ノクターンノベルズにも投稿してます(タイトルちょっと違う)
あの頃のオレは、自分はもう
髪を結んで、スカートを履いて、自分の事を
……憧れの先輩を呼び出して、愛の告白なんて事をしてしまうくらいには。
「せ、先輩! 私と、付き合って下さい!」
「……は? いやお前、元々男じゃん。普通にキツいし、マジで気持ち悪いからやめてくんね?」
──自分も、自分が恋をすることも、
──
◇
あれから大体半年くらい経っただろうか。あの日の言葉は、いまだに忘れることなんて出来やしなくて。自分の姿を誰かに見られることすら怖くなったオレは、今ではすっかり引きこもりになっていた。
電気もつけずにカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中。ぴかぴか光る画面を見つめてコントローラーを握りしめ、ただただ時間だけが過ぎていく。
ゲームをしていれば余計なことを考えないで済む。あの日の事とか、将来の事とか、家族の事とか、……オレの親友の、陸の事とか。
だけど、オレは何も考えたくなくても。
ディスクが回転する音と機械の排熱音が部屋に響き始め、モニターが真っ黒になる。画面の隅の方で、デフォルメされた小さなキャラクターがせっせと走り出す。その下に書かれた Now Loading の文字列。短いけれどたしかに現実に引き戻される、一日で二番目につらい時間。
暗転して黒くなった画面に映った、無表情のオレと目が合った。
伸び放題でぼさぼさの、腰まで伸びたくすんだ銀の髪に、よどんで濁り切った青い瞳。ガサついた唇、濃い隈、ずっと着っぱなしでよれよれのパジャマ。
あんまりにもあんまりな、まるで幽霊みたいな自分の姿に自嘲気味な笑みが浮かぶ。
前は、もっとちゃんとした格好をしていた。
髪はしっかり手入れをしてさらさらだったし、瞳はもっと澄んでいたはずだ。
二年前、ある朝突然
ちょっとオシャレをしてみたり、笑顔の練習なんてこともした。鏡の前で、どっかのアイドルみたいに馬鹿なポーズをとったことだってあった。
……あの頃は、自分の新しい体が嫌いじゃなかった。銀の髪も、青い瞳も、少し低めの身長も白い肌も、ほんのわずかに膨らんだなだらかな胸も。男の頃の面影なんてちっとも残っていない、女の子の体の全部が、嫌いじゃなかった。
今ではどれも、もう見る影も無くて、そしてそれでいいのだけれど。
半年前のあの日に、オレは結局、本当の女の子なんかじゃないって気づかされたから。
……それに、陸に見られるのなら、可愛くもなんともない今の自分の方が、都合がいいから。
ディスクの回転音が小さくなっていく。少し長めのロードが終わる。死んだ目でオレを見つめるオレの姿が、色鮮やかなキャラクターに置き換わる。ガチャガチャした音楽がヘッドフォンの内側から流れ出す。
面白くもないことを考えるのをやめて、思考を沈めていく。
◇
無心でコントローラのボタンを叩いてしばらく、画面に照らされて乾いた瞳に涙が滲み始めてきたころ、少し強めにドアをノックする音が、ヘッドフォンを貫いて部屋の外から響いた。
「おーい、千尋。俺だ、陸だ」
続いて聞こえてくるのは、大嫌いなあいつの声。
オレの親友で、幼馴染で、おせっかいで、人の気持ちなんてなんにも考えない、大嫌いな陸の声。
「返事無いけど、どうせいるんだろ? 入るからな」
その陸は、そんな声とほとんど同時にオレの部屋のドアを開ける。片手にレジ袋を提げながら部屋に無遠慮に入ってくる。
……気持ちが沈む。緊張に体がこわばる。オレにとって一日の中で一番つらい時間。陸と一緒に過ごす時間。
「……入っていいなんて言ってない」
オレはヘッドフォンを外したり、ましてや陸の方を向いたりなんてしない。
まっすぐゲーム画面だけを視界に写しながら、小声で文句を漏らした。消え入りそうなほど小さく細い声で。陸に聞こえる必要なんてなかった。たぶん、これはきっと、陸じゃなくて俺自身に向けたものだから。
「つってもお前いつもなんも言わないじゃん。まあ駄目って言っても入るけど」
