✦ 異界への呼び声 ― 黒淵正隆、旅立ちの瞬間 ✦

 冬の名残を引きずる東京の空は、どこか薄く曇っていた。
 黒淵正隆は、自転車のスタンドを静かに下ろし、皇居前広場の端に立つ楠木正成像を見上げていた。旅の途中でふと立ち寄っただけの場所なのに、胸の奥に小さな棘のようなものが刺さる。像の下に広がる石畳は冷たく、しかしその冷たさが、彼の心のざわめきを逆に際立たせていた。

 楠木正成――歴史の教科書でしか知らなかったはずの人物が、今はまるで生きているかのように、正隆の視線を真正面から受け止めているように思えた。
 その凛とした眼差しは、敗北を知りながらも戦い抜いた武将の覚悟を宿している。
 正隆は思わず、胸の奥に沈めていた言葉を吐き出していた。

「……俺も、あんたみたいに活躍できたら良いのにな」

 その呟きは、風に溶けて消えるはずだった。
 だが次の瞬間、世界の輪郭がわずかに揺らいだ。

 耳元で、誰かが囁いたような気がした。
 低く、深く、どこか哀しみを含んだ声。

――絶望しているのなら、こちらへ来い。

 正隆は息を呑んだ。
 周囲を見渡しても、観光客の姿はまばらで、誰も彼に注意を払っていない。
 それなのに、声は確かに彼だけに向けられていた。

 胸の奥に、ずっと押し込めていた感情がざわつく。
 旅に出た理由。
 逃げたかった現実。
 自分の無力さに対する苛立ち。
 そして、どこかでずっと求めていた「何か」。

 気づけば、足が前へと動いていた。
 自転車のハンドルを握りしめたまま、像の前に敷かれた石畳の中心へと進む。
 空気が変わった。
 風が止み、音が消え、世界が薄い膜に包まれたように静まり返る。

 視界の端が、ゆっくりと滲み始めた。
 まるで現実そのものが溶けていくように、色が淡く、形が曖昧になっていく。

――こちらへ。

 声は、今度は優しかった。
 誘うように、導くように。

 正隆は振り返らなかった。
 戻るべき場所も、待っている誰かも、もういない。
 ならば、この声の向こうにあるものを掴んでみたい。
 そんな衝動が、彼の背中を押した。

 そして、世界が裏返るように光が弾けた。

 黒淵正隆は、自転車とともに、東京の皇居前から姿を消した。
 その足は、確かに「向こう側」へと踏み出していた。