオルのみで家の中を徘徊は免れたよー」
妹の蒼芽は既に名字を聞き出していた。これこそ裸の付き合い、というものだろうか。
それに対し、兄の方はというと、手で顔を塞いで膝をつき、愕然としていた。
(し、しまった!)
後悔。それは紛れもない後悔だった。
裸にバスタオル一枚を拝むチャンスを、みすみす逃した痛恨の失敗。
(そ、そんなこと微塵も考えなかった! 既に着替えを持ってきたと言ってしまった以上、撤回することは出来ない。しかも親切心から自主的にやったこと。見事なまでに墓穴を掘っているじゃないか。いや……でも……まだいけるんじゃないのか⁉︎)
わけのわからないことを考えて混乱している朝雨。
「……にーちゃん?」
「……あ、いや……なんでもない。着替え……置いといたから」
「サンキュー」
「……おう」
のちに、あの時ほど自分を殴りたいと思ったのはあれっきりだ、と朝雨は語ることになる。
意気消沈し、部屋を出てリビングのテーブルにうな垂れる朝雨。
(やらかした。あの着替え姿に意識が集中しすぎてた。あぁ……バスタオル姿も見たかった)
硬直する朝雨に、無情にも女子のたわむれる音と声が聞こえてくる。
(……にしても、何であいつは、あんなところで倒れてたんだ? バスタオル……じゃなくて、服とかも妙に汚れてたし。バスタオル……違う、靴が片方ないっていうのは必死で走ったからか? バスタオル……救急車を呼ぶのを拒んだのも引っかかる。……とりあえずバスタオル姿で事情を聞いてみないとわからないか。バスタオル姿で)
それから二人があがってくるまでの間、朝雨はピクリとも動かなかった。
「あがったぞっと」
髪の毛に水気が残っている蒼芽は、先程着ていたパジャマを再度着用し、リビングに入ってくる。
テーブルに突っ伏している朝雨は、顔だけ横に向ける。
「……湯加減はどうだった?」
「ボチボチ。っていうかにーちゃん、小岬さんの着替えのチョイス……」
「うん?」
ドアの前でモジモジしている人影一人。
「どうした? 入って構わないんだが」
「……し、しし、失礼します」
ドアがゆっくりと開き、小岬の姿が露見する。
「あ、ちょっと、無理しなくていいってば!」
蒼芽が止めようとするが、もう既に遅かった。
小岬の汚れていた髪の毛は本来の色合いを取り戻し、肌も洗われ眩しいとも感じられる程となった。
ただし裸にワイシャツ一枚だが。
「……感嘆の極みだ」
朝雨はさっきまでうな垂れていたにもかかわらず、どこの筋肉をどう使ったのかわからないが、一瞬でガッツポーズに変化していた。
妹である蒼芽は凍りつくような視線を兄に向けている。
そして小岬はというと、財布やらを握っている右手でシャツを伸ばし、左手は後ろのガードに回している。顔は耳まで真っ赤。
「バスタオルよりはまし、バスタオルよりはマシ、バスタオルヨリハマシ……!」
もはや精神を安定させるための呪文を唱えているとも思えるほど、同じ言葉を連呼する。
「小岬さん落ち着いてー、深呼吸してー」
恥ずかしさを抑えようとする蒼芽を傍目に、微塵の悔いもないといった清々しい笑顔を浮かべる朝雨。
「何笑ってんのさ?」
「この姿を見て笑う以外にすることがあると?」
「黙っとけ変態」
冷たい視線で睨みつけながら、抑揚のない呆れた口調で兄に罵倒を浴びせる妹。小岬の着替えでふざけたことと、兄の変人加減が露見して身内として恥ずかしいということが混じりあった結果、怒りが沸々と込み上げてきた様子。
蒼芽は兄のそばに駆け寄り、足を高く上げた。
「地獄に行って死ね」
蒼芽、必殺のかかと落としを食らわせる。足の小指をゴオンと鳴る音を響かせ、思いっきり潰す。
「い、痛ぁ! 骨砕けたらどうすんだぁ! つか地獄で死んだら二回死んでるじゃないか!」
ヒリヒリと痛む小指を抑えながらうめき声をあげる朝雨。ヒビはいってる、これ絶対ヒビはいってるって、と騒ぎながら小岬のために用意した救急箱を開く。
「粗大ゴミレベルの使えない兄でごめんなさい」
「い、いえ……そんなことは……」
「そうだよ。にーちゃんが気のきいたことなんてできるはずないんだって、未来永劫」
朝雨を傍目に女子二人は会話を弾ませる。
「それよりも……」
「あ、今すぐズボン持ってきます」
「……ありがとう」
「おいおい、そのロマンの権化をズボン一つでぶち壊しにするつもりか?」
「そんなロマンは壊れた方が世のためだよ」
なおも前と後ろを隠している小岬に、潰れた足の小指に包帯を巻き終わった朝雨が口を出すと、蒼芽の辛辣な言葉が飛んでくる。
「あ、じゃあ下を履くのなら、この前雑貨屋に押し付けられたカーテン状スカートっていうのを」
「ジャージ取ってきますので、もう少し我慢しててください」
無視だ。
蒼芽は階段を上がる。
「あれすごいんだぞ、着るとカーテンみたいに一箇所にまとめることができるんだ!」
「あ、あはは……」
苦笑いだ。
小岬は目を逸らした。
「……むう、おふざけも程々にしないと信用失うな。さてさて、じゃあ気を取り直して真剣に自己紹介といこうか。俺は……」
「朝雨君ですよね? 確か下の名前は零垓、でしたっけ?」
「なんだ知ってるのか、意外だった。あ、名前の字は例外でも冷害でもないから注意してくれ。そんでもう知っていると思うけど、あいつは妹は蒼芽。サバサバしたやつだが仲良くしてやってくれ」
「あ、小岬恋歌です。さっきは助けてくれてありがとうございました。でも、このワイシャツはいったい……」
小岬はモジモジとしながら露出部分を必死に隠そうとする。だがいかんせん範囲が広いため全てを隠すことはできない。顔はトマトか唐辛子を思わせるほど真っ赤。
一方の朝雨は自己紹介の最中、小岬の足から一片も目線を逸らさなかった。
「恥ずかしがるんだったら何で最初から下を取りに行かせなかったんだ?」
「それはちょっと……助けてもらって不躾かな、と。着替えの用意もしてもらったので」
「……自分でからかっておいて何だが、俺の発言と行動は軽く流していいから。こちらとしちゃ眼福だけど、嫌なことは突っぱねてくれ。適当に合わせられると逆にからかう気が失せる性分みたいでね」
「じゃあこれからも適当に合わせます」
「……適応力早いな。まあいいけど。というか裸ワイシャツスタイルにしたこと怒ってる?」
「い、いえ、別に、そんな、全然怒ってなんかー、いませんよー」
(怒りまくってるじゃないか)
だが会話の際中も、朝雨は反省することなく露出した小岬の足を凝視し続けていた。
見られている小岬はというと、目線に気づきながらも口に出すことはしない。
「あ、そうだ。ちょうどいい、肌が見えてるうちに消毒済ませてしまおう。いや、決して生足に近づきたいとかそういう不純な理由じゃなくて」
「いや、お手を煩わせずとも自分で……」
「遠慮せずに」
「え、でも……」
「遠慮せずに」
「……お願いします」
諦めた顔を浮かべる小岬と意気揚々と綿に消毒液を湿らせる朝雨。彼の笑顔はクリスマスプレゼントを楽しみに待っている小さい子供のよう。
小岬を椅子に座るよう促し、足にできた傷に綿を当てていく。
「ヒュンッ⁉︎」
足は伸ばしているが、腕をキュッと縮ませる小岬。
「しみるだろうけど、一時の我慢てやつだ。風呂上がりで傷口も洗浄されてるだろうし」
「は、はぃ……」
(うん、大人っぽい容姿なのに子供っぽい動き。実にいいと思います!)