だけど陸はそんな呟きを耳ざとく聞き付け、あっさりとオレの言葉を否定してしまう。
そのまま部屋に落ちていたクッションをひっつかむと、ゲームを続けるオレの隣に敷いて腰を下ろす。0.5人分の距離。オレが男だった頃から変わらない、オレ達のいつもの間隔。柔軟剤と太陽と、ほんの少しだけ汗の匂いがする。
……こいつのこうやって、何をするにしても距離の近いところが、オレは嫌いだ。
「えーっと。千尋、お前飯は……」陸は床に置かれた小さなテーブルを見て、「まあ、一応は食ってるか。……うん、一応は」
苦笑しながらそんなことを呟く。上に並んでいるのは半分ほど中身の無くなったスナック菓子の袋、飲みかけのペットボトル、ほとんど手付かずのコンビニ弁当、しなびたサラダ。昨日と今日の、俺の食事だ。
これが、こいつがオレの部屋に来る理由の一つ。引きこもりのオレがちゃんと食事を摂っているかの確認。共働きで出張も多くて、ほとんど家に居られないオレの両親に頼まれたとかなんとか。
おせっかいもいいところだ。オレとは違ってちゃんと高校に通ってる陸には他にすることだってあるだろうに。部活とか、勉強とか、誰かと遊びに行ったりだとか。なのに毎日毎日律儀にオレの部屋に通う偽善者っぽいところが、オレは嫌いだ。
「飯はまあいいとして……。いや、流石にこれはよくねえけど。なあ千尋、熱とか、どっか体調悪いところ、あったりしないか?」
「……」
「千尋? どっか悪いところは?」
「……」
「……なあ千尋。俺と話したくないなら何でもいいけど、これだけはちゃんと答えろっていっつも言ってるよな? おばさん達もお前の事心配してんだからさ」
黙りこくって返事をしないオレを、陸はほんのちょっとだけ低い声を出しながら睨みつける。
まるでオレの事を本気で心配してて、だから怒ってるみたいな態度。オレはこいつのこういう所が嫌いだ。……どうせこいつは、オレの親に頼まれたから仕方なくやってるだけのくせに。
「……別に」
「ん、体調もよし、と。あーそうそう、今日もおばさんとおじさん、帰ってこれないってさ。だからとりあえず、また適当に俺が飯買って来たから。腹減ったら好きに食えよ。というかちゃんと食え。お菓子ばっかじゃなくて。その方が楽なのはわかるけど。俺もお前の親に、千尋くんはお菓子しか食べてくれません、なんて言いにくいんだからさぁ」
千尋
ほとんど無言なオレとは対照的にべらべらと喋りながら、陸は脇に置いたレジ袋から、いろんな物を取り出して机に並べていく。弁当、パン、サラダ、おにぎり、ペットボトル、他にもいろいろ。
「ほら、こういうのなら千尋も食べやすいかなって思ったんだけどさ、どうよ? お前ちゃんとした飯、全然食わねえからさ。や、これがちゃんとした飯とは言わねえけど。ほら、せめて、な?」
陸が手に取ったのは、一本でご飯何杯分のカロリーだかなんだかと謳っているゼリー飲料。
ちらと横目で見て、無視を決め込む。
「……」
何も言わないオレをどう思ったのか、陸は小さく、ほんとうに小さくため息をついた。
「……じゃ、昨日の残り食っちまうぞ」
そう言うと陸は机の上に置いてある、昨日の弁当を手に取る。これもいつもの事だ。食べ物を捨てるのは気に食わないだとか言って、オレが男だった頃からこいつはこんなことをしていた。デリカシーもマナーもあったもんじゃない。オレはこいつのそういうところが嫌いだ。
だって、それはほんのちょっとだけど、確かにオレが口をつけたものだ。こいつは何も思わないのだろうか。
陸がそれを食べたら、オレとの間接キ……、他人が口を付けたものなんて、普通食べたくないはずなのに。
視界の端で、陸はそんなことを考えているオレを尻目にガツガツと弁当を食べ始めていた。何の躊躇もためらいもないその様子に、オレは苛立ちを覚える。
……どうして? だって、まるでオレだけが勝手にあいつの事を意識していて、あいつはオレのことをなんとも思っていないみたいで、それがすごく……、違う、違う!