一人、心の中で盛り上がる男。
哀れに見えるかもしれないが、彼は楽しそうなので問題ありません。
「おっといけない、我を忘れてた。じゃあ絆創膏貼ってくから」
「ありがとうございます」
白い素肌にベージュの絆創膏が張り付いた。絆創膏特有の匂いを感じながら、黙々と複数の小さな傷に蓋をしていく。
(まずい、沈黙した)
静まり返ると、二階でバタバタと蒼芽が立てる音が目立つ。
会話のきっかけを見つけようと必死に頭を回転させる朝雨だが、結局いい話題が見つからずここまで避けてきたことを踏み込んで聞いてみることにした。
「なあ、どうしてあんなところで倒れていたんだ?」
飾ることもオブラートに包むこともせず率直に質問した。朝雨は傷の処置するため目を合わせず、小岬の目線だけが一方的に朝雨に集中する。
その眼差しは、揺れながら下に沈んでいく。
「……えっと、その……」
「言いたくないなら言わなくてもいいって」
「そういうわけではなくて……」
「ではなくて?」
「迷惑じゃないかなって」
小岬は申し訳なさそうに自身の足と、それに触れる朝雨に目線を送る。
「もし巻き込んでしまったら……」
それを聞いた朝雨は、やはり目を合わせずに小岬の言葉を遮るように答える。
「俺は巻き込まれた側じゃなくて、自分から巻き込まれに行ったんだ。実際に無視できる状況だったし、関係ないと言って関わらないこともできた。それでも放っておけなかったから自分から踏み込んだだけ。俺があんたを助けたという責任は、すでに俺だけの責任。だからあんたは迷惑とか巻き込んだりとか、そういう遠慮はしなくていいさ」
「でも……」
言葉を続けようとした小岬を、中断させるかのごとく立ち上がる朝雨。
「よし、手当て完了」
「あっ……ありがとうございます」
「そうそう、その言葉を聞きたかったんだよ」
満足そうに小岬に向かって笑う朝雨。
朝雨は一拍おいてからキッチンの方に戻ると、水を流し手を洗う。水滴を拭き取ってから保温ポットを持ち、コーンスープの素が入っているマグカップにお湯を注ぐ。
「で、話してくれるのか?」
スープをスプーンで混ぜながら、問いかける。
「……わかりました。それは私が」
「小岬さん、ジャージ持ってきましたよ」
ここで両手にジャージを抱えた蒼芽がリビングに戻ってきた。
二人は話の腰を折られたことにより、首をがくんと落とした。
「サイズは合ってると思うんですけど」
「おい妹よ、おまえは俺を気がきかないと評したが、おまえはタイミングが致命的に悪い」
「へぇ?」
「……まあ……いいや、二回説明する手間が省けたと前向き思考でいこう」
「なにさ、なにしてたのさ?」
「青臭い蒼芽にはわからないアダルトでディープなこと二人っきりでしてたんだ」
「嘘言わないでくださいよ!」
朝雨は湯気が出ているマグカップを、大きな声を出した小岬の前に置く。
「はーいー? 足でも舐めさせてもらってたの?」
「まあな。とびきり甘酸っぱかったぞ」
「いい加減にしてくださいってば!」
慣れている風の蒼芽と当然のように回答する朝雨に向けて、半分涙目になりながらツッコミを入れる小岬。
「ほらにーちゃん、小岬さんの一喝が入ったんだからこれぐらいにして、部屋から出るよ」
「……着替えか。俺にかまわず……」
「家から出ていけ。そして二度と帰ってくるな」
「酷い奴だな。そんなんだと……」
「いいから早く」
「へいへい」
朝雨は蒼芽に引かれて退出すると、即座にドアが閉められた。
兄を警戒し監視している行動そのものだ。
「なあ……もういいか?」
そして警戒しておいて正解だと思わせるこの発言である。
「まだ五秒しかたってないから」
「もういいよな?」
「駄目だから黙ってて」
ドアに背もたれし、暇そうに天井を見つめる朝雨。
髪の毛を弄り、暇を持て余す蒼芽。
家族特有の苦にならない沈黙。
ただただ時間だけが過ぎていく。
「ねぇ、にーちゃん」
唐突に呼びかける蒼芽。
「どうした?」
まるで呼びかけられることをわかってたかのように応対する朝雨。
「小岬さんって何者?」
「それは、きっとこれから彼女の口から話してくれるさ」
「やっぱり呪意術が絡んでくる?」
「わからん。だが、俺はそう考えてる」
「……はぁー、めんどくさいなー」
それだけ話すと後は沈黙し、二人とも微々たる動きだけでほとんど動かなかった。蒼芽の表情は先程までと違い、憂鬱と億劫が入り混じったものとなったが。
「着替え、終わりました」
小岬のくぐもった呼び声。
「じゃあ入るぞ」
一応確認を取ってからドアを開ける。
入った真正面にはジャージ姿の小岬。
「うん、これはこれでいい味が出てるな」
「とびきり甘酸っぱい味?」
「ああ、爽やかな柑橘系を匂わせる青春の味だな」
「二人ともそんなじろじろ見て、意味不明な感想言わないでくださいよ……」
黒を基調にオレンジのラインの入ったどこにでもあるシンプルなジャージ。
(だがしかし、美人が着ると見栄えがいいな)
隣に立つ妹に目を向ける兄。
「ふっ」
「おい、なんで鼻で笑いやがった」
「いや月とすっぽんてこういうことを言うんだなって」
「じゃあにーちゃんは砂利だね」
「……手痛い反撃をくらってしまったお兄ちゃんはどうすれば名誉挽回できますか?」
「名誉なんて初めからないから気にしなくていいよ」
「……悲しいなぁ」
「ほら、椅子に座って。そろそろ事情を聞かないと」
朝雨はなんだかなーっといった煮え切らない表情で奥の椅子に座る。小岬は苦笑いをしながら朝雨の対面に座り、それについてくるかのように蒼芽は小岬の隣に座った。
「さて、それじゃあ聞かせてくれるか? 何があったのかを」
「はい……それは私がちょっと小腹が空いたので近くのコンビニで何か買おうとして出かけた時でした」
「お、なんか刑事ドラマ風の言い回し」
「にーちゃん黙って」
「夜道ですれ違った人がいたんです。それだけなら良かったんですが……その人が……突然……」
ブルブルと小刻みに震える小岬。明らかに怯えている。
「おい、大丈夫か? 無理せんでも……」
「だ、大丈夫です。……襲ってきたんです。その通りすがりの人が覆いかぶさるように。その時はおかしな人と運悪く遭遇してしまったんだだと思いました。幸い偶然上手く避けられて、すぐに振り切りました。でも追ってきているのがわかったので……交番に駆け込んだんです」
先ほどまでの表情よりも、いっそう恐怖の色が濃くなっていく小岬。
震えも増し、体が硬くなっていくようだ。
「でも、駆け込んだ先も……まともじゃなかった。中にいた警察が……私を見た途端……人が変わったみたいに無表情になって……目が据わっていて……掴みかかってきました。まるでさっきの不審者と同じように! それを皮切りに周囲の人達も……」
「……警察官も他の奴らもか」
「……もう何が何だか分からなくなって、闇雲に逃げました。その途中で靴も片方脱げてしまって、でも必死だったので、構わず走りました。そうしていくうちに段々疲れてきて、体力がなくなっていって、派手に転んでしまったんです。そして転んだ場所が、あのゴミ捨て場でした」
「なるほど、そして気が遠くなっていったその時に、俺が通りかかったってわけか。携帯電話で通話させなかったのは、誰かを呼ばれたら、また人が襲ってくると考えたからだな」
「……はい」
(転んで突っ伏したおかげで視界から外れて追跡の手が止まったって考えると辻褄も合わないこともない、か)
朝雨は腕を組み、目を閉じ、考え込む。
ただただ震えている小岬。震える手を蒼芽の手が握る。
「大丈夫、大丈夫だよ。ここなら、安心だから」
「蒼芽……ちゃん」
「私たちはおかしくなったりしない」
「……あり……がとう」
蒼芽はこれまでの気だるげな目ではなく、いつになく真剣な眼差し。
一切ブレを感じるさせることのない強くまっすぐな口調。
いつの間にか、小岬の震えは止まっていた。
「ふーん、お前からそんな台詞が出るとは」
その言葉を聞いて、蒼芽はハッとし顔を二人から見えないようにそらす。ただ、小っ恥ずかしくなって拗ねても、手は離さなかった。
「いやー、お兄ちゃんは妹の成長に素直に感動さ」
「わーわー! やめろ、やめろ! そんな目で見るな!」
真っ赤な顔をした蒼芽は朝雨の言葉をかき消すように騒ぎ立てる。
あまりにもの赤面具合に小岬は、うわっ真っ赤、とぽろっと声に出す。
「あのな小岬さん、この台詞は元々俺が蒼芽に言ったもので……」
「うるさい、うるさい、うーるーさーい!」
「わかったわかったから、一応深夜だから騒がしくするな」
「ふふ、あんまり似てないと思ってましたけど、やっぱり兄妹ですね」
「みたいだな」
「ち、違う、違うから、違うんだから!」
朝雨は清々しく軽快に笑う。
そして少しの間を置き、真剣な表情へと変える。
「さて、じゃあ今度は俺の話を聞いてもらおうか」
その変化に蒼芽と小岬は戸惑いながらも、表情もぴしゃりとしたものとなる。
小岬は多少落ち着いたのか、出されたコーンスープに口をつけた。
「これから話すことはあまりにも突拍子で、信じられないかもしれない。でも疑わないことをオススメする。じゃないと命を落とす可能性が格段に上がってしまう」
「い、命?」
「そう、小岬さんにかかった呪いは……いや、間違えた。小岬さんを狙う、この街にかけられた呪いは、確実にじわりじわりと首に鎌を近づけてくる」
「……?」
「呪意術。意思を呪い、意図を呪い、意識を呪う術。そして呪いをかける奴らを総称して呪意術師と呼ぶ」
「それはどういう……?」
「別の言い方をすれば洗脳、催眠、マインドコントロール、人心掌握とあるが、この界隈じゃ呪意術、もしくは呪いに統一されてるようだ。安直に言えば人を操り人形にする技術の一つだ」
「じゃあ私の見たのは……!」
テーブルから身を乗り出す小岬。視線はまっすぐ朝雨に向かう。
面を食らう様子もなしに、朝雨は口を開いた。
「呪われた人たちってことだな」
「そんな、そんなことが……。人を操るだなんて、そんなこと……」
青ざめていく小岬の顔。理解ができない、と口に出さずとも顔で言っているのがわかる表情。信じられない信じたくないと脳そのものが拒否しているのだろう。だが、先ほど自分で見たものは、そうとしか思えない現象だった。
「できる。そしてためらいもなくそれを使う奴らもいる。小岬さんを襲うように仕向けたやつが、な」
「なんで、私が……」
「それについてはかなり曖昧で確証もない予測だけど、多分小岬さんをピンポイントで狙うのは、呪いに対して高い耐性があるからなんだと思う」
「え、それどういうこと?」
おそらくは呪いのこともすべて知っている蒼芽が、これまで閉じていた口を開き、問いかける。どうやら朝雨の言ったことに、わからないことが出てきたのだろう。
「しっかり考えてみろ。通りすがりの奴も、交番にいた警察官も襲ってきたってことは、この街にいる全員を対象とした呪いってことだ。ということは、呪いのことを知っていて多少慣れている俺らはともかく、小岬さん本人が呪われていないのはおかしいだろ? そして呪いの内容を小岬さんの捕縛と仮定すると、ピタリと当てはまるんだよ。もし耐性がない人を捕まえようとするなら、直接呪いをかければそれでいい」
「あー、捕縛対象が呪いを受け付けないから、周りの人間を使っているってことね。そんでもって小岬さんに耐性がなかったら、小岬恋歌を捕縛しろ、という街全体の呪いを小岬さん自身が受けてしまい、おかしな状態になる。けどそうなってないってことは呪いに耐性があるっていう裏付け」
得意げに説明する朝雨と、疑問の大半が解消されて納得顔の蒼芽。小岬はというと惚けるばかり。説明の間にコーンスープをちびちびと飲んでいた。
「……つまりどういうことですか?」
わからなくともざっくりと自分の置かれている状況は知りたいと思ったのか、あらましを求める小岬。
その質問に答えるのは、やはり朝雨だった。
「君以外の街の人間が君を狙っている」
「……標的は、私?」
「そう、なんで小岬さんが? 呪いを寄せ付けないぐらいで狙われたりするもんなの?」
確かにさっきの説明では、小岬を狙った呪いということだけを言っていて、小岬が狙われる理由は語られていない。
「残念ながら狙われたりするんだな、これが。呪いが効かないってことは呪意術師の天敵と同じ。それに耐性の高い人間をも呪うことのできる、支配力の高い呪意術開発の実験台にされたりもするから、捕縛っていうのはありがちだな」
「……なるほど?」
絶対にわかっていない言い方で、理解したという意味合いの言葉を口にする彼女は、やっぱり何もわかっていないんだろう。
「にーちゃん、小岬さんが話に追いつくことを放棄している」
「やはり、馴染みのない人が理解できる話じゃなかったか」
「し、失礼ですね、わかってますよ! あれですよね、私は操られない! 万歳! ということですよね」
「ああ、そういうことだ」
「にーちゃんも面倒になって、てきとうに相槌しない。つまるところ、小岬さんは操られる心配はないけど、狙われる可能性大」
段々と集中力が切れてきた二人を、どうにか長持ちさせようとするできた妹。
「それって……いいことなんでしょうか?」
「俺的には利点。自覚なく操られるってのはなかなかえげつないもんだぞ」
しみじみと経験談を語るように喋る朝雨。
もしかすると本当に経験談なのかもしれないが。
「それで、その……この街は元通りになるんでしょうか?」
「やっぱ普通そこが気になって仕方がないよな。まあ、結論を言うと呪いを解く方法はある」
「ほ、本当ですか?」
これまであまりいい表情を見せなかった小岬が、期待の眼差しを朝雨に照射し満面の笑みを浮かべる。
「ああ、呪意術解除の方法はちゃんとある。あるんだけど……」
「な、何か問題が?」
満面の笑み、一瞬で曇り顔に変貌。
「いやー、呪い解きの術として開日法っていうのがあるんだけどさ。複雑すぎて専門の奴らしかできないんだよ。んでもって俺が依頼できそうな奴は一人しかいないんだ」
「じゃあその人と話させてください! 私依頼してみますから!」
曇り顔は焦る表情に一転する。
「いや、それはダメだ!」
「えぇ! なんでですか!?」
「そいつ、無類の女好きでな。会うのは論外、話すのも駄目、見ることすら禁止だ」
「でも女好きなら交渉するのに有利なんじゃ……」
「依頼については俺の方からする。ただ、こういう風になっても構わないなら止めはしない」
「え?」
朝雨の視線の先には、意気消沈した蒼芽の姿があった。テーブルにだれている蒼芽はぶつぶつと、呪意術が絡んだ時点で既にこういう運命だったんだあははははー、とそれこそ呪文のように幾度も幾度も繰り返し呟いている。蒼芽のそばの空間だけが世界の終わりの雰囲気を醸し出している。
「いったい何があったんですか……?」
あんまりな変わり様から若干引いている小岬。
「……聞きたいか? そこまで興味があるなら聞かせてやってもいいが、覚悟はしといたほうがいいぞ」
「……やっぱりやめておきます」
「賢明な判断だな。……奴は、俺のような上辺だけの変態ではなく、正真正銘根っからの超弩級変態だから」
「朝雨君が……上辺だけの変態?」
小岬は疑問符を頭の上に浮かべる。きっとワイシャツのみを着替えとして着せるような人が上辺だけの変態で済むのだろうかと考えているに違いない。
「その疑問に満ちた表情は、個人的に非常に気になるが、スルーして一旦話を戻そうか」
「えっと、どんなこと話してましたっけ?」
「なぜ脚というものはあそこまでの視線吸収力があるのかについてだったか?」
「違います」
本当に上辺だけの変態で済むのだろうか。
「確か、朝雨君が代わりに依頼をしてくれるってところからです」
「そこからか。それじゃ、今度は呪意術の基本知識を教えておこう。……おい、蒼芽、いつまでもうなだれてるな」
未だテーブルに突っ伏していた蒼芽の頭をパシパシ叩く朝雨。それでも起きようとしないので諦め、手持ち無沙汰だったのか髪の毛を弄り始めた。
小岬はその光景を、流し目で見ている。
「それじゃあ、呪意術について話そうか。まず呪意術にはいくつか種類があって、その全てに名前がついている」
「種類と名前ですか?」
「そう。触火式、見水式、匂木式、聞金式、味土式の五つだ。触れて見て匂いて聞いて味わう。五感になぞらえた五つの呪い。呪意術というのは外刺激から本能に、本能から脳に向かう呪いだ」
朝雨は一旦、蒼芽の髪の毛を弄るのを中断し右手を開いてジャンケンのパーの形をする。
「じゃあその中のどれかにこの街が……」
「その中から広範囲を呪うのに向いているのは見水、匂木、聞金の三つ。この街の人全てが同じ物を触れたり食べたりしているっていうのは無理があるからな」
伸ばしている右手の親指と小指を折り曲げ、三本指を立てる。
「もしかして目星はついてるんですか?」
「いや全然」
思わせぶりな言葉を発しておきながら、あっけらかんと答える朝雨。そして右手を崩し、妹の髪弄りを再開し始める。
「小岬さんと会ってから、なんにも調べてないしわかるわけないじゃん」
「それはそうかもしれませんけどぉ」
なんだか物言いたげな小岬。彼女にとっては普通の生活を送れるかどうかの瀬戸際なのだから当然といえば当然である。
「それにわかってようがわかってまいが解呪は開日にしかできないんだから、どうしようもないだろう?」
「うぐぐ……」
「早く解放されたい気持ちはわからなくもないが、焦っても状況は変わんないさ」
「……そうですよね」
朝雨の言葉を聞き、シュンとして、身をすぼませる小岬。ただしその言葉を発したやつは無心に妹の髪の毛で遊んでいる。
「さて、これまでで質問等あるかい?」
「あ、じゃあ一ついいですか? もし重なっちゃったらどうなるんです?」
「重なるっていうのは呪意術がってことか?」
動詞のみの台詞から、なんとなくのニュアンスで主語を拾い上げる朝雨。
「はい」
「あー、人間には呪いの許容量っていうものがあって、それが満タンになるまではいくらでも呪うことができる」
「……わかりません」
今度は素直にわからないと答えた。
「例えるなら、二リットルペットボトルに一リットルの水は二回分入るだろ。でもそれ以上の水は入らないってこと。水が呪いで、ペットボトルが許容量。ちなみに呪いの量は支配力だと思ってもらって構わない」
「じゃあ一度で完全に操られることもあるんですよね?」
「ああ、許容量まで目一杯呪い漬けにされた人もいる。黒にいくら塗り足しても、変色せずに黒にしかならない状態のようなもので、どんな呪いも受け付けない。まぁそれは触火や味土の領分だから気にしなくていいと思う。逆に広範囲の呪いを回数分けてジワジワとやっていくこともある。今回はそれに気を付けないといけない」
「まだこれは始まりの段階で、続いてもおかしくないんですね……」
すぐには解放されない。まだまだ呪いは追加されるかもしれない。ついさっき様々な見知らぬ人達に襲われた小岬にしてみればこれほど恐ろしいことはないだろう。
「そう悲観せずに。たまたま呪いに詳しい俺らの所に来たのはラッキーだったんだからさ」
「……ありがとうございます」
不器用な風に慰める朝雨と素直に礼を言う小岬。
「気にすんなって。……よし、いい感じのダルマができた」
蒼芽の頭の上には髪の毛で作られた、雪だるまのような二段の球が形成されている。誰が仕込んだのかは明白だったが。その誰かさんは、身を乗り出し頭を真上から見下ろす体勢をとる。
「よし、この調子でもういっ、ごぉう!?」
ぱちりと目を開いた蒼芽は、一気に頭を起こしていた。
「ハッ! 寝落ちしかけた!」
となると、上に構えていた朝雨の顔に猛烈な頭突きが決まるのは必然である。
突然の攻撃をもろにくらった朝雨は鼻を抑えながら、上を向いている。
「ん? どしたのにーちゃん、鼻血?」
「んぁ」
誰かのせいでな、と言いたげな表情を浮かべているが口には出さない。今回は自分に非があるということを知っているから。
「え、なんで?」
「えーっと、蒼芽ちゃんの頭にできてるそれを作ろうとした時に、ごっつんこしたんです」
「頭のそれ?」
蒼芽は自身の頭を撫でて、突起したそれを手探り見つけ出す。
「あ、ほんとだ、なんかある。じゃあにーちゃんの自業自爆だ」
ティッシュを鼻に詰め終わった朝雨は、怒ったような笑顔になる。
「それを言うなら自業自得だ、馬鹿者」
「いやー、悪かった悪かった。はい、謝ったから許してね」
(……なぜここまで神経を逆撫でする謝り方ができるのだろうか。しかも俺が全面的に悪いのを見越して言っているというのが癪にさわる。……よし、開日の相手は蒼芽にやらせよう)
妹が妹なら、兄も兄である。
「で、どこまで話しました?」
「なぜ脚というものはあそこまで視線吸収」
「基本知識を教えてもらってました」
会話キャンセル。
「じゃあもう話すことないんじゃない?」
「馬鹿言うな。むしろここからが本題だ」
「まだなんかあったっけ?」
まだ寝ぼけているのか頭が上手く回っていない様子の蒼芽。
「どういう呪いをかけられたかは説明したが、どうやって呪いが作用しているかを言ってない」
「え、それは私を見ると襲いかかってくるってことなんじゃ?」
首をかしげてハテナマークを浮かべる小岬。
「それは見水式だった場合。匂木なら小岬さんのにおいで、聞金なら小岬さんの声に反応して襲いかかることになる」
「ああ、それがあったっけ。失念してた」
「それに街全体に、小岬さんをどうこうして発動する呪いを仕込むには、大掛かりな準備が必要だ。つまるところ呪いを促している原因がわかってない」
「小岬さんの何を引き金として襲っているのかと、どうやって呪いをかけているかは別ってことだね。罠を設置するのと作動するのは全くの別物なのと一緒」
「その通り」
話についていけなくなった小岬は、コーンスープを飲み干しながら、蒼芽の髪の上に作られただるまを眺めていた。
「うーん……例えば聴覚を使う聞金なら、毎日午後五時に流れてる地区メロディーに細工をすれば、街の人たちに呪いをかけることはできるだろうけど……」
「小岬さん、襲われた直前に声出した?」
「えっ、確か、交番では声をかけましたけど、すれ違った人の時には何にも……」
自分に話が振られるとは思っていなかったのか、少しばかり驚いたものの多少会話に耳を傾けていたらしく、しっかりと受け答えをする。
「まさか呼吸音が引き金? いや、でも、それは……」
「ありゃ、いい線いってたと思ったんだけどなー」
「駄目だ。情報少ない。今の段階じゃ、いくら仮説を立てても証明できない」
流石にこれまでの情報だけでは断定なんてできないだろう。朝雨投了。
二人は大体のことを話し終わった、といった顔を作った。が、ここで思わぬ横槍が入る。
「気になっていたんですけど、なんで二人ともそんなに詳しいんですか? それに街全体がおかしいのに、なんで二人だけは私を、その、襲わないんです?」
「なんだ、襲って欲しいのか? 誘ってるのか?」
「砂利が喋るな。えっとね、小岬さん。私たちは呪意術師を抑止するために動いています」
兄に釘を刺しつつ、小岬には優しく説明する。
「……抑止?」
「じゃあ小岬さん、呪意術師が好き勝手に呪いをこの街にばら撒いたらどうなると思いますか?」
「それは……その人の思い通りに街が動いちゃうんじゃないんでしょうか?」
「そう。それは私個人としても困るし、この街が呪意術師のおもちゃになるのは気に食わない。だから、にーちゃんと一緒に色々と動いてるのです」
「す、すごく偉いですね」
「そんなでもないですよ」
明らかに照れている蒼芽。しかし、胸は張っている。表情と言葉と行動が一致してなかった。
(兄的立場からするとあんまり危ないことに首を突っ込んでほしくないんだがね)
朝雨は蒼芽をチラッと見てから、目を閉じた。
「呪意術師達の最終到達目標は全人類を完全に呪うこと、とも噂されているからな」
「なっ!? そ、そんなことして何になるっていうんですか!?」
小岬は人を操ると聞いた時以上に、理解ができないという感情を隠すことなくさらけ出した。
「さてね、噂の域を出ないけどね。自分一人だけに全てを委ねてくれたら、世界を上手く回せるとかそんなようなこと思ってるんじゃないのか? どうしたって呪意術なんてものを、嬉々として使う奴らの考えることなんて意味不明で理解不能だな」
「……にーちゃんって滅茶苦茶呪意術師のこと嫌いだよね」
「ああ、大っ嫌いだね」
「私も大っ嫌いです!」
小岬には既に大きなトラウマが植えつけられているようだった。
「ま、そういう感じで関わっていたら、小岬さんに遠く及ばないにしても、蒼芽は呪いに対して若干の耐性を得たってことなんだ」
「蒼芽は、って朝雨君は?」
「俺は呪いを受けても、それを抑えることができるんだよ。耐性はないけど抑圧は出来るって感じ。だから俺が抑えるのをやめたら小岬さんを襲うと思うぞ」
「えぇ!?」
「ま、滅多なことがない限りないから安心してくれ」
「は、はぁ……」
小岬は思わぬ伏兵の存在になんとも言えない声を出す。
「大丈夫だよ。にーちゃんは相当のチキンだから襲うことなんてできっこない」
「襲うことはしなくても、愚妹の小遣いを減らすぐらい簡単だぞ」
「あー? 自分で稼いだお金じゃないくせに偉そうにして」
「だが金銭の管理は俺担当だ。管理している者が配分を決めるのは当然だろう?」
「屁理屈だよ、それは。小岬さんもそう思うでしょ?」
「え、私ですか?」
面倒な兄妹喧嘩に巻き込まれたなー、と顔に出まくりの小岬。
「えーっと……兄妹仲良くいきましょう?」
「……おい、小岬さんをくだらない口論に引き込むな」
蒼芽はニタニタとジト目で笑い、朝雨を挑発するようにケラケラと笑う。小岬を盾にされると、朝雨はどうにも言えなくなることを見越しての発言。妹の方が一枚上手だったようだ。
「ったく、憎たらしいやつだな。……さて、小岬さん、俺の話は大体終わったが聞いておきたいことはあるか?」
「うーん……特には」
「ま、一発でわかる話でもないし、そんなもんか。……でこれからどうする? 外は呪われた人でいっぱいだから、当分家には帰れないだろうし、帰れたとしても一人で大丈夫か?」
「む、無理……」
即答だった。
「一番は解決するまでここに泊まってもらうことでしょ。私たちがいた方が安全だし、一人にするのは酷だよ」
「それはそうだが、小岬さんはいいのか? 家に連絡とか、学校に行けなかったりとか色々面倒あるぞ?」
「私一人暮らしなので、そっちは大丈夫ですけど、学校は……」
「全校生徒と追いかけっこすることになる」
「サボらせてもらいます」
即決である。
おそらく相当の精神的負荷がかかっているのだろう。
「よし、じゃあさっさと依頼してくるか」
「解呪の依頼?」
「ああ。お前が電話するか?」
「いや!」
拒否の意思を二文字で簡潔に表した蒼芽は、ピタリと小岬に飛びつき離れない。そこまで解呪の開日の人が苦手らしい。その言動を見てぽりぽりと頬を掻く朝雨。
(俺だって苦手なんだけどな)
貧乏くじを引くのが長男の定め、と諦めてスマートフォンを取り出す。
「じゃ、二人は寝てもいいぞ。もう丑三つ時だし。俺は相手が随分と迷惑するであろうこの時間帯に嫌がらせ半分に電話するから」
「んぃー。じゃ、にーちゃんおやすみー」
「おやすみ」
兄妹は適当な具合に手を振りながら、夜の合言葉をかける。
「おやすみなさい」
小岬は礼儀正しく腰を曲げて礼をして二人の後に続いた。
「ん、おやすみ」
そうして二人がリビングから出て行くと、私と一緒の部屋でいいですよね、と小岬を先導している蒼芽の声が聞こえて来る。そうしているとすぐに声は遠のいて聞こえなくなった。
(行ったか?)
朝雨は取り出したスマートフォンの電源をつける。暗証番号を入力し、電話のアプリを起動させると画面には連絡先が縦に並んで映っていた。アイウエオ順に整理されてあり、その最上部にあるアの列から例の人物をタップする。
タップした名前はアルパカ帝王と表示されていた。
(こいつであってたっけ?)
設定した本人もよくわかっていない。間違えなく本名ではない者の電話番号には英数字が混ざっており、明らかに従来の番号とは桁数が多い。
(うん、あってるあってる)
特殊すぎる番号を見て、半信半疑を確信に変える朝雨。
そして意を決し、コールボタンを押す。
プルルルル、プルルルル、とコール音が耳元でなる。そして三度目のコールの最中に中断され、相手が電話に出た。
「なんだい?」
「もしもしぐらい始めに言ったらどうなんだ」
「わかった、じゃあもう一回かけ直してくれるかい?」
「面倒だからもう話し始めるぞ。街全体が呪われたから手を貸してくれ」
「……ほう? 呪意の種類はわかっているのか?」
「まだわからん」
「じゃあ、どういう呪いかは……式がわからんのならわかっているわけないか」
「面目ない」
「いやいや、対して期待してない。こんな真夜中に電話をかけてくる、性根の悪さを持っている者が使えるやつだとは思っていないからね」
「……悪かったって、なるべく早めが良かったんだよ」
「ふむ、蒼芽は元気かね? なぜ君が電話をかけるのだ。蒼芽に代わりたまえ」
「それは俺の話ぶった切ってまで重要なことか?」
「これは死活問題だよ!」
「お前の命は美女美少女で左右されるのか」
「美幼女を忘れるんじゃない!」
「なぜ俺の周りにはこんなようなやつしかいないのだろうかと、真剣に悩むときがあります」
「胸に手を当てて、心臓を握り潰して考えてばわかるかもしれないな」
「リスクが高すぎるので却下。で、依頼受けてくれんのか?」
「当然受ける。そして蒼芽に……ふへへ」
「それは助かるが……妹に何する気だ」
「早めがいいと言ってたね。ならば五日後が最短さ。こっちにも用事があるんでね」
「おい、答えろよ」
「あといつも通り、呪意術の種類と原因、その他諸々を解明しておくのが条件だね」
「それはいいから、答えろってば」
「それでは健闘してくれたまえ」
ブツンッ、ツー、ツー。
電話が切れた。
「……勝手に切りやがった」
もうとっくに通じていない電話に一方的に語りかける。スマートフォンを耳元からはなして画面を見ると通話相手と通話時間が表示されている。朝雨は一度タップし、電源を落とした。そのあとにテーブルにだらんと力なく突っ伏し、深いため息をつき、まぶたを落とした。
(やっぱり小岬さんのこと伝えなくて正解だったな。……にしても、五日間で解明しろときたか。今のところ広範囲の呪いってことしかわかってないんだが……)
さっきまで深夜とは思えないほど騒がしかったのに、今はたった一人の呼吸音しか聞こえない。静かになった部屋に指でテーブルを叩く音が木霊する。
(……やるしかないか)
朝雨は目を開くと同時に立ち上がる。
(とりあえず俺も……寝よう)
そうして小岬と蒼芽に遅れて続くように、リビングから出て行く朝雨。
……これが小岬恋歌と朝雨零垓の邂逅の日であり、呪い呪われの発端である。
「ぐぁ……」
起床第一声がそれだった。ただそれを声として認めるかどうかは微妙なラインである。
朝雨は無性に背中が寒くなるハンモックから大きく転げると、必然床に叩きつけられるように落ちる。乾いたカエルの死骸のようなポーズで、鈍く低い大きな音を立てた。
(この強引に目を覚ます方法やめようかな……)
寝起きで痛覚がしっかりしていないのか、それとも毎日続けているせいで慣れてしまったのか、痛みはそこまで感じていない朝雨。だからといって痛いのは嫌なようである。
おぼつかない足どりで立ち上がり、クローゼットの中にあるバスタオルと着替えを手に取る。そしてふらふらと扉に向かい、自室から出ていく。途中、朝雨は廊下を歩いていると、蒼芽の部屋の扉が目に入った。そして何の戸惑いも見せることなく入室した。二人はまだ寝ているようで、音はなく光もカーテンの隙間から朝日が射し込むばかり。ただ蒼芽と小岬が、ベットではなく床に敷いた布団で一緒に寝ていることが、朝雨には疑問に思ったようで。
(事後か……?)
断じて違う。
(そういや蒼芽は俺が女を襲うことのできない意気地なしのチキンと言っていたな……)
そう思い出すと同時に、朝雨の足は布団に向かって動いていた。いや、もっと詳しくいうなら小岬に向かってだが。そして後二歩で届く距離になると、腰をかがめ完全に変質者状態となる。そうして手を伸ばし、触れるかと思われたその時。
「何……してる」
朝雨の顔に蹴りが飛んでくる。
「ふごっ!」
情けない声をあげて、床に倒れる朝雨。蹴りを放ったのは他でもない妹の蒼芽。
「乙女の部屋に勝手に侵入とは……にーちゃん極刑」
(自分で乙女とか言うなし)
朝雨は鼻を抑えながら、心の中で悪態をつく。
「更に究極刑」
「なんでだよ! と言うかそんな刑罰は無い! あと、勝手に入ったのは謝る! ごめん!」
朝雨は上半身を起き上がらせると、それだけ言って元に戻るようにして倒れこんだ。その内容は流れるように突っ込みと謝罪を織り交ぜたもの。朝雨が得意とする素直に謝りたく無い時の手段、流れに身を任せ謝罪を済ませてしまう方法である。そして割と声が大きかったらしく、小岬が小さく唸るような音を出し、体をゴソゴソと動かす。
「まず、起きちまったかな?」
「で、何?」
「いや、急に呪いを押さえつけることができなくなった気がしたから、襲おうとした」
「究極限刑」
「もう元の形を留めてないじゃないか」
「じゃあ端的に言う。真っ赤に焼けた鉄の靴を履いて死ぬまで踊り続けろ」
「恐ろしすぎるだろ……」
ちなみに二人共、いや小岬を含めるなら三人共、寝転がりながら会話をしている。
結構シュール。
「本当になんなの? 用ないの?」
「じゃあ敢えてここに来た理由付けをしておこうか」
「真面目の本気に襲いに来ただけだったのか」
「まあね。んで蒼芽、今日学校サボって小岬さん保護しててくれ。俺は呪いの調査に乗り出すから」
「りょーかい。じゃ、二度寝する」
「あんまり自堕落生活しすぎるなよ」
「りゅーん」
蒼芽の了解か拒否かわからない謎の返しを聞きながら、朝雨はそっと立ち上がり部屋から出ていく。そしてバタリと扉の閉める音を小さくたてて、無駄に段差が大きい階段を下っていき、一階へと向かう。まずはリビングに入り、暖房をつける。まだ涼しいよりは寒いの方がしっくりくる朝の温度に耐えながら廊下に出て、今度は昨夜二度見た脱衣場に入る。
(さくっとシャワーを浴びて、朝飯作るか)
朝雨、パジャマと下着を即座に脱ぎ、おそらくは日課になっている朝風呂に入る。昨日あの後入浴したのかどうか定かではないが、一般男性よりも少し長く伸びた後ろ髪が寝癖でひどいことになっているので、それを直すという理由の方が強めだろう。
(はてさて、どう動けば呪意術師を釣れるかな……)
シャワーを自身の頭からかぶりながら考えにふける朝雨。
(とりあえずは今日中に五感の中のどれを使った呪いなのかだけは判明させたいが……。呪いの発生源を突き止めることもしないといけないしな……。簡単に判明させる方法は呪意術師を見つけてとっちめることだが……)
朝雨はシャワーの温度が合わなかったのか、少し水温を上げる。
(よし、いつも通りの作戦で行こう)
シャワーを止め、朝雨は五分と満たないお湯浴びを終了させ、脱衣場に。
そこで事件発生。
「……はいっ?」
あまりに予想だにしない展開に、朝雨の思考と挙動が止まる。
小岬恋歌が、洗面台の前に居る。
朝雨はさっきまでシャワーを浴びていた。もちろん衣服を着たままお湯をかぶるといった奇天烈行為はしていない。世間一般に準じて裸である。というわけで朝雨零垓、小岬恋歌の前で全裸。
(……落ち着け、まず落ち着こう、冷静になろう。とりあえずこのままじゃ人生シャットダウンしてしまう)
朝雨は置いてあるバスタオルを即座に体に巻き、小岬の顔色を伺う。
「あ、あれだ。事故だ。これは偶然が重なっただけの……ん?」
ここで朝雨は気付く。小岬がこちらを見ていない。風呂場から出てきた際の音にも、真っ裸な男の姿にも目をくれず、ただ鏡に映る彼女自身の顔をポケーッと虚ろな目で見据えている。
(な、なんだ? 小岬さん、朝に弱い派か?)
髪に溜まっていた雫が朝雨の顔に落ち、ふと我に帰る。
(今のうちに服を!)
軽く体についていた水滴を拭き取った朝雨は、裸族から現代人の格好に着替える。ちなみに制服のズボンに、上はTシャツのみという姿である。
「あ、危なかった……のか?」
確かに小岬が素晴らしいほどの大人の対応で、見なかったことにしている可能性もないわけではない。その場合声をかけて墓穴を掘るようなヘマは出来ない。
(ここは、あれだ。なかったことにしてしまおう。見なかったことにしてくれてるなら、藪蛇は避けたいし、朝に弱くて意識が薄いのなら、俺の心の中に閉まっておけばいいだけのことだし)
着替え終わり、バスタオルも洗濯物の中へと消えていった。朝雨はそろりと小岬の後ろを抜けて脱衣場から脱出する。その際にちらりと彼女を見たが、心ここに在らずといった様子で、ただただ鏡に吸い込まれるかのよう。
リビングへと即座に移動した朝雨は、床に力なくへたり込む。
(ああ、俺ってヘタレだわ。でも朝からこんなイベントじゃ、しょうがないってもんだろうに)
先ほどの光景を思い出しているのか、軽く放心気味の朝雨。
(……朝飯、作んないと)
そこからゆっくりと立ち上がり、のそのそと歩行する。朝特有の倦怠感は吹っ飛んだが、そのかわり謎の罪悪感が朝雨の中で沸沸とこみ上げて、その歩調を縮める。
台所に到着した朝雨は、八枚切りの薄い食パンを二枚取り出しトースターに入れて一度大きく取っ手を回す。その後、トースターの中が赤く光り、熱を感じ始めたら一分半程度のところに戻す。
(……あ、今日三人分じゃん。……まぁでも、蒼芽の奴は起きてこないだろうから……いいや)
そもそもトースターの大きさ的に二つ以上は入んないし、と元も子もないようなことを呟きながら朝雨は自分用と来客用のマグカップを棚から取り出す。
(……小岬さん、ジュースとコーヒーどっちだろう?)
ちなみにジュース派なのは朝雨、コーヒーのブラック派なのが蒼芽である。
(来てから聞けばいいか)
自分のカップに真っ黄色のジュースを注ぎ終わった朝雨は、次に昨日と同じように、ヤカンに水をためてガスコンロの上に置き着火させる。もしも小岬がコーヒーを飲む場合熱湯が必要なのと、後々起きてくる蒼芽のための配慮だろう。と、ここで高く鋭い音がなった。トースターから焦げ茶色のついたトーストを取り出し、四角の皿の上に乗せる。
「おはようございます」
「んぁ?」
ドアをゆっくりと静かに開けたのか、トースターの音と被って聞こえなかったのか、小岬が入ってくることに気付かなかった朝雨。そして小岬の方に顔を向けると、一瞬硬直し目をぱちくりする。しかしすぐに素に戻り、微笑しながら挨拶を返す。
「おう、おはようさん」
教育というよりも性格の差が顕著に現れた二人の挨拶。
「もう起きてるんですか?」
「朝の準備は俺がしてるから、いつの間にか朝に強くなってしまってな」
適当な椅子に座ってくれ、と朝雨がいうと、小岬は夜中に自分の座っていた椅子に腰を下ろした。
「そうなんですか。実は私も朝の方が強いんですよ」
「…………そう……か」
(だったら洗面台の前にいた時と今のその状態はどう判断すればいいのか)
もう、何も言うまいと顔を神妙にさせる朝雨。
「トーストですか?」
「うん? ああ、そうそうトースト、トースト。あ、小岬さん、オレンジマーマレードでもいいか?」
ハッとしたように、朝雨は応対する。
「それ、私の分ですか?」
「そうそう、どうせ蒼芽は起きてこないだろうし、もったいないから食べてくれ」
「じゃあ……いただきます」
「よし、じゃあ、飲み物は何にする? オレンジジュース? コーヒー? それとも、お・れ?」
「じゃあオレンジジュースで」
「……了解しました」
小岬は朝雨のあしらい方を覚えた。何となく朝雨は悲しそうだった。ダイニングキッチンにはオレンジマーマレードが塗られたトースト二枚と、とくとくとジュースを注いだコップが二つ。朝雨はトーストが載せられた皿とコップの取っ手を持ち、小岬さんの前に配膳した。
「質素で悪いね」
それだけ言って今度は自分の分を取りに行く。
「いえ、全然そんなこと……」
小岬がそう言ったところで、朝雨の分の朝食がテーブルに置かれる。そして椅子を引き、座ろうとした朝雨が思い出したかのようにピタリと止まる。
「あ、小岬さん」
朝雨はそれだけ言って、胸に人差し指を当てて上下に揺らす。
「え? ……あっ!」
その動作で自身の胸元に手を当てた小岬はようやく気付く。前開きのジャージのファスナーが随分と下に寄っていた。そのため胸部の淡白い肌がこれでもかと露出されており、朝雨の硬直を引き起こすには有り余る刺激だ。きっと昨日の夜中が寝苦しく、少しでも楽にしようとした結果なのだろう。また風呂上りの朝雨はパニックでそれどころではなく、部屋に入ってきた小岬を見た時に気が付いたようだ。
そして痴態を晒していることに気付いた小岬は即座にファスナーを首元まで上げ、赤面した顔を下に向けた。その間に朝雨は席に座り手を合わせ小声で、いただきます、と言う。顔を上げた小岬は飄々とした態度の朝雨に食ってかかる。
「なんで顔を合わせた時に行ってくれなかったんですか!」
「いや、ジャム塗ってたりして言いそびれてしまって……」
目を逸らしながら言葉を濁して小岬に弁明する朝雨。
(眼福だったけど)
しかし心の内では幸運に感謝しているが。
「でも、女性が」
ピィー!
まるで小岬の発言を差し止めるかのように、ヤカンの沸騰した音が鳴る。
「沸いたか。ちょっと席外すよ」
「……むぅ」
なおも鳴り続けるヤカンに近づき、ガスを閉めて加熱を止める朝雨。鳴り響いていた音が止まり、湯気も勢いをなくしゆっくりと空中に消えていく。朝雨は素手でヤカンを持ったら思っていた以上に熱かったらしく、一度反射的に手を引っ込める。今度は掛かっていたタオルで取っ手を包み、慎重に持って空の保温ポットの中に熱湯を注いでいく。注ぎ終わったら、ヤカンを先ほどまでのガスコンロに一旦置き、先ほどまで座っていた椅子にとんぼがえりする。
「さて、仕切り直して……いただきます」
「あ、いただきます」
つられて小岬も食前の言葉を言う。
「で、女性が……の続きは?」
「もういいですっ!」
「お、おう」
軽く怒り気味の小岬。
(しまったな。流すべきところだったみたいだ)
彼女の中ではその会話はもう終了していたようで、墓穴を掘り返した朝雨は理不尽な逆ギレを被った。
仕方なさそうに目の前にあるトーストに二人ともかぶりつく。朝雨は半分くらい食べ終わったところで、一度皿に焼かれた食パンを置く。
「小岬さん、今日はこの家で過ごしてくれ。一応蒼芽と一緒だから安全だと思うけど、外に存在を気づかれないようにしてくれ」
「ふぇ?」
食パンをくわえたまま、きょとんとした顔を作る小岬。
(……曲がり角で、男とぶつかって、痛ーい! とか言いそうな感じだ。いやでもジャム塗られてるから、男の方は悲惨なことになるな)
朝雨が謎すぎることを考えていると、小岬はトーストを皿に乗せ、空いた口を動かす。
「蒼芽ちゃん、学校行かないんですか?」
思考から引き戻される朝雨。
「うん? ああ、念のため小岬さんの護衛役だ。ちんちくりんで悪いが、相手をしてやってくれ」
「じゃあ朝雨君は……」
「呪いの調査」
「私が原因なのに……」
「その話は昨日の夜で既決しただろうに。適材適所だよ、何事も」
いつの間にか朝雨のトーストは消えており、残っていたオレンジジュースも全て飲み干す。濡れた髪の毛を手櫛で整えながら、マグカップと皿を重ね洗い場に持って行く。
「はてさて、学校に行く前に済ませてしまおうかね」
「洗い物ですか?」
「いや、写真撮影」
「写真……え?」
戻ってきた朝雨はどこから取り出したのかわからないスマートフォンを片手に小岬の前に陣取る。
「念のために録音もしよう」
「ちょ、ちょっと待ってください! な、なんでいきなりそんな……」
「俺は呪いの調査をしなければならない。つまり五感の中、どの感覚を使った呪いなのか判明したい。で、小岬さんの姿と声があれば作業ははかどる」
「なるほど。そういうことなら……あ、でも、ちょっと時間を……」
女子らしい反応をする小岬。
「駄目。時間ない」
まるで事務対応でもするかのように、受け答えする朝雨。
「そ、そんな……ほんの少しですから!」
「ハイ、ちーず」
「いきなり撮らないでください!」
カシャ、カシャとスマフォをタッチするたび音を鳴らし、肖像権ガン無視で写真を撮る。
しかし夢中になっている朝雨は気づかない。背後に小さな影ができていることに。
「恥さらしが」
蒼芽は背後から足払いを決め、朝雨は一瞬だけ宙に浮く。
頭と床をぶつける鈍い音が、近所中に響いた。
「蒼芽のやつ、容赦無いな……」
後頭部をさすりながら、自分の席に着席している朝雨。蒼芽に急かされて家を出たせいか、いつもよりもいくらか早く学校に到着したようで、教室は人っ子一人いない無人の教室である。
(だー……暇だ。こんな朝早くから学校に来て何しろっていうんだ。つか、たまにいるよな、朝早くからすることもないのに教室に居座ってるやつ。そいつらは何をして時間を潰しているのやら)
朝雨は、暇つぶしに最適なスマートフォンを突きながら、心の中で暇だ暇だと言い続ける。そしてなんとなく今朝録音した小岬の声を流す。
寝込みを襲うなんて、ひどいですぅ。
無音の教室に小岬の声でこの台詞が流れた。補足しておくと、台詞の内容を考えたのは蒼芽であり、小岬は戸惑いながら提案された言葉を喋っただけだ。朝雨は録音の最中、苦虫をすり潰したような顔をしていたのだが。
「これはこれで悪くはないか」
一周回って価値を見出していた。手に負えない。
そんな益体もない時間を机に突っ伏して過ごしていると、前触れもなく教室の前の扉が開いた。
「ほいそれどっかん一番乗りっ!」
「……馬鹿な顔した馬鹿な奴が、馬鹿馬鹿しい口上言いながら来やがった」
「お? なんだ先客がいる。というか朝雨じゃん。なんでこんな朝早くに来てんの?」
「妹に追い出された」
微妙にあってるようであっていない理由を端的に伝える。
「へぇー、そりゃ大変だな。僕にゃ関係ないけど」
「他人事だからな」
冷めているのか親密なのかわからないような会話をする二人。
「ま、ちょうどいい。暇で仕方がなかったんだよ。ちょっとトークしてもらおうか」
「お前からとは珍し……くもないか。僕も暇だし付き合うけどさ」
朝雨の前にケラケラとした態度の少年が、椅子の背もたれを腕で抱えるように座る。対面する朝雨は友人の前でも突っ伏したままである。
「いつだったか前に小岬恋歌を話題に出したことがあっただろ。ちょっと気になるからもうちょい詳しい話を聞きたい」
「……ほうほう。朝雨君は小岬さんを狙っていると」
「狙っているというか狙われているというか」
「いいだろういいだろう。無謀であろうと恋してしまったからには僕は止めない。それがたとえ無謀であっても勇気と読んで背中を押そうじゃないか」
「どうでもいいから、情報を出せ」
朝雨は訂正することを面倒くさがり、さっさと会話を進めようとする。多分目の前の少年と話すときはいつもこんな風なのだろう。
「そうだなぁ……確か品位方正文武両道っていうのはこの前話したっけか。……確か彼女は一人暮らししている筈だ。多分家事も一通りできるだろうね」
「そんなことは知っている」
勘違いしたままの少年は、朝雨の欲しているような情報と関係のないことをしゃべる。この場合は情報の指定をしなかった朝雨も悪いのだが。
「へぇ、朝雨にしちゃ随分と熱入ってるのな。それならとっておきを一つ。小岬恋歌、ありゃ着痩せするタイプだね。とんでもない爆弾包み隠してるわ」
「それも知ってる。というか朝見た」
「……ん?」
「あ」
思わず今朝衝撃を受けた爆弾を思い出して口を滑らせる。気付いた時にはもう遅く、やっちまったという顔の朝雨と、なにそれどういうことだ詳しく話せ、と催促するような表情を浮かべる友人。
「証言してもらおう」
「……あー、うん、あれだ。夢で見たってだけ。想像の作り出した嘘と真実が偶然重なった、それだけ」
さすがに事情を話すのは躊躇われたのか、適当な嘘をつく朝雨。というよりも、家に匿っていると正直に言ったら、どんな噂流されるかわからないからだろう。
「なるほど、夢で見た……と。それは面白い……で、真実を言いたまえ」
速攻で嘘がバレる。
「言ってるだろうが」
あくまでもシラを切る。
「なんだ言えない事情でもあるのか?」
「そういうこと」
「ふーん、なるほど大体わかった」
「……多分、お前の思っていることは全くの見当違いだ」
「まあ、そういうことにしといてやるよ」
根拠もないのに自信満々なドヤ顔を見せつけてくる。
(こいつと会話したのは失敗だったか? ……まぁこいつの口は軽いが、確証のないことは喋らんし放置でもいいか)
しかしそれも小慣れたかのように受け流し、朝雨は口を開いた。
「はいはい、じゃあ今度は俺から質問するから答えろ。小岬恋歌は誰かに恨まれてるか?」
「恨まれている、かぁ。そういう話は聞かないけどなぁ」
(やっぱそっちはないか)
私怨の線は薄そうだと見切りをつける。
「じゃあ、次。彼女のスケジュールを知ってたら教えてくれ」
「知ってはいるけど……。それは匿ってる朝雨が本人に直接聞いたらいいんじゃないの?」
「いやでも匿ってるとはいえ、女性にそういうの聞くとストーカーの一歩手前な気がする」
「やっぱ、おまえさんって究極のマヌケだわ」
(……なぜ罵倒されなければならんのだ。というか女子のスケジュールを把握しているおまえは確実に不審者。そしてなんか初歩的で致命的なボロを出した気がするけど……気のせいってことにしておこう)
朝雨零垓、馬鹿にしていたやつに馬鹿にされる。
「んなことどうでもいいから、質問に答えろってば」
「あぁー、登下校と学校の授業については省くけどいいかい? いいよな」
「いいよ」
対面している少年はズボンのポケットから手帳を取り出し、パラパラと開いて見る。
「えーっと、小岬恋歌の押さえておきたいスケジュールポイントは三つ、昼食・買い物・ダンスレッスンだ」
「ほう」
「昼食はいつも仲のいい女子たちと、中庭のベンチで食べてるみたいだ。雨の日以外は必ずそこみたいだからイベントを起こしやすいな」
「ギャルゲー攻略みたいなこと言ってんじゃねーよ」
「次に買い物は三日に一度程度の頻度で、スーパーに食材調達に行ってるな。ちなみに一昨日に一回行っている模様」
(これは、匿ってる以上使えそうにない情報だな。というか……)
「なぜそこまで把握してるんだよ……。軽い嫌悪感が湧き出てくるんだけど」
「答えてやってるのに酷い言いようだな。なんなら朝雨の明日のスケジュールも教えてやろうか?」
「……結構です」
軽い感じでわけのわからないことを言う少年。思わず朝雨もですます調になる。
「ほんじゃ最後にダンスレッスンだが……これは賞味期限切れ」
「賞味期限切れ?」
「一週間ほど前に辞めたみたいなのさ。だからもう使い物にならん情報になったわけ」
「なるほど……」
「どうだい、有益な情報はありそうかい?」
「うん、悪くない。今後の行動が定まった」
(とりあえずは昼休みまで大きく動かなくてよさそうだな)
朝雨はうなだれている状態で、眠るかのように目をつぶった。
「それは僥倖。じゃあ値段なんだけど……」
「金取るのかよ!」
「やっとこさ、昼休みだな」
昼前の授業が終了し、教室が一気にガヤガヤと騒がしくなる一方、朝雨に近づく一人の少年。それは今朝の早くからおしゃべりをしていた人だ。
「あーさあーめくーん、一緒に昼飯たーべーよー!」
「え、いやだ」
謎のテンションに朝雨も困惑したのか即拒否。ちなみになんだかんだ言いながらも毎日学校での昼は二人で食べている。それは他に昼飯を共に食べる友人がいないことの裏付けでもあるが。きっと一人だけ休んだら、その時に少し困るような関係だ。
「何さ何さ、他にあてでもあんのかよ」
すねらせたような声色の少年。その言葉に朝雨は首裏をかきながら、受け答える。
「いや、今朝の情報を当てにして中庭にでも行こうかと」
「面白そうだからついていく」
「……好奇心は猫を殺すぞ?」
「僕は猫じゃないから大丈夫!」
「そういう意味じゃねーよ」
ただし少年の性格とか雰囲気は完全に猫のそれであるのだが。
「というか中庭に行って何するのさ。残念ながら小岬さんは今日」
「休みなんだろ、知ってる」
少年の言葉を遮ってしゃべる朝雨。それは経験上あまり好まれない朝雨の悪癖だった。
「じゃあなんで行くのさ。お目当てはいないのに」
「そもそも小岬さんは目当てじゃない。ほら、俺はもう行くぞ」
机の上の教科書と文房具を乱雑に引き出しの中に入れ、椅子を後ろに下げて立ち上がった朝雨は、鞄を手に取り教室の出口に向かう。
「あ、ちょ、おいてくなよ!」
弁当を右手に持った少年は小走りで朝雨の後をついていく。教室から出るとすぐそばの階段を下り三階から一階へ。そこから正面入り口に行き、外履きに履き替え学校から出る。朝雨と少年は暖かな昼の日光を浴びる。後者をぐるっと迂回するように回ると、裏側にある中庭に着く。その道のりの途中、少年は口を開いた。
「なーなー、そろそろ教えろよ。なんで小岬さんのこと嗅ぎ回ってんだ?」
その言葉に朝雨は、一瞬口を軽く開けた。だがすぐに飲み込み、別の言葉を用意した。
「……まあ、その、あれだ。付き合っているからだ」
「バレバレな嘘つくな」
「じゃあ俺は彼女のストーカーなんだ」
「なるほど」
「納得するなよ。もっかいバレバレの嘘云々って言えよ」
「で、本当のところはなんなんだ?」
(こいつはなぜに嘘を見抜くのがこんな得意なんだよ。有耶無耶にしようと思っても話を戻してくるし)
朝雨の嘘が下手くそなだけである。
「……小岬恋歌が呪意術師に襲われた」
朝雨は諦めて全てを打ち明けた。というよりもそういう風に誘導させられた。
「なんだ、やっぱりそうか。予想通りでつまんないな」
「おいおいなんで、わかってました、みたいな感じ出してんだよ。もっと驚け」
挑発するような微笑を少年に見せる朝雨。
「わかってたんだよ、この脳足らず。言ったろ、大体わかったって。よくもまあ、そんな頭で僕を馬鹿扱いできたな、謝れ」
少年は心外だと言わんばかりに冷静な声で謝罪要求した。
「……なんで?」
朝雨は素の疑問顔である。
「舌に釘を打ち付けんぞ」
「それは困る。口八丁の舌が使い物にならなくなる。営業職になれなくなるじゃないか」
「随分嘘が下手くその口八丁がいたもんだ。あとお前に営業職は絶対向いてない」
朝雨と少年はたわいもなく、益体もない会話を繰り広げながら歩く。そうしていると、辿り着くべき中庭に到着した。
「……とと、茶番に熱中してたら目的地だ」
「あとで、小岬さんの呪いのこと詳しく」
「へいへい」