「そういや千尋、昨日テレビでやってた映画見たか?」
オレの食事の確認、体調の確認、次の日の食事の準備。
陸がオレの両親に頼まれた仕事はもう全部終わってるはずだ。なのにこいつは、いつもこうやってどうでもいい話を始める。少しでも早く帰ってほしいのに。こいつが隣にいるだけで、オレがどんなに辛いのか、きっとこいつは分かってないから。
「いやー、俺はあのシリーズ初めて見たんだけどさあ、結構よかったし前作も見てみよっかなって」
話の内容はいつも、映画やアニメ、ゲームがどうとかそんなもの。返事をしないオレに陸が一方的にしゃべり続けるだけだ。
「で、ちょっと探してみたんだけど、どこの配信サイトでもあんまり流してないみたいなんだよなー」
部活とか受験とか恋愛とか、普通の高校生が話すだろう話題が出たことは、一度だって無い。
理由はきっと、こいつが話が下手くそだから。……絶対、そうだ。絶対に、引きこもりのオレに気を使ってくれてるわけじゃない。こいつがオレに優しくしてくれてるなんて、そんなこと、絶対無い。無いんだ。
「一個見れるとこもあったけどそこクレカ専用でさ、俺は持ってないんだけど、でも親の借りるのってなんかやじゃん? どうしよっかなーって」
……つまんない話しかしない陸の事が、オレは嫌いだ。
◇
「……もうこんな時間か。じゃ、そろそろ帰るわ」
壁にかかった時計に目をやると、陸は空になった弁当箱や、机の上のゴミを全部レジ袋にぶち込んで立ち上がった。
オレは何も言わない。何もしない。ヘッドフォンをつけて、じっと画面だけを見つめたままコントローラーを握る。
そんなオレを少し見てから陸は部屋から出て──、体を半分廊下に乗り出したところで振り返った。
「あー、明日も多分こんくらいの時間にお前の様子見に来るから。じゃあまたな。ちゃんと寝ろよ、あと飯も食えよ」
「……」
「……じゃあな」
視界の端に一瞬、悲しそうな表情をした陸が映った気がしたのは、きっと気のせいだろう。
パタンとドアのしまる音がする。今度こそ陸が部屋から出ていった。
そろそろとヘッドフォンを外してじっと耳を澄ます。
陸が廊下を歩く音、階段を下りる音、玄関の扉を開ける音、扉が閉まって、そのあと鍵をかける音。
……そして音は聞こえなくなった。息をひそめて耳を澄ましても、部屋はしんと静まり返っていて、ヘッドフォンから漏れ出る音がうるさいくらいだ。
安心感に包まれる。これもいつものこと。いつも、この瞬間が一番心が安らぐ。
……すぐに、後悔と罪悪感が一緒になってあふれ出す。……これも、いつものこと。
「……っ、ふぐ、うぅ」
嗚咽が漏れる、涙がにじむ。コントローラーを投げ飛ばし、膝を抱えて頭をうずめる。伸び放題の髪が体を包む。
……もう限界だった。あと少しでも陸が部屋にいたら、どうなっていたか分からなかった。
「うぁ、あぁっ……!」
陸と一緒の時間がつらいのは、陸の事が嫌いだからじゃない。
陸の事を無視してあんなにひどい態度を取って、だけどオレは、本当は陸の事が好きだった。
その好きは、友達としての好きじゃなくて。女の子としての好きで。
声が聞きたいとか、笑顔が見たいとか、抱きしめられたいとか、キスがしたいとか、……抱かれたいとか。
これは、そういう好きだった。
「ごめ、ごめんなさい、陸……!」
だけどオレは、もう知っているから。何度も何度も思い出したあの日の言葉。何度も何度も泣いたあの日の言葉。自分の恋は
だからこの気持ちは絶対に陸に知られちゃいけなくて、捨てなきゃいけなくて。この恋は叶うはずのない、想うことすら許されない恋で。
涙にまみれた視界の中、駄々をこねるように降り下ろした右手が、柔らかいものに触れた。
ついさっきまで陸が座っていたクッション。陸の匂いがするクッション。
ひったくるように掴み取った。両手でぎゅっと抱きしめて、顔を押し付けながら深く息を吸い込むと、肺の中いっぱいが陸の匂いで満たされる。柔軟剤と太陽と、ほんの少しの汗の匂い。……オレの、大好きなひとの匂い。
「すー……♥ はー……」
陸がオレのことを心配して部屋に来始めたのは、オレが振られて引きこもりになった、すぐの頃だった。
ベッドの上で布団にくるまって、顔も出さずにぐずぐず泣いているだけのオレに、陸は今日みたいに、ただそばにいてくれた。どうして学校に来ないんだとか、せめて外に出てみないかとか、そんなことも言わずに、まるで普通にオレの部屋に遊びに来たみたいに。
顔をクッションに押し付けたまま、何度も何度も深呼吸を繰り返す。吸い込んだ陸の匂いが、体中に回っていく。足の先から脳みその真ん中まで、全身で大好きな陸を感じる。体が幸せでいっぱいになって、それを噛み締めるように小刻みにふるえる。
「陸、陸、りくぅ……♥」
陸が毎日オレの部屋に通ってくれているうちに、だんだんオレも泣き続けることに疲れていった。
自分が本物の女の子じゃないこともどうでもよくなっていった。酷い振り方をしてきた先輩はクソ野郎だって思えて未練なんて欠片も無かったし、なによりオレには、こんなにオレの事を心配して大事にしてくれる、陸っていう大事な
陸の匂いと記憶が、オレの頭と体と心を、みんな一緒にとろけさせていくのがわかる。お腹の奥の奥のずっと奥の方が、きゅんきゅんと甘くうずく。口の端からだらしなくよだれが垂れる。顔が真っ赤になるくらい熱くなって、どうしようもないくらい体が火照る。クッションにまだ少しだけ残っていた陸の体温が、オレの吐息で塗り替えられていく。……右手はいつの間にかパジャマの中に潜り込んで、下着の上から割れ目をぐりぐりと押し込んでいた。
「んぅっ♥ぁ♥……りくぅ♥」
そうして何日か経つ内に、陸と一緒に適当に楽しく遊んで過ごせれば、まあ、他はどうでもいいか。そんな風に、消極的だけど前向きなことを考え始めるようになっていった。また明日陸が来たときは、久しぶりに布団から出て、陸と話をしてみよう。そう思えたし、本当にそのつもりだった。
……そんな日だった。オレが陸との夢を見たのは。
右手が勝手に下着の中に入り込む。愛液が薄くにじみ出る割れ目を中指でなぞると、むず痒いような快感がじわじわ下半身に広がってくる。陰核をぎゅっとつまむと甘い電流のようにしびれる快感が体に走る。
陸の匂いに包まれて自慰をしていると、寂しくて泣いている心とは反対に、体は自分がしあわせだと思い込む。
大好きな人に愛されている、女の子のしあわせ。……こうやってしか、オレには味わえないしあわせ。
「はー……♥はー……♥」
陸に告白する夢を見た。放課後の教室で、夕焼け色に赤く染まった机や椅子を背景に、それよりもずっと真っ赤になった顔で陸に好きだと伝えた。
陸はそんな俺のことを抱き締めて、俺もお前のことが好きだと言ってキスをしてくれた。
両思いだったことの嬉しさでオレが泣き出してしまうと、陸はどうしたんだと言いながらおろおろと慌て出した。
陸のそんな様子がおかしくて、でもオレを心配してくれることが嬉しくて、オレがつい笑うと、陸もつられて笑顔になった。
「んふ、んふふふ……♥ りくぅ……♥♥」
付き合い始めた俺たちはデートをした。
水族館とか映画館とか近所の公園とか、いろんな場所に二人で行って、たくさんキスをした。爪先で立って背伸びをしながらキスをした。お姫様だっこをされながらキスをした。ベンチに並んで座って、誰にも見られないようにほんの一瞬だけのキスをした。
陸とのキスはいつも少しだけ甘くて、ふわふわした気持ちになるキスだった。
「ふぅ♥ ん、んん……♥ りく、りくぅ♥」
デートの後はセックスをした。
電気を消した暗い部屋の中、ベッドの上に寝転んだ裸のオレを陸が見つめてくる。
恥ずかしいからあんまり見ないでと言うオレの上に覆いかぶさって、足に、胸に、頬に、何度も口づけをしながら、千尋のそんなところも可愛いと陸は言った。
ゆっくりゆっくり陸が俺の中に入ってきて、痛くて苦しくて怖くて、だけどそれが幸せで、陸の名前を何度も呼んだ。
陸もオレの名前を何度も呼んで、オレの中をぐちゃぐちゃにかき回して、オレの背中を痛いくらいに抱き締めて、そして、オレの中で、陸がびくんと膨らんで──。
「りくぅ♥ すき♥すき♥すきぃ……♥」
そこで目が覚めた。夢はそこで終わりだった。
薄暗い部屋のベッドの上で呆然として、全部夢だったと気づいて、幸せな気持ちはすーっと冷めて。代わりに涙がぽろぽろあふれ出した。
自分が陸を好きなことに、心のどこかで陸を
だけど。
オレは偽物の女の子で、気持ち悪い存在で、誰かを好きになんてなっちゃいけなくて。
オレには泣くことしか出来なかった。気づいてしまえば、陸との親友としての未来なんて、もうどうやっても考えられなかった。陸を好きになんてならなければ良かったのにとどれだけ後悔をしても、自分の中の好きはどんどん膨らんでいった。
陸が部屋に来る度に心が弾んだ、俺のために何かしてくれることにどうしようもなくときめいた。陸の胸に抱きついて、大好きだと伝えたくて仕方がなくて、そしてそう思う度にあの日の言葉が、気持ち悪いと言われたことが頭をよぎった。
俺はもう、どうすればいいか分からなかった。どうしようもなくぐちゃぐちゃになった心でようやく考え付いたことが、陸を嫌いになることだった。
「はひ♥ んっ♥ あっ♥ はー……♥」
陸の事を嫌いになるために、たくさん陸のことを思い出した。陸との嫌な思い出とか、陸の嫌いな癖とか。
陸が生物の試験で赤点を取って、一緒に見に行く予定だった映画に行けなかったこと、オレと二人でいるとすぐ指を鳴らしながら下手くそな鼻歌を歌うこと、くしゃみをする時にいつも変な声を出すこと。
他にもいろんなことを思い出した。下らないことばかり、どれも嫌いになるために思い出したことだった。そのはずだった。
……なのに、そうすればするほど、どんどん陸は愛しくなっていく。
「すー……♥ はー……♥ んぅ、りくの、におい……♥ ……ごめん、なさい」
……結局オレは陸の事を嫌いになれなかった。嫌いになろうとしても、好きな気持ちは止まらなかった。陸の事を考えないようにすればするほど、頭の中は陸の事でいっぱいになった。
何かに没頭している時だけ、ようやく陸の事を忘れられた。だから俺は、ベッドから出てゲームをやり続けた。それでも陸は毎日オレの部屋にやってきて、その時だけはどうしようもなかった。嫌いだ嫌いだと何度も自分に言い聞かせて、それでやっと、自分の中の恋心を抑え込むことしかできなかった。
「すきで、おれなんかがすきで、ごめんなさいりくぅ……♥ すき♥すき♥すき♥……ぅぅ、りくぅ♥……すきなの……♥」
……陸への恋を自覚してから、オナニーは前よりずっと気持ちよくなった。
陸の事を考えながらするだけで、信じられないくらいに体が熱くなる。心がぐずぐずに溶けていくのが分かる。
そのことがオレを苦しめるのだけれど、それでも陸の声を思い出して、陸の匂いを嗅ぎながら自慰をすることはやめられない。
男だった頃の快感はもう思い出せなくて。
にせものでも、女の子の体はとっても気持ちがよくて。
「あ♥い、いくっ♥ りく♥りく♥りく♥ すき♥すき♥だいすきぃ……!」
だから、
「あ、あー、千尋……? ちょっとスマホ忘れたから取りに来たんだけど……。その、また今度にするな……?」
陸が部屋に戻って来ていたことに気づけなかったのは、
仕方のないことだと思う。
◇
「え……あえ……? なん、り、く……?」
自慰に没頭していたオレの耳に届いた、聞こえるはずのない陸の声。つられて顔を向けた先、開いたドアの向こうに立っている、ひきつった愛想笑いをうかべた陸。
──なんで? どうして?
パニックになりかけた頭に浮かんだ疑問は、
──見られた? 聞かれた?
すぐに不安に変わる。
どうしようもないほどに火照った体のうずきが一気に冷えて、あの日の言葉が脳裏をよぎる。
「あ、あの、その……。り、りく……?」
「……」
すがるように視線を向けた。唇が震える。そんなオレを見つめたまま、陸は動かない。
不安に恐怖に困惑に、いろんな気持ちがごたまぜになって、ろくに思考が回らない。久々に陸と目が合ったなあと、変に冷静な思いだけが頭の隅に浮かぶ。
「あ、あー、じゃあ、また、スマホは明日、取りに来るから。……じゃあ、な?」
見つめあったまま何秒経っただろうか。ようやく口を開いた陸は、いびつな笑みを浮かべたまま後ずさり始めた。部屋から出て、ドアを閉じようとする陸を見て、オレは、
──陸をこのまま行かせたら、もう、二度と会えない気がする。
「ま、待って、陸! せつ、せつめい、説明するから……!」
クッションを投げ捨て、半脱ぎになった下着で足をもつれさせながらもなんとか床を這い、必死に陸の足元に縋り付いた。懇願するように陸を見上げる。誤魔化すように笑顔を浮かべる。
オレが陸の事が好きだとバレちゃいけない。陸の事を考えてオナニーしていたなんて、絶対にバレちゃいけない。
陸にだけは、あんなことを言われたくなかったから。あんな風に思われたくはなかったから。
「あの、その、これ、これは……」
汗ばんで乱れた髪も、半分ずり落ちたパジャマも、じっとりと湿った右手も、熱くなって紅潮した顔も。全部がオレが自慰をしていたことを示しているとわかっている。
だけど、陸の事を想いながらしていたことだけは。それを知られたら、何を言われるかなんて。
「お、オナニーなんてしてなく、いや、してた、してたけど! オナニーしてたけど、陸の事なんて考えてなく、て……! ただその、えっと……普通に! そう、普通にしてただけで! だからその、別に陸に見られても、ちょっと恥ずかしいだけで、なんともなくて! ほら、だから、……ね? ね?」
何度もつっかえながら、言い訳を並べ立てる。自慰を見られたことなんて何でもないことだと、いびつな笑顔で取り繕う。陸がゆっくりと口を開き、
「……でもお前、俺の名前、呼びながら」
いつもよりもずっと真剣な、怖い目で陸がオレを見下ろして来る。
……全部聞かれていた。背中を冷たいものが伝う。体も心もひどく震えて、呼吸も満足にできない。吐き気が込み上げて視界が黒く染まっていく。頭が重い、肩の付け根のところが嫌に冷える。
どうしよう、どうしよう。言われたくない、陸にだけはあんなひどいことを言われたくない。だから、せめて、せめて好きだということだけは、知られちゃいけない。
感情が絡まり切った頭で必死に言い訳を考える。オレが陸の事を好きじゃない、正しい理由を。何度も何度も自分に言い聞かせてきた、
「……で、でもほら、オレ、女の子じゃ、ない、し。……今は、体はそうでも、元々男、だし」
オレは本当の女の子じゃない。その通りだ。にせもので、まがい物。大丈夫。自分でちゃんとわかってる。オレは本当の女の子なんかじゃない。千尋
──胸がちくりと痛む。
「そんなオレが、男のお前のこと考えて、オナニーなんて、するわけ、ないじゃん……?」
女の子じゃないオレが、男である陸を想いながらオナニーなんてしない。合ってるはずだ。なにも間違ってなんかない。
──また胸が痛くなる。これ以上こんなことを考えるなと、心がストップをかけようとしてくる。
「そんなことしてたら……、気持ち、悪いし……!」
だってそれは、気持ち悪いことだから。
気持ち悪い。あの日から、何度も繰り返し自分に刺し続けてきた言葉。毎日その言葉を思い出して、抱え続けてきた。慣れることなんて出来ないその痛みが、今もずきずきと心を蝕み続けているけれど。
「だから、オレが陸の事、好きとか、ありえない、から……!」
陸にだけは嫌われたくなくて。自分の気持ちに嘘をついて、必死に吐き出した。
そうだよな、俺の聞き間違いだよな、陸はそう言って、少しの気まずさを抱えたまま帰って、それで終わり。もしかすると、女のオナニーって気持ちいいのか、なんて軽口を叩いて、でもそれだけ。また明日から、いつもの心をすり減らす日常に戻るだけ。
──そのはずだったのに。
「じゃあなんで、俺の事呼びながら……!」
陸は俺の肩を押さえつけながら、必死な顔でそう叫んでいた。
どうして陸がこんなことをして来るのか分からなくて、怖かった。とっくの昔に限界を越えていたオレの心は、もう耐えることなんて出来るわけがない。ぼろぼろ涙があふれる。子供みたいに泣きじゃくりながら、陸にすがり付いて叫ぶ。
「ちがくて、ごめ、ごめんなさい……! ごめんなさい、りくぅ……!」
「何が違うんだよ千尋! お前はさっきまで、俺の事呼んで……! 好きだって……!」
嫌だった。
言い訳を許してくれない陸が、自分さえ騙せない下手くそな嘘しかつけない自分が、どうやっても嫌いになれない陸が、恋を諦められない自分が。全部が全部、もうどうしようもなく嫌で、怖くて、苦しくて、抑えきれない言葉が、勝手に、
「ちがうの、ちがう! 陸のこと、好きじゃない! 好きじゃないから、嫌いにならないでぇ……!」
──ああ、やってしまった。
あんなにぐちゃぐちゃにかき乱されていた心が、急速に落ち着いていく。心地よい諦めで満たされる。
思う。きっと陸は嫌悪感で顔を埋めていて、今にオレの事を突き飛ばして、そしてもう二度と、オレに会いに来ることはないのだろう。
不思議と後悔はなかった。これでいいと思えた。本当は始めからこうなるべきで、だけどオレが、それを無理に引き伸ばしていただけなんだから。
陸はこれから普通の女の子と、普通に恋をして生きていくんだ。それが陸にとっての幸せで、オレにそれを邪魔する権利なんてない。
こいつの人生からオレは消えて、オレの人生からもこいつは消える。オレは一人きりになって、多分死ぬまで一人なんだろう。もうそれで、なにも悔いなんてなかった。
……だけど最後に、最後にひとつだけ。……どんな表情でもいいから、陸の顔を見たい。どんな目でオレを見ていてもいいから、もう会えない大好きなひとの顔を、心に焼き付けておきたい。……
わがまま、だろうか。陸は、許してくれるだろうか。
震える指先で涙をぬぐった。無理やりに笑顔を浮かべた。
泣き顔よりも、笑った顔を覚えていてほしかったから。
ゆっくり、ゆっくりとオレは顔を上げる。陸の顔を絶対に忘れないように。自分勝手で許されないしあわせ妄想に、永遠に浸っていられるように。
涙でぼやけていない、くっきりとした視界の向こう。
オレが今までずっと、そしてきっとこれからも、ずっとずっとだいすきなひと陸は──
「……は? ……なんでお前が俺を好きだと、俺がお前を嫌いになるんだ……?」
目を丸くして、ぽかんと口を開いていた。
◇
ぱちぱち。
二回まばたきをする。
陸は驚いた顔のまま、
「え、というかなに、お前俺の事嫌いなの……? うわー……結構ショックなんだけど……」
ぱちぱちぱち。
三回まばたきをする。
陸は額を抑えて眉間にしわを寄せながら、
「……まあ、全然口利いてくん無かったし、……かもなー、とは、思ってたけど……」
ぱちぱちぱちぱち。
四回。
陸は今度は苦笑いで、
「あー……。……や、悪かったな。お前の親に頼まれたのにかこつけて、いらん世話焼いて」
五回。
陸は足元にすがりつくオレから離れ、
「しかし、告る前に振られるとはなー、ははは……はぁ。……じゃあその……、元気でいろよ」
そして、陸は俺に背を向けて──
「え?」
陸の言葉に、あんまりにもびっくりしたから、
「告る前にって……、陸、オレのこと、好きだったの……?」
思ったことが、そのまま口に出ていた。
「……まあ、その……はい」陸背中を向けながら、「でも、お前も嫌いな奴から好意向けられたって嫌だよな。……すまん、忘れてくれ」
「え、……やだ」
なぜだろう。さっきのめちゃくちゃに喚いていたのとは違って、
「……なにがやなんだよ」
「やだ、忘れない。もう一回言って」
すごく素直に自分の言いたいことが言える。
「な、なにを」
振り向き困惑する陸を絶対放さないように、精一杯の力で裾をつかんだ。顔を見上げる。ほんの少しだけ赤く染まっているその顔をまっすぐ見つめて、そして、訊いた。
「陸はオレのこと、好きなの?」
「……はい」
「それは、恋愛的な?」
「そう、ですけど」
「キスしたい、とかの?」
「……まあ、そういうやつです」
「じゃあ、オレのこと、抱きたい?」
すると陸はしばらく顔をもにゅもにゅさせて、ゆかいな百面相を見せたあと、
「……なに!? なんなのお前いきなり!? 俺の精神を破壊したいのか!? 頼むその真顔で上目使いするのをやめて離れてくれ! 限界だから!」
「なにが限界なの?」
「なっ……なにがってほら! 好きな子に抱きつかれてこんな事されてたら、その、わかんだろお前も!」
……うへ。
うへへへへへへへへ。
◇
「えー、わかんなーい。教えてほしいなー」
「ぐっ、がっ……だからっ、その……!」
「うんうん、なに?」
「……お、お前は俺のこと嫌いなんだろ!? 何でこんな事……!」
「あれ? あれウソ」
「は!?」
「うん、ウソだよ? ほんとは陸のこと大好きだもん」
「なっ、なん……!」
「この好きはー、恋愛的な、キスしたいとか、抱かれたいとか、そういう好き」
「……え、いや、……え、マジで?」
「まじまじ」
「マジ?」
「まじだよ。……ちゅーしちゃう?」
「え、千尋さん……。ちゅー、しちゃっていいんですか……?」
「オレからしよーか?」
「や、……せっかくなんで、男を見せたいです……」
「ん」
「……」
「……」
「……ちょっと待って、する前に、一応確認しときたいんですけど」
「む、なにさ」
「千尋、お前……俺のこと好きなんだよな?」
「そりゃもう」
「ほんとに?」
「ほんとに。あんあん名前呼びながらオナニーしちゃうくらいには」
「……色々言いたいことあるけど、じゃ、両想いってことで、遠慮なく……」
「ん」
「……」
「……♥」
「……」
「……んふ、んふふふふ、んへへへへへー……♥」
◇
歯磨きをした。
シャワーを浴びた。
半年ぶりに、髪に櫛を通した。
タンスの中をひっくり返して、なるだけかわいい服と下着を探した。
枕と布団と部屋中に、消臭剤をこれでもかと吹き付けた。
もう一回だけ歯磨きをしてから、スマホを叩いた。
『準備できた』
『うい』
それから七分と十二秒後。俺と同じようなことをしていたのだろう、少しだけ髪を濡らした、緊張した顔つきの陸が部屋に入ってくる